表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/50

第34話「ドワーフの復讐」

 炉心区画は、グラド=ヴォルグの心臓だった。


 岩盤をくり抜いた巨大な円形空間。


 天井は高く、山の奥へ煙を逃がす排気孔が何本も伸びている。床には古い火紋が刻まれ、壁には歴代の王工匠たちの名が並んでいた。


 その中央に、王火炉がある。


 かつて慈悲王アルヴァーンが火を入れた炉。


 ドワーフたちが、火と鉄と誓いを捧げて守り続けた炉。


 今、その炉の前に白い祭壇が置かれていた。


 聖教会の布。


 聖油の壺。


 白い鐘。


 祈祷書。


 聖印杭。


 炉の縁に打ち込まれた白銀の留め具。


 そして、古い銘板の上に掛けられた新しい板。


 ――神火炉。


 ボルガンはそれを見た。


 目だけが、赤く燃えていた。


 彼の背後に、ドワーフたちが続く。


 バルド、ネルド、ガンツ、救出された鍛冶師たち、坑夫たち。まだ首輪の跡が残る者もいる。鎖を引きずったままの者もいる。火傷を負い、足を引きずる者もいる。


 それでも、彼らは炉の前で膝をつかなかった。


 ドワーフは火に祈らない。


 火を守る。


 奪われた火を、奪い返す。


「止まれ、異形ども!」


 炉司祭リカードが聖印を掲げた。


 顔は青ざめている。だが、聖教会の白衣をまとったまま、なお自分がこの場の支配者であるかのように叫ぶ。


「ここは神火炉の聖域だ! 魔王に仕えた野蛮な炉は、すでに神の火として清められた! お前たちに触れる権利はない!」


 ボルガンは歩みを止めなかった。


 白い鐘が鳴る。


 甲高く、不自然な音だった。


 炉の炎が揺らぐ。


 赤い火の奥へ、白い膜のようなものが広がる。聖油が燃え、聖印が光り、炉の周囲に張られた結界が熱を押さえ込もうとした。


 リカードは声を張り上げる。


「見よ! 神火炉は神の名に従う! 異形の王の火など、もはや――」


 ボルガンの槌が、床を打った。


 どん、と。


 それだけで、炉心区画の空気が変わった。


 白い鐘の音がわずかに歪む。


 王火炉の奥で、黒鉄色の炎が脈打った。


「王火炉だ」


 ボルガンの声は低かった。


「その名を、もう一度間違えるな」


 リカードは後ずさる。


 それでも、聖印を掲げ直した。


「兵! 炉を守れ! 神火炉へ近づけるな!」


 王国兵たちが前へ出る。


 だが、そこは炉心区画だった。


 広く見えて、実際には炉、溝、灰路、金属型、排熱孔、鍛造台が複雑に並んでいる。剣を振るための場所ではない。隊列を組むための場所でもない。


 火を扱う者のための場所だ。


 バルドが片目を細める。


「右の灰路、開くぞ」


 坑夫が頷いた。


 床に埋め込まれた古い鉄輪へ槌を入れる。人類が作業台を上に置いて塞いでいた場所だ。作業台を支えていた脚に楔が打ち込まれ、わずかに角度が変わる。


 次の瞬間、王国兵の足元の床板が沈んだ。


 深くはない。


 ただ膝まで落ちる程度。


 だが、隊列を崩すには十分だった。


 兵が悲鳴を上げる。後ろから押された者が前へ倒れる。剣が炉縁に当たり、火花が散る。


 その隙に、ドワーフたちは動いた。


 短槌が剣を叩き落とす。鎖が足を絡める。鍛冶師の肩が兵士の腹へ入り、石壁へ押しつける。


 誰も無駄に叫ばない。


 復讐は怒号ではない。


 ひとつずつ、奪った者の力を奪い返す作業だった。


 ネルドは、首輪を外したばかりの徒弟たちへ叫ぶ。


「聖印杭には触るな! 熱を見ろ! 白く光ったら下がれ!」


 彼は炉の周囲へ駆けた。


 王火炉の根元に、三本の聖印杭が打ち込まれている。


 炉心の熱を縛り、聖油の燃えを強制的に混ぜるための杭だった。杭の根元には、人類側の鉱山技師が取り付けた冷却管が伸びている。


 ネルドは歯を食いしばった。


「炉を、首輪みたいに……」


 獣人の首輪。


 ドワーフの首輪。


