第44話「勇者敗北」
白い光が、白矢平原を裂いた。
勇者カイトの聖剣は、ただの武器ではなかった。
振り下ろされた刃から放たれた光は、剣筋を越えて広がり、黒天蓋の紋へ衝突した瞬間、空気そのものを震わせた。
衝撃が平原を走る。
人類軍の前列にいた兵士たちは、吹き荒れる風に盾を鳴らした。
聖教会騎士団の白い外套が大きくはためき、聖歌隊の声が一瞬途切れる。
だが、その次の瞬間、彼らは歓声を上げた。
「勇者様!」
「聖剣が魔王の闇を押している!」
「神の光だ!」
白い光は強かった。
それは、確かに希望に見えた。
カイトは歯を食いしばり、さらに聖剣へ力を込めた。
「どうした、魔王の息子!」
剣先から、光が幾筋も伸びる。
それは黒い影を焼き払うように広がり、平原の土へ白い傷を刻んだ。
普通の兵なら、その光に触れただけで膝を折っただろう。
獣人の前衛なら視界を奪われたかもしれない。
妖精族の術なら、聖なる火に焼かれて乱されたかもしれない。
勇者は弱くなかった。
人類が希望を託すだけの力は、確かにあった。
だが、レイヴァルトは動かなかった。
彼は右手を上げたまま、聖剣の光を受け止めている。
黒天蓋の紋が、彼の掌に開いていた。
そこから伸びる黒い膜が、白い光を呑み込み、削り、押し返す。
光と影が衝突するたび、平原の空に白と黒の亀裂が走った。
カイトの額に汗が浮かぶ。
「なんで……!」
聖剣の光は、これまで何度も敵を断ってきた。
魔獣を斬れば焼き尽くした。
訓練用の鋼鉄鎧なら、刃を触れさせるまでもなく裂けた。
聖教会の司祭たちは言った。
聖剣は魔を滅ぼす。
勇者は魔王を討つ。
それが神の定めだ、と。
ならば、目の前の魔王の息子は倒れるはずだった。
物語なら、ここで光が闇を打ち破るはずだった。
「押し切れないのか」
レイヴァルトが静かに言った。
カイトの顔が歪む。
「まだだ!」
彼は踏み込んだ。
一撃。
二撃。
三撃。
聖剣の刃が白い残光を引き、レイヴァルトへ襲いかかる。
斬撃は速い。
力もある。
聖なる光は、ただの剣技を超えていた。
だが、レイヴァルトはそれを片手で受けた。
黒天蓋の紋が、斬撃の軌道に合わせて形を変える。
盾となり、壁となり、檻となり、刃の先に絡む鎖となる。
カイトが横薙ぎに振るう。
黒い膜が受け止める。
カイトが頭上から叩きつける。
黒い影が刃を弾く。
カイトが光の突きを放つ。
レイヴァルトは半歩だけ身をずらし、掌で聖剣の腹を叩いた。
白い光が散った。
人類軍の歓声が、少しだけ弱まった。
◇
異種族連合軍は沈黙していた。
命令があるからだけではない。
彼らは見ていた。
人類が希望と呼んだ剣が、王へ届かない様を。
ガルムは低く唸る。
「強いな、あの人間」
ラグが隣で牙を剥いた。
「だが、王には届かん」
「それでも、普通の狼なら斬られる」
ガルムは怒りを隠さず言った。
「だから王が受けている」
ボルガンは腕を組み、聖剣の光を睨んでいた。
「ありゃ、聖別砲とは違う。炉で作ったもんじゃねえ。信仰を刃の形に固めたような代物だ」
ネルドが小さく言う。
「折れますか」
ボルガンは鼻を鳴らした。
「折るんじゃねえ。名を剥がすんだろうよ。あの白い剣が勇者の証なら、王はまず証を殺す」
リュシエラは弱い羽の光を揺らしながら、聖剣を見つめていた。
「白い火です。けれど、森を焼いた聖火より古い。人の祈りだけではなく、人の物語を食べて燃えている」
エルミアが片腕で帳簿を抱え直した。
「物語、ですか」
「ええ。勇者は勝つ。魔王は倒される。そう信じる声が、あの剣を支えている」
ゴウラが不快そうに牙を鳴らした。
「くだらん。槌で頭を砕けば終わる」
「王命だ。待て」
ガルムが言うと、ゴウラは鼻息を荒くしながらも踏み止まった。
王がまだ命じていない。
ならば、異種族の怒りは刃の鞘に収まる。
◇
カイトは後退した。
肩で息をしている。
聖剣はまだ光っていた。
だが、その光は最初ほど澄んでいない。
レイヴァルトは、まだ剣を抜いていなかった。
「ふざけるなよ」
