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第2話「和平の席」

 人類の使節団は、黒曜宮の大広間に入っても、すぐには口を開かなかった。


 先頭に立つ男は、痩せた中年の貴族だった。


 白地に金糸の刺繍を施した礼服をまとい、胸には人類王国の紋章を掲げている。腰の剣は儀礼用に見えるが、柄には実戦で使い込まれた跡があった。


 その後ろに、聖教会の司祭が二人。


 彼らは王国貴族よりさらに深く頭を垂れていた。だが、垂れた顔の奥で、視線だけが動いている。


 狼族の牙を見た。

 竜人族の翼を見た。

 妖精族の透き通る羽を見た。

 ドワーフの太い腕を見た。


 彼らはそれらを民として見ていない。


 獣。

 魔。

 異端。

 神敵。


 そういう言葉が、口に出されずとも漂っていた。


 レイヴァルトはそれを見ていた。


 人間は、目を隠すのが下手だ。


 恭順を装っていても、わずかな瞳の濁りが本音を漏らす。恐怖、嫌悪、侮蔑、計算。それらが白い衣の下で腐った水のように揺れていた。


 父王アルヴァーンは、あえてそれを咎めなかった。


「遠路、よく来られた」


 王の声は穏やかだった。


 大広間にいる異種族たちは、その一言で怒りを押さえた。


 狼族の戦士が喉を鳴らす。

 竜人族の近衛が尾を床に打ちかけ、寸前で止める。

 妖精族の長は静かに目を伏せた。


 慈悲王が迎えると言った。


 ならば、殺さない。


 今は。


 人類貴族は深々と頭を下げた。


「人類王国が外務卿補佐、バルディア侯爵家のエルネスト・バルディアにございます。偉大なる黒曜の王に拝謁を賜り、恐悦至極に存じます」


 言葉は整っていた。


 だが、跪かない。


 異種族の長たちがわずかに眉を動かす。


 この黒曜宮において、慈悲王の前で膝を折らない者は少ない。王が強いるわけではない。異種族たちが自らそうするだけだ。


 人類使節は、それをしなかった。


 国の面子か。

 信仰の意地か。

 あるいは、慈悲王を本当の王とは認めていないのか。


 レイヴァルトには、三つ目に見えた。


「顔を上げよ、バルディア卿」


 アルヴァーンは変わらず穏やかだった。


「今日、この席は互いの流血を減らすために設けた。不要な飾り言葉は省こう」


「ありがたき御言葉」


「会談の場を用意してある。そこで話を聞く」


 黒曜宮の奥、白杯の間。


 かつては敵対していた種族同士が初めて酒杯を交わした部屋であり、異種族連合の原点とも言える場所だった。


 床は黒い石。

 壁には各種族の古い誓約文。

 中央には円卓。


 玉座はない。


 この部屋では、王も長も、同じ卓につく。


 アルヴァーンがそう定めた。


 レイヴァルトは、その形式を好まなかった。


 王は上にいるべきだ。

 民を守るために。

 敵を見下ろすために。

 そして、必要ならば潰すために。


 だが、父は違う。


 力を持ちながら、同じ高さに降りる。


 それが父の偉大さであり、危うさだった。


 会談の席には、異種族側から父王アルヴァーン、王子レイヴァルト、狼族の長ガルム、妖精族の長リュシエラ、ドワーフの長ボルガン、竜人族将軍ザルギウスがついた。


 人類側は、エルネスト・バルディアと二人の補佐官、そして聖教会司祭ベルンが座った。


 もう一人の司祭は後方に控えている。


 祈りのためだと説明された。


 レイヴァルトは、その説明を聞き流さなかった。


 祈り。


 人類は、刃を持つ時もその言葉を使う。


 会談が始まる前、侍女たちが杯を運んだ。


 妖精族の蜜酒。

 ドワーフの黒麦酒。

 狼族の香草茶。

 人類側には、彼らが持ち込んだ葡萄酒。


 父王は人類の酒を拒まなかった。


 杯を手に取り、匂いを確かめ、わずかに口をつける。


 レイヴァルトは飲まなかった。


