第11話「玉座の間の眠れる王子」
黒曜宮の玉座の間には、誰も座っていなかった。
慈悲王アルヴァーンの玉座は、空いたままだ。
王が死んだ日から、そこには誰も座っていない。触れる者もいない。ただ埃だけは毎日払われていた。黒曜石で造られたその座は、今も主を待つように、高い段の上で沈黙している。
だが、玉座の前には黒い繭がある。
かつて硬く閉じていたそれは、もはや完全な繭ではなかった。
表面には無数の亀裂が走り、裂け目からは黒い魔力が静かに漏れている。炎のようには揺れない。水のようにも流れない。ただ、影が生き物のように床を這い、玉座の脚へ絡みつき、王の間全体を冷たく染めていた。
その中心で、レイヴァルトの右手が外へ出ている。
指先は、黒曜石の床に触れていた。
ただそれだけで、玉座の間にいる者たちは息を殺している。
王子が、戻りつつある。
誰も声にしない。
声にすれば、壊れてしまいそうだった。
狼族の長ガルムは、片膝をついていた。
肩と脇腹には厚い包帯が巻かれている。血は止まりきっていない。灰牙村から戻った時の火傷も、東門で受けた傷も、十分な治療を受けていなかった。
それでも、彼は倒れない。
倒れることは許されていない。
狼族の長として。
灰牙村の名を運んだ者として。
ローデン・カイスの名を王子へ報告した者として。
彼は、眠れる王子の前で牙を隠していた。
妖精族の長リュシエラは、従者に支えられて立っていた。
羽の光は薄い。かつて月光のように揺れていた燐光は、今は消えかけた灯に近い。王都の根を支え続けた代償が、彼女の体から色を奪っていた。
それでも、その目から光は消えていない。
森を焼かれた者の目。
聖火を覚えている者の目。
沈黙の復讐を、まだ口にしていない者の目だった。
ドワーフの長ボルガンは、煤に汚れたまま膝をついていた。
炉から直接来たのだろう。髭には灰が絡み、両手には火傷がある。彼の前には黒く焦げた炉の鍵と、小さな鉄槌が置かれている。
グラド=ヴォルグの鍵。
王火炉の鍵。
奪われた炉の記憶。
ボルガンは、それを捧げるように置いたまま、黙っていた。
竜人族将軍ザルギウスは、担架の上にいた。
意識は戻っていない。
左翼は砕け、鱗の多くが割れ、胸には聖別砲を受け止めた傷が残っている。呼吸は浅く、時折、喉の奥で血が絡む音がした。
だが、彼の体は玉座の間に運ばれていた。
竜人族の若い戦士たちが、どうしてもそうしたいと願ったからだ。
将軍が意識を失っていても、王子の目覚めの場にいないことを、竜人族は許せなかった。
吸血種エルミアは、黒い繭のすぐ近くに立っていた。
片腕の女は、数年間この場で報告を続けてきた。
戦況。
死者。
奪われた村。
焼かれた森。
落ちた鉱山。
折れた翼。
失われた諜報網。
眠る王子に届く保証はなかった。
それでも彼女は報告し続けた。
聞こえていなくても、届けなければならなかった。
王が目覚めた時、何も知らぬまま玉座につかせるわけにはいかなかった。
王都の外では、人類軍が包囲を続けている。
聖別砲の一門は破壊した。
だが、残り二門はまだある。
聖印杭も、聖歌隊も、王国軍の歩兵も、貴族騎士団も、奴隷運搬車も、まだ王都の外にいる。
今日を耐えた。
それだけだ。
明日を耐えられる保証はない。
だからこそ、玉座の間に集まった者たちは、眠れる王子を急かさなかった。
目覚めてほしい。
その願いはある。
だが、誰も言わない。
王子は逃げたのではない。
王子は怠ったのではない。
父王を守るため、臣下を守るため、黒曜宮を守るために、命を削って眠りについた。
その眠りを責める権利など、誰にもなかった。
沈黙を破ったのは、エルミアだった。
「王子」
声は低く、よく通った。
何年も同じように報告してきた声だった。
「王都防衛第十日、終了。黒曜王都ヴァルドレインは、いまだ陥落しておりません」
黒い繭は動かない。
だが、床を這う影が、ほんのわずかに濃くなった。
エルミアは続ける。
「東壁は大きく損傷。東門は半壊。防衛術式も、聖別砲により大きく削られています」
彼女は淡々と告げた。
慰めない。