 そして今、炉の首輪。


 構造は同じだった。


 奪ったものへ番号をつけ、名を消し、従わせるための仕組み。


 ネルドの手が震える。


 その肩を、バルドが叩いた。


「震えるな。震えるなら、槌を持て」


 ネルドは息を吸った。


「はい」


 彼は鑿を構え、杭の根元へ差し込む。


 無理に抜けば炉の縁が割れる。


 だから、まず聖印の噛み合わせを殺す。


 刻みを読む。


 火の通りを読む。


 鉄の癖を読む。


 ネルドは低く呟く。


「外側は聖教会式。中は鉱山技師の補強。継ぎ目は……ここだ」


 小槌が一度鳴る。


 白い光が走った。


 ガンツが息を呑む。


 ネルドは手を引かない。


 もう一度、槌を打つ。


 聖印杭の光が濁る。


 王火炉の炎が、奥からゆっくりと赤を取り戻し始めた。


 リカード司祭が叫ぶ。


「やめろ! 神火炉の聖印を壊すな!」


 ボルガンがそちらを向いた。


 リカードは聖印を掲げ、聖句を唱えようとする。


 だが、その舌は途中で止まった。


 ボルガンの槌が、リカードの足元の白い祭壇を打ったからだ。


 祭壇が割れた。


 聖油の壺が倒れ、白い油が床へ流れる。


 ボルガンはその油を見下ろした。


「火を知らん者が、油を注ぐな」


 彼は腰から黒い粉袋を取り出し、白い油の上へ撒いた。


 火消し粉。


 聖油は、じゅう、と嫌な音を立て、白い煙を上げて沈黙した。


 リカードの顔が歪む。


「冒涜だ……!」


「冒涜」


 ボルガンはその言葉を繰り返した。


「お前が言うか」


 彼は白い鐘を見上げた。


 王火炉の上に吊るされた鐘。


 ドワーフの工房に、本来あのような鐘は要らない。火を測るのは音ではなく、色、熱、揺らぎ、鉄の鳴りだ。人類はそれを知らず、聖なる音で火を従わせようとした。


 ボルガンは隣の鍛冶師へ顎を動かした。


「鎖を切れ」


 鍛冶師が灰路を渡り、鐘を吊るす白銀鎖へ登る。兵が弩を向けようとしたが、バルドの槌がその腕を叩き落とした。


 鐘がもう一度鳴った。


 今度は震えている。


 まるで、自分が落とされることを知っているように。


 鍛冶師の鑿が鎖へ入る。


 一打。


 二打。


 三打。


 白銀鎖が切れた。


 鐘が落ちる。


 床に叩きつけられた白い鐘は、澄んだ音を出さなかった。


 潰れた金属の悲鳴だけを響かせた。


 王火炉の炎が、一段高くなった。


 ドワーフたちの髭が熱で揺れる。


 炉心区画にいた人類兵が後ずさった。


 彼らは初めて理解し始めていた。


 この場所は、彼らの要塞ではない。


 彼らが立っているのは、奪った火の口の中だ。


「監督長オルドはどこだ」


 ボルガンが問う。


 返事はない。


 だが、捕虜から解放された坑夫の一人が、通路の奥を指した。


「捕虜区画側へ逃げた。焼却命令を出した奴だ」


 ボルガンの目が細くなる。


「生かせ」


 バルドが頷く。


「炉前へ連れてくる」


「そうしろ」


 その頃、監督長オルドは逃げていた。


 捕虜区画は崩れた。聖札制御室からの応答はない。炉心区画にはドワーフが踏み込んだ。ならば、司令部へ戻り、伯爵の兵を呼び込むべきだった。


 そう考えながら、彼は通路を走る。


 だが、グラド=ヴォルグの通路は人類の城の廊下ではない。


 同じように見える石壁。


 低い天井。


 分岐。


 傾斜。


 排熱用の隙間。


 鉱石運搬用の横穴。


 オルドには、どれが主通路でどれが脇道か分からなかった。


「こっちだ! 司令部はこっちだ!」


 彼は部下へ怒鳴る。


 だが、角を曲がった先にあったのは、閉じた鉄格子だった。


「なぜ閉まっている!」


 部下が聖札へ手を伸ばす。


 聖札は黒く沈んでいた。


 その背後で、石床が鳴る。


 こつん。


 オルドは振り返った。


 煤まみれのドワーフたちが立っていた。


