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第3話「人類の襲撃」

 白杯の間に刻まれた聖印は、床の黒曜石を白く濡らしていた。


 血ではない。


 光だ。


 だが、レイヴァルトにはそれが血よりも不快に見えた。


 七条の光を持つ聖輪。


 聖教会が掲げる神の紋。


 人類はそれを祈りと呼ぶ。

 救済と呼ぶ。

 浄化と呼ぶ。


 だが、異種族にとっては違う。


 それは焼かれた森の火種であり、奪われた子の首輪であり、神の名を刻んだ処刑台だった。


 床下の聖印が脈打つたび、白杯の間に淡い鐘の音が響いた。


 どこにも鐘などない。


 それでも音がした。


 魔力を削る音。

 黒曜宮に満ちていた王の気配を、一枚ずつ剥がしていく音。


 慈悲王アルヴァーンは、椅子に座したまま聖印を見下ろしていた。


 顔色は変わらない。


 だが、王の周囲に満ちていた圧が薄くなっている。


 それに最初に気づいたのは、竜人族将軍ザルギウスだった。


「王よ」


 低い声が漏れる。


 次いで、狼族の長ガルムが牙を剥いた。


「人間ども」


 椅子が砕ける音がした。


 ガルムが立ち上がったのだ。


 その爪はすでに戦場の形をしている。目には殺意が宿り、喉奥から獣の唸りが漏れていた。


 だが、レイヴァルトは手を上げた。


「動くな」


 短い命令だった。


 ガルムの爪が、床を抉る寸前で止まる。


「王子」


「まだだ」


 レイヴァルトは人類側を見た。


 エルネスト・バルディアの顔は蒼白だった。額には汗が浮かび、指先は震えている。


 だが、それは失敗を恐れる者の顔ではない。


 計画が早まった者の顔だった。


 この男は主犯ではない。


 駒だ。


 和平という餌を口に含まされ、ここまで運ばされた程度の人間。


 本命は、別にいる。


 レイヴァルトの視線が、聖教会司祭ベルンへ移る。


 ベルンは祈っていた。


 両手を胸の前で組み、瞼を伏せ、唇だけを動かしている。


 その声はほとんど聞こえない。


 だが、床の聖印はその祈りに合わせて脈打っていた。


「やめろ」


 レイヴァルトが言った。


 ベルンは祈りを止めなかった。


「次はない」


 司祭の唇が、わずかに吊り上がる。


「魔の子が、神の祈りを禁じるのですか」


 その瞬間、白杯の間の空気が裂けた。


 後方に控えていたもう一人の司祭が、法衣の内側から短杖を抜いた。


 銀の短杖。


 先端には同じ聖輪。


 それが床へ打ちつけられる。


「聖域、開帳」


 白い光が爆ぜた。


 円卓の下に刻まれていた聖印が、部屋全体へ広がっていく。


 黒い床に白い線が走り、壁へ登り、天井へ達し、白杯の間そのものを巨大な結界へ変えていった。


 妖精族の長リュシエラが即座に指を振る。


 冷たい燐光が舞い、聖印の一部へ絡みついた。


 だが、光は止まらない。


「……外側にも刻まれている」


 リュシエラの声は静かだった。


 静かだったが、そこには怒りがあった。


「この部屋だけではありません。黒曜宮の通路、柱、扉の金具。人類側が触れたものに、すべて細工がある」


 ドワーフの長ボルガンが拳を握った。


「いつ仕込んだ」


「会談準備の使い走りに紛れたのでしょう。あるいは、贈答品か」


 リュシエラの羽から、冷たい光がこぼれる。


「信仰を装って、随分と手が早い」


 ベルン司祭は、ようやく目を開けた。


 その瞳に、恐怖はなかった。


 あるのは陶酔だった。


「神は見ておられる」


 彼は言った。


「長きにわたり、人類は魔の脅威に怯えてきた。黒曜の魔王アルヴァーン。汝の慈悲は偽りだ。その力、その存在、その血統こそが罪である」


 白杯の間に、殺気が満ちた。


 慈悲王を魔王と呼んだ。


 異種族にとって、その一言だけで十分だった。


 ガルムが吼える。


 ザルギウスの翼が広がる。


 ボルガンが腰の戦槌に手を伸ばす。


 リュシエラの瞳から温度が消える。


 しかし、アルヴァーンは静かだった。


「ベルン司祭」


 慈悲王は、ゆっくりと立ち上がる。


「今なら、まだ引き返せる」


 その言葉に、レイヴァルトは父を見た。


 まだ、か。


 まだ父はそう言うのか。


 ここまでされて。

 この場に罠を仕込まれて。

 王を魔王と呼ばれて。

 民の前で、殺意を向けられて。


 それでも父は、引き返す道を示す。


 その姿は偉大だった。


 そして、致命的だった。


 ベルン司祭は笑った。


「やはり、あなたは危険だ」


 司祭の声が変わる。


 祈りではない。


 宣告だった。


「その力を持ちながら人類を滅ぼさなかった。だからこそ、人類はあなたを恐れ続けた。あなたが慈悲深い限り、人類は眠れない。あなたが存在する限り、人類の王も、教会も、神の秩序も脅かされる」


