第41話「黒き進軍」
黒曜王都ヴァルドレインの空は、夜明け前から黒かった。
雲が厚いわけではない。
城壁の上に掲げられた旗が、風を受けて重く揺れていたのだ。
狼族の裂牙旗。
妖精族の緑燐旗。
ドワーフの炉槌旗。
竜人族の黒翼旗。
翼人族、吸血種、鬼族、海魔族。
かつて防衛のために掲げられていたそれらの旗は、今、進軍のために並んでいた。
黒曜宮の大広間には、各種族の長と将が集まっていた。
床には、王国軍から押収した地図が広げられている。
赤鷹街道。
南方巡礼都市セラフィム・ロンド。
西方鉱山都市グラド=ヴォルグ。
白冠砦。
そして、そのすべての道が最後に集まる場所。
人類王都、アルディナ。
地図の中心に刻まれたその名を、誰も軽く呼ばなかった。
そこは人類王国の中枢だった。
聖教会の大聖堂があり、王族の宮殿があり、貴族院があり、軍部の総司令部がある。
異種族領から奪われた金、鉱石、羽根、奴隷、聖具、兵器が集まる場所でもあった。
そこを砕けば、人類王国は国家としての背骨を失う。
レイヴァルトは玉座に座っていた。
その足元には、かつて彼を包んでいた黒い繭の残骸が保存されている。
眠りの証。
守れなかった証。
そして、もう二度と眠らない証。
エルミアが片袖を揺らしながら、静かに報告した。
「赤鷹街道から押収した帳簿、グラド=ヴォルグの鉱脈図、聖別砲弾鋳型図、セラフィム・ロンド沈黙後の聖教会通信。すべて照合しました」
彼女の前には、人類側の印章が押された書類が積まれていた。
「王都アルディナには、奴隷売買、鉱山支配、聖火供給、聖別砲の発注、羽根の献納、港湾封鎖に関わった貴族と司祭が集まっています。別々の罪ではありません。すべて、王都に繋がっています」
ガルムが低く唸った。
重傷は癒えきっていない。肩の聖槍傷はまだ硬い布で縛られている。それでも狼族の長は、地図の上に爪を置いた。
「灰牙村の子を売った奴らもか」
「はい」
「首輪を作らせた工房は」
「王都外縁の聖具区画に納品記録があります」
ボルガンが拳を握った。
「聖別砲の鋳型図も王都か」
「王国軍工廠と聖教会大聖堂、その双方に写しが保管されています」
リュシエラは椅子に座ったままだった。
羽の光はまだ弱い。森の呪いを返した代償は、彼女の体から完全には抜けていない。
だが、その目だけは冷たかった。
「聖火の上位命令も、王都の大聖堂から出ているのでしょう」
「通信記録では、その可能性が高いです」
広間に沈黙が落ちた。
別々の復讐が、ひとつの線に収束していた。
獣人の檻。
焼かれた森。
穢された王火炉。
折られた翼。
封じられた海路。
銀杭で焼かれた吸血種。
砦で角を砕かれた鬼族。
それらは辺境の暴走ではなかった。
人類王国という国家が、信仰と法と軍令と商取引で支えた侵略だった。
レイヴァルトは地図を見下ろした。
父王アルヴァーンは、かつて人類を滅ぼせなかった。
その理由を、レイヴァルトはもう知っている。
父は前世で人間だった。
人間だった記憶を捨てきれなかった。
だから、滅ぼすべき線の前で止まった。
その弱さを、レイヴァルトは笑わない。
その慈悲が、異種族連合を作ったことも知っている。
父の王道が、多くの民を救ったことも知っている。
だが、父の慈悲は白杯の間で殺された。
人類は最後の機会を与えられ、そこに刃を持ち込んだ。
「進軍する」
短い言葉だった。
それだけで、大広間の空気が変わった。
鬼族のゴウラが牙を剥いた。
「王よ。今度こそ、砦も街もまとめて砕いてよろしいか」
「駄目だ」
即答だった。
ゴウラは不満ではなく、命令を待つ顔で頭を下げた。
レイヴァルトは地図へ視線を落としたまま続ける。
「王都を落とす前に、道を潰す。逃げる貴族を残せ。逃げ道を与えるのではない。逃げた先を記録しろ」
