第42話「勇者の出陣」
人類王都アルディナの朝は、鐘の音で始まった。
それは普段の礼拝を告げる鐘ではなかった。
王城の塔。
大聖堂の鐘楼。
貴族街の小礼拝堂。
外縁区の見張り塔。
王都中の鐘が、同時に鳴らされていた。
重なり合う鐘の音は、民衆に勝利を告げるためのものだった。
広場には王国兵が並び、聖教会の白衣をまとった司祭たちが立っていた。
演壇には、王国と聖教会の紋章が並べて掲げられている。
その下に集まった民衆は、不安げに空を見上げていた。
南方巡礼都市セラフィム・ロンドから帰った巡礼者が、祈れなくなった聖堂の話をしていた。
西方鉱山都市グラド=ヴォルグから鉄が届かなくなっていた。
赤鷹街道の奴隷商が姿を消していた。
白冠砦から戻った兵士は、夜になると「黒い王が来る」と叫んで縛られていた。
誰もが何かがおかしいと感じていた。
だが、王国は敗北を認めなかった。
聖教会も、沈黙を認めなかった。
演壇に立った枢機卿が、両腕を広げた。
「恐れる必要はない」
その声は、広場の隅まで響くよう魔術で増幅されていた。
「異種族の残党が、辺境で一時的な混乱を起こしている。だが、それは神の秩序を揺るがすものではない。魔王はすでに討たれた。魔王の子も、所詮は闇に縋る亡霊にすぎぬ」
民衆のざわめきは消えなかった。
枢機卿は、それを見下ろして言葉を続けた。
「しかし、神は我らを見捨ててはいない」
大聖堂の扉が開いた。
白い光が広場へ流れ込む。
その中央から、ひとりの青年が歩いてきた。
白銀の鎧。
聖教会の祝福布。
まだ刃こぼれひとつない剣。
背には、王国旗と聖教会旗を重ねた白い外套。
青年が一歩進むたび、司祭たちは膝をついた。
民衆の中から、誰かが息を呑んだ。
「勇者様……」
その声が広場に広がった。
「勇者様だ」
「聖剣に選ばれたのか」
「なら、助かるのか」
「魔王の子を倒してくださるのか」
不安が、熱に変わっていく。
枢機卿は満足げに頷いた。
「ここに、神に選ばれし勇者を示す」
青年は演壇へ上がった。
名はカイト・レオンハート。
この世界の貴族名としては少し異質だったが、誰もそれを咎めなかった。
聖剣が反応した。
それだけで十分だった。
カイトは民衆を見下ろした。
泣きそうな子供。
祈る老婆。
不安を隠せない商人。
槍を握る若い兵士。
彼らの視線が、自分に集まっている。
その瞬間、胸の奥に熱が生まれた。
これだ、と彼は思った。
選ばれた者だけが浴びる光。
誰もが助けを求め、誰もが自分を信じる瞬間。
どこかで見たことがあるような光景だった。
魔王が攻めてくる。
勇者が立ち上がる。
聖剣を手に、仲間とともに世界を救う。
そういう物語を、彼は知っている。
いつ、どこで知ったのかは、はっきりしない。
白い天井。
小さな光る板。
画面の向こうで倒れていく魔物。
数字で示される強さ。
選択肢。
勝利演出。
それらは夢のように曖昧だった。
だが、彼の中には確信があった。
魔王は倒されるものだ。
勇者は勝つものだ。
カイトは聖剣を抜いた。
白い光が広場に広がる。
民衆が歓声を上げた。
「俺が行く」
カイトは声を張った。
「魔王の息子が王都へ来るなら、俺が止める。異種族の軍が人類を脅かすなら、俺が討つ。だから、安心してくれ」
歓声がさらに大きくなった。
誰も、赤鷹街道の檻を思い出さなかった。
誰も、グラド=ヴォルグで番号を付けられた徒弟たちを思い出さなかった。
誰も、焼かれた森の泉に浮かんだ灰を思い出さなかった。
勇者の光は、都合の悪いものを隠すには十分すぎるほど眩しかった。
◇
王城の高窓から、アレクシオス三世は広場を見下ろしていた。
民衆は勇者の名を叫んでいる。
王の名ではなかった。
その事実が、王の胸に小さな棘を刺した。
「熱狂しすぎている」
王は低く言った。
傍らに控える軍務卿が頭を下げる。
「しかし陛下、今は必要な熱です。王都の不安を抑えるには、勇者の存在が最も効果的です」
「知っている」
アレクシオスは吐き捨てるように言った。
「だから許している」
彼は勇者を嫌っていた。
勇者は便利だ。
民を安心させる。