カイトは呟いた。
「なんで倒れない。俺は聖剣に選ばれたんだぞ」
「選ばれたから勝つと思ったのか」
「勇者だからだ」
「その言葉に、何の重さがある」
カイトは叫んだ。
「人類の希望だ!」
「希望ではない」
レイヴァルトは一歩進んだ。
「罪人どもの飾りだ」
黒い影が地面を這う。
カイトの背後で、聖教会騎士団が聖句を叫んだ。
「惑わされるな、勇者様!」
「魔王は言葉で心を折る!」
「聖剣を信じよ!」
カイトは歯を食いしばった。
その声は必要だった。
自分が何のために立っているのかを、もう一度思い出させてくれる。
人類を守る。
魔王を倒す。
勇者は負けない。
けれど、その声の隙間に、別の言葉が入り込んでくる。
灰牙村。
獣人奴隷。
王火炉。
白杯の間。
父王殺し。
売買帳簿。
番号札。
知らなかった。
自分は知らなかった。
だから罪はないのか。
カイトは、その問いを振り払うように聖剣を掲げた。
「俺は知らなかった!」
叫びは、弁解に似ていた。
「知らないまま、ここに連れてこられた! 王も教会も貴族も、俺にそんなことは言わなかった! だったら、俺が背負うことじゃない!」
レイヴァルトは止まった。
「そうか」
その声音に、慰めはなかった。
「ならば、下がれ」
カイトは息を呑んだ。
「何?」
「知らずに掲げた旗だと言うなら、今すぐ捨てろ。聖剣を置き、王国旗と聖教会旗の前から退け」
平原が静まり返る。
人類軍の兵士たちが、カイトを見た。
聖教会騎士団の隊長が青ざめる。
「勇者様! 耳を貸してはなりません!」
レイヴァルトは続けた。
「それができないなら、お前は選んだことになる。知らなかった過去ではなく、知った後の今をな」
カイトの手が震えた。
聖剣が白く瞬く。
頭の奥で、声がする。
下がれば終わりだ。
勇者ではなくなる。
民衆の希望が折れる。
人類が恐怖に沈む。
魔王が王都へ進む。
それは本当に聖剣の声なのか。
それとも、自分が縋っている物語なのか。
カイトには分からない。
だが、ひとつだけ分かった。
ここで剣を置けば、自分は勇者ではなくなる。
「置けるわけないだろ」
カイトは低く言った。
レイヴァルトの目が冷える。
「ならば、無知は終わった」
その一言で、カイトの言い訳は断たれた。
カイトは聖剣を両手で握った。
「俺は人類を守る」
「父を殺した種をか」
「俺は殺してない!」
「その旗を掲げている」
「王都には、何も知らない人もいる!」
「灰牙村にもいた」
「子供もいる!」
「いた」
「未来がある!」
「奪われた」
短い応酬が、刃より深くカイトを削った。
カイトは叫び、白い光を爆発させた。
「それでも、俺は勇者だ!」
聖剣が大きく輝く。
白い翼のような光がカイトの背に広がった。
人類軍が歓声を取り戻す。
「勇者様!」
「神の翼だ!」
「魔王を討て!」
カイトは駆けた。
先ほどまでより速い。
聖剣の光が、平原の空を裂く。
それは一撃ではなかった。
幾十もの白い斬撃が重なり、レイヴァルトを囲むように降り注ぐ。
聖歌隊が支援の聖歌を上げる。
聖教会騎士団が盾を打ち鳴らす。
王国近衛が槍を掲げる。
勇者の一撃に、人類の祈りが重なる。
白矢平原は、再び聖戦開始の日のように白く染まった。
その中心で、レイヴァルトは静かに左手を上げた。
「黒天蓋」
低い声が落ちる。
黒が開いた。
空を覆うほどではない。
王都を守った時のような巨大な天蓋ではない。
ただ、レイヴァルトの周囲だけに、深い黒の半球が生まれた。
白い斬撃がそこへ降り注ぐ。
ひとつ、呑まれる。
ふたつ、消える。
三つ、音もなく黒に沈む。
聖歌隊の声が震えた。
カイトは黒い半球の前まで踏み込み、聖剣を振り下ろした。
今度こそ、全力だった。
「終われええええッ!」
聖剣が黒天蓋へ突き刺さる。
白い光が爆発した。
人類軍は勝利を確信しかけた。
だが、光の中で、レイヴァルトの声がした。
「軽い」
黒天蓋の表面に、黒い紋が浮かび上がった。
その紋は聖剣の光へ絡みつく。
白い輝きの中に、黒い線が走る。