 人類側の補佐官がそれを見て、薄く笑った。


「王子殿下には、お口に合いませんかな」


「毒が薄い」


 部屋の空気が凍った。


 補佐官の笑みが消える。


 エルネストが慌てたように手を上げた。


「これは失礼を。我が補佐官に悪意はございません」


「悪意がなければ無礼が許されるのか」


 レイヴァルトの声は低かった。


 補佐官の喉が動く。


 レイヴァルトは続けない。


 手を出す必要はない。


 父王の前で、父王の許可なく人間を殺すつもりはなかった。


 アルヴァーンが静かに言う。


「レイヴァルト」


「はい」


「席を乱すな」


「承知しました」


 それだけで、レイヴァルトは黙った。


 人類側の補佐官は、助かったと思ったのだろう。


 だが、違う。


 まだ殺されていないだけだ。


 命が続いていることを、許されたと勘違いしている。


 人間はいつもそうだ。


 エルネストは咳払いをして、書状を開いた。


「では、和平条件について、人類王国より提案を申し上げます」


「聞こう」


「第一に、国境線の安定化。近年、貴国の亜人部族が我が王国辺境へ侵入し、商隊を襲う事件が――」


「言葉を改めよ」


 父王の声は、先ほどまでと変わっていなかった。


 だが、白杯の間の温度が下がった。


 エルネストが口を止める。


「何か」


「亜人ではない」


 アルヴァーンは言った。


「我が民だ」


 短い沈黙が落ちた。


 エルネストの頬がわずかに引きつる。


「……失礼いたしました」


 謝罪は形だけだった。


 だが父王は、それ以上追及しない。


 レイヴァルトは、卓の下で指を組んだ。


 今の一言だけで、この男の舌を抜く理由には足りる。


 だが、父は許す。


 父は待つ。


 父は相手が自ら言葉を改める可能性を捨てない。


 それを慈悲と呼ぶのだろう。


 レイヴァルトには、毒を水で薄めて飲む行為にしか見えなかった。


 エルネストは書状に目を戻した。


「第一に、国境線の安定化。互いの武装勢力を国境より三十里退かせること」


 狼族の長ガルムが低く唸った。


「三十里だと? 我らの村を捨てろと言うか」


「辺境の緩衝地帯が必要なのです。争いを避けるために」


「その緩衝地帯に、人類の砦が建つのだろう」


 ガルムの言葉に、人類側の補佐官が目を逸らした。


 エルネストは微笑を崩さない。


「誤解です」


「誤解にしては、地図の線が正確すぎる」


 ドワーフの長ボルガンが、卓上の羊皮紙を太い指で叩いた。


「この線の下には鉄脈がある。人類の測量師が知らぬはずの場所だ」


「偶然でございましょう」


「偶然で山は掘れん」


 妖精族の長リュシエラは、静かに書状を見ていた。


「第二項。南方森域への聖教会巡礼路の設置……ですか」


 ベルン司祭が初めて顔を上げた。


 痩せた顔。

 白い睫毛。

 感情の薄い目。


「信仰は閉ざされるべきではありません。神の光は、あらゆる地に届くべきものです」


「その光で、森を焼いたことがある」


 リュシエラの声は柔らかかった。


 柔らかいだけで、冷たかった。


 ベルン司祭は胸に手を当てる。


「それは過去の不幸な行き違いです」


「焼かれた樹は戻りません」


「だからこそ、和解が必要なのです」


「和解」


 リュシエラはその言葉を繰り返した。


 音だけを確かめるように。


 レイヴァルトは司祭を見た。


 聖教会。


 異種族を魔と呼び、聖火を掲げ、神の名で狩りを正当化する人類の牙。


 王国の貴族より厄介だ。


 貴族は土地や鉱山を欲しがる。

 軍人は勝利や名誉を欲しがる。

 商人は利益を欲しがる。


 だが、教会は違う。


 彼らは異種族が存在すること自体を罪と呼ぶ。


 ならば、交渉の席にいることそのものが矛盾している。


 なぜ来た。


 なぜ祈る。


