第36話「父王の隠し部屋」
黒曜宮の地下には、王族霊廟がある。
慈悲王アルヴァーンが眠る場所だ。
黒曜石を削り出した長い回廊。壁面には、歴代の王の名と、異種族連合に加わった種族の誓約が刻まれている。
狼族の爪印。
妖精族の葉紋。
ドワーフの槌印。
竜人族の翼爪。
吸血種の夜紋。
その最奥に、アルヴァーンの墓があった。
レイヴァルトは、黒鉄の箱を手にして霊廟へ降りた。
供は少ない。
エルミア。
ボルガン。
リュシエラ。
ガルム。
ザルギウスは重傷のため、寝台ごと運ばれることを拒んだ。代わりに、竜人族の副将が控えている。
誰も声を上げなかった。
グラド=ヴォルグは奪還された。
王火炉の名は戻った。
獣人族は檻を砕き、妖精族は聖火を沈黙させ、ドワーフは炉を取り戻した。
だが、ここは勝利を報告する場ではなかった。
父王の痕跡へ踏み込む場だった。
レイヴァルトは父王の墓の前で足を止めた。
石棺の上には、黒曜王家の紋が刻まれている。
かつてアルヴァーンが身につけていた王冠も、剣も、外套もない。
慈悲王は飾られることを嫌った。
墓には、ただ一文がある。
――民を見捨てぬ王、ここに眠る。
レイヴァルトはそれを見下ろした。
「父上」
声は低く、冷たい。
だが、軽くはない。
「グラド=ヴォルグを取り戻した。王火炉の名も戻した」
誰も口を挟まない。
「人類はまだ残っている。聖教会も、王国も、貴族も、勇者も、まだ裁いていない」
黒鉄の箱が、レイヴァルトの手の中で鈍く熱を帯びた。
「だから、俺は止まらない」
その言葉に、墓は答えない。
父王は死んでいる。
優しい声も、穏やかな笑みも、もう戻らない。
人類が殺した。
和平の場で。
慈悲を差し出した王を、神敵と呼んで。
レイヴァルトは石棺へ背を向けた。
「行くぞ」
エルミアが静かに頷く。
「黒曜の底へ」
王族霊廟のさらに奥には、古い扉があった。
普段は壁にしか見えない。
黒曜石の継ぎ目に紛れ、王族の血と王権の魔力がなければ存在すら分からない閉鎖区画。
エルミアが古い記録を読み上げる。
「先王アルヴァーン陛下の時代に、一度だけ封じ直されています。記録上の用途は空欄。立ち入り記録も、先王陛下のみ」
「誰も入っていないのか」
「少なくとも記録上は」
ボルガンが眉をひそめる。
「王火炉の灰捨て場に隠されていた箱と、この場所が繋がる理由が分からん。先王陛下はなぜ、ドワーフの炉へこれを預けた」
リュシエラが羽をわずかに揺らした。
その光はまだ弱い。セラフィム・ロンドを沈黙させた代償は深く残っている。
「火は記憶を隠せる。森は覚えすぎるけれど、火は焼いたものを灰にして守ることがある。アルヴァーン様は、見つけられたくないものを、火の奥へ置いたのかもしれない」
ガルムが低く唸る。
「先王が隠したものなら、軽いものではない」
レイヴァルトは黒鉄の箱を扉へ近づけた。
箱の表面に刻まれた文が赤く光る。
――王が王であるなら、黒曜の底へ持ち帰れ。
次の瞬間、扉の奥から音が返った。
鍵が開く音ではない。
眠っていた石が、長い時間のあとで息を吐くような音だった。
黒曜石の壁に、縦の裂け目が生まれる。
冷たい空気が流れ出した。
そこに、死の匂いはなかった。
霊廟の奥にあるにもかかわらず、墓の匂いではない。
紙。
金属。
古い魔力。
そして、レイヴァルトの胸の奥を奇妙に撫でる、知らないはずなのに知っているような匂い。
白い部屋。
鉄の箱。
黒い地面に引かれた白線。
遠い夢の断片が、脳裏をかすめた。
レイヴァルトは眉ひとつ動かさない。
そんなものは、今の彼を止める理由にならない。
扉が開いた。
その奥にあったのは、王の隠し部屋だった。
広くはない。
玉座の間のような荘厳さもない。
だが、異様だった。
壁には黒曜石ではなく、銀灰色の板が嵌め込まれている。王宮のどこにも使われていない材質だった。石でも鉄でもない。魔鉱でもない。触れれば冷たく、灯りを受けて鈍く反射する。
中央には机があった。
