第43話「白き勇者と黒き王」
白矢平原は、かつて白い旗で埋め尽くされた場所だった。
人類王国が異種族領への聖戦開始を宣言した日、王国軍はこの平原に集まり、聖教会は兵士たちの槍に祝福を与えた。
貴族たちは壇上から演説し、異種族の土地を神の秩序へ戻すのだと叫んだ。
その日、平原に並んでいた旗は白かった。
だが今、西の地平から現れた旗は黒い。
異種族連合軍。
狼族の斥候が低く身を沈め、鬼族の巨体が攻城槌を支え、ドワーフの装甲車が地面を軋ませる。
妖精族の燐光は夕闇に紛れ、翼人族は雲より低い空を滑り、吸血種の姿はどこにも見えない。
その中央に、黒い王が立っていた。
レイヴァルト。
慈悲王アルヴァーンの遺児。
異種族連合の新王。
人類にとっての魔王。
彼は叫ばなかった。
剣も抜かなかった。
ただ、白矢平原の東側に並ぶ人類軍を見ていた。
王国旗。
聖教会旗。
貴族の紋章。
白銀の鎧を着た青年。
その手に握られた聖剣。
人類は、まだ白を掲げていた。
父王を殺したときと同じ色だった。
◇
勇者カイト・レオンハートは、聖剣を握り直した。
目の前にいる黒衣の王は、彼が想像していた魔王とは違っていた。
もっと醜い化け物だと思っていた。
角があり、牙があり、炎を吐き、狂ったように笑う存在だと思っていた。
だが、レイヴァルトは静かだった。
その静けさが、逆に気味悪かった。
カイトの背後では、聖教会騎士団が盾を構えている。
聖歌隊は震える声で聖歌を唱え、王国近衛は槍を並べ、貴族私兵は自分の家の紋章を高く掲げていた。
彼らの視線が、カイトの背に集まっている。
勇者。
人類の希望。
その名が、彼を支えていた。
「お前がレイヴァルトか」
カイトは声を張った。
沈黙した平原に、その声が響く。
「魔王アルヴァーンの息子。異種族を率いて、人類王都を襲おうとしている災厄」
レイヴァルトは答えなかった。
ただ、カイトを見ていた。
カイトはその沈黙に苛立った。
「何とか言えよ。お前が魔王の息子なら、俺は勇者だ。人類を守るためにここへ来た」
レイヴァルトの目が、ようやくわずかに動いた。
「人類を守る」
短く、冷たい声だった。
カイトは頷いた。
「そうだ。お前たちは王都へ攻めている。聖堂を沈黙させ、鉱山都市を奪い、収容施設を壊し、街道を荒らした。これ以上、人を苦しめるなら、俺が止める」
その言葉に、異種族側の軍列から低い唸りが漏れた。
狼族が牙を剥いた。
鬼族が槌を握った。
ドワーフの兵たちは、鉄の面の奥で息を荒くした。
しかし、誰も動かなかった。
王命があったからだ。
レイヴァルトが右手をわずかに上げるだけで、異種族の殺気は押し留められた。
彼は勇者を見たまま言った。
「収容施設か」
「ああ」
「檻のことを、そう呼ぶのか」
カイトは眉を寄せた。
「檻?」
「赤鷹街道の獣人奴隷収容地。番号で呼ばれ、首輪を付けられ、売買帳簿に記された民の檻だ」
カイトの背後で、何人かの兵士が視線を逸らした。
聖教会騎士団の隊長が声を上げる。
「勇者様、耳を貸してはなりません! 魔族は言葉で人を惑わします!」
カイトは少しだけ振り返った。
その反応を見て、レイヴァルトは続けた。
「グラド=ヴォルグを知っているか」
「鉱山都市だろ。異種族が奪い返したって聞いた」
「奪い返した」
レイヴァルトの声は変わらない。
「人類が奪ったものを、俺たちが取り戻した。王火炉を神火炉と呼び変え、ドワーフに番号を付け、徒弟を鎖に繋ぎ、聖別砲を作らせた場所だ」
ドワーフの軍列から、重い槌音がひとつ鳴った。
ボルガンが地面に槌を置いた音だった。
カイトは唇を結んだ。
「……戦争なら、そういうこともある」
平原の空気が凍った。
レイヴァルトの目が、わずかに細くなる。
「そういうこと」
その声に怒号はない。
だが、人類側の前列にいた兵士たちは、理由も分からず背筋を震わせた。
「灰牙村を焼いたこともか」
「俺は知らない」
「知らなければ、焼いていいのか」
「そうは言ってない!」
カイトは聖剣を握りしめた。
「俺は、今ここで王都を守るために立ってる。過去に何があったとしても、人類を滅ぼす理由にはならないだろ!」
その言葉に、聖教会騎士団が安堵したように声を上げた。
「その通りです、勇者様!」
「人類を滅ぼすなど悪魔の所業!」
「神は勇者様と共にある!」
勇者軍の士気が少し戻る。
人は分かりやすい言葉に縋る。
過去が複雑であればあるほど、単純な正義を欲しがる。
カイトはその声を背に受け、勇気を取り戻した。
