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第40話「慈悲の否定」

 黒曜宮地下の扉が閉じた。


 父王アルヴァーンの隠し部屋は、再び黒曜の底に沈んだ。


 そこには、記録水晶があった。


 黒い日記があった。


 この世界のものではない遺品があった。


 そして、慈悲王と呼ばれた王の弱さと、理由と、未練が残されていた。


 レイヴァルトは、地上へ戻る階段を上っていた。


 後ろには、エルミア、ボルガン、リュシエラ、ガルムが続く。


 誰も話さない。


 石段を踏む音だけが、長い地下道に響いている。


 父王アルヴァーンは転生者だった。


 かつて人間だった。


 だから、人類を滅ぼせなかった。


 だが、人類を信じ切っていたわけではない。


 最後の機会を与えた。


 白杯の間を、越えてはならない線にした。


 そして人類は、その線を越えた。


 慈悲王を殺した。


 レイヴァルトは足を止めなかった。


 胸の内で何かが崩れたわけではない。


 何かが癒えたわけでもない。


 ただ、父の姿が変わった。


 神像ではなくなった。


 慈悲だけでできた王ではなくなった。


 前世の記憶に縛られ、迷い、弱さを抱え、それでも異種族を束ねた王になった。


 それは軽蔑するには重すぎる。


 盲信するには痛すぎる。


 だから、理解するしかなかった。


 だが、理解は継承ではない。


 レイヴァルトは階段を上り切った。


 王族霊廟。


 父王の石棺が、黒曜石の静けさの中に置かれている。


 ――民を見捨てぬ王、ここに眠る。


 その一文を、レイヴァルトは再び見下ろした。


「父上」


 声は冷たい。


 だが、今までよりも深い。


「あなたの記録を読んだ」


 誰も口を挟まない。


 黒曜の霊廟に、王の声だけが落ちる。


「あなたが何者だったかを知った。あなたがなぜ人類を滅ぼせなかったかも知った。なぜ白杯の間へ向かったかも知った」


 レイヴァルトは、石棺の前で膝をつかなかった。


 王は王の前に立つ。


 息子は父の前に立つ。


 その両方として、そこにいた。


「あなたの慈悲は、異種族連合を作った」


 ボルガンが、静かに槌を下げる。


「あなたがいなければ、ドワーフは炉を守るだけの種で終わっていたかもしれない。狼族は孤立したまま焼かれ、妖精は森ごと閉じこもり、吸血種は夜に追われ、竜人は空で孤立していたかもしれない」


