第34話「ドワーフの復讐」
炉心区画は、グラド=ヴォルグの心臓だった。
岩盤をくり抜いた巨大な円形空間。
天井は高く、山の奥へ煙を逃がす排気孔が何本も伸びている。床には古い火紋が刻まれ、壁には歴代の王工匠たちの名が並んでいた。
その中央に、王火炉がある。
かつて慈悲王アルヴァーンが火を入れた炉。
ドワーフたちが、火と鉄と誓いを捧げて守り続けた炉。
今、その炉の前に白い祭壇が置かれていた。
聖教会の布。
聖油の壺。
白い鐘。
祈祷書。
聖印杭。
炉の縁に打ち込まれた白銀の留め具。
そして、古い銘板の上に掛けられた新しい板。
――神火炉。
ボルガンはそれを見た。
目だけが、赤く燃えていた。
彼の背後に、ドワーフたちが続く。
バルド、ネルド、ガンツ、救出された鍛冶師たち、坑夫たち。まだ首輪の跡が残る者もいる。鎖を引きずったままの者もいる。火傷を負い、足を引きずる者もいる。
それでも、彼らは炉の前で膝をつかなかった。