第46話「聖教会の終焉」
人類王都アルディナに、鐘は鳴らなかった。
昨日まで白く輝いていた大聖堂の鐘楼は、黒い旗の下で沈黙していた。
王都の民は、広場へ集められていた。
泣く者。
祈ろうとして声を失う者。
何も見まいと顔を伏せる者。
それでも視線を逸らせない者。
大聖堂前の白い階段には、折れた聖剣の欠片が置かれている。
かつて人類が希望と呼んだ剣。
勇者カイト・レオンハートが掲げた証。
魔王を討つはずだった白い光。
それは今、黒い台座の上で冷たく沈黙していた。
その脇に、勇者カイトが立たされている。
黒天蓋の紋が胸に刻まれているため、彼は逃げられない。
嘘もつけない。
聖剣は折れたのかと問われれば、折れたと答えるしかない。
魔王の子に敗れたのかと問われれば、敗れたと答えるしかない。
彼はうつむいていた。
民衆の視線が痛かった。
昨日まで、彼らは自分を希望として見ていた。
今は、折れた希望の証として見ている。
その隣で、聖教会の者たちが引き出されていた。
枢機卿ヴァレリウス。
司祭長オルフェン。
聖剣管理官ユグラム。
聖火記録官クラウス。
白冠砦から移送されたマティアス司祭。
その他、王都大聖堂に籠もっていた高位聖職者と聖教会騎士たち。
彼らの白衣はまだ白かった。
だが、誰もそれを神聖とは見なしていなかった。
レイヴァルトは大聖堂の階段の下に立っていた。
黒い王衣。
黒天蓋の紋。
その背後には、異種族の長たちが並ぶ。
ガルム。
ボルガン。
リュシエラ。
エルミア。
セレイア。
ネレイド。
ゴウラ。
竜人族の副将。
誰も歓声を上げない。
これは勝利の式ではない。
処刑の前の記録だった。
「始めろ」
レイヴァルトが言った。
エルミアが一歩前へ出る。
片腕で黒い帳簿を開いた。
「聖教会王都大聖堂、およびその配下組織の罪状を読み上げます」
広場に静寂が落ちた。
エルミアの声は冷たい。
「第一。白杯の間における和平会談への聖印設置。慈悲王アルヴァーンの力を封じるための聖縛王冠発動。聖断杭による暗殺補助」
民衆がざわめいた。
「嘘だ……」
「慈悲王は魔王で、討伐されたはずでは……」
司祭長オルフェンが叫んだ。
「魔王討伐は神の正義だ! 和平など偽りだ! 異種族どもが人類を――」
その言葉は途中で止まった。
レイヴァルトが視線を向けただけで、オルフェンの喉に黒い紋が浮かんだ。
「続けろ」
エルミアは頷いた。
「第二。父王殺害後の事実隠蔽。『魔王討伐』『魔王の子封印』という虚偽宣伝。異種族領への侵略を聖戦と称して正当化」
次にガルムが前へ出た。
彼の肩にはまだ傷が残っている。
だが、声は低く強かった。
「灰牙村」
その名が出た瞬間、狼族たちの間に殺気が走った。
ガルムはそれを抑えた。
王命がある。
「聖札で逃げ道を塞ぎ、聖火で村を焼いた。子を連れ去り、首輪を付け、番号で呼び、売った」
彼はマティアスを見た。
「聖教会の聖札が使われた」
マティアスは震えていた。
「私は……王都包囲軍に派遣されただけで……灰牙村の件はローデン・カイスの部隊が……」
黒天蓋の紋が、彼の胸に浮かぶ。
嘘を許さない紋だった。
マティアスは喉を詰まらせた。
「……聖札は、教会の補給網から渡された。獣人捕獲用の祈祷札として、赤鷹部隊へ配布された」
広場がざわめく。
ガルムは牙を剥いたが、動かなかった。
「記録しろ」
レイヴァルトが言う。
エルミアは淡々と書き込んだ。
次にボルガンが進み出た。
彼は大聖堂の白い階段へ、砕けた銘板を投げた。
そこには、半ば削られた文字が残っている。
神火炉。
「王火炉をそう呼ばせたのは誰だ」
聖火記録官クラウスが青ざめる。