 全員、首に首輪の跡がある。


 手には槌。


 鎖を引きずる者もいる。


 だが、その鎖はもう彼らを縛っていない。


 彼らが持つ武器になっていた。


「来るな、番号ども!」


 オルドは剣を抜く。


 誰も返事をしない。


 ドワーフたちは一歩ずつ近づく。


「お前たちは王国の所有物だ! 神火炉に仕える労働力だ! 逆らえば――」


 鎖が飛んだ。


 オルドの剣に絡み、引き落とす。別のドワーフが彼の膝裏を槌で叩く。崩れた体を、二人がかりで押さえ込む。


 オルドは叫んだ。


「やめろ! 私は監督長だぞ!」


 老坑夫が低く言う。


「知っている」


 若い鍛冶師が続けた。


「だから生かす」


 オルドの顔から血の気が引いた。


 殺されない。


 その事実が、彼にとって初めて恐怖になった。


 炉心区画へ引き戻されたオルドは、白い油の匂いと、鉄の熱の前に投げ出された。


 ボルガンは彼を見下ろした。


「捕虜区画に火を回す命令を出したな」


 オルドは震える。


「伯爵閣下の命令だ! 私は命令に従っただけだ!」


「従ったのか」


 ボルガンは槌を持ち上げない。


 ただ問う。


「なら、その命令を証言しろ」


「する! 証言する! だから命だけは――」


「命の話はしていない」


 オルドは言葉を失った。


 ボルガンは炉の方へ視線を向ける。


「お前が番号で呼んだ者の名を言え」


「な、何を……」


「鍛冶師七十二名。徒弟百三十九名。坑夫二百四十六名。管理していたのだろう。言え」


 オルドの喉が鳴る。


「そ、そんなもの、番号で管理していた。名など――」


 捕虜ドワーフたちの気配が、静かに冷えた。


 怒りではない。


 それより重いものだった。


 ボルガンは言った。


「では覚えろ」


 ネルドが解除した首輪を、オルドの前へ積み上げる。


 番号札がついた鉄環。


 ひとつ、またひとつ。


 床へ重い音を立てて落ちる。


「お前はこれから、全員の名を聞く。番号で呼んだ口に、名を刻め」


 オルドは震えた。


 殺しではない。


 だが、それは彼がしてきた支配を、炉の前で逆さに吊るす行為だった。


 ボルガンは部下に命じる。


「縛れ。逃がすな。証言も名も取る」


「御意」


 オルドは引きずられていった。


 その間にも、ネルドは聖印杭を外し続けている。


 一本目。


 白い光が消え、杭が抜けた。


 王火炉の炎が赤みを増す。


 二本目。


 炉の奥で、低い唸りが響く。


 ガンツはその音を聞いていた。


 怖い。


 だが、逃げたいとは思わなかった。


 炉が怒っている。


 炉が泣いている。


 炉が、自分たちを覚えている。


「三本目は深い」


 ネルドが言った。


「鉱山技師が補強してる。無理に抜くと炉縁が欠けます」


 ボルガンは視線を鋭くする。


「セヴランだな」


 バルドが頷いた。


「鉱山技師セヴラン。王火炉の下に冷却管を入れた男だ。炉を生産設備と呼んだ」


 ボルガンの拳が鳴る。


「そいつも生かして捕らえろ」


 その時、上層から爆ぜるような音が響いた。


 遠くの司令部側。


 何かが閉じられた音だった。


 エルミアの影鴉が、黒曜王都から届かぬはずの情報を、玉座の黒紋を通じて映した。


 旧王工匠組合館。


 アルベリク・ダイン伯爵は、すでに異変を知っていた。


 彼は長卓の上の図面と帳簿を抱え込ませ、側近兵に命じている。


「第三防御帯を閉じろ。炉心区画へ続く通路を落とせ。セヴランを呼べ。リカードは捨ててよい」


 側近が青ざめる。


「炉心を放棄なさるのですか」


「炉そのものは持ち出せん。だが、技術者と帳簿は持ち出せる。鉱脈図、聖印改造図、砲弾鋳型、捕虜名簿、売却予定表。すべて運べ」


「捕虜は」


「奪われたものは諦める。残りの区画にいる者は処分しろ」


 その声に、慈悲はない。


 信仰すらない。


 損失を切り捨てる商人の冷たさだけがあった。