簡素な机。
だが、その形はこの世界の貴族が使う書き物机とは違う。装飾がない。脚は細い。天板は平らすぎる。
机の上には、いくつもの物が置かれていた。
封印された記録水晶。
黒い革表紙の日記。
透明な板の破片。
細く削られた金属片。
見知らぬ文字が刻まれた小さな四角い板。
そして、丸められた紙束。
紙束には、びっしりと線が引かれていた。
地図ではない。
魔法陣でもない。
数字と記号の列。
この世界のどの種族の文字とも違う。
エルミアが息を呑む。
「これは……先王陛下の研究室でしょうか」
ボルガンが机へ近づき、透明な板の破片を見た。
「ガラスではないな。炉で見たこともない。人間どもの聖具でもない」
リュシエラは壁の銀灰色の板に触れようとして、手を止めた。
「魔力の流れがない。でも、まるで何かの抜け殻みたい」
ガルムは部屋の匂いを嗅ぐ。
「先王の匂いがする。だが、古い。ずっと閉じられていた」
レイヴァルトは机の前に立った。
父王アルヴァーン。
異種族連合をまとめた王。
人類を滅ぼせる力を持ちながら、滅ぼさなかった王。
和平を望み、裏切られ、白杯の間で殺された王。
その父が、誰にも告げずに残した部屋。
レイヴァルトは黒い革表紙の日記へ手を伸ばした。
開こうとした瞬間、日記の留め具が赤く光る。
拒絶ではない。
確認だった。
王であるか。
血を継ぐ者であるか。
レイヴァルトの魔力が、冷たく流れ込む。
留め具が外れた。
一ページ目には、この世界の文字で短く書かれていた。
――レイヴァルトへ。
部屋の空気が重くなる。
ガルムが拳を握る。
リュシエラは目を伏せる。
ボルガンは唇を結んだ。
エルミアは何も言わず、記録役として立つ。
レイヴァルトだけが、顔色を変えなかった。
ページをめくる。
次の行。
――お前がこれを読んでいるなら、私はもう生きていないのだろう。
レイヴァルトの指が、わずかに止まった。
それだけだった。
彼は読み進める。
――私は、お前にすべてを語らなかった。
――王として語るべきことと、父として語れなかったことがある。
――私の慈悲は、強さだけでできていたのではない。
――私の弱さも、その中に混じっていた。
ボルガンが低く息を吸った。
「先王陛下が……弱さと」
レイヴァルトは黙っている。
ページの文字は続く。
――私は人類を滅ぼせた。
――滅ぼすべきだったのかもしれない。
――だが、できなかった。
――それを正しさと呼ぶ者もいるだろう。
――愚かさと呼ぶ者もいるだろう。
――お前がどちらと呼んでも、私は受け入れる。
リュシエラの羽が震えた。
父王アルヴァーンは、異種族たちにとって救済者だった。
慈悲王だった。
人類を滅ぼさなかった、偉大な抑制の王だった。
だが、その本人が、自分の慈悲に別の名を与えている。
弱さ。
レイヴァルトは、そこで日記を閉じなかった。
むしろ、目が冷たく澄んでいく。
「父上は、分かっていたのか」
誰への問いでもない。
彼は次のページをめくる。
そこには、突然、異なる文字が混じっていた。
この世界の文字ではない。
角ばっている。
均一すぎる。
筆で書いたものではなく、何かの道具で刻んだような文字。
レイヴァルトの目が、その文字の上で止まる。
読めない。
だが、見覚えがあった。
夢の中で、遠い街の看板に並んでいたような文字。
白い紙。
黒い板。
光る画面。
人間だけが歩く世界。
その断片が、深い水底から浮かぶように現れる。
レイヴァルトは不快そうに目を細めた。
エルミアが問う。
「陛下?」
「問題ない」
短い返答。
だが、部屋の中にいた者たちは、その一瞬だけレイヴァルトの魔力が鋭く揺れたことを感じ取っていた。
日記には、異なる文字の横に、この世界の文字で補足が書かれている。
――この文字を読む日が来るなら、お前は私に近づきすぎている。
――だが、知らぬままで王でいるよりはよい。
その下の一文は、黒く塗り潰されていた。
いや、墨ではない。
魔力で封じられている。