「それは……聖別の儀式上、必要な呼称で……」
「誰だ」
ボルガンの声が低くなる。
クラウスは唇を震わせた。
「西方聖別局からの命令です。王都大聖堂が承認し、グラド=ヴォルグの炉司祭リカードへ通達しました」
ボルガンは笑わなかった。
「徒弟に番号を付けたのは」
「鉱山管理局と聖別局の共同管理で……」
「聖別砲は」
「王火炉……いえ、神火炉で鋳造された砲弾へ、聖印を刻む計画でした。聖教会大聖堂と王国軍工廠の共同計画です」
ボルガンの拳が軋んだ。
それでも彼は殴らなかった。
王命がある。
名を吐かせるまでは、殺さない。
セレイアが、白い布包みを持って前へ出た。
布の中には、翼人族の羽根があった。
美しいまま、聖具として飾られていた羽根。
だが、その一本一本に名があった。
「これは、聖具区画から回収した羽根です」
彼女は聖剣管理官ユグラムを見た。
「どの聖堂へ納めた」
ユグラムは顔を背けた。
「羽根は浄化の象徴として……」
「どの聖堂へ納めた」
黒天蓋の紋が薄く光る。
ユグラムの声が壊れた。
「王都大聖堂、東礼拝堂、貴族院礼拝室、白冠砦、南方巡礼路の移動聖堂……」
「誰から買った」
「聖具商会、赤鷹関連商人、空中都市攻略隊の戦利品管理官……」
セレイアは布を閉じた。
「羽根は飾りではない」
声は静かだった。
「これは、空から落とされた者の体だ」
次にネレイドが水の入った小瓶を掲げた。
中の水は黒く濁っている。
「港湾都市セラドの聖杭配置図。海魔族捕獲網。水路封鎖令。これらにも大聖堂の印があります」
聖職者の一人が叫ぶ。
「海魔族は人を沈める魔物だ! 封じるのは当然――」
ネレイドは小瓶を傾けた。
濁った水面に、網で引き上げられる海魔族の子の影が映る。
聖職者は言葉を失った。
最後に、リュシエラが階段へ近づいた。
羽の光は弱い。
彼女は今にも倒れそうだった。
それでも、誰も手を出さなかった。
王の前で、彼女は自分の復讐を果たすために立っていた。
リュシエラは大聖堂の扉を見上げる。
「聖火を出しなさい」
大聖堂の中から返事はなかった。
レイヴァルトが手を上げる。
黒天蓋の紋が扉へ広がる。
幾重にも重ねられた聖印が黒く染まり、意味を失っていく。
扉が開いた。
中から、白い炎が揺れた。
大聖堂の主聖火。
聖教会が神の火と呼び、森を焼き、泉を汚し、異種族を神敵として焼くために掲げた火。
リュシエラは、その火の前に立った。
「あなたは神の火ですか」
聖火は答えない。
彼女は続ける。
「なら、焼いたものの名を言いなさい」
白い炎が揺れた。
聖火記録官クラウスが叫ぶ。
「やめろ! 聖火に異種族の呪いを近づけるな!」
リュシエラは彼を見ない。
「南方森域、第一泉」
白い火の中に、緑の影が混じる。
「灰根の小径」
火が震える。
「リュミナの泉」
聖火の音が変わった。
燃える音ではなく、湿った枝が折れる音になる。
「名も残されなかった妖精の子ら」
炎が、悲鳴のように揺れた。
広場にいた民衆の中には、耳を塞ぐ者が出た。
だが、声は止まらなかった。
聖火の中から、森の名がこぼれ始めた。
焼かれた泉。
灰になった根。
聖火で消された小径。
妖精が眠っていた木。
幼い羽が燃えた場所。
聖教会の聖火は、神の名ではなく、焼いた森の名を語った。
リュシエラは膝をつきかけた。
レイヴァルトの声が落ちる。
「倒れるな」
「……はい」
彼女は踏み止まった。
これは労りではない。
復讐を最後まで果たせという王命だった。
◇
大聖堂の奥から、ひとつの聖櫃が引き出された。
聖火記録官クラウスは最後まで隠そうとしたが、吸血種が地下記録室から目録を押収していた。
聖櫃には、白い火が封じられていた。