飾らない。
王に報告するなら、真実でなければならない。
「ドワーフ砲兵隊は、王都の装飾、壊れた武具、広場の鉄柵まで溶かし、即席弾として使用。聖別砲一門を破壊しました」
ボルガンの拳が、わずかに震えた。
黒い繭の近くに置かれた炉の鍵へ、影が触れる。
鍵に浮かんでいた黒天蓋の紋が、もう一度薄く光った。
ボルガンは歯を食いしばった。
「聞いておられる」
誰かがそう呟きかけたが、声にはならなかった。
エルミアは報告を続ける。
「狼族の長ガルムは、東門にてローデン・カイスと交戦。ローデンは、御身の眠りを深めるための封眠札を所持していました」
ガルムの牙が鳴った。
「破壊しました」
エルミアは短く言う。
「ローデン・カイスは生存。顔にガルム様の爪傷を負い、後退しています」
黒い影が、床の上で一瞬だけ鋭く伸びた。
それは刃に似ていた。
ガルムは頭を下げた。
「王子。灰牙村を焼いた男です。母子を売ると言った男です。まだ殺しておりません」
声が低くなる。
「王都を守るために、殺しませんでした」
黒い繭は答えない。
それでも、ガルムは続ける。
「御身が目覚めた時、狼族に命じてください。あの男の喉を裂けと」
玉座の間に、静かな殺意が満ちた。
だが、それは暴走ではない。
命令を待つ殺意だった。
王を待つ牙だった。
リュシエラが、ゆっくりと膝をついた。
従者が支えようとするが、彼女は手で制した。
「王子」
声は細い。
だが、折れてはいない。
「南方森域の根は、まだ完全には死んでいません。聖火に焼かれ、泉は汚されました。王都の根も、今日の砲撃で多くを削られました」
彼女は目を伏せる。
「それでも、根は残っています」
黒い魔力が、床の石の隙間へ沈んだ。
玉座の間の下。
黒曜宮の基礎。
さらにその下にある古い根へ触れるように。
リュシエラの羽が、かすかに震えた。
彼女はその感覚を受け取った。
冷たい。
だが、拒まれてはいない。
父王アルヴァーンの魔力は、森へ降る雨のようだった。
温かく、広く、命を抱え込むものだった。
今、眠れる王子から漏れている魔力は違う。
それは夜だった。
森を包む夜ではない。
森を焼いた者の首へ、静かに降りる夜だった。
リュシエラは、その冷たさに涙を落とした。
「森は、御身を待ちます」
ボルガンが頭を上げる。
彼の声は、炉の奥のように低かった。
「王子。グラド=ヴォルグ外郭は落ちました。王火炉は穢されました。人類は、あれを神火炉などと呼んでおります」
その名を口にした瞬間、玉座の間の空気がわずかに重くなった。
ボルガンは続ける。
「捕らえられた職人たちは、鎖につながれています。徒弟を人質に取られ、炉を打たされております。王火炉の名を削れと命じられた職人は、自ら胸へ鑿を突き立てました」
彼は炉の鍵を見た。
「奪われた砲は、今日、王都へ向けられました」
ボルガンの手が床を掴む。
「我らが王都を守るために造った砲です。それを人類は聖別砲と呼び、御身の眠る宮へ向けました」
黒い繭の亀裂から、低い音がした。
石が内側から押されるような音だった。
ボルガンは額を床につけた。
「まだ取り返しに行けません。王都を守るためです。御身が目覚めた時、炉も槌も怒りも残しておくと誓いました」
沈黙。
その中で、ザルギウスの呼吸が一度、乱れた。
若い竜人が担架のそばに膝をつく。
「将軍」
ザルギウスは目を開けない。
だが、指がかすかに動いた。
エルミアがそれを見た。
そして、静かに報告を継ぐ。
「竜人族将軍ザルギウスは、聖別砲の光弾から東門を守り、重傷。意識は戻っておりません」
若い竜人たちが歯を食いしばる。
エルミアは続けた。
「竜人族は、空を失っておりません。翼を砕かれても、東門の上に立ち続けました」
黒い魔力が、担架の足元へ届いた。
ザルギウスの砕けた翼には触れない。
癒やしはしない。
だが、そこに沈んだ。
まるで、傷を記録するように。
若い竜人たちは、それを見て頭を垂れた。
王子が見ている。
それでよかった。
その時、黒曜宮の外で、遠く鐘が鳴った。
人類軍の鐘だった。
攻撃再開の合図ではない。