今はまだ読めない。
レイヴァルトは指で封印に触れた。
黒天蓋の紋が指先に浮かぶ。
封印はわずかに震えたが、開かない。
かわりに、机の上の記録水晶が赤く光った。
エルミアが身構える。
ボルガンが槌へ手を伸ばす。
ガルムが前へ出かける。
レイヴァルトは片手を上げた。
「下がれ」
全員が止まった。
記録水晶はゆっくりと浮かび上がる。
その内部に、炎のような光が灯った。
王火炉の火入れ印と同じ色。
アルヴァーンの魔力。
懐かしく、重く、今はもうこの世にない王の気配。
水晶から声が流れた。
『レイヴァルト』
父の声だった。
誰も動かなかった。
リュシエラは目を伏せ、ガルムは牙を食いしばり、ボルガンは槌を握ったまま動かない。
レイヴァルトだけが、記録水晶を見据えている。
『お前がこれを開いたなら、私は自分の選んだ道の果てに倒れたのだろう』
声は穏やかだった。
かつて白杯の間で聞いた父の声と、同じだった。
『私は、お前に人類を許せとは言わない』
部屋の空気が変わった。
レイヴァルトの目が、わずかに細くなる。
『言えない。言う資格もない。私の慈悲が、もし民を傷つける結果を招いたなら、その責は私にある』
水晶の光が揺れる。
『だが、私のことを知る前に、ひとつだけ覚えておけ』
記録水晶の奥に、薄い影が映る。
アルヴァーンの姿ではない。
白い部屋。
硬い椅子。
窓の外に並ぶ、見たことのない直線の塔。
その幻影はすぐに消えた。
だが、レイヴァルトは見た。
見てしまった。
この世界ではないもの。
父王の記録の中にあってはならないもの。
『私は、最初から慈悲深かったわけではない』
水晶の声が続く。
『私は、選んだ。何度も迷い、何度も逃げ、何度も目を背け、それでも王として慈悲を選んだ』
レイヴァルトは冷たく言った。
「その結果が、白杯の間だ」
記録水晶は答えない。
過去の声に、今の言葉は届かない。
『この部屋に残したものは、私の罪と理由だ。お前が王として知るべきものだ』
水晶の光が強くなる。
『だが、急ぐな。記録は順に開け。順を誤れば、ただの告白になる』
机の奥で、別の水晶が三つ、鈍く光った。
それぞれに封印番号が刻まれている。
一。
二。
三。
最初の水晶だけが、淡く赤く灯っている。
『第一の記録を開け。そこに、私が何者であったかを残した』
その瞬間、記録水晶の声は途切れた。
部屋は沈黙に戻る。
誰もすぐには話さなかった。
父王の声。
この世界ではない幻影。
読めない文字。
封じられた日記。
第一の記録。
すべてが、この部屋の空気を重くしている。
ガルムが低く言った。
「先王陛下は……何を隠しておられた」
リュシエラは首を振る。
「分からない。でも、森の記憶にもないものを見た」
ボルガンが机の上の透明な板を睨む。
「炉でも打てん。鉱山でも掘れん。こんな物を先王陛下がどこから持った」
エルミアは記録水晶を見つめている。
「第一の記録を開けば、分かるのでしょう」
レイヴァルトは沈黙していた。
父王への尊敬はある。
父王の死への怒りは消えない。
父王の慈悲を侮辱するつもりもない。
だが、父の理由が何であろうと、人類を許す道には戻らない。
その意思だけは、揺れなかった。
「父上」
レイヴァルトは、灯った第一の記録水晶を見下ろす。
「あなたの罪も、理由も聞いてやる」
声は冷たい。
「だが、それで人類が許されると思うな」
誰も異を唱えない。
異種族の長たちも、それを望んでいない。
父王の真実を知ることと、人類を裁くことは、別の話だった。
レイヴァルトは第一の記録水晶へ手を伸ばした。
水晶の中で、赤い光が開く。
そこに、父王アルヴァーンの若い声が響き始めた。
『私の最初の記憶は、この世界のものではない』
その一文で、部屋の空気が凍った。
レイヴァルトの指が止まる。
水晶の奥に、白い天井が映る。
知らない世界。
だが、レイヴァルトの夢の底にあるものと、どこか似ている世界。
記録は、まだ始まったばかりだった。