カイトは目を見開いた。
「何を……!」
「お前の剣は、人類の物語でできている」
レイヴァルトは黒天蓋の内側から歩み出た。
「勇者は正しい。魔王は悪い。人類は守られるべきで、異種族は倒されるべきだ」
黒い線が聖剣の根元へ伸びる。
「だが、死者の名がない。焼かれた村の匂いがない。鎖の重さがない。番号札の冷たさがない」
聖剣の白い光が乱れた。
「だから軽い」
カイトは聖剣を引き戻そうとした。
動かない。
黒天蓋の紋が、刃を掴んでいた。
レイヴァルトはさらに一歩近づく。
「勇者カイト」
名を呼ばれ、カイトの背筋が凍る。
「お前は前世の記憶を持っているな」
カイトの顔から血の気が引いた。
「な、何を……」
「白い天井。光る板。画面の中の魔王。倒せば終わる敵。救われる世界」
カイトの呼吸が乱れる。
「お前も……?」
「俺も夢は見る」
レイヴァルトの目に、何の揺れもなかった。
「父も見ていた」
その言葉に、カイトは混乱した。
「父……?」
「慈悲王アルヴァーンも、前世では人間だった」
平原に、異様な沈黙が落ちた。
人類軍は意味を理解できなかった。
聖教会騎士団は、理解することを拒んだ。
レイヴァルトは続ける。
「だから父は人類を滅ぼせなかった。人間だった記憶に縛られた。人類に最後の機会を与えた」
カイトはかすれた声で言った。
「なら……なら、やっぱり分かるだろ。人間を滅ぼすべきじゃないって」
レイヴァルトの目が、冷たく沈んだ。
「人類はその父を殺した」
カイトの言葉が止まる。
「前世で人間だった王が、最後に差し出した慈悲の席で、人類は刃を抜いた」
黒天蓋の紋がさらに濃くなる。
「それが答えだ」
カイトは首を振った。
「でも、それは俺じゃない」
「今、お前はその旗を守っている」
「俺は……」
「知った後で、選んだ」
その言葉が、カイトの胸を貫いた。
聖剣の光が揺らぐ。
背後から聖教会騎士団が叫んだ。
「勇者様! 魔王の戯言です!」
「前世など悪魔の幻!」
「聖剣を信じてください!」
カイトは振り返りかけた。
その瞬間、レイヴァルトが掌を握った。
黒天蓋の紋が聖剣を締め上げる。
白い刃に、黒い亀裂が走った。
カイトは叫んだ。
「やめろ!」
「勇者は勝つのだったな」
レイヴァルトは冷たく言う。
「見せてみろ」
聖剣が軋む。
カイトは全身の力を込めた。
白い光が膨れ上がる。
だが、黒い亀裂は止まらない。
一本。
二本。
三本。
聖剣の光が、人類軍の歓声とともに震える。
そして。
白い刃が、中央から折れた。
音は高く、澄んでいた。
まるで鐘のようだった。
折れた聖剣の先端が、白矢平原の土に突き刺さる。
光が消えた。
聖歌隊の声が止まった。
人類軍の歓声も消えた。
残ったのは、風の音だけだった。
◇
カイトは膝をついた。
手には、折れた聖剣の柄だけが残っている。
彼は呆然とそれを見ていた。
勇者の証。
神に選ばれた証。
人類の希望。
それが、折れていた。
「嘘だ」
カイトは呟いた。
「勇者は……負けないはずだ」
レイヴァルトは彼の前に立った。
「それは物語だ」
カイトは顔を上げる。
「ここは現実だ」
レイヴァルトは言った。
「死者は戻らない。焼けた村は、勇者の勝利演出で直らない。番号で呼ばれた子供は、物語の都合で名前を取り戻したりしない」
カイトは何も言えなかった。
聖教会騎士団の隊長が叫ぶ。
「勇者様を守れ!」
騎士団が動き出す。
その瞬間、レイヴァルトは振り返りもせずに左手を振った。
黒い影が地面から立ち上がる。
騎士団の足元に黒天蓋の紋が開き、彼らの膝を地面へ縫い止めた。
「まだ命じていない」
その一言で、騎士たちは動けなくなった。
王国近衛が槍を構える。
貴族私兵が後ずさる。
聖歌隊は歌おうとして、声を出せなかった。
勇者の聖剣が折れた。
その事実だけで、彼らの喉は塞がっていた。
カイトは震える声で言った。
「殺すのか」
レイヴァルトは見下ろした。
「今は殺さない」
カイトの目に、かすかな安堵が浮かぶ。
次の言葉で、それは凍った。