兵の士気を上げる。
教会の宣伝にも使える。
魔王という言葉と並べれば、誰もが分かりやすい物語を信じる。
だが、勇者は王権の外に立つ。
王が命じるから剣を取るのではない。
神に選ばれたから剣を取る。
それは王にとって、利用できる脅威だった。
「勇者を前線に出せ」
王は言った。
「王都内に置きすぎるな。民の熱が勇者へ集まりすぎる」
「はっ」
「ただし、死なせるな。勇者が死ねば、王都の心が折れる」
軍務卿は一瞬だけ言葉に詰まった。
「では、どこまで出しますか」
「外縁防衛線だ。聖教会騎士団、王国近衛の一部、貴族私兵を付けろ。見栄えのいい軍勢にしろ。勝たせる必要はない。まずは民に、王国は戦えると見せる」
「異種族連合軍との接触は避けますか」
王は報告書へ目を落とした。
黒曜王都。
セラフィム・ロンド。
グラド=ヴォルグ。
白冠砦。
そこに書かれた敗北の名を、彼は声に出さなかった。
「避けられるなら避けろ。だが、逃げたと思われるな」
「承知しました」
軍務卿が退出した後、王は窓の外を見た。
広場ではまだ勇者の名が叫ばれている。
アレクシオスは歯を噛みしめた。
「魔王の子め」
それは怒りではなく、恐怖を押し殺すための声だった。
◇
貴族院では、別の意味で勇者の名が飛び交っていた。
「勇者が出るなら、我が家の私兵を同行させるべきだ」
「功績が要る。王都防衛後の発言権が変わる」
「いや、危険すぎる。異種族どもが本当に進軍しているなら、外縁は危うい」
「だからこそ、名だけ出せばよい。実兵は後方に置く」
「聖教会に恩を売る機会でもある」
誰も、前線で死ぬ兵の数を話さなかった。
彼らが気にしているのは、勇者の勝利にどの家名を添えるかだった。
あるいは、万一敗北した時にどの責任を誰へ押しつけるかだった。
その会議室の隅で、ひとりの老貴族が白くなった指で書類を握っていた。
そこには、グラド=ヴォルグから失われた輸送記録の写しがあった。
王火炉を神火炉と呼ばせる計画書に、彼の家名が記されている。
別の貴族は、赤鷹街道の奴隷売買帳簿に自分の紋章が載っていることを知っていた。
また別の者は、聖具区画に納められた翼人族の羽根を、自邸礼拝堂の飾りに使っていた。
彼らは勇者の勝利を祈っていた。
信仰のためではない。
自分の名が、黒い王の前で読み上げられないためだった。
◇
大聖堂の奥では、カイトが聖教会の司祭たちに囲まれていた。
鎧の調整。
祝福の重ね掛け。
聖剣の扱い。
魔王の子についての説明。
司祭のひとりが巻物を広げる。
「敵は慈悲王アルヴァーンの遺児、レイヴァルト。父王の死後、長く封印されていた存在です」
「封印されてた魔王の息子か」
カイトは軽く言った。
「分かりやすいな」
司祭は一瞬だけ目を伏せた。
正確には、封印ではない。
眠りだった。
そして、その眠りを破ったのは、王都包囲軍の失敗だった。
だが、そんな事実を勇者に教える必要はない。
「異種族は凶暴です。彼らは人類を憎み、王都へ進軍しています」
「まあ、魔王軍だしな」
カイトは頷いた。
「話は通じない感じか」
「通じません」
司祭は即答した。
「彼らは人類の領土を襲い、聖堂を沈黙させ、鉱山都市を奪い、収容施設を破壊しました」
そこに至るまで人類が何をしたかは、語られなかった。
カイトも問わなかった。
問う必要を感じなかった。
ゲームでも物語でも、魔王軍の拠点を攻める時に、魔物側の事情を細かく考えたりはしない。
人を襲う魔物は敵。
敵なら倒す。
それだけで分かりやすい。
「それで、俺がそいつを倒せばいいんだな」
「はい。勇者様こそ、人類の希望です」
人類の希望。
その響きは、カイトの心を強く撫でた。
彼は聖剣を見下ろした。
剣は白く光っている。
選ばれた。
自分は、選ばれている。
「任せろ」
カイトは笑った。
「魔王の息子だろうが何だろうが、勇者が負けるわけない」
◇
白冠砦から王都へ向かう街道では、別の軍列が進んでいた。
聖教会騎士団。
王国近衛の一部。
貴族私兵。
聖歌隊。
予備兵。
荷馬車に積まれた聖杭、聖水、結界布、簡易礼拝台。
その中央を、勇者カイトが馬に乗って進む。
沿道の村々では、民が膝をついて見送った。
「勇者様が出られた」
「これで魔王の子も終わりだ」
「王都は守られる」
彼らは安心したがっていた。
だから、安心できる言葉だけを信じた。
軍列の後方では、兵士たちが小声で話している。
「本当に勝てるのか」
「聖剣がある」
「黒曜王都包囲軍も聖別砲を持っていた」
「黙れ」
「でも、白冠砦の連中は……」
「黙れと言っている」
恐怖は消えていなかった。
ただ、勇者の光の下に押し込められているだけだった。
カイトはそのざわめきを聞いていたが、深刻には受け止めなかった。
初戦前の味方が不安になるのは当然だ。
だから勇者が前に立つ。
そういう役割だ。
「大丈夫だ」
彼は振り返り、兵士たちに笑った。
「俺がいる」
その言葉で、若い兵士たちの顔に少しだけ血の気が戻った。
勇者はそれを見て満足した。
◇
同じ頃、異種族連合軍は王都へ至る西南街道を進んでいた。
人類側の村や小砦は、すでに動揺している。
だが、レイヴァルトは無差別に焼く命令を出していなかった。
逃げる者は追わせる。
武器を取る者は叩き伏せる。
隠された帳簿は奪う。
聖印のある礼拝所は封じる。
奴隷檻があれば砕く。
関与者は記録する。
殺す順序さえ、王命で決められていた。
それは慈悲ではない。
国家を壊すための手順だった。
レイヴァルトは黒い馬車の中で、エルミアから報告を受けていた。
「王都から軍が出ました。旗印は聖教会騎士団、王国近衛、貴族私兵。中央に白銀の鎧を着た青年」
「勇者か」
「そのように宣伝されています」
レイヴァルトは窓の外を見た。
遠く、翼人族の斥候が空を旋回している。
さらに先では、妖精族が進軍路沿いの礼拝所を眠らせている。
狼族は森の影を走り、吸血種はすでに敵軍の後方へ回っていた。
「人類は旗を立てたか」
レイヴァルトの声に感情はなかった。
「希望の旗だと、彼らは言っています」
「違う」
彼は静かに言った。
「罪を隠す布だ」
エルミアは頭を下げた。
「捕らえますか」
「まだだ」
レイヴァルトは短く答えた。
「勇者は人類の象徴だ。王都の前で折る」
「白矢平原まで誘導しますか」
「そうしろ。狼族は噛みつくな。鬼族も待機。竜人族はまだ出すな」
「御意」
レイヴァルトは手元の地図へ指を置いた。
人類勇者軍と異種族連合軍の進路が、ひとつの平原へ向かって近づいていた。
名を、白矢平原という。
かつて人類王国が、異種族領への聖戦開始を宣言した場所だった。
王国軍が旗を掲げ、聖教会が祝福し、貴族たちが侵略を戦功と呼んだ場所。
その同じ平原で、今度は人類の旗印が異種族の王と向き合う。
レイヴァルトの唇が、わずかに歪んだ。
笑みと呼ぶには冷たすぎるものだった。
「ちょうどいい」
彼は言った。
「人類が始めた場所で、人類の勇者を迎える」
◇
夕暮れ。
白矢平原の東に、勇者軍が布陣した。
白い旗が並び、聖歌隊が震える声で歌い、聖教会騎士団が盾を構える。
中央で、カイトは聖剣を抜いた。
平原の西には、黒い軍勢が現れ始めていた。
獣人の影。
鬼族の巨体。
ドワーフの攻城車。
妖精の淡い燐光。
翼人族の影が空をよぎり、吸血種の気配がどこにも見えないのに背筋を冷やす。
そして、その中央。
黒い馬車が止まった。
扉が開く。
レイヴァルトが降り立った。
風が止まった。
勇者カイトは、初めて魔王の子を見た。
思っていたよりも、静かだった。
咆哮もない。
狂笑もない。
醜い魔物の姿でもない。
黒い王衣をまとい、ただ冷たくこちらを見ている。
カイトは聖剣を握り直した。
「お前が、魔王の息子か」
その声は平原に響いた。
レイヴァルトは答えなかった。
ただ、勇者の背後に並ぶ旗を見た。
王国旗。
聖教会旗。
貴族の紋章。
聖戦の白。
父を殺した者たちが掲げた色。
民を焼いた者たちが掲げた名。
罪を覆うための布。
やがて、レイヴァルトは短く言った。
「来たか」
その声音に、歓迎はなかった。
勇者は人類の希望として出陣した。
そして今、希望は黒い王の前に立った。
次に交わされる言葉が、戦いの始まりになる。