エルミアが読み上げる。
「白杯の間、実行司祭ベルンの祈りの火。肉体崩壊後、聖印を通じて王都大聖堂へ送られ、聖戦正当化の聖証として保管」
レイヴァルトの目が冷えた。
ベルン司祭。
父王アルヴァーンを魔王と呼び、白杯の間で聖縛王冠を発動した男。
肉体は崩れたはずだった。
だが、聖教会は死者の口すら利用していた。
「開けろ」
聖櫃が開かれた。
白い火が揺れる。
その中から、かすれた声がした。
『魔王討伐は……神の……』
聖教会の者たちが顔を上げる。
「見よ! ベルン司祭の聖なる証言だ!」
「白杯の間は正義だった!」
「神は我らを――」
レイヴァルトが手をかざした。
黒天蓋の紋が、白い火を包む。
「嘘を燃やすな」
白い火が黒く縁取られた。
ベルンの残滓が震える。
『白杯……和平の席……聖印……床下……柱……杯の縁……』
聖職者たちの顔が凍る。
『聖縛王冠……慈悲王の力を封じる……聖断杭……影に沈めた棘……白い棘……胸を……』
広場から悲鳴が上がった。
レイヴァルトは動かない。
『魔王ではない……王……異種族の王……会談……最後まで……席を立たず……』
ベルンの声は歪んでいた。
それでも、真実を吐き出していた。
『殺した……神の名で……殺した……』
聖櫃の火が揺れる。
『そして……送った……王都へ……聖戦は成功したと……』
沈黙。
それは、今までのどの証言より重かった。
聖教会が保管していた聖証が、聖教会の罪を語った。
レイヴァルトは聖櫃を見下ろした。
「父を殺した口で、まだ神を語るか」
白い火は答えられない。
「消えろ」
黒天蓋の紋が閉じた。
ベルン司祭の残滓は、声も残さず消えた。
聖教会の伏せていた最後の証言が、広場の前で終わった。
◇
処刑は、その後に始まった。
レイヴァルトは大聖堂の階段上に立ち、聖職者たちを見下ろした。
「枢機卿ヴァレリウス」
名を呼ばれた老人が震えた。
「慈悲王暗殺計画承認。聖戦布告。異種族領侵略の教義化。奴隷流通への聖印供与。聖火網管理」
「私は教義を守っただけだ!」
「処刑」
短い言葉だった。
黒天蓋の紋が処刑台の床に開く。
影の刃が落ちた。
血を広げることなく、白い衣の枢機卿は崩れた。
広場の人々は息を呑んだ。
「司祭長オルフェン」
「神は、神は我らを――」
「神は答えていない」
レイヴァルトは冷たく言った。
「父を殺したとき、お前たちは神の名を使った。今はその神に隠れようとしている」
「悔い改める! 今からでも――」
「遅い」
処刑。
次に聖剣管理官ユグラム。
勇者を利用し、聖剣の意味を人類の隠蔽に使った罪。
処刑。
聖火記録官クラウス。
焼いた森の名を記録せず、聖火の勝利として改竄した罪。
処刑。
マティアス司祭。
黒曜王都包囲。
聖別砲運用。
聖歌隊指揮。
聖火拡大命令。
白冠砦での隠蔽。
彼は泣きながら膝をついた。
「私は命令に従っただけだ……私は、教会の命に……」
リュシエラが前へ出た。
羽の光はほとんど消えかけている。
「あなたが聖火を強めたから、森の呪いは聖火網を伝いました」
マティアスは震えた。
「私は……知らなかった……」
「知った後も、隠そうとしました」
リュシエラは目を伏せた。
「森は、あなたの名を覚えました」
レイヴァルトは告げる。
「処刑」
マティアスの祈りは、最後まで神へ届かなかった。
続いて、聖教会騎士団の指揮官たち。
奴隷用聖札の配布責任者。
翼人族の羽根を聖具として登録した者。
港湾封鎖の聖杭配置を承認した者。
王火炉の名を神火炉へ改竄した通達署名者。
名を呼ばれた者は、記録を突きつけられた。
言い逃れは黒天蓋の紋に潰された。
命乞いは、死者の名に遮られた。
