第1話「異種族の王」
※本文は全話完成済み。完結まで予約投稿予定です。
黒曜王都ヴァルドレインは、異種族の都である。
人類の地図には、長くその名が記されていなかった。記されることを、異種族たちが望まなかったからだ。
北の山脈を背にし、東には深い森を抱き、西には溶岩の眠る鉱山を持ち、南には大河が流れる。狼族は石畳を駆け、妖精族は尖塔の庭園に光を灯し、ドワーフは地下炉で鉄を打ち、竜人族は城壁の上から空を見張っていた。
種族の違いは、争いの理由にならなかった。
少なくとも、この都では。
その中心に、黒曜宮がある。
黒い石で築かれた王宮は、威圧のためだけに存在しているのではない。戦乱の時代に逃げ込んできた者たちを守るため、何度も増築され、何度も血を浴び、それでも崩れなかった砦である。
謁見の大広間には、各種族の旗が掲げられていた。
狼の牙。
妖精の樹冠。
ドワーフの鉄槌。
竜人の黒翼。
翼人の白羽。
鬼族の双角。
海魔族の波紋。
そのすべての旗の上に、王の紋章があった。
慈悲王アルヴァーン。
異種族連合をまとめ上げた、ただ一人の王。
彼は玉座に深く腰かけてはいなかった。王でありながら、王座の前に立ち、臣下たちと同じ床を踏んでいた。
白銀の髪は肩に流れ、黒い外套の内側には、古い戦傷を隠す鎧が見える。顔立ちは穏やかで、声は低く、怒鳴らずとも広間の奥まで届いた。
「南方の避難民は、すべて受け入れよ。森の住まいを失った者には、妖精族の許可を得て北庭園の一部を開ける」
妖精族の長が、細い指を胸に当てて頭を下げた。
「慈悲王の御心のままに」
「鉱山の収益は、今年は三割を治療院へ回す。ドワーフの長、負担をかける」
髭を編み込んだドワーフの長は、硬い拳を胸に打ちつけた。
「王の命であれば、炉は喜んで燃えましょう。我らが鉄は、民を守るためにこそあります」
狼族の戦士たちは片膝をつき、竜人族の将は無言で首を垂れた。
そこに恐怖による服従はない。
あるのは崇拝だった。
王がそう命じたから従うのではない。
王がそう命じるなら、それは正しいと信じている。
それほどまでに、アルヴァーンは異種族たちにとって大きかった。
かつて狼族が人類の狩猟団に追われた時、彼は単騎で国境を越え、捕らわれた子らを奪い返した。
妖精の森が焼かれかけた時、彼は雨を呼び、聖火を消した。
ドワーフの鉱山都市が奪われた時、彼は一夜で要塞門を砕き、捕虜を解放した。
竜人族と鬼族が長き怨恨により戦いかけた時、彼は両軍の間に立ち、剣を抜かずに戦を止めた。
彼は強かった。
人類の王国を滅ぼそうと思えば、滅ぼせた。
だが、滅ぼさなかった。
それを慈悲と呼ぶ者がいた。
偉大さと呼ぶ者がいた。
弱さと呼ぶ者は、この王都には一人もいなかった。
ただ一人を除いて。
王子レイヴァルトは、玉座の左側に立っていた。
年若い姿をしているが、その瞳は父王に似ていない。父の瞳が深い湖なら、レイヴァルトの瞳は夜の底に沈んだ刃だった。
黒髪は短く整えられ、衣装も過度な装飾を避けている。王子というより、処刑を待つ剣に近かった。
臣下たちは彼にも敬意を払う。
慈悲王の子。
正統なる後継者。
父王の血を引く、次代の王。
その認識に揺らぎはなかった。
だが、レイヴァルト自身は、臣下たちの崇拝よりも父の背を見ていた。
アルヴァーンの采配は誤りなく、言葉は温かく、民への目配りは深い。彼が王である限り、この国は崩れない。そう思わせる重みがある。
尊敬している。
それは疑いようがなかった。
だが、同時に、レイヴァルトは思う。
なぜ、まだ人類を残しているのか。
人類は弱い。
個では狼族に劣り、魔力では妖精族に及ばず、鍛冶ではドワーフに届かず、肉体では竜人族の足元にも及ばない。
それでも彼らは数で押し、嘘で塗り固め、神の名を掲げ、異種族を魔物と呼ぶ。
王が一度手を振れば、人類の砦など砂になる。
父ならできる。