 リュシエラが目を伏せる。


 ガルムは牙を食いしばる。


 エルミアは一言も逃さず記録する。


「その王の力は認める」


 レイヴァルトの目が、石棺へ向けられたまま細くなる。


「だが、あなたの弱さは継がない」


 霊廟の空気が冷えた。


「あなたは人間だった。だから人類を滅ぼせなかった」


 黒天蓋の影が、レイヴァルトの足元に薄く広がる。


「俺は違う」


 その一言は、刃のようだった。


「俺は人類ではない。前世の夢があろうと、白い天井の記憶があろうと、今の俺は黒曜王都の王だ。アルヴァーンの息子だ。異種族連合の王だ」


 レイヴァルトは石棺の文へ視線を落とす。


「俺の民は、檻に入れられた。森を焼かれた。炉を奪われた。空を撃たれた。夜を狩られた。海を封じられた。父を殺された」


 声は荒くならない。


 怒鳴らない。


 だからこそ、重い。


「その民を前にして、俺が人類だった夢を理由に剣を止めることはない」


 ガルムの肩がわずかに震えた。


 灰牙村の名が、その言葉の中にあった。


 ボルガンの目には、王火炉の火が映っていた。


 リュシエラの羽は弱く光り、焼かれた森の記憶を抱えていた。


 レイヴァルトは続けた。


「父上。あなたを否定する」


 霊廟に、その言葉が落ちた。


 だが、それは侮辱ではなかった。


 墓を踏みにじる言葉ではなかった。


 慈悲王を嘲る言葉でもない。


「あなたの慈悲が作った国は継ぐ」


 レイヴァルトは言った。


「あなたの前世の未練は捨てる」


 黒天蓋の影が、石棺の足元まで伸びる。


「あなたの『民を見捨てるな』は受け取る」


 そして、冷たく言い切った。


「あなたの『人類を滅ぼせなかった弱さ』は、ここで葬る」


 長い沈黙があった。


 誰も動かなかった。


 その沈黙の中で、父王の墓に刻まれた黒曜王家の紋が、かすかに光った。


 返事ではない。


 許しでもない。


 ただ、王家の魔力が、血を継ぐ者の言葉に反応しただけだった。


 だが、レイヴァルトはそれで十分だった。


「人類への慈悲は、白杯の間で死んだ」


 その宣言は、霊廟の奥まで響いた。


「父上の血と共に」


 エルミアが筆を止めずに記録する。


 ボルガンが槌を胸に当てた。


 リュシエラが静かに頭を下げた。


 ガルムが低く唸り、牙の奥で名を噛むように言った。


「灰牙村へ、そう伝える」


 レイヴァルトは頷かない。


 ただ、石棺へ背を向けた。


「玉座へ戻る」


 黒曜宮の玉座の間には、異種族の代表たちが集められていた。


 全てではない。


 前線にいる者、治療中の者、復旧に当たる者は来ていない。


 それでも、王都にいる各種族の長、将、記録官、誓約官たちが玉座の前に並んでいた。


 狼族。


 妖精族。


 ドワーフ。


 吸血種。


 竜人族の代理。


 鬼族。


 翼人。


 海魔族の使者。


 彼らの前に、黒い日記と三つの記録水晶が置かれた。


 レイヴァルトは玉座に座る。


 背後には、かつて自分が眠っていた黒い繭の残骸が置かれている。


 それは、失敗の証。


 父を守り切れず、民を長く苦しませた証。


 そして今は、新王が慈悲を捨てた証でもあった。


 エルミアが一歩前へ出る。


「先王アルヴァーン陛下の秘匿記録が発見されました」


 玉座の間がざわめきかける。


 レイヴァルトが片手を上げた。


 それだけで静まった。


 エルミアは続ける。


「記録には、先王陛下の出自、慈悲の理由、白杯の間へ向かった意志、そしてレイヴァルト陛下への遺言が含まれています」


 翼人の代表が息を呑む。


 鬼族の将が眉をひそめる。


 海魔族の使者は鱗のある指を組み、黙っている。


 ボルガンが声を出した。


「先王陛下は偉大な王だった」


 その声に、ドワーフたちが顔を上げる。


「だが、間違えた王でもあった。俺たちは、それを炉に刻む」


 リュシエラが続く。


「森は、救われたことも、焼かれたことも覚えます。どちらか一方だけを歌にはしません」


 ガルムが言う。


「狼族は、先王を侮らない。だが、灰牙村の灰を消すために先王の慈悲を使うことも許さない」


 玉座の間に、重い理解が広がっていく。


 父王への敬意は消えない。


 だが、神像ではなくなる。


 完全な慈悲の象徴ではなくなる。


 偉大で、弱く、愛し、迷い、最後に殺された王として残る。


 レイヴァルトは玉座から見下ろした。


「先王の真実は、異種族連合の長たちへ開示する」


 その声は短く、冷たい。


「隠して神像にするな。歪めて慰めにするな。父上は王だった。ならば、王として記録しろ」


 エルミアが頭を下げる。


「御意」


「だが、人類には渡さない」


 レイヴァルトの目が暗くなる。


「父上の弱さを、人類に弁明として使わせるな。慈悲王が人間だったから自分たちは許されるなどと、言わせるな」


 玉座の間の空気が鋭くなる。


「人類が知るべきことは一つだけだ」


 レイヴァルトは言った。


