第4話「王子の防御魔法」
黒天蓋は、黒曜宮を覆った。
夜が落ちたのではない。
夜そのものが、王宮を守るために形を持った。
白杯の間を満たしていた聖教会の光は、黒い天蓋に触れた瞬間、乾いた音を立てて弾けた。鐘の音は歪み、聖印の線は震え、白い結界の輝きがところどころ剥がれ落ちていく。
だが、完全には消えない。
聖縛王冠は、父王アルヴァーンの影を縫い止めたままだった。
レイヴァルトは床に手を置き、黒い魔力を流し続けている。
指先の感覚は、すでになかった。
黒曜石に触れているのか、自分の骨を握り潰しているのかも分からない。ただ、聖印が父王へ流し込む白い呪力を、自分の防御魔法で受け止めていることだけは分かった。
痛みはある。
だが、痛みなど後でいい。
今、見るべきものは父王の呼吸。
守るべきものは父王の命。
殺すべきものは、人間。
順番を間違えるな。
レイヴァルトは、自分にそう命じた。
「王子!」
狼族の長ガルムが叫んだ。
白杯の間の入口から、さらに人類兵が雪崩れ込んでくる。礼服を脱ぎ捨て、鎖帷子と聖印入りの短剣を露わにした兵士たちだった。
彼らの顔には恐怖があった。
だが、足は止まらない。
信仰。
命令。
洗脳。
あるいは、そのすべて。
人類は弱い。
弱いから群れる。
弱いから神を掲げる。
弱いから、他者を魔と呼ばなければ刃も振るえない。
レイヴァルトは顔を上げずに言った。
「ガルム。殺せ」
それは許可だった。
狼族の長は、笑わなかった。
ただ牙を剥き、床を蹴った。
次の瞬間、人類兵の列が崩れた。ガルムの爪が刃を砕き、喉元に迫る短剣を叩き落とし、兵士を壁へ投げ飛ばす。
白杯の間の入口に、狼族の怒りが立ちはだかった。
「王と王子に近づくな、人間ども」
その声は低く、血に濡れた地鳴りのようだった。
竜人族将軍ザルギウスは、翼を広げてアルヴァーンの背後を守っている。彼の鱗には聖術の光が触れ、白い煙が上がっていた。
それでも、竜人は退かない。
「この程度の光で、王の御前を汚せると思うな」
ドワーフの長ボルガンは、倒した円卓の陰から戦槌を振るった。短杖を持つ司祭見習いの腕を弾き、床に転がる聖具を踏み砕く。
「祈りの道具にしては、随分と人を殺す形をしておるな」
妖精族の長リュシエラは、白い聖印を静かに凍えさせていた。
氷ではない。
森の奥に夜露が降りるような、静かな魔法だった。彼女の燐光に触れた聖印は、白い輝きを失い、灰色の線になって砕ける。
しかし、それでも足りない。
黒曜宮全体に仕込まれた聖印は多すぎた。
人類は、この一日のためにどれほど準備を重ねたのか。
和平の言葉を磨き、礼服を整え、祈りの布を縫い、贈答品に聖印を刻み、床下に陣を敷き、王の慈悲を踏みにじる時を待っていた。
レイヴァルトは、静かに息を吐いた。
殺す理由が増えていく。
それは怒りではない。
台帳に罪状を記していく感覚に近かった。
人類は父を殺そうとした。
人類は和平を穢した。
人類は異種族の王を魔王と呼んだ。
人類は慈悲を罠に変えた。
ならば、いずれ支払わせる。
この場の兵士だけでは足りない。
司祭だけでも足りない。
貴族だけでも足りない。
その後ろにいるすべてへ届かせる。
「レイヴァルト」
父王の声がした。
レイヴァルトは顔を上げた。
アルヴァーンは立っていた。
聖縛王冠の白い輪が頭上に落ち、王の影を床に縫い止めている。それでも彼は膝をついていなかった。
慈悲王は、縛られてなお王だった。
「術式の根を見ろ」
「見ています」
「中心を壊すな。反動が城外へ流れる」
「承知しています」
「民が巻き込まれる」
「だから受けています」
アルヴァーンは一瞬、目を細めた。
息子の答えを誇るように。
そして、悔いるように。
「それは、お前が一人で背負うものではない」
「父上が背負うものでもありません」
レイヴァルトは短く返した。
言葉を重ねる余裕はなかった。
黒天蓋の外側で、聖印が次々と噛みついてくる。白い術式は蛇のように絡み、黒い防御膜に牙を立て、父王へ向かおうとする。
それを一つずつ押し戻す。
壊すのではなく、受ける。
受けて、流す。
流して、閉じ込める。
王宮の外へ出せば、民が死ぬ。
父王へ通せば、王が死ぬ。
臣下へ散らせば、守る者が減る。
ならば、自分へ流せばいい。
単純な答えだった。
そして、最悪の答えだった。
レイヴァルトの喉に、鉄に似た味が上がってきた。
視界の端が黒く染まる。
だが、手は離さない。
その時、ベルン司祭が叫んだ。
「聖断杭を」
白杯の間の奥、崩れた壁の影から、別の司祭が進み出た。
両腕で抱えているのは、細長い白銀の杭。