 何を隠している。


 レイヴァルトは、部屋の空気を読むように目を細めた。


 薄い香の匂いがある。


 人類側が持ち込んだ香炉はない。葡萄酒にも香草にも混ざっていない。


 壁か。

 床か。

 あるいは衣か。


 魔力の流れは微弱だった。


 攻撃術式ではない。

 毒でもない。

 幻術でもない。


 もっと薄く、もっと深い。


 水底に沈めた鎖のような気配。


「第三に」


 エルネストの声が続く。


「捕虜および奴隷の相互返還」


 ザルギウス将軍の翼がわずかに動いた。


「相互、だと」


「ええ。双方に不幸な行き違いがありました」


「我らは人間を奴隷にしていない」


「ですが、我が国では行方不明者が――」


「戦場で死んだ者を、奴隷とは呼ばん」


 竜人の声は硬かった。


 エルネストは肩をすくめる。


「感情的になられては、和平は遠のきます」


 その瞬間、レイヴァルトは人類側の補佐官の指が震えたのを見た。


 恐怖ではない。


 合図を待つ者の震え。


 まだだ。


 何かを待っている。


 レイヴァルトは父王に視線を向けた。


 アルヴァーンは静かに聞いている。


 彼が何も気づいていないはずがない。


 父王は強い。


 誰よりも強い。


 この場で人類側が何かを仕掛けても、普通ならば意味がない。


 だからこそ、妙だった。


 人類は愚かではあるが、すべてが愚かではない。


 勝てない相手に、何の策もなく近づくほど単純ではない。


 ならば、何かがある。


 父の力を削ぐ何か。


 あるいは、父の慈悲につけ込む何か。


「バルディア卿」


 アルヴァーンが口を開いた。


「貴殿らの提案は聞いた。こちらからも条件を出す」


「もちろんでございます」


「第一に、異種族を魔物、悪魔、神敵と呼ぶ布告を王国と聖教会の双方で撤回せよ」


 ベルン司祭の目が、わずかに動いた。


「第二に、国境付近で捕らえた我が民をすべて返還せよ。奴隷商を通じて売られた者も含む」


 エルネストの笑みが固まる。


「第三に、聖教会は南方森域、北方山脈、西方鉱山から完全に退け。巡礼路も聖堂も不要だ」


 白杯の間に、沈黙が満ちた。


 父王の声は穏やかだった。


 だが、条件は甘くない。


 アルヴァーンは優しい。


 しかし、無知ではない。

 無能でもない。

 この国を守る王である。


 レイヴァルトは、そのことを知っている。


 だからこそ、父を尊敬している。


 だからこそ、理解できない。


 ここまで見えていながら、なぜまだ人類に席を与える。


 なぜ、その首を刎ねない。


 エルネストは、ゆっくりと息を吐いた。


「慈悲王陛下」


 初めて、その呼び方をした。


「我らは、あなた様の寛大さを信じて参りました」


「寛大さは、譲歩と同義ではない」


「無論です。しかし、我ら人類にも民がいます。信仰があります。恐怖があります。異種族の力は、我々にとって大きすぎる」


「だから滅ぼすと?」


「滅ぼすなど、とんでもない」


 エルネストは両手を広げた。


「ただ、互いに安全を保障する形が必要なのです。貴国の力は強大すぎる。慈悲王陛下が善き王であられることは、我らも承知しています。ですが、次代は?」


 人類側の視線が、レイヴァルトに集まった。


 ああ。


 そういうことか。


 レイヴァルトは、冷めた思考で理解した。


 彼らは父王を恐れている。

 だが、父王の慈悲にすがっている。


 そして同時に、次代の王を恐れている。


 慈悲を持たぬ王子。

 父のようには譲らぬ後継者。


 ならば、和平など口実だ。


 人類にとって本当に邪魔なのは、父王の力ではない。


 父王の死後も続く異種族連合そのもの。


 レイヴァルトは薄く息を吐いた。


「俺を殺したいなら、そう言え」


 エルネストの顔から血の気が引いた。