そして自分も、いずれできるようになる。
ならば、なぜしない。
憎しみではない。
少なくとも、今のレイヴァルトにあるのは憎しみではなかった。
もっと冷たいものだ。
害獣を放置すれば、畑が荒れる。
毒を放置すれば、水が濁る。
火種を放置すれば、森が焼ける。
ならば、踏み潰すべきではないのか。
そう考えるたびに、父王の横顔が視界に入る。
穏やかで、揺るがず、どこか遠くを見ている顔。
「レイヴァルト」
不意に名を呼ばれた。
広間の声が、わずかに静まる。
レイヴァルトは一歩前に出て、頭を垂れた。
「はい、父上」
「西門の警備を見てきたそうだな」
「異常はありません。人類側の斥候も、国境線の外に留まっています」
「殺してはいないな」
問いではなかった。
確認でもない。
父は、答えを知っていた。
レイヴァルトは短く答える。
「まだ」
広間の空気が、わずかに冷えた。
狼族の戦士が目を伏せ、妖精族の長が羽を震わせ、ドワーフの長が黙って息を吐く。
アルヴァーンだけは、表情を変えなかった。
「まだ、か」
「命令があれば殺します。命令がなければ、殺しません」
「それでよい」
「父上は、甘い」
言葉は静かだった。
だが、広間の誰もが息を止めた。
王子が父王を軽んじたからではない。
父を侮辱したからでもない。
レイヴァルトの声に、怒りがなかったからだ。
ただ、結論だけがあった。
アルヴァーンはしばらく息子を見た。
責めるでもなく、諭すでもなく、深い疲労を隠すような目だった。
「そうかもしれぬ」
「ならば、なぜ」
「力で滅ぼすことは容易い」
王の声が広間に落ちる。
「だが、滅ぼした後に残るものを、王は見なければならぬ」
「残るのは、民の安全です」
「それだけではない」
「それ以上に必要なものが?」
レイヴァルトの声は冷たい。
アルヴァーンは答えなかった。
答えられなかったのではない。
今は答えないのだと、レイヴァルトには分かった。
父には、時折そういう沈黙がある。
誰にも見せない傷に触れられたような沈黙。
レイヴァルトは、それ以上は問わなかった。
父を尊敬しているからだ。
だが、納得はしていない。
その沈黙は、いつか国を傷つける。
彼はそう考えていた。
大広間の奥で、重い扉が開いた。
黒曜宮の衛士が入ってくる。竜人族の近衛であり、普段ならば微動だにしない男だった。
その竜人が、片膝をついた。
「王よ」
「申せ」
「人類王国より、和平の使節団が到着しました」
広間に、ざわめきが走った。
狼族は牙を見せ、ドワーフは拳を握り、妖精族は声を失った。
人類。
その言葉だけで、空気が変わる。
まだ大きな戦は起きていない。
まだ王都は焼かれていない。
まだ墓標は増えていない。
それでも異種族たちは知っていた。
人類は、笑顔で近づく時ほど、手の中に刃を隠す。
アルヴァーンは静かに目を閉じた。
そして、開いた。
「通せ」
その一言に、反対の声は上がらなかった。
上げられなかった。
王が決めたのなら、従う。
それが異種族連合の秩序だった。
レイヴァルトは父王の横顔を見た。
慈悲深い王。
偉大なる統一者。
異種族すべてが崇める父。
その父が、人類をまた許そうとしている。
黒曜宮の大扉が、低い音を立てて開かれていく。
白い衣をまとった使節たちが、光の中から姿を現した。
彼らは深く頭を下げていた。
恭順の形を取りながら。
レイヴァルトは、その首筋を見ていた。
あそこを断てば、人類は一人減る。
それだけのことだ。
王子の指先に、かすかに魔力が集まる。
だが、父王の視線がそれを制した。
レイヴァルトは魔力を消す。
命令がないなら、殺さない。
今は、まだ。
人類の使節団が、黒曜の床に足を踏み入れた。
その瞬間、王都ヴァルドレインの空を、冷たい風が抜けていった。
まるで、遠い未来に流れる血の匂いを、誰よりも早く運んできたかのように。