剣ではない。
槍でもない。
処刑具に近い。
その表面には、びっしりと神聖語が刻まれていた。文字は白く燃え、黒天蓋の内側でありながら、周囲の魔力を拒んでいる。
ザルギウスが動いた。
だが、遅い。
司祭は杭を投げたのではない。
床へ突き立てた。
聖断杭が、白杯の間の聖印とつながる。
黒天蓋が軋んだ。
レイヴァルトの魔力が、そこへ殺到する。
防ぐ。
受ける。
止める。
だが、その杭は父王を直接狙っていなかった。
聖縛王冠へ力を送っている。
頭上の白い輪が砕けた。
勝ったのではない。
形を変えたのだ。
王冠は砕け、無数の白い破片となり、アルヴァーンへ降り注いだ。
レイヴァルトは歯を食いしばる。
黒天蓋を引き絞る。
白い破片の大半は、黒い防御膜に触れて消えた。
消えた。
消えた。
消えた。
だが、すべては消せなかった。
ひとつだけ、黒天蓋をすり抜けた。
すでに父王の影と結びついていた、最初の聖印の名残。
会談開始直後から、父王の足元に沈んでいた白い棘。
それだけが、黒天蓋の内側にあった。
外から来た攻撃なら防げた。
だが、内側に埋め込まれたものは、防御の外に置けない。
白い棘が、アルヴァーンの胸元へ浮かび上がった。
レイヴァルトの瞳が見開かれる。
「父上!」
アルヴァーンは動いた。
避けることも、砕くこともできたはずだった。
普段の父なら。
しかし、聖縛王冠はまだ影を縫い止めている。
慈悲王の力は、完全には戻っていない。
白い棘が、アルヴァーンを貫いた。
音はなかった。
あまりにも静かだった。
白杯の間の戦いが、一瞬だけ遠のいた。
ガルムの咆哮も。
ザルギウスの翼音も。
ボルガンの戦槌も。
リュシエラの燐光も。
人類兵の叫びも。
すべてが、水の底へ沈んだように遠くなる。
アルヴァーンの体が、わずかに傾いた。
それだけだった。
慈悲王は倒れなかった。
膝もつかなかった。
胸元に白い光を宿したまま、なお立っていた。
「……見事だ」
アルヴァーンが呟いた。
それは敵への賛辞ではなかった。
人類の策を認めたのでもない。
おそらく、自分の息子が黒天蓋でほとんどを防いだことへの言葉だった。
レイヴァルトは床から手を離そうとした。
父へ駆け寄ろうとした。
だが、できなかった。
黒天蓋はまだ維持されている。
彼が手を離せば、聖印の残りが臣下を焼き、王宮へ流れ、外の民へ届く。
今離せば、父が守ろうとした国まで傷つく。
だから、離せない。
その判断ができてしまう自分を、レイヴァルトは初めて憎んだ。
「ベルン」
レイヴァルトは低く言った。
司祭ベルンの顔には、狂信の喜びが浮かんでいた。
「神は勝利された」
「違う」
レイヴァルトの声は、白杯の間の底を這った。
「お前たちは、死ぬ順番を得ただけだ」
黒い魔力が一筋、床を走った。
それは防御魔法からこぼれた余剰ではない。
レイヴァルトが意図して切り離した、細い処刑の糸だった。
ベルン司祭の足元の影が立ち上がる。
司祭は祈りを唱えようとした。
遅い。
影はその口を塞ぎ、体を床へ叩きつけた。
殺してはいない。
今はまだ。
この男は、すぐに死なせるには軽すぎる。
だが、次の瞬間、ベルンの胸元にあった聖印が砕けた。
白い光が彼の体を包む。
転移か。
自壊か。
証拠隠滅か。
レイヴァルトは影を締め上げた。
肉体の半分は潰せた。
だが、祈りの火の一部が逃げた。
ベルンの肉体は白杯の間に崩れ落ちた。だが、その瞳の奥にあった火だけが、ここではないどこかへ消えた。
まるで、遠くの誰かへ送られたように。
レイヴァルトは覚えた。
聖教会は、死んだ者の口すら使う。
逃がさない。
いずれ、根ごと焼く。
黒天蓋がさらに広がった。
白杯の間から廊下へ。
廊下から階段へ。
階段から黒曜宮の外壁へ。
外の聖印が、連続して割れた。
人類側の別働隊が悲鳴を上げる。門の方角で白い光が弾け、黒い防御膜に押し潰されて消えた。
襲撃の威力は止まった。
少なくとも、黒曜宮は落ちない。
臣下も死なない。
父王も、まだ生きている。
まだ。
その言葉が、レイヴァルトの胸に冷たく落ちた。
アルヴァーンは、ゆっくりと息を吐いた。
白い棘は消えている。
だが、胸元に残った光は消えない。
聖術の傷は、肉体だけを傷つけるものではない。魔力の器、命の核、王として積み重ねてきた力そのものへ食い込む。
致命傷。
レイヴァルトは理解した。
理解したくなかった。
だが、理解できてしまった。
「リュシエラ」
レイヴァルトは言った。
「父上の傷を見ろ」
妖精族の長が駆け寄る。
淡い燐光がアルヴァーンを包んだ。