夜の祈祷の鐘。
だが、その音には震えが混じっていた。
王都の外、人類軍の陣では、兵士たちが眠れていなかった。
昼間、彼らは見た。
黒曜宮へ向かった聖別砲の光弾が、黒い天蓋に阻まれた瞬間を。
魔王の子は封印されている。
そう聞かされていた。
眠っている。
目覚めない。
聖教会の封印は完全だ。
黒い繭は焼けばよい。
だが、実際には違った。
眠っているはずの王子が、宮を守った。
誰も口にしないようにしていた言葉が、陣の端から端へ広がっている。
魔王の子が起きる。
焚き火のそばで、若い兵士が震えていた。
「本当に、起きるのか」
隣の兵士が苛立ったように言う。
「司祭様が封じている」
「でも、今日のあれは」
「黙れ」
「黒かった。空が、黒くなった」
「黙れと言っている」
だが、止まらない。
恐怖は命令で消えない。
聖教会の司祭たちは陣の中央に集まり、祈祷を始めていた。
マティアス司祭は白い聖壇の前に立っている。
その顔には疲労があった。
怒りもある。
それ以上に、焦りがあった。
「封印は崩れていない」
彼は周囲の司祭たちへ言った。
「魔王の子はまだ眠っている。今日の黒い防壁は、黒天蓋の残滓にすぎない」
年若い司祭が問う。
「ですが、封眠札は破壊されました」
「予備を作ればよい」
「黒天蓋の旗はもう」
「ならば、別の媒介を使う」
マティアスは黒曜王都を見た。
夜の中、黒曜宮の上にはまだ薄い黒い残光がある。
白い聖印の光を拒む、深い影。
「あれが完全に目覚める前に、明日こそ黒曜宮を落とす」
彼は聖杯へ血を垂らした。
「今夜、封じを重ねる。祈祷を途切れさせるな」
司祭たちが聖句を唱える。
白い光が陣から立ち上がる。
それは夜空へ伸び、細い糸となって黒曜宮へ向かった。
攻撃ではない。
眠りを重くするための祈り。
黒い繭へ届けば、レイヴァルトの覚醒を遅らせるはずだった。
糸は王都の防衛術式を避け、裂けた東壁の隙間を通り、黒曜宮へ近づく。
玉座の間では、最初にリュシエラが気づいた。
「聖術」
彼女が顔を上げる。
ガルムが立とうとする。
ボルガンが槌に手をかける。
エルミアは黒い繭の前へ出た。
しかし、誰も動く必要はなかった。
白い糸が玉座の間へ入り込んだ瞬間、床を覆う黒い影が静かに立ち上がった。
速くはない。
激しくもない。
ただ、当然のようにそこにあった。
影は白い糸に触れた。
音もなく、聖術が消えた。
焼かれたのではない。
砕かれたのでもない。
呑まれた。
祈りが、届く前に喰われた。
玉座の間の空気が、さらに冷える。
ガルムの背筋に震えが走った。
恐怖ではない。
歓喜にも似た、深い畏れだった。
「王子……」
エルミアが呟く。
黒い繭は、また一つ大きく裂けた。
その裂け目の奥に、レイヴァルトの横顔がわずかに見えた。
まだ目は閉じている。
頬は眠りの間にやせ、肌には黒い魔力の紋が薄く走っている。
だが、それは死者の顔ではなかった。
戻ってくる者の顔だった。
レイヴァルトは、眠りの底にいた。
そこには光がなかった。
だが、何も見えないわけではない。
父王の死があった。
白杯の間があった。
父の胸を貫いた白い棘。
最後に置かれた大きな手。
王であれ、という声。
次に、灰牙村があった。
聖札で閉じられた逃げ道。
聖火に焼かれる家。
鎖に繋がれる母親。
子を投げて寄越した手。
ローデン・カイスという名。
次に、グラド=ヴォルグがあった。
赤い炉。
鎖につながれた職人。
王火炉を覆う白い鉄板。
神火炉という汚れた名。
自ら胸に鑿を突き立てたドワーフの背中。
アルベリク・ダインという名。
次に、森があった。
焼けた根。
汚れた泉。
歌わなくなった枝。
リュシエラの消えかけた羽。
次に、空があった。
聖印の糸に絡め取られた翼。
砕けた左翼。
門を守るために落ちたザルギウス。
次に、王都があった。
砕ける東壁。
溶かされる記念柵。
石を弾にして撃つ砲兵。
血で立つ狼族。
根を支える妖精。
玉座を空けて待ち続ける異種族たち。
最後に、人類の陣があった。
白い旗。
聖歌。
奴隷運搬車。
砲口。
祈り。