「お前には、人類の希望が折れた姿として膝をついてもらう」
「……何だよ、それ」
「お前が旗なら、倒れた旗にも役目がある」
レイヴァルトはカイトの額へ指を向けた。
黒天蓋の紋が、空中に浮かぶ。
「逃げるな。嘘をつくな。自分が何を知らず、何を知った後で選んだか、忘れるな」
紋がカイトの胸へ沈んだ。
カイトは苦悶の声を漏らし、折れた聖剣の柄を取り落とした。
レイヴァルトは人類軍へ向き直る。
平原全体が、彼の声を聞いた。
「これが、お前たちの勇者だ」
誰も答えなかった。
「人類の希望は、折れた」
人類軍の兵士たちは、ようやく理解し始めた。
勇者が勝つ物語は、ここにはない。
あるのは、黒い王が王都へ進む現実だけだった。
貴族私兵の一部が後退を始めた。
それを見た吸血種の影が、静かに動く。
エルミアはすでに紋章を記録していた。
ガルムが低く問う。
「王よ。追うか」
「まだだ」
レイヴァルトは答えた。
「逃げる者は記録しろ。王都へ恐怖を持ち帰らせる」
ボルガンが槌を担いだ。
「聖剣の欠片はどうする」
「拾え。聖教会の大聖堂前で砕く」
リュシエラが静かに呟いた。
「白い火の名が、消えました」
「まだ消えていない」
レイヴァルトは、膝をついたカイトを見た。
「王都がそれに縋る限り、利用する」
カイトはうつむいたまま、何も言えなかった。
自分は勇者だった。
そのはずだった。
だが、聖剣は折れた。
魔王は倒れなかった。
そして今、自分の背後にいる人類軍は、自分を見て震えている。
希望としてではない。
敗北の証として。
◇
白矢平原の人類軍は、崩れ始めた。
総崩れではない。
まだ王国近衛が隊列を維持し、聖教会騎士団も屈辱に震えながら盾を並べている。
だが、中心は折れていた。
勇者が膝をついた。
聖剣が折れた。
それだけで、人類軍の中から戦う理由が抜け落ちていた。
「退け!」
王国近衛の指揮官が叫ぶ。
「勇者様をお守りしながら後退する!」
しかし、カイトは動けなかった。
黒天蓋の紋が胸に刻まれている。
彼は逃げられない。
嘘もつけない。
自分の敗北を、隠すこともできない。
聖教会騎士団の隊長は、震える声で叫んだ。
「勇者様は敗れていない! これは一時撤退だ! 神の試練だ!」
だが、その声に応える者は少なかった。
兵士たちの目は、折れた聖剣へ向いていた。
信じていた光は、もう平原を照らしていない。
レイヴァルトは右手を上げた。
異種族連合軍に緊張が走る。
だが、彼の命令は突撃ではなかった。
「隊列を進めろ。逃げる者の道を一つだけ残せ」
ゴウラが唸る。
「砕かぬのですか」
「王都へ帰す」
レイヴァルトの目は、人類軍の背後にある王都の方角を見ていた。
「勇者が敗れたと、王都へ伝えさせる」
ガルムは牙を見せた。
「恐怖を運ばせるのか」
「そうだ」
「殺すより残酷だな」
レイヴァルトは答えなかった。
否定もしなかった。
人類軍は後退を始めた。
整然とはしていない。
盾を落とす者がいる。
祈りを忘れる司祭がいる。
家名の旗を捨てる貴族私兵がいる。
吸血種はそのすべてを記録していた。
誰が逃げたか。
誰が勇者を置き去りにしようとしたか。
誰が自分の紋章を隠したか。
それらの名は、王都陥落の日に使われる。
◇
その夜、最初の伝令が人類王都アルディナへ戻った。
彼は馬から転げ落ちるようにして王都外門へ駆け込んだ。
門兵が肩を掴む。
「何があった!」
伝令は唇を震わせた。
「勇者様が……」
「勇者様が勝ったのか!」
伝令は首を振った。
その顔は、死者よりも白かった。
「聖剣が、折れた」
門兵の手から槍が滑り落ちた。
「勇者様が、膝を……魔王の子の前で……」
その言葉は、夜の王都へ広がっていった。
広場へ。
兵舎へ。
貴族街へ。
大聖堂へ。
王城へ。
勇者敗北。
その報せは、どの火よりも速く王都を焼き始めた。
人類王都アルディナは、まだ落ちていない。
だが、希望の柱は折れた。
そしてその翌朝、王都の外縁から黒い旗が見え始める。
人類が魔王と呼んだ王は、もう門の外まで来ていた。