「どんな理由があっても、種族ごと滅ぼすなんて間違ってる。復讐は何も生まない。憎しみを広げれば、お前たちも人間と同じになるだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、レイヴァルトの奥で、遠い夢のような記憶が揺れた。
白い天井。
光る板。
画面の中で流れる言葉。
復讐は虚しい。
憎しみは何も生まない。
許すことが未来を作る。
前世のどこかで、何度も聞いた言葉だった。
父王アルヴァーンもまた、そのような声を知っていたのだろう。
人間だった記憶。
人間を滅ぼしきれなかった弱さ。
それを、慈悲という形に変えた王。
レイヴァルトは父を軽蔑しない。
だが、選ばない。
「同じにはならない」
レイヴァルトは言った。
カイトが眉を上げる。
「何?」
「人類は奪った。焼いた。縛った。名を消した。神の名で侵略し、王の法で売買し、貴族の印で利益を分けた」
レイヴァルトの影が足元から広がった。
「俺は記録している。死者の名を。売った者の名を。命じた者の名を。祈った者の名を。笑って買った者の名を」
エルミアが軍列の後方で黒い帳簿を開いた。
吸血種たちが、捕らえた文書の写しを掲げる。
そこには貴族の印章があった。
聖教会の署名があった。
奴隷商の帳簿があった。
鉱山技師の図面があった。
聖別砲の鋳型記録があった。
人類軍の前列がざわめいた。
「偽造だ!」
貴族私兵の指揮官が叫んだ。
「魔族の作った偽物だ!」
レイヴァルトはそちらを見た。
「その紋章」
指揮官の顔が強張った。
「赤鷹第二収容地の買い手名簿にあった」
「違う!」
「狼族の子を三名。翼人族の羽根を二束。ドワーフ徒弟を一名。代金は銀貨四百三十二枚」
指揮官の唇が震えた。
「違う、私は……家の者が……」
ガルムが一歩前へ出かけた。
だが、レイヴァルトの影が狼族の足元に触れた。
ガルムは牙を剥いたまま、止まった。
「まだだ」
レイヴァルトは言った。
「奴はまだ名を吐く」
カイトは混乱していた。
目の前の黒い王は、ただの魔王らしくなかった。
嘘で煽るだけなら分かりやすい。
だが、彼は帳簿を出した。
名を出した。
印章を出した。
そして、人類側の兵士たちが、完全には否定できない顔をしていた。
「待てよ」
カイトは言った。
「俺はそんな話、聞いてない」
「聞かされなかったのだろう」
レイヴァルトは淡々と言った。
「お前は旗だからな」
「旗?」
「罪を隠すために掲げられた布だ」
カイトの顔が赤くなった。
「俺は人類を守る勇者だ!」
「違う」
レイヴァルトは一歩だけ前へ出た。
異種族の軍列が、王の動きに合わせて静かに沈む。
「お前は勇者ではない。父を殺し、民を焼いた侵略者どもの旗印だ」
その言葉は、平原を斬った。
聖教会騎士団が一斉に怒号を上げる。
「冒涜だ!」
「勇者様を侮辱するな!」
「魔王の子を討て!」
カイトも聖剣を構えた。
「俺が何も知らなかったとしても、今ここで人類を守ることは間違いじゃない!」
「人類だけをか」
「何?」
「俺の民は、お前にとって守る対象ではないのか」
カイトは答えに詰まった。
異種族。
獣人。
妖精。
ドワーフ。
鬼。
吸血種。
翼人。
海魔族。
竜人族。
彼にとってそれらは、最初から人類の外側にあった。
ゲームの敵。
魔王軍。
討伐対象。
倒せば経験値が入り、進めば物語が進む存在。
その考えがどこから来たのか、カイトには分からない。
だが、ずっと自然にそう思っていた。
「異種族は……人類を襲っている」
「人類が先に襲った」
「それでも、王都には子供もいる。何も知らない人もいる」
「灰牙村にも子供はいた」
カイトの言葉が止まった。
レイヴァルトはさらに続けた。
「グラド=ヴォルグには徒弟がいた。セラフィム・ロンドの森には、泉の名を覚えた妖精がいた。翼人族の空中都市には、まだ飛び方を覚えたばかりの子がいた。港には海魔族の幼子が網にかかった」
ひとつひとつの言葉に、異種族側の空気が重くなる。
それは怒りだった。
だが、無秩序な怒りではない。
王の言葉によって、刃の形に整えられた憎悪だった。
「お前は言う。人類にも民がいると」
レイヴァルトは冷たく告げる。
「俺の父も、民を見捨てるなと言った」
その言葉に、カイトの目がわずかに揺れた。
「なら、どうして……」
「だから滅ぼす」
レイヴァルトは即答した。
「俺の民を焼く国を残して、民を守ったとは言わない」
カイトは息を呑んだ。
その論理は、彼の知る勇者の物語とは違っていた。