恐怖。
それらすべてが、レイヴァルトの眠りの底へ積み上がっていた。
罪状の山だった。
誰かが囁く。
許せ。
それは父の声ではなかった。
夢の中のどこかで聞いた、遠い人間の倫理だった。
復讐は虚しい。
憎しみは何も生まない。
殺せば同じになる。
和解を探せ。
未来を見ろ。
白い言葉が浮かび、すぐに黒く沈んだ。
レイヴァルトは、それを見下ろした。
何も生まない。
違う。
復讐は秩序を生む。
奪われた者に、奪った者を裁く権利を返す。
憎しみは何も生まない。
違う。
憎しみは王権の下で刃になる。
民を焼いた火を、人類へ向け直す炉になる。
殺せば同じになる。
違う。
同じではない。
人類は慈悲を踏みにじった。
異種族は踏みにじられたものを取り返す。
和解を探せ。
探した結果、父は死んだ。
未来を見ろ。
だから、許さない。
父王の声が、もう一度響く。
王であれ。
レイヴァルトは眠りの底で、初めてその言葉へ答えた。
王になる。
父のようにはならない。
父の国は守る。
人類は許さない。
だが、自分一人で殺し尽くすだけでは足りない。
狼族には、狼族の牙を。
妖精族には、妖精族の呪いを。
ドワーフには、ドワーフの炉を。
竜人族には、竜人族の空を。
奪われた者には、奪った者を踏みにじる権利を。
そのすべてを、王の名で与える。
夢の底で、黒い玉座が現れた。
それは父王の玉座ではない。
同じ形をしている。
だが、そこに宿るものは違う。
慈悲ではなく、裁き。
抑制ではなく、報復の秩序。
レイヴァルトは、その玉座を見た。
そして、座らなかった。
まだだ。
まだ、目を開けていない。
まだ、臣下の報告を直接聞いていない。
まだ、父の墓前へ行っていない。
まだ、最初の人間を見ていない。
だから、まだ座らない。
目覚めてからだ。
現実の玉座の間で、黒い繭がさらに割れた。
大きな破片が床へ落ちる。
音が響いた。
異種族の長たちは、一斉に頭を垂れた。
誰かが命じたわけではない。
そうせずにはいられなかった。
漏れ出す魔力は、もう眠る者のものではない。
起き上がる王のものだった。
ガルムは血の滲む拳を床につけた。
リュシエラは羽の光を消さず、最後の力で膝を保った。
ボルガンは炉の鍵と槌の前で額を垂れた。
エルミアは片膝をつき、報告役としての姿勢を正した。
意識のないザルギウスの担架の横で、若い竜人たちが翼を伏せた。
黒い繭の中で、レイヴァルトの左手が動いた。
指が、裂けた繭の縁にかかる。
ゆっくりと、握る。
黒い殻に亀裂が走る。
玉座の間の床に広がっていた影が、王の紋章へ向かって流れた。
父王アルヴァーンの紋章の上に、黒い天蓋の紋が重なる。
慈悲王の時代は、終わった。
まだ誰も、その言葉を口にしていない。
だが、玉座の間にいるすべての者が理解した。
次に始まるものは、父王の慈悲ではない。
それでも、彼らは逃げなかった。
恐れはある。
王子から漏れる魔力は、優しくない。
温かくもない。
それは傷を撫でる手ではなく、傷を刻んだ相手の喉を探す刃だった。
だが、異種族たちは頭を垂れた。
彼らが待っていたのは、慰めではない。
許しでもない。
報復を王権のもとに置く者だった。
黒い繭が、最後に一度、大きく脈打った。
外の人類軍の陣では、聖教会の祈祷が途切れた。
司祭の一人が吐血し、聖杯が割れた。
マティアス司祭は、黒曜宮を見た。
黒い残光が、夜空に薄く広がっている。
彼の唇が震える。
「まだだ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「まだ、目覚めてはいない」
だが、その言葉は祈りに近かった。
黒曜宮の玉座の間。
黒い繭の裂け目の奥で、レイヴァルトの瞼が震えた。
長い眠りの底から、意識が浮上する。
父王の死。
灰牙村の火。
王火炉の白い鉄板。
砕けた翼。
焼けた森。
壊れた城壁。
待ち続けた臣下。
すべてを抱えたまま。
王子の指が、床を掴んだ。
黒曜石に、細い亀裂が入る。
玉座の間にいる全員が、息を止めた。
レイヴァルトの瞼が、開こうとしていた。