 アルベリクは外套を翻す。


「西側搬出軌道を使う。正面門の兵には、敵は外にいると思わせておけ。時間を稼がせる」


「伯爵閣下、炉司祭リカードは――」


「聖教会には、殉教したと書く」


 アルベリクはそう言った。


 リカードが聞けば絶叫しただろう。


 だが、炉司祭は炉心区画で捕らわれつつあった。


 黒曜王都の玉座で、レイヴァルトは薄く目を細めた。


「逃げるか」


 エルミアが問う。


「追わせますか」


「ボルガンが追う」


「外へ逃げ切る可能性は」


「逃げ切らせない」


 レイヴァルトの声は短い。


 玉座の影が、グラド=ヴォルグの地図に落ちる。


「だが、捕らえる手はドワーフのものだ」


 炉心区画では、リカードが床に押さえつけられていた。


 聖印を握る手は縛られ、祈祷書は取り上げられている。白衣は煤に汚れ、顔は恐怖で歪んでいた。


「私は聖教会の炉司祭だ! 私に危害を加えれば、神罰が――」


 ボルガンは彼の前に、落ちた白い銘板を置いた。


 神火炉。


 その文字が煤で汚れている。


「読め」


 リカードは唇を震わせた。


「……神火炉」


 次の瞬間、王火炉の火が低く唸った。


 ボルガンは槌を持ち上げなかった。


 ただ、リカードの顔を見た。


「違う」


 リカードは呼吸を荒くする。


「神火炉だ! 聖教会が清め、神の火として――」


 バルドが白い銘板の裏を見せた。


 そこには、削り残された古い文字の跡があった。


 王。


 深く、黒く、消えずに残った一字。


 リカードの目が、そこに吸い寄せられる。


 ボルガンが言う。


「読め」


「……」


「読め」


 リカードの喉が震えた。


 信仰があるなら、拒むべきだったのだろう。


 だが、彼の背後では聖油が沈黙し、白い鐘が潰れ、聖印杭は抜かれ、火は赤を取り戻し始めている。


 彼の神は、この炉で沈黙していた。


「お、王……」


「全部だ」


 リカードは床に額をつけるようにして、掠れた声を出した。


「王火炉……」


 炉心区画に、沈黙が落ちた。


 その名を、人類の司祭が口にした。


 謝罪ではない。


 悔悟でもない。


 恐怖に押し出された言葉。


 だが、それで十分だった。


 名は戻り始めた。


 ボルガンは白い銘板を掴み、炉の前へ進む。


 ガンツが見ている。


 ネルドも、バルドも、救出された鍛冶師たちも見ている。


 ボルガンは「神火炉」の銘板を床に置いた。


 槌を振り上げる。


 一打。


 銘板に亀裂が入る。


 二打。


 神、の字が砕ける。


 三打。


 白い石板は粉々になった。


 王火炉の炎が、ごう、と立ち上がる。


 熱が炉心区画全体を満たした。


 聖油の白い匂いが焼け散り、鐘の残響が消え、壁に刻まれた王工匠たちの名が赤く照らされた。


 ドワーフたちは誰も歓声を上げなかった。


 代わりに、全員が槌を床へ置いた。


 静かに。


 重く。


 炉へ、名を返すために。


 ボルガンは炎を見上げた。


「王火炉」


 バルドが続く。


「王火炉」


 ネルドが言う。


「王火炉」


 ガンツも、震える声で言った。


「王火炉」


 捕虜だった者たちが、ひとりずつ名を呼ぶ。


 王火炉。


 王火炉。


 王火炉。


 その声が重なるたび、炉の火は赤を取り戻していく。


 まだ完全ではない。


 三本目の聖印杭が残っている。


 冷却管も残っている。


 炉心の奥に、人類の技師が仕込んだ制御具がまだ噛んでいる。


 だが、名は戻り始めた。


 ボルガンは振り返る。


「リカードを縛れ。聖教会の聖油、聖印杭、炉への干渉命令を吐かせる」


 ドワーフたちがリカードを引きずる。


「オルドは名を覚えさせろ。逃がすな」


「御意」


「セヴランを捕らえる。三本目の杭を壊すには、奴の図面が要る」


 バルドが顔を上げた。


「アルベリクは」