「私は和平を望んだ」


「それが罪なのです」


 ベルンの目が見開かれる。


「魔が慈悲を語るから、人は惑う。魔が王を名乗るから、弱き民は恐れる。魔が手を差し伸べるから、異端が生き延びる。あなたの慈悲こそ、人類にとって最も邪悪な毒なのです」


 エルネストが震える声で言った。


「司祭殿、予定と違う。まだ交渉を――」


「侯爵家の役目は終わりました」


 ベルンはエルネストを見もしなかった。


「貴殿は神の御業の証人となればよい」


 白い結界が、さらに強く輝いた。


 その光がアルヴァーンへ収束する。


 慈悲王の影が揺れた。


 床に落ちるはずの影が、白い光に縫い止められたように動かなくなる。


 アルヴァーンの眉が、わずかに動いた。


 痛みではない。


 不快感だ。


 それでも、十分だった。


 慈悲王の力が削がれている。


 通常なら、この程度の結界など父王の呼吸一つで砕ける。


 だが、会談の場。

 信仰への配慮。

 持ち込まれた葡萄酒。

 司祭の法衣。

 床の絨毯。

 外側の金具。

 幾重にも重ねられた細工が、王の慈悲を檻に変えた。


 レイヴァルトの中で、何かが冷たく定まった。


 怒りではない。


 怒りは熱い。


 今あるものは、もっと澄んでいる。


 この部屋にいる人間は、すべて殺す。


 ただし、順番がある。


 まず父を守る。

 次に臣下を守る。

 最後に、人間を殺す。


 その順番を誤る者は、王ではない。


 レイヴァルトは右手を上げた。


 黒い魔力が指先に集まる。


 ベルン司祭が叫ぶ。


「今です!」


 壁が割れた。


 白杯の間の左右、飾り壁の内側から人影が飛び出す。


 人類の兵士。


 礼服の下に鎖帷子を着込み、短剣を握っていた。


 刃には白い光。


 聖油か。

 祝福か。

 毒か。


 どうでもいい。


 レイヴァルトは、最も近い兵士を見た。


「遅い」


 黒い魔力が線になった。


 兵士の足元が沈む。


 影が泥のように膨れ上がり、兵士の身体を膝から下へ縫い止めた。


 悲鳴が上がる前に、レイヴァルトは二人目へ視線を移す。


 もう一人の兵士の短剣が、ガルムへ向かっていた。


 ガルムなら避けられる。

 殺せる。

 だが、その瞬間に狼族の長は父王の側を離れる。


 それは許さない。


「伏せろ」


 ガルムが即座に頭を下げる。


 黒い槍がその頭上を通り過ぎ、兵士の肩を貫いて壁へ縫いつけた。


 血が散る。


 だが、殺してはいない。


 まだ使える。


 情報源としてではない。


 人類の恐怖を増やすために。


 レイヴァルトは淡々と足を進める。


 その横で、ザルギウスが竜爪を振るい、飛びかかった兵士を床へ叩き伏せた。ボルガンの戦槌が短杖を砕き、リュシエラの燐光が白い術式を凍らせる。


 異種族の長たちは強い。


 人類の伏兵など、正面から戦えば相手にならない。


 だからこそ、結界は父王を狙った。


 慈悲王さえ殺せば、異種族連合は崩れる。


 人類はそう考えたのだ。


 浅い。


 そして、汚い。


 床に縫い止められた兵士が、震える声で叫んだ。


「魔王を殺せ! 神敵を討て!」


 別の兵士が続く。


「これは聖戦だ!」


「魔王アルヴァーンを討て!」


「人類に栄光を!」


 叫びは、白杯の間の外からも聞こえた。


 扉の向こう。


 黒曜宮の廊下。


 そこにも人類の伏兵がいる。


 使節団だけではない。


 城内に入った人間は、荷運び、従者、聖具係、通訳、記録官、そのすべてが刃を隠していたのだろう。


 黒曜宮の外からも、遠く鐘の音が響いていた。


 王都のどこかで、同時に何かが起きている。


 陽動か。

 火付けか。

 外門への襲撃か。


 レイヴァルトは舌打ちしなかった。


 感情を荒げる暇はない。


 父王が右手を上げた。


「結界を砕く」


 その声に、異種族の長たちが一瞬安堵した。


 慈悲王が動く。


 ならば終わる。


 誰もがそう思った。


 レイヴァルトでさえ、一瞬だけそう思った。


 だが、白い聖印が一斉に輝いた。


 アルヴァーンの手の周囲で、黒い魔力が形を成す前に霧散する。


 王の影が、さらに深く床へ縫い止められた。


 ベルン司祭が両腕を広げる。


「聖縛王冠、成就」


 天井に白い輪が現れた。


 光で編まれた王冠のような輪。


 それがゆっくりと降りてくる。


 アルヴァーンの頭上へ。


「王よ!」


 ザルギウスが飛び出そうとする。


「止まれ」


 レイヴァルトが命じた。


「しかし!」


「止まれと言った」