魔王は悪だから倒す。
人類は守るべきものだから守る。
そこに迷いはないはずだった。
だが、目の前の魔王は、自分の民を守る王として立っていた。
それでも。
それでも、カイトは退けなかった。
背後にいる兵士たちが、自分を見ている。
民衆が自分に希望を託した。
聖剣が自分を選んだ。
勇者は、ここで迷ってはいけない。
「お前の言っていることが本当だとしても」
カイトは言った。
「全部を殺す必要はないはずだ。悪い奴だけ裁けばいい。王も教会も貴族も、話し合えば変えられる。人類そのものを滅ぼすなんて、やっぱり間違ってる」
レイヴァルトは、ほんのわずかに目を伏せた。
それは迷いではない。
失望ですらない。
確認だった。
「人類は、白杯の間で最後の機会を捨てた」
「白杯の間?」
「父王アルヴァーンが、人類へ差し出した最後の席だ。和平の席。人類はそこへ聖印を仕込み、父を魔王と呼び、神の名で殺した」
カイトは司祭たちを見た。
聖教会騎士団の隊長は叫ぶ。
「魔王討伐は正義です! 慈悲王など異種族どもの戯言!」
その声を聞いた瞬間、レイヴァルトの影がさらに濃くなった。
「そうだ」
彼は言った。
「お前たちは、今もそう言う」
カイトは焦りを覚えた。
「待て。俺はその場にいなかった。俺は父親を殺してない」
「だが、その旗を掲げている」
「俺は人類を守るために!」
「父を殺した旗だ」
レイヴァルトの声が、初めて平原全体へ明確に響いた。
「灰牙村を焼いた旗だ。森を焼いた旗だ。王火炉を穢した旗だ。翼を折り、海を封じ、角を砕き、血を銀杭で焼いた旗だ」
黒天蓋の紋が、レイヴァルトの背後に浮かび上がる。
「お前が何を知らなかったかは関係ない。今、お前はそれを守るために立っている」
カイトの手に汗が滲んだ。
聖剣の光が強くなる。
まるで、持ち主の迷いを白で塗り潰すように。
頭の奥で、何かが囁いた。
魔王の言葉に惑わされるな。
勇者は勝つ。
勇者は正しい。
人類を守れ。
魔王を倒せば、すべて解決する。
それは聖剣の声なのか。
前世の物語の記憶なのか。
聖教会の祝福が作った暗示なのか。
カイトには分からなかった。
だが、その声は心地よかった。
迷わなくてよくなるからだ。
「俺は勇者だ」
カイトは低く言った。
顔を上げる。
「魔王の言葉で迷ったりしない」
レイヴァルトは静かに見ていた。
カイトは聖剣を掲げる。
「俺は人類を守る。お前がどれだけ理由を並べても、人類を滅ぼそうとするなら敵だ」
聖剣の光が白矢平原を照らした。
人類軍が歓声を上げる。
「勇者様!」
「魔王を討て!」
「神の剣に栄光を!」
カイトはその声を背負った。
そして、レイヴァルトへ剣先を向けた。
「レイヴァルト。お前はここで止める」
レイヴァルトは、かすかに口元を歪めた。
笑みと呼ぶには冷たすぎるものだった。
「やはり旗だな」
「何?」
「中身が空でも、風を受ければ立つ」
カイトの顔が怒りで歪む。
レイヴァルトは右手を上げた。
異種族連合軍が静かに後退し、王の前に広い空間を作る。
ガルムが唸る。
「王よ」
「手を出すな」
ボルガンが低く言う。
「聖剣は聖別砲とは違う。構造が読めん」
「見ていろ」
リュシエラは弱い羽の光を揺らしながら、聖剣を見つめた。
「白い火に似ています。でも、もっと古い」
「なら、折れば分かる」
レイヴァルトはそう言って、勇者へ歩き出した。
カイトも馬を降りた。
聖教会騎士団が前へ出ようとする。
「勇者様、我らも――」
「下がってろ」
カイトは言った。
「魔王は勇者が倒す」
その言葉に、人類軍は歓声を上げた。
物語が始まると信じていた。
勇者が魔王を倒す、分かりやすい物語が。
だが、異種族側は違った。
彼らは知っている。
これは物語ではない。
これは死者の名を背負った裁きだ。
白矢平原の中央で、黒い王と白い勇者が向き合った。
カイトは剣を構える。
「最後に聞く。人類への進軍を止めろ」
レイヴァルトは答えた。
「断る」
「なら、戦うしかない」
「最初からそうだ」
風が止まった。
次の瞬間、カイトが踏み込んだ。
聖剣の光が白い線となって平原を裂く。
人類軍が歓声を上げる。
異種族軍は沈黙する。
レイヴァルトは避けなかった。
ただ、右手を上げた。
黒天蓋の紋が、その掌に開く。
白い聖剣と黒い王の影が、白矢平原の中央で初めて衝突した。
轟音が、かつて聖戦開始を告げた平原に響き渡った。
勇者と魔王。
人類の希望と、異種族の王。
その戦いが、始まった。