 ボルガンの目が冷たくなる。


「逃げる」


 その場にいた全員が、理解した。


 アルベリク・ダイン伯爵は、炉を信仰していない。


 職人を人とも見ていない。


 鉱山を誇りとも思っていない。


 だから逃げる。


 持ち出せる利益だけを抱え、残りを焼いて捨てる。


 ボルガンはそれを読んでいた。


「西側搬出軌道だ」


 彼は言った。


「鉱石を出すための道を、自分が逃げる道にしたか」


 バルドが片目を細める。


「あそこは荷重制御を知らん者が走れば、車輪ごと落ちる」


「落とすな」


 ボルガンは短く言った。


「殺すな。王の命だ」


 ドワーフたちは頷いた。


 殺したい。


 その思いは全員にある。


 だが、殺すだけでは足りない。


 アルベリクには、炉前で名を聞かせる必要がある。


 奪ったものの数を数えさせる必要がある。


 聖別砲弾がどこへ送られ、誰が命じ、どの貴族が利益を得たかを吐かせる必要がある。


 復讐は、まだ途中だった。


 遠くで、搬出軌道の鐘が鳴る。


 人類側が退避用の鉱車を動かした音だった。


 ボルガンは槌を肩に担ぐ。


「炉はバルドが守れ。ネルド、三本目の杭から目を離すな。ガンツ、ここに残って名を聞け」


 ガンツが顔を上げた。


「俺も行きます」


「駄目だ」


 即答だった。


「お前は徒弟だ。今見るべきものは、逃げる伯爵の背中ではない。戻りかけた炉の火だ」


 ガンツは唇を噛み、頷いた。


「……はい」


 ボルガンは振り返らない。


「バルド」


「何だ」


「炉を死なせるな」


 バルドは槌を握り直した。


「死なせるものか」


 ボルガン率いるドワーフたちは、炉心区画を出た。


 その背後で、王火炉の火が燃えている。


 白い銘板は砕けた。


 白い鐘は落ちた。


 聖油は沈黙した。


 二本の聖印杭は抜かれた。


 人類の司祭は、王火炉の名を口にした。


 だが、グラド=ヴォルグはまだ完全には戻っていない。


 正面門には白い鎖が残っている。


 外壁には人類の旗が残っている。


 司令部にはアルベリクがいる。


 鉱石搬出軌道では、逃げるための車輪が回り始めている。


 黒曜王都の玉座で、レイヴァルトはその流れを見ていた。


 薄く、冷たく笑う。


「逃げ道を選んだか」


 エルミアが静かに問う。


「塞ぎますか」


「いや」


 レイヴァルトは言った。


「逃げ道は、罠に変わる」


 グラド=ヴォルグの西側。


 かつて鉱石を運び出した搬出軌道に、アルベリク・ダイン伯爵の退避鉱車が滑り出そうとしていた。


 伯爵は帳簿箱を抱えた兵を怒鳴りつける。


「早く出せ! 炉心は失ったが、図面と技師があれば再建できる!」


 その後ろで、鉱山技師セヴランが青ざめた顔で連れてこられる。


「伯爵閣下、軌道の支柱確認がまだ――」


「黙れ。お前は生きていればいい」


「しかし、この軌道はドワーフの荷重計算で――」


 言葉は、途中で止まった。


 遠く、石壁の奥から槌音が響いたからだ。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 セヴランの顔から血の気が引く。


「……まずい」


 アルベリクが睨む。


「何がだ」


 セヴランは震える声で言った。


「この軌道は、山の音で止まります」


 次の瞬間、搬出軌道の下で、古い制動鎖が目を覚ました。


 車輪が悲鳴を上げる。


 退避鉱車は、谷へ出る寸前で止まった。


 前へも進めず、後ろへも戻れない。


 暗い軌道の奥から、槌音が近づいてくる。


 アルベリク・ダイン伯爵は、初めて理解した。


 自分は都市を奪ったのではない。


 都市の中へ、入り込んでしまっていたのだ。


 そしてその都市は今、ドワーフの手で目を覚ましている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