 ザルギウスが歯を食いしばり、踏みとどまる。


 あの王冠に触れれば、竜人の将軍でも焼かれる。


 聖術は父王を狙っているが、防衛反応は別だ。


 突っ込めば死ぬ。


 死ねば守る手が減る。


 父なら、そう判断する。


 だからレイヴァルトもそう判断した。


 父を守るために、臣下を無駄に死なせない。


 それが王の側に立つ者の仕事だ。


 ベルン司祭がレイヴァルトを見た。


「魔王の子よ。賢いですね」


「口を閉じろ」


「あなたもここで終わる。偉大なる神の結界は、魔の血統を逃がさない」


「お前は勘違いしている」


 レイヴァルトは床に片膝をついた。


 手のひらを黒曜石につける。


 白い聖印が彼の魔力に反応し、焼くような音を立てた。


 痛みはある。


 だが、手を離すほどではない。


 人間の祈りは、いつも大げさだ。


「俺は父上ほど優しくない」


 黒い魔力が、レイヴァルトの掌から床へ沈む。


 聖印を壊すのではない。


 壊せば反動が父王へ向かう。


 ならば、受ける。


 父王へ向かう力の流れを読み、そこへ自分の魔力を割り込ませる。


 結界を砕くのではなく、結界と父王の間に壁を作る。


 単純な防御では足りない。


 部屋だけではない。

 黒曜宮全体に仕込まれた術式を相手にする必要がある。


 今この瞬間にも、外では別働隊が聖印を活性化させているはずだ。


 それなら、黒曜宮そのものを守る。


 王と臣下を包む。


 敵の聖術を受け止め、逃がさず、ねじ伏せる。


 通常なら、王族一人で扱う規模ではない。


 まして、未完成の王子が使う魔法ではない。


 レイヴァルトの体内で、魔力の器が軋んだ。


 骨の奥が冷える。


 心臓に黒い杭を打たれるような感覚が走る。


 それでも、彼は表情を変えなかった。


 アルヴァーンが息子を見た。


「レイヴァルト」


「動かないでください、父上」


「それは、まだお前には早い」


「知っています」


「代償が重い」


「父上を失うより軽い」


 初めて、アルヴァーンの表情が揺れた。


 慈悲王ではない。


 父親の顔だった。


 レイヴァルトはそれを見ないようにした。


 今その顔を見ると、手元が鈍る。


 ベルン司祭が叫ぶ。


「止めろ! 魔王の子が術式へ割り込んでいる!」


 人類兵が一斉に動く。


 レイヴァルトへ向かって。


 父王ではない。


 彼らは理解したのだ。


 この王子を止めなければ、結界が歪むと。


 ガルムが吼えた。


「王子には触れさせん!」


 狼族の長が前へ出る。


 ザルギウスの翼が壁となり、ボルガンが卓を蹴り倒して盾にした。リュシエラの幻光が兵士の視界を奪う。


 異種族の長たちは、誰一人逃げない。


 裏切らない。


 王を守る。

 王子を守る。


 それ以外の選択など、最初から持っていない。


 レイヴァルトの足元から、黒い円が広がった。


 白い聖印と黒い魔法陣が重なり、床が軋む。


 光と闇が噛み合い、互いを喰らい、白杯の間の空間が歪んでいく。


 外からの鐘の音が大きくなった。


 それに混じって、人類兵の叫びが響く。


「魔王を殺せ!」


「神敵を滅ぼせ!」


「聖教会に栄光を!」


 レイヴァルトは、静かに笑った。


 冷たい笑みだった。


 殺す理由が、積み上がっていく。


 今すぐこの場の人間をすべて潰してもいい。


 だが、それでは足りない。


 この声を上げさせた者。

 この聖印を刻ませた者。

 この襲撃を正義と呼ばせた者。


 それらすべてを、いずれ引きずり出す。


 父の慈悲が届かなかった先を、別の形で教えてやる。


 許される時代は終わるのだと。


「父上」


 レイヴァルトは、床に手を置いたまま言った。


「少しだけ、黙らせます」


 アルヴァーンは何も言わなかった。


 止めなかった。


 それを許可と受け取る。


 レイヴァルトの黒い魔力が、白杯の間から廊下へ、黒曜宮の柱へ、門へ、城壁へと広がっていく。


 禁忌級防御魔法。


 王都全体を包むには足りない。


 だが、黒曜宮を覆うには足りる。


 父王と臣下を守るには、まだ届く。


 代償は考えない。


 今は不要だ。


 レイヴァルトは、聖印の白光を睨みつけた。


「黒天蓋」


 黒い光が、白杯の間を満たした。


 それは闇ではなかった。


 王を守るために編まれた、冷たい夜の天蓋だった。


 聖教会の鐘が、そこで一度、砕けるように鳴った。

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