エルミアが頷く。
「吸血種が追います」
「奴隷商、聖具職人、鉱山技師、聖火司祭、軍需商人。王都の外へ逃げる者はすべて名を取れ。殺すな。王都の中枢がどれだけ腐っていたか、証言させる」
ガルムが低く言った。
「ローデンは」
「まだ使う」
狼族たちの間に、殺気が揺れた。
レイヴァルトはそれを止めなかった。
ただ、方向だけを定めた。
「怒りは残せ。牙も研げ。だが、俺の命令より先に食い千切るな」
ガルムは深く頭を垂れた。
「承知した。灰牙の名にかけて、王命を破らん」
「ボルガン」
「おう」
「聖別砲の解析は」
「終わっとる。連中が王火炉を穢して作った紛い物だが、構造は読めた。今度は逆に、聖教会の壁を食う弾にしてやる」
「王都外壁に使え」
ボルガンの片目に、炉の火のような光が宿った。
「王火炉の火で鍛え直してな」
「リュシエラ」
「はい」
「無理はするな、とは言わない」
リュシエラはかすかに笑った。
それは優しさを期待した笑みではない。
王が自分を戦力として正しく扱っていることへの、冷たい納得だった。
「森の根は、まだ聖火の道を覚えています。王都大聖堂まで届くには弱い。けれど、進軍路の礼拝所なら沈められます」
「やれ」
「はい」
「セレイア」
片翼を縛った翼人族の長が膝をついた。
「王都上空の偵察を行え。飛べる者だけでいい。落とされた羽根を飾った聖堂があれば、記録しろ」
「奪われた羽根の行方を、空から見つけます」
「ネレイド」
海魔族の代表が青黒い髪を揺らした。
「王都は内陸です。ですが、補給は河川と湖運に頼っています」
「沈めるな」
「……奪うのですか」
「違う。止めろ。水路が使えると思わせたまま、届かなくしろ。飢えは城壁の内側で育てる」
ネレイドはゆっくりと微笑んだ。
「海を奪った者たちに、水が裏切る恐怖を与えましょう」
最後に、レイヴァルトは竜人族の副将を見た。
ザルギウスはまだ眠っている。
王都防衛戦で聖別砲を受けた傷は、命を繋がれてはいても癒えきっていない。
「竜人族は主力決戦まで温存する」
「我らはまだ待つのですか」
「人類王国は、王都の前に主力を出す。そこで砕け」
竜人副将は拳を胸に当てた。
「ザルギウス将軍が目覚めぬままでも、竜人の誇りは折れませぬ」
「折れた翼の分まで、燃やせ」
「御意」
レイヴァルトは立ち上がった。
大広間の全員が膝をついた。
彼の影が地図へ落ちた。
黒天蓋の紋が、地図上の人類王都をゆっくりと覆う。
「父は人類を滅ぼせなかった」
誰も言葉を挟まなかった。
「それを責めるつもりはない。父の慈悲は、この国を作った」
レイヴァルトの声は低く、冷たかった。
「だが、その慈悲を人類へもう一度差し出すことは、父をもう一度殺すことだ」
黒い紋が、王都の名を塗り潰した。
「父上の道は選ばない。俺は父上の国を継いだ。ならば、父上の国を焼いた者どもを、国ごと滅ぼす」
膝をつく異種族たちの目に、恐れはなかった。
あったのは、忠誠と憎悪だった。
「進軍を開始しろ」
その命令は、黒曜王都全体へ広がった。
夜明けの鐘は鳴らなかった。
代わりに、炉の槌音が鳴った。
獣人の足音が続いた。
妖精の種が風に乗った。
吸血種の影が先に城門を抜けた。
鬼族が攻城槌を担ぎ、翼人族がまだ暗い空へ舞い上がり、海魔族の使者が水路へ消えた。
黒曜王都ヴァルドレインは、もはや守るためだけの都ではなかった。
人類を滅ぼす王の軍が、動き出した。
◇
白冠砦には、まだ朝が来ていなかった。
それでも兵士たちは眠れなかった。
黒曜王都から逃げ帰った者たちは、夜になるたび同じ夢を見る。
黒い天蓋。
反転した聖壁。
祈りを呑み込む影。
そして、冷たい声。
父の慈悲は終わった。
地下牢に隔離されたリオット・ハーゼンは、壁にもたれたまま震えていた。
彼は何度も口を塞がれた。
何度も黙れと命じられた。
それでも、嘘は言えなかった。
「来る」
彼は掠れた声で言った。
見張りの兵が怒鳴る。
「黙れ」
「王が来る」
「黙れと言っている!」
兵が槍の柄を振り上げた瞬間、リオットの胸に刻まれた黒天蓋の紋が薄く光った。
槍は空中で止まった。
兵の腕に黒い影が絡みつき、骨を砕かない程度に締め上げる。
リオットは涙を流しながら、同じ言葉を繰り返した。
「人類王都へ、来る」
見張りの兵は悲鳴を噛み殺した。
白冠砦の上階では、マティアス司祭が密書を燃やしていた。
書いては燃やす。
書いては燃やす。
どの文章も、最後には同じ内容になってしまう。
魔王の子が目覚めた。
父王の慈悲を継がない。
異種族連合は崩壊していない。
むしろ、王のもとで統制されている。
人類殲滅が宣言された。
王都へ進軍する。
「違う……違う、そんな報告を出せば、聖教会の威信が……」
彼は震える手で羽根ペンを握った。
だが、紙に落ちた文字は、彼の意志を裏切った。
隠蔽不能。
王都へ伝達急務。
勇者の出陣要請。
マティアスは羽根ペンを落とした。
聖杯が棚の上でひとつ割れた。
中の聖水はまた黒く染まっていた。
「神よ……」
祈りは喉で止まった。
代わりに、焼けた森の匂いが鼻の奥へ入り込んだ。
◇
人類王都アルディナでは、まだ勝利の旗が掲げられていた。
広場には「魔王討伐戦、最終勝利近し」と書かれた布告が貼られている。
教会の説教師は、異種族領での戦いを聖戦と呼び続けている。
貴族たちは、奪った鉱山や奴隷や森の利権を、まだ自分たちの財産だと思っている。
だが、宮殿の奥では違った。
王国軍務卿は、白冠砦から届いた報告書を握り潰していた。
「これは表に出すな」
机の前には、数人の将校と文官が並んでいる。
「黒曜王都包囲軍は敗北していない。戦略的再編中だ。グラド=ヴォルグは一時的な通信途絶。セラフィム・ロンドは聖火儀式のため沈黙。獣人収容地は疫病対策で閉鎖。そう発表しろ」
若い文官が青ざめた。
「しかし閣下、商人筋からも鉱山都市陥落の噂が……」
「噂を流した商人を捕らえろ」
「巡礼者が、セラフィム・ロンドで祈れなくなったと……」
「異端認定しろ」
「白冠砦の兵が、魔王の子が王都へ来ると……」
「狂乱兵として隔離しろ!」
軍務卿の怒号が部屋を揺らした。
だが、彼自身の手も震えていた。
机の上には、別の報告も置かれている。
赤鷹街道の中継所、沈黙。
赤鷹第二獣人収容地、連絡途絶。
北連絡所、消失。
グラド=ヴォルグ、奪還された可能性大。
聖別砲弾鋳型図、奪取。
アルベリク・ダイン伯爵、所在不明。
聖火網、逆流汚染。
白冠砦内で不明な黒印現象。
王都進軍の兆候。
そのどれもが、国家の敗北を示していた。
貴族院では、さらに醜い会議が開かれていた。
「私の領地は関係ない」
「奴隷売買は王国法に基づいていた」
「聖教会が神敵と認定したのだ。我々に罪はない」
「鉱山の接収は軍の命令だ」
「羽根の献納は信仰行為であって、略奪ではない」
「異種族が王都まで来るなどあり得ん。魔物どもに国家運営などできるものか」
誰も、自分が加害者だとは言わなかった。
だが、会議室の窓の外では、王都民が不安げに空を見上げている。
物価が上がっていた。
聖水が配給制になった。
鉱山からの鉄が届かない。
南方巡礼路が閉ざされた。
兵士の家族が、白冠砦から帰った者の噂を聞いて震えている。
王都の表は、まだ平静を装っていた。
しかし、隠蔽はもう恐怖に追いついていなかった。
◇
王城の最奥、白聖の間。
そこには、王と聖教会の枢機卿たちが集まっていた。
人類王アレクシオス三世は、玉座の肘掛けを強く掴んでいた。
「黒曜王都は落ちたのではなかったのか」