「最後の機会は終わった」


 誰も声を出さない。


「父上が与えた最後の杯を、人類は血で満たした」


 黒天蓋の影が、玉座の足元へ広がる。


「ならば、次に差し出す杯はない」


 鬼族の将が低く笑う。


 翼人の代表が翼を畳み直す。


 海魔族の使者の鱗が、冷たい光を帯びる。


 それは歓声ではない。


 復讐の熱でもない。


 王命を聞く者たちの沈黙だった。


「これより、人類王国中枢への進軍準備を命じる」


 レイヴァルトの声が玉座の間を貫いた。


「白冠砦はまだ残してある。恐怖を運ぶために生かした者たちがいる。マティアス、ギュスターヴ、リオット。彼らは人類の中心へ、すでに黒曜王都の名を運んでいる」


 エルミアが記録を開く。


「白冠砦周辺では、聖杯の破損と黒化が広がっています。セラフィム・ロンドの沈黙も、人類側の巡礼路へ伝播中です」


「よい」


 レイヴァルトは言った。


「恐怖は先に行かせろ。軍は後から進む」


 ボルガンが一歩前へ出る。


「グラド=ヴォルグは復旧中ですが、王火炉は戻りました。聖別砲弾の構造も解析できます。人類の砲を、人類の城壁へ返す準備を進めます」


「進めろ」


 リュシエラが静かに言う。


「森の呪いは、聖火網の下流から上流へ戻り始めています。教会都市の沈黙は、まだ祈りを閉ざしています」


「聖教会の声を奪え。だが、根は残せ。王都で裁く」


「御意」


 ガルムが牙を見せる。


「獣人の解放部隊は再編済みです。赤鷹街道の捕縛記録から、買い手と首輪工房の名が出ています」


「王都進軍前に、逃げ道を潰せ」


「承知」


 エルミアが追加する。


「アルベリク、セヴラン、リカード、オルドの尋問は進行中です。鉱山支配、聖印改造、捕虜売却、聖別砲弾の輸送先、関係貴族の名が順次出ています」


「殺すな」


 レイヴァルトは即座に言った。


「吐き切るまで生かせ。吐いた後も、王都で証言させる」


「御意」


 玉座の間にいる者たちは、レイヴァルトの方針を理解していた。


 ただ殺すのではない。


 ただ怒りに任せて焼くのではない。


 人類が築いた制度、聖教会の教義、貴族の利益、奴隷商の経路、砲弾の輸送、鉱山の接収、その全てを引きずり出してから滅ぼす。


 復讐を、王権の内に置く。


 それは父王の慈悲ではない。


 だが、父王の「民を見捨てるな」という命令とは矛盾しなかった。


 レイヴァルトは、玉座の肘掛けに指を置いた。


「父上は人類に最後の機会を与えた」


 全員が聞いている。


「人類はそれを捨てた」


 黒天蓋の紋が、玉座の足元に浮かぶ。


「ならば、俺は父上の慈悲を継がない」


 レイヴァルトの目が冷たく光る。


「父上の国を継ぐ」


 その言葉に、玉座の間の空気が変わった。


 慈悲王の遺児。


 父を殺された王。


 人類殲滅を宣言した王。


 だが今、その王の道は、ただの反動ではなくなった。


 父を知らずに拒むのではない。


 父を知った上で、父とは違う道を選ぶ。


 その差は大きい。


 そして、より冷酷だった。


「人類王都へ進む」


 レイヴァルトは言った。


「聖教会の鐘を折る。王国の旗を落とす。貴族の帳簿を開く。奴隷商の名を晒す。勇者が来るなら、その前に人類の城壁を黒く染める」


 玉座の間に、各種族の気配が満ちる。


 恐怖ではない。


 躊躇でもない。


 王命を待つ復讐の静けさだった。


「人類へ告げる言葉は一つだ」


 レイヴァルトは立ち上がった。


 全員が頭を垂れる。


「慈悲は死んだ」


 その声は、黒曜王都の石壁に染み込んだ。


「王が来る」


 玉座の間の奥で、黒い繭の残骸がわずかに軋んだ。


 それはかつての眠りの殻。


 父の慈悲が殺され、息子が眠り、民が苦しんだ時間の象徴。


 レイヴァルトは、それへ一度だけ視線を向けた。


「撤去するな」


 彼は言った。


「そこに置け」


 エルミアが問う。


「失敗の証として、ですか」


「違う」


 レイヴァルトは答えた。


「俺がもう眠らない証だ」


 誰も言葉を返せなかった。


 レイヴァルトは再び玉座に座る。


 父王の記録は終わった。


 父王の理由は理解した。


 父王の慈悲は、ここで否定した。


 だが、父王の国は継ぐ。


 父王の民は見捨てない。


 そのために、人類を滅ぼす。


 黒曜王都の上空に、夜が広がっていた。


 遠く西方では、グラド=ヴォルグの王火炉が燃えている。


 南では、沈黙する教会都市が祈りを失っている。


 赤鷹街道では、獣人たちが首輪工房の名を追っている。


 白冠砦では、人類の生き残りが震えながら王都へ報告を送っている。


 そして、黒曜宮の玉座では、新王が次の戦を定めた。


 慈悲王の理由は理解された。


 慈悲王の弱さは否定された。


 人類への最後の機会は、すでに終わっている。


 次に始まるのは、王都への進軍だった。


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