祈りは、沈黙した聖火に呑まれた。
レイヴァルトは一人も許さなかった。
ただし、誰も無意味には殺さなかった。
名を読み、罪を読み、証拠を示し、処刑する。
それは残虐だった。
だが、乱れてはいなかった。
王の裁きとして、冷たく整えられていた。
◇
やがて、折れた聖剣の欠片が運ばれた。
大聖堂の扉の前。
昨日まで聖教会が奇跡を語った場所。
その白い石畳の上に、聖剣の欠片が置かれる。
勇者カイトは、それを見ていた。
彼の顔は白い。
自分の剣が折られただけではない。
その欠片が、聖教会の罪と並べられている。
レイヴァルトが彼に問う。
「勇者カイト」
カイトの肩が震えた。
「聖剣は折れたか」
黒天蓋の紋が胸で疼く。
カイトは答えるしかなかった。
「……折れた」
「お前は俺に敗れたか」
「……敗れた」
「聖教会は、お前にすべてを教えていたか」
「……教えていなかった」
「知った後も、お前は旗を掲げたか」
カイトの喉が震えた。
彼は目を閉じる。
「……掲げた」
広場に重い沈黙が落ちた。
レイヴァルトは頷いた。
「それで十分だ」
彼はボルガンへ視線を向ける。
「砕け」
ボルガンが槌を持って進み出た。
王火炉の火で鍛え直された黒槌。
その槌が、聖剣の欠片の上に掲げられる。
聖教会の残党が叫んだ。
「やめろ! それは神の証だ!」
ボルガンは振り返らない。
「神の証なら、神が守れ」
槌が落ちた。
聖剣の欠片が砕ける。
白い光が最後に一度だけ揺れ、黒い石畳へ吸い込まれた。
カイトは膝から崩れた。
民衆の中から、悲鳴とも溜息ともつかない声が漏れる。
聖剣は、完全に砕かれた。
人類の希望は、形としても失われた。
◇
最後に、リュシエラが大聖堂の主聖火の前に立った。
レイヴァルトは彼女へ言った。
「消すな」
「はい」
「名を残せ」
リュシエラは両手を伸ばした。
聖火は、もう白くなかった。
緑と黒が混じり、炎の中に焼かれた森の影が揺れている。
彼女は囁く。
「あなたは、神の火ではない」
炎が震える。
「あなたは、焼いたものの記録です」
聖火は小さくなった。
消えはしない。
ただ、聖教会が掲げていた白い勝利の火ではなくなった。
焼いた森の名を語り続ける、罪の火になった。
大聖堂の内部から、白い光が消えていく。
壁の聖印が黒く変わる。
鐘楼の鐘がひび割れる。
神敵を告げる布告板が剥がれ落ちる。
聖教会の白い旗が、ゆっくりと降ろされた。
代わりに黒い布が掲げられる。
そこに聖句はない。
ただ、処刑された者たちの名と、彼らが殺し、焼き、売り、穢したものの記録だけが記されることになる。
レイヴァルトは大聖堂を見上げた。
「聖教会は終わった」
その言葉は、広場のすべてに届いた。
「神の名で父を殺した者どもは、神に救われなかった」
誰も反論しなかった。
できなかった。
大聖堂は沈黙した。
聖火は罪を語る火へ変わり、聖剣は砕かれ、枢機卿も司祭長も処刑された。
人類王都アルディナの中心から、聖教会の声が消えた。
◇
王城の玉座の間では、アレクシオス三世がその報せを聞いていた。
扉は黒天蓋の紋で封じられている。
逃げ道はない。
側近も少なく、近衛兵も膝をついたまま動けない。
王は震える手で玉座の肘掛けを掴んだ。
「聖教会が……処刑された、だと」
誰も答えない。
王は唇を震わせる。
「では、余を守るものは」
その問いにも、答えはなかった。
神の名で王を支えていた聖教会は沈黙した。
勇者は敗北した。
聖剣は砕けた。
王都は落ちた。
残っているのは、人類王だけだった。
扉の向こうから、足音が近づく。
まだ開かない。
だが、アレクシオスは理解した。
次は、自分の番だ。