誰もすぐには答えなかった。
枢機卿のひとりが、重く口を開く。
「正確には、落城寸前でした」
「ならばなぜ落ちていない」
「魔王の子が目覚めたためです」
王の顔が歪んだ。
「封印されていたはずだ」
「封印ではありません。眠りだった可能性が……」
「黙れ」
王は立ち上がった。
「民には伝えるな。貴族にもだ。王都は混乱させん。異種族どもは辺境で暴れているだけだ。王都の壁まで来られるはずがない」
軍務卿が低く言った。
「陛下。王都外郭の防衛準備は進めるべきです。聖壁の再起動、予備兵の徴集、貴族私兵の統合、聖教会騎士団の再配置を」
「やれ。ただし、理由は北方演習とせよ」
「市民には」
「何も知らせるな」
枢機卿が目を伏せた。
「聖教会としては、大聖堂の奥に保管されている聖剣を用いる準備があります」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
王はゆっくりと枢機卿を見た。
「勇者か」
「はい」
枢機卿は頷いた。
「民の恐怖を抑えるには、象徴が必要です。魔王の子が王を名乗るなら、人類には勇者が必要となります」
「使えるのか」
「聖剣は反応しております。候補者も、すでに王都に」
王は沈黙した。
彼は勇者を好いてはいなかった。
勇者とは、王権とは別の熱狂を生む存在だ。
民は王よりも勇者を見上げる。
教会は勇者を神の証として利用する。
だが今は、選べる状況ではなかった。
「呼べ」
王は言った。
「人類に恐怖ではなく、希望を見せろ。魔王の子など、勇者が討つと宣言しろ」
枢機卿は深く頭を下げた。
◇
大聖堂の地下には、白い光に満ちた部屋があった。
壁には歴代の聖人の名が刻まれている。
中央には聖剣が置かれていた。
その前に、ひとりの青年が立っていた。
白銀の鎧はまだ新しい。
腰に下げた剣帯にも傷はない。
だが、その目には奇妙な自信があった。
彼は聖剣に手を伸ばす。
聖剣は淡く光った。
周囲の司祭たちが安堵の息を漏らす。
「勇者様」
青年は振り返った。
その顔に、恐怖はなかった。
まだ、人類が何をしてきたのかを知らない者の顔だった。
あるいは、知っていてなお、それを正義の物語に置き換えられる者の顔だった。
「魔王の息子が来るんだろ」
青年は軽く言った。
「なら、俺が止める」
司祭たちは跪いた。
人類王都は、ようやく自分たちの滅びが近づいていることを知り始めていた。
だが彼らは、まだ信じていた。
勇者がいれば、物語は人類の勝利で終わるのだと。
◇
同じ頃。
黒曜王都を出た異種族連合軍は、静かに進んでいた。
軍列の先頭に、レイヴァルトはいない。
彼はすべてを一人で滅ぼすために進むのではない。
王として、各種族の復讐を人類国家そのものへ届かせるために進む。
黒い馬車の中で、レイヴァルトは王都アルディナの方角を見ていた。
窓の外で、吸血種の影が走る。
遠くで狼族の斥候が吠える。
さらに遠く、妖精の種が礼拝所の床下へ潜り込んだ。
エルミアが問う。
「王よ。人類王都が降伏を申し出た場合は」
レイヴァルトは即座に答えた。
「受けない」
「賠償を差し出した場合は」
「奪われた名は金で戻らない」
「父王の真実を知れば、命乞いに使う者も出るでしょう」
レイヴァルトの目が、わずかに細くなった。
「父上の弱さを、人類の免罪符にはさせない」
声は冷たかった。
「父上は人類を滅ぼせなかった。だが、人類は父上を殺した。それが答えだ」
馬車の中に沈黙が落ちる。
やがて、レイヴァルトは小さく言った。
「人類王都へ進め」
黒い軍勢は、夜明けの道を進んだ。
その先にあるのは、交渉ではない。
和解でもない。
赦しでもない。
人類という国家が、自ら積み上げた罪の中心へ、ついに裁きが向かっていた。