「何を仰いますか」


「言葉を飾るな。臭い」


 ベルン司祭が眉をひそめた。


「王子殿下。そのような物言いは、和平の席に相応しくありません」


「相応しい席だと思っているのか」


「少なくとも、我らはそう信じております」


「ならば、その手を卓の上に置け」


 ベルン司祭の動きが止まった。


 ほんの一瞬。


 それだけで足りた。


 レイヴァルトの視線が、司祭の袖口に落ちる。


 袖の内側。

 白布の裏。

 そこに、銀糸で縫い込まれた小さな紋様があった。


 七条の光を持つ聖輪。


 聖教会の印。


 ただの装飾ではない。


 魔力を通す糸で縫われている。


「父上」


 レイヴァルトは静かに言った。


「この席は、汚れています」


 異種族側の長たちが一斉に人類側を見る。


 ガルムの牙が剥き出しになり、ザルギウスの爪が石卓に食い込んだ。ボルガンは椅子を軋ませ、リュシエラの周囲に冷たい燐光が浮かぶ。


 だが、アルヴァーンは片手を上げた。


 それだけで、全員が止まった。


「何を見た、レイヴァルト」


「袖に聖印。魔力を流す銀糸です」


 エルネストが立ち上がりかけた。


「誤解です。司祭の法衣には祈りのための刺繍が――」


「座れ」


 レイヴァルトの声で、エルネストの膝が止まった。


 命令に魔力は乗せていない。


 ただの声だった。


 だが、人間は座った。


 レイヴァルトは司祭を見た。


「脱げ」


「なっ……」


「その法衣を脱げ。祈りの布なら問題ない」


 ベルン司祭の唇が引き結ばれる。


 後方に控えていたもう一人の司祭が、わずかに足を引いた。


 逃げる動きではない。


 位置を変える動き。


 何かの中心から、何かの端へ移る動き。


 レイヴァルトは、そこでようやく気づいた。


 袖ではない。


 袖の聖印は、見せてもよい餌だ。


 本命は別にある。


 香の匂い。

 床に沈む魔力。

 祈りのために後方へ控えた司祭。

 人類側が座る位置。

 父王の席。


 すべてが線でつながる。


 レイヴァルトは視線を落とした。


 円卓の下。


 黒い石床の上に、薄い絨毯が敷かれている。


 白杯の間に絨毯など、もともと不要だ。


 いつからあった。


 誰が敷いた。


 会談前に、人類側は「聖別されていない床に司祭が長く立つことはできない」と申し出た。父王はそれを認めた。相手の信仰への配慮として。


 その配慮の下に、何かがある。


 レイヴァルトは椅子を引いた。


 音が鋭く響く。


「レイヴァルト?」


 父王の声。


 レイヴァルトは答えず、卓の下に手を伸ばした。


 絨毯を掴む。


 人類側の補佐官が、息を呑んだ。


 遅い。


 レイヴァルトは絨毯を剥いだ。


 黒い石床に、白い線が刻まれていた。


 細く、浅く、しかし正確に。


 七条の光を持つ聖輪。


 その周囲に、古い神聖語の文字。


 魔を縛る。

 王を下ろす。

 黒き血を清める。

 神の前に膝を折らせる。


 人類の聖印だった。


 それは攻撃術式ではない。


 殺すための陣でもない。


 ただ一点。


 父王アルヴァーンの座る位置へ向けて、白い魔力が流れている。


 慈悲王の影だけを喰うように。


 レイヴァルトの目が細くなる。


 人類使節の顔から、作り物の恭順が剥がれ落ちていた。


 恐怖。

 焦燥。

 そして、失敗した者の顔。


 だが、ベルン司祭だけは違った。


 彼はまだ、祈るように指を組んでいる。


 レイヴァルトは、床の聖印を見下ろした。


 そして、短く告げた。


「父上。これは和平ではありません」


 白い聖印が、淡く脈打った。


 まるで、すでに始まっていると答えるように。

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