第10話「王都防衛戦」
夜明け前の黒曜王都ヴァルドレインは、静かだった。
静かすぎた。
城壁の上に立つ者たちは、その静けさを休息とは受け取らなかった。人類軍が攻撃をやめたのではない。息を潜め、次の一撃を整えているだけだ。
東壁の石は砕け、妖精族の根は焼け、ドワーフの補強板には白い聖印の傷が残っている。
昨日までなら、夜のうちに炉が鉄を吐き、壁の傷を塞いだ。
だが、今は足りない。
鉄が足りない。
弾が足りない。
薬が足りない。
眠る時間が足りない。
そして、王が足りなかった。
それでも城壁の上に、降伏を口にする者はいなかった。
狼族の兵は牙を研ぎ、妖精族の魔術師は焼けた指で術符を結び、竜人族は傷ついた翼を縛り直す。ドワーフの砲兵は、最後の黒鉄弾を布で拭いていた。
ボルガンは砲座の下に立っていた。
その前には、鉄くずの山がある。
壊れた鎧。
折れた槍。
砕けた門飾り。
古い燭台。
王都の広場に立っていた記念柵。
すべて炉に入れる。
王都を飾るための鉄は、王都を守るための弾になる。
「惜しいか」
若いドワーフが、広場の柵を見下ろして呟いた。
その柵には、慈悲王アルヴァーンが国境戦役の後に刻ませた銘があった。
異なる民は、同じ火を囲める。
ボルガンはその文字を見た。
しばらく見ていた。
そして、自らの手で柵を炉へ投げ込んだ。
「惜しい」
炉が鉄を呑む。
「だから撃つ」
若いドワーフは頷いた。
誰も笑わない。
炉にくべているのは、ただの鉄ではない。
記憶だった。
だが、記憶を守るために、記憶を弾に変えるしかなかった。
王都の外では、人類軍が動いていた。
朝霧の向こう、東の平地に三つの影が見える。
巨大な砲だった。
奪われたグラド=ヴォルグの魔導砲。
ドワーフが黒曜王都を守るために造ったはずの砲身に、白い聖印が刻まれている。砲台には聖教会の布が巻かれ、砲口の周囲には金の輪が取り付けられていた。
人類は、それを聖別砲と呼んだ。
ボルガンは城壁の隙間からそれを見た。
表情は動かない。
だが、握った拳から血が落ちていた。
「あれは三号砲だ」
隣の砲兵が低く言った。
「王都北門を守るために造ったものです」
「ああ」
「砲身の癖も知っています。三射目で熱が偏る。冷却を怠れば、左へ逸れます」
「人類どもは知らんだろうな」
「知らないはずです」
「ならば、そこを使う」
ボルガンは振り返った。
「全砲兵へ伝えろ。聖別砲を正面から止めようとするな。砲身ではなく、支えを狙え。あれは我らの砲だ。壊し方も、我らが一番知っている」
砲兵たちが頷く。
その目には怒りがあった。
奪われた道具を敵に向けられることは、ドワーフにとって肉を裂かれるより屈辱だった。
だが、その怒りは乱れなかった。
怒りを炉に入れる。
鉄と混ぜる。
形にする。
それがドワーフの戦いだった。
人類軍本陣では、ギュスターヴ・レオンハルト侯爵が満足げに聖別砲を見ていた。
「立派なものだ。獣どもには惜しい」
隣のマティアス司祭が頷く。
「魔の技術も、神の印を刻めば人類の武器となります」
「鉱山を落とした甲斐があったな」
「西方攻略隊からは、さらに炉と職人の提供が可能との報告もあります」
「ならば、この都を落とした後は、砲を量産できる」
ギュスターヴは笑った。
彼の視線の先には、黒曜王都がある。
その奥に黒曜宮がある。
さらに奥に、眠る王子の黒い繭がある。
「今日で終わらせる。壁を砕き、門を開き、黒曜宮へ入る。魔王の子は聖火で焼く。残った異種族は使えるものだけ選別しろ」
マティアス司祭は、静かに聖句を唱えた。
「神敵の都に、終わりを」
白い旗が上がる。
聖歌隊が歌い始める。
聖印杭が再び輝く。
そして、聖別砲の一門目が火を噴いた。
白い光弾が朝霧を裂く。
東壁に着弾した。
黒曜石の城壁が、昨日までとは違う音を立てた。
砕ける音ではない。
剥がされる音だった。
壁に刻まれていた妖精族の根、ドワーフの補強鉄、竜人族の耐火紋、狼族の血誓術式が、白い光に削られていく。
聖別砲は石を砕くだけではなかった。
王都を守ってきた異種族の誓いそのものに、聖印を打ち込んでいた。
城壁の上で、妖精族の魔術師が膝をつく。
鼻と耳から血が流れていた。
リュシエラが駆け寄る。
「下がりなさい」
「まだ、根が残っています」
「あなたの命まで根にする必要はありません」
「森はもう焼かれました。ここまで失うわけには」
リュシエラは一瞬だけ目を閉じた。
彼女自身も限界に近い。
昨日の聖歌の呪いを殺し、灰牙村の結界を破る種を渡し、王都防衛の根を支え続けている。
羽の光は弱く、指先は白く乾いていた。
だが、彼女は立った。
「根は、私が支えます」
彼女の周囲に燐光が広がる。
王都の下に眠る古い根が、かすかに鳴った。
聖別砲の二射目が来る。
今度は、黒い砲弾が迎え撃った。
ボルガンの砲兵隊が放った即席弾だった。
黒鉄ではない。
王都の柵、鎧、槍、古い門飾りを溶かして作った粗い弾である。
形は悪い。
重心も乱れている。
魔力の通りも鈍い。
だが、そこにはドワーフの怒りが詰まっていた。
砲弾は白い光弾の正面を外し、斜め下から聖別砲の弾道へ噛みついた。
空中で白い光が歪む。
直撃は避けられない。
だが、着弾点がずれた。
光弾は東門の中央ではなく、門の外側の塔へ命中した。
塔が崩れる。
石と鉄が降り注ぎ、狼族の盾兵が巻き込まれた。
それでも門は残った。
ボルガンが吼える。
「次だ! 支えを狙え!」
人類側も黙っていない。
聖別砲の前に盾列が展開し、聖教会の結界兵が白い防壁を張る。魔導砲部隊は城壁上のドワーフ砲座へ狙いを定めた。
同時に、歩兵が進む。
聖印杭を抱え、拘束網を担ぎ、攻城梯子を押し出す。
王都防衛戦は、総力戦へ変わった。
ガルムは東門下にいた。
灰牙村から戻ったばかりの体は、治療を拒んだせいで熱を持っている。肩の聖槍傷は開き、腹にも浅くない傷がある。
それでも彼は立っていた。
「門が破れたら、最初に入ってくるのは騎士だ」
狼族の副官が言う。
「長、下がってください。あなたはもう」
「もう、何だ」
「立っているだけでも」
「立っているなら戦える」
副官は歯を食いしばった。
ガルムは東門の外を見た。
人類軍の列の中に、ローデン・カイスの旗があった。
灰牙村を焼いた騎士。
奴隷商の車を連れていた男。
母から子を奪おうとした男。
殺したい。
今すぐ走り、喉を裂き、牙で名を砕きたい。
だが、ガルムは動かない。
王都を守る。
王子が目覚めるまで。
その誓いが、彼の足を地面に縫い止めていた。
ローデンは遠くからガルムを見つけ、笑った。
灰牙村で逃した獲物がまだ立っている。
彼にとって、それは屈辱ではなく機会だった。
「東門が開いたら、あの狼を捕らえる」
副官が問う。
「殺さずに、ですか」
「当然だ。狼族の長だぞ。首輪をつけて王都の門に吊るせば、獣どもの士気は折れる」
その言葉を聞いた兵士たちが笑う。
だが、長くは笑えなかった。
東門の内側から、狼族の咆哮が響いたからだ。
それは一人の声ではない。
灰牙村を失った者。
家族を奪われた者。
鎖を見た者。
子を抱えて逃げた者。
狼族の怒りが、城門の内側でひとつになっていた。
聖別砲の三射目が来る。
ボルガンの読み通り、砲身の熱が偏っていた。
白い光弾はわずかに左へ逸れる。
だが、人類側の司祭が聖印を重ね、弾道を強引に戻した。
ボルガンが目を見開く。
「無理に曲げたな」
砲身が悲鳴を上げている。
ドワーフの砲なら、あんな撃ち方はしない。
砲を道具としてしか見ていない者の扱いだ。
白い光弾が東門へ迫る。
避けられない。
その瞬間、ザルギウスが飛んだ。
飛べる状態ではなかった。
左翼は鉄の支柱で辛うじて形を保っているだけだ。昨日受けた魔導砲の傷も塞がっていない。
だが、竜人族の将軍は空へ上がった。
高くではない。
門の上へ。
自らを盾にする高さへ。
「将軍!」
竜人族の兵が叫ぶ。
ザルギウスは振り返らない。
両腕を広げ、竜人の鱗を硬化させる。
白い光弾が彼に衝突した。
空が割れるような音がした。
ザルギウスの体が城壁へ叩きつけられる。
鱗が砕け、翼の支柱が折れ、血が石壁へ散った。
だが、光弾の威力は逸れた。
東門は完全には砕けなかった。
ザルギウスは壁から落ちかけ、竜人族の兵たちに支えられる。
彼は血を吐きながら言った。
「門は」
「残っています」
「なら、よい」
それだけ言って、彼は意識を失った。
竜人族の兵たちは、将軍を後方へ運ぼうとした。
だが、その前に一人の若い竜人が膝をつく。
「将軍の代わりに、我らが立つ」
彼の声に、周囲の竜人族が応じた。
翼を傷つけられても、空を封じられても、彼らは竜人だった。
門の上へ並び、鱗の盾となる。
それを見た人類軍から、ざわめきが起きた。
「まだ折れないのか」
誰かが呟いた。
折れない。
王が死んでも。
王子が眠っても。
村を焼かれても。
鉱山を奪われても。
翼を砕かれても。
異種族連合は、まだ折れなかった。
だが、折れないことと、勝てることは違う。
聖別砲の一門目は熱で軋んでいたが、二門目と三門目はまだ健在だった。
人類軍はさらに聖印杭を打ち込んでいる。
東壁の下部に亀裂が広がり、門の蝶番が歪む。
ボルガンの砲兵隊は残弾を数えるのをやめた。
数えれば絶望するだけだった。
「砲弾なし!」
若い砲兵が叫ぶ。
ボルガンは足元の石を拾った。
「なら石だ」
「砲身が割れます!」
「どうせ明日まで残る保証はない」
彼は石を砲へ詰めた。
「撃て」
石弾が飛ぶ。
聖別砲には届かない。
だが、前進する聖印杭の兵士たちを散らした。
王都は、もう兵器ではなく、王都そのものを投げ始めていた。
リュシエラは城壁中央で膝をついた。
根の維持が限界だった。
彼女の燐光は薄く、羽の一部が灰色になっている。
妖精族の若い魔術師が支えようとする。
「長、代わります」
「あなたでは焼けます」
「長でも焼けています」
リュシエラは答えなかった。
代われば若い妖精が死ぬ。
代わらなければ、自分が先に枯れる。
その選択を強いるのが、人類の戦だった。
彼女は目を閉じた。
森の声を聞く。
焼かれた森。
聖火に汚された泉。
灰の中に残った種。
王都の庭園に避難させた小さな根。
森は泣いている。
だが、死んでいない。
「まだ」
リュシエラは呟いた。
「まだ根は残っています」
彼女の燐光が、最後の力で城壁を包む。
その時、人類軍の聖歌隊が再び歌い始めた。
呪いを混ぜた歌。
今度は昨日よりも強い。
子どもたちだけではない。
後方に並ぶ司祭たちが、自らの血を聖杯に落とし、歌へ混ぜている。
マティアス司祭の指揮だった。
「異種族は感情に弱い」
彼は本陣で言った。
「子を殺せず、森を捨てられず、炉を忘れられない。ならば、その弱さを突けばよい」
ギュスターヴ侯爵は頷いた。
「こちらは数で押す。奴らは守るものが多すぎる」
「だから滅びるのです」
マティアスは微笑した。
「慈悲王の時代は終わりました」
その言葉が言い終わる前に、東壁の一部が崩れた。
完全な崩落ではない。
だが、人が通れる亀裂が開いた。
人類軍が歓声を上げる。
「突破口だ!」
「騎士団、前へ!」
「神敵の都を清めよ!」
ローデン・カイスの部隊が前進する。
同時に、複数の攻城梯子が城壁へかけられた。
ガルムは門内で剣を抜いた。
狼族の戦士たちが並ぶ。
傷ついた者ばかりだった。
それでも、全員が牙を見せていた。
「ここを抜かれれば、黒曜宮まで道が開く」
ガルムは言った。
「玉座の間まで、奴らを通すな」
誰も返事をしない。
代わりに、牙を鳴らす音が一斉に響いた。
亀裂から人類兵が入ってくる。
最初の兵士は盾を構え、次の兵士は聖槍を突き出した。
ガルムが踏み込む。
聖槍が彼の脇腹を裂く。
彼は止まらない。
盾ごと兵士を壁へ叩きつける。
狼族が続く。
東門内側は、狭い殺し場になった。
人類兵は数で押す。
狼族は一歩も下がらない。
そこへ、ローデンが現れた。
馬を降り、鉤刃を持っている。
「会いたかったぞ、ガルム」
ガルムは血に濡れた顔を向けた。
「灰牙村の匂いがする」
「よい村だった。よい奴隷も取れた」
次の瞬間、ガルムが動いた。
副官が止める暇もない。
ローデンの鉤刃とガルムの爪がぶつかる。
火花が散る。
周囲の兵士が後退する。
そこだけが、別の戦場になった。
「怒ったか、獣」
ローデンが笑う。
「怒れ。そうすれば捕らえやすい」
ガルムは答えなかった。
ローデンを殺したい。
だが、彼の後ろから次々と人類兵が流れ込む。
この男に集中すれば、他の兵が王都へ入る。
また同じ選択だった。
灰牙村と同じ。
殺したい敵。
守るべき民。
ガルムは牙を食いしばる。
怒りを呑む。
呑んで、足元へ吐き捨てるように踏み込んだ。
ローデンの鉤刃を弾き、肩で体勢を崩し、殺さずに壁へ叩きつける。
「ぐっ……」
「殺すのは今ではない」
ガルムの声は低かった。
「お前の名は、王子へ届けた」
ローデンの目が揺れる。
「眠った魔王の子にか」
「ああ」
「なら、永遠に眠らせればいい」
ローデンが懐から白い札を取り出す。
聖教会の封眠札だった。
灰牙村から持ち帰った黒天蓋の旗を調べ、そこに残る魔力を辿って作られたものだ。
ローデンは笑った。
「この札は、黒曜宮へ運ばれる。魔王の子の繭に貼れば、二度と――」
言い終わる前に、ガルムの爪が札を裂いた。
同時に、ローデンの頬も裂ける。
血が飛ぶ。
ローデンは悲鳴を上げた。
ガルムはその喉へ爪を突きつける。
殺せる。
今なら殺せる。
だが、背後で狼族の兵が倒れた。
亀裂から人類兵がさらに入ってくる。
ガルムはローデンを蹴り飛ばし、兵士の列へ向き直った。
「後だ」
ローデンは血まみれで後退する。
恐怖と屈辱に顔を歪めながら、部下に引きずられて亀裂の外へ下がった。
ガルムは追わない。
追えない。
それが、さらに彼を削った。
その頃、黒曜宮の玉座の間では、エルミアが黒い繭の前に跪いていた。
外の戦況は、もう逐一報告する余裕もない。
砲声。
崩れる壁。
負傷者の叫び。
聖歌。
それらすべてが、玉座の間まで届いていた。
黒い繭の亀裂は、全面へ広がっている。
内側から魔力が漏れ、床を覆い、空席の玉座へ絡みついていた。
エルミアは片腕を胸に当てた。
「王子」
声は静かだった。
「東壁に突破口が開きました。ザルギウス将軍は重傷。リュシエラ様は根を支え続け、ボルガン様は王都の鉄を溶かして撃っています。ガルム様は東門でローデン・カイスと接触。まだ、王都は落ちていません」
繭の内側で、何かが動いた。
微かな音。
爪が石を掻くような音ではない。
眠りの殻を、内側から押す音だった。
エルミアは息を止める。
「灰牙村の名も、グラド=ヴォルグの名も、皆が御前へ届けました」
亀裂が深くなる。
「慈悲王の玉座は、まだ空けてあります」
黒い魔力が玉座の脚へ絡みつく。
「誰も座っておりません。誰も、御身を売っておりません。誰も、御身を責めておりません」
エルミアの声が、ほんのわずかに震えた。
「我らは、待っています」
その時、聖別砲の最大射撃が始まった。
三門同時。
人類軍は砲身の限界を無視し、聖教会の術式で強引に力を上げた。
白い光が三本、朝の空を裂く。
一つは東壁へ。
一つは東門へ。
そして一つは、黒曜宮へ向かっていた。
マティアス司祭は見ていた。
聖別砲の一門を、あえて宮殿へ向けさせたのだ。
「壁を落とすより早い」
彼は言った。
「玉座の間ごと焼けば、魔王の子も消える」
ギュスターヴ侯爵は少しだけ眉を寄せた。
「黒曜宮の接収価値が下がる」
「魔王の血を残す危険よりは安い」
「よかろう」
白い光弾が黒曜宮へ迫る。
誰も間に合わない。
城壁の上の異種族たちは、それを見た。
リュシエラが立ち上がろうとして倒れた。
ボルガンが叫んだ。
ガルムが振り向いた。
竜人族の若者が飛ぼうとした。
誰も届かない。
黒曜宮の上空に、白い光が落ちる。
その瞬間。
黒曜宮の玉座の間で、黒い繭が大きく脈打った。
黒い魔力が床から立ち上がる。
それは黒天蓋だった。
かつて白杯の間で父王と臣下を守った禁忌級防御魔法。
だが、今のそれは完全ではない。
薄く、裂け、眠りの底から漏れた残響に近い。
それでも、黒い天蓋は黒曜宮の上に広がった。
白い光弾がぶつかる。
空が黒と白に割れた。
王都全体が揺れる。
黒曜宮の窓が砕け、玉座の間の柱にひびが入る。
だが、光弾は消えた。
黒曜宮は落ちなかった。
人類軍の陣に、沈黙が広がる。
マティアス司祭の顔から、初めて余裕が消えた。
「……今のは」
ギュスターヴ侯爵も遠眼鏡を握る手を止めた。
「魔王の子は眠っているのではなかったのか」
答えられる者はいなかった。
城壁の上で、異種族たちは黒曜宮を見た。
誰かが膝をついた。
それが伝播する。
兵も、負傷者も、魔術師も、砲兵も。
戦場の中で、ほんの一瞬だけ、異種族たちは黒曜宮へ頭を垂れた。
王子が、守った。
まだ眠っているはずの王子が。
それだけで、折れかけていた戦線に、細い芯が戻った。
ガルムが吼えた。
「王子が見ておられる!」
狼族が咆哮する。
ボルガンが炉の方へ怒鳴る。
「残り全部を撃て!」
リュシエラが血を拭い、根をもう一度起こす。
意識を失ったザルギウスの代わりに、若い竜人たちが門の上で翼を広げる。
王都は、最後の力を振り絞った。
ボルガンの即席弾が、聖別砲の一門の支柱を砕いた。
砲身が傾く。
無理な三連射で熱を持っていた砲は、自重に耐えきれず、聖印の刻まれた砲身を裂いた。
白い光が内部で暴発する。
聖別砲の一門が爆ぜた。
人類兵が吹き飛び、結界兵が倒れる。
残り二門も砲撃を止めた。
冷却せずに撃てば、同じように壊れる。
ギュスターヴ侯爵は歯を食いしばった。
「一時後退だ。砲を立て直せ」
マティアス司祭が睨む。
「今押せば落ちます」
「砲が壊れれば、明日以降の攻城に響く」
「魔王の子が目覚めるかもしれないのですよ」
「かもしれない、で全軍を潰せるか」
人類軍本陣に、初めて迷いが生まれた。
その迷いの間に、黒曜王都は東門内の人類兵を押し返した。
完全な勝利ではない。
東壁には穴が開き、城門は半壊し、ザルギウスは重傷、リュシエラは限界、ボルガンの砲弾は尽き、ガルムの傷はさらに深い。
だが、王都は落ちなかった。
その日、黒曜王都ヴァルドレインは生き残った。
夜。
玉座の間には、各種族の長たちが集まっていた。
ガルムは肩と脇腹に包帯を巻かれ、立っているのも苦しい状態だった。
ボルガンの髭は煤で黒くなり、手には火傷がある。
リュシエラは羽の光をほとんど失い、従者に支えられている。
ザルギウスは担架で運ばれてきた。意識はまだ戻っていない。
エルミアは玉座の前に立っている。
全員が、黒い繭を見ていた。
繭は、もはや繭と呼ぶには裂けすぎていた。
表面には無数の亀裂が走り、その奥から黒い魔力が静かに漏れている。
黒天蓋の残滓ではない。
レイヴァルト自身の魔力だった。
ボルガンが炉の鍵を見た。
黒天蓋の紋はまだ薄く残っている。
ガルムが膝をつく。
「王子」
声は掠れていた。
「王都は、まだ落ちておりません」
リュシエラも膝をつく。
「森の根も、まだ残っています」
ボルガンが額を下げる。
「炉は、まだ燃えています」
エルミアが続ける。
「玉座は、まだ空いております」
誰も「早く目覚めてくれ」とは言わなかった。
その言葉は、王子の眠りを責めるものに聞こえるからだ。
彼らはただ報告する。
待っている、と。
守っている、と。
裏切っていない、と。
黒い繭が、静かに軋んだ。
亀裂の一つから、内側の指が見えた。
白杯の間で黒天蓋を張った手。
父王を守ろうとし、国を残そうとし、代償として眠りについた手。
その指が、ゆっくりと動く。
石床に触れた。
黒い魔力が波紋のように広がる。
玉座の間の空気が変わった。
冷たい。
重い。
それでいて、異種族たちにとっては懐かしい。
慈悲王アルヴァーンの気配ではない。
もっと暗く、もっと鋭く、もっと容赦のないもの。
だが、王の血だった。
ガルムが頭を垂れる。
ボルガンが拳を胸に当てる。
リュシエラが涙を流す。
エルミアが片膝をつく。
ザルギウスは意識がないまま、指だけをわずかに動かした。
黒い繭の内側で、レイヴァルトの呼吸が変わった。
長い眠りの底から、浅い呼吸へ。
閉じられた瞼が、もう一度震える。
まだ、目は開かない。
まだ、声もない。
だが、玉座の間にいる全員が理解した。
眠れる王子は、戻ろうとしている。
そしてその夜、黒曜王都ヴァルドレインの上空には、黒い天蓋の薄い残光が残っていた。
それは人類軍からも見えた。
白い聖旗の下で、兵士たちは眠れなかった。
誰かが呟いた。
「魔王の子が、起きる」
司祭が叱りつけた。
だが、その声も震えていた。
王都の中では、誰もその言葉を否定しなかった。
黒曜宮の玉座の間。
空席の玉座の前で、黒い繭が最後の眠りを終えようとしていた。