リュシエラの表情から、ゆっくりと色が消えていく。
それだけで答えだった。
ガルムが人類兵の首を掴んだまま、動きを止めた。
ザルギウスが翼を畳むことも忘れた。
ボルガンの手から、戦槌がわずかに下がった。
白杯の間にいた異種族たちは、全員が悟った。
王が、死に近づいている。
まだ立っている。
まだ息をしている。
まだ言葉を発せる。
それでも、戻れない場所まで傷が届いていた。
アルヴァーンは、リュシエラへ微かに首を振った。
「よい」
「よくありません、王よ」
リュシエラの声は震えていた。
「このような傷、森の根をすべて使ってでも――」
「民を削るな」
慈悲王は、静かに命じた。
その命令に、リュシエラは唇を噛んで従うしかなかった。
レイヴァルトの視界が揺れた。
黒天蓋の維持が限界に近い。
魔力はすでに底を突いている。
それでも、術式は止まらない。
足りない分を、体が勝手に支払っている。
血。
寿命。
魂。
記憶。
何が削られているのか、分からなかった。
不意に、見知らぬ光が見えた。
白杯の間ではない。
黒曜宮でもない。
白い天井。
四角い光。
窓の外を走る鉄の箱。
黒い地面に並ぶ白い線。
人の群れ。
異種族のいない街。
どこだ。
知らない。
だが、知っている。
夢で何度も見たような場所だった。
そこでは人間が当たり前のように生きていた。
狼の耳も、妖精の羽も、竜の鱗も、ドワーフの炉もない。
人間だけが、世界の中心にいる顔をして歩いていた。
気味が悪い。
レイヴァルトはそう思った。
その街のどこかで、自分は人間だったのかもしれない。
そんな感覚が、泥の底から浮かぶ泡のように現れた。
だが、同情は湧かなかった。
たとえそうだったとして、今この場で父を殺そうとした人類を許す理由にはならない。
夢の中の記憶など、父の血の前では軽い。
レイヴァルトは、揺れる意識を噛み殺した。
黒天蓋を閉じる。
外の聖印を封じる。
白杯の間に残る聖術を、自分の中へ押し込める。
それで終わる。
終わらせる。
「王子、もうよい!」
ザルギウスが叫ぶ。
「これ以上は、御身が――」
「黙れ」
レイヴァルトは言った。
声は掠れていた。
それでも命令だった。
「まだ、父上が立っている」
父が立っているなら、息子が倒れるわけにはいかない。
父が民を守るなら、自分は父を守る。
それが、今のすべてだった。
黒天蓋が最後の白光を呑み込んだ。
鐘の音が消えた。
聖印が砕け、床の白線が灰になり、白杯の間に残っていた光が死んだ。
沈黙。
それは勝利の沈黙ではなかった。
何か取り返しのつかないものが、静かに落ちた後の沈黙だった。
レイヴァルトの体が傾いた。
膝が床につく。
手のひらは黒曜石から離れていた。
黒天蓋は、役目を終えた。
黒曜宮は守られた。
臣下は守られた。
父王も、まだ死んでいない。
だが、救えたとは言えなかった。
アルヴァーンが歩み寄る。
一歩。
もう一歩。
その足取りは、普段の王のものではない。
それでも彼は倒れず、息子の前に立った。
レイヴァルトは顔を上げようとした。
だが、視界が暗い。
父の姿が滲む。
「父上……」
声が出たのか、自分でも分からなかった。
アルヴァーンは膝をついた。
王が、息子の前で膝をついた。
それを見た異種族たちは、誰も声を発しなかった。
父王の手が、レイヴァルトの頭に触れる。
大きな手だった。
戦場で数え切れない敵を退け、数え切れない民を救い、それでも殺すためではなく守るために使われ続けた手。
レイヴァルトは、その手を覚えていた。
幼い頃から、ずっと。
「よく、守った」
アルヴァーンの声が聞こえた。
遠い。
遠すぎる。
レイヴァルトは首を振ろうとした。
守れていない。
父の傷は消えていない。
命の光が薄れている。
リュシエラが泣きそうな顔をしている。
ガルムが牙を食いしばっている。
ザルギウスが拳を震わせている。
ボルガンが床を睨んでいる。
守れていない。
父を守れていない。
「違う……」
レイヴァルトは呟いた。
「まだ、俺は……」
「レイヴァルト」
父王が名を呼んだ。
黒曜宮の外では、まだ混乱の足音が続いている。
人類の襲撃は失敗した。
だが、完全には終わっていない。
それでも白杯の間だけは、時間が止まったように静かだった。
慈悲王アルヴァーンは、胸に消えない白い傷を抱えたまま、息子を見ていた。
王ではなく。
父として。
レイヴァルトの意識は、闇に沈みかけている。
その沈む間際、父の声だけが、刃のように残った。
「聞け。これが、私からお前への――」
そこで、世界が黒く滲んだ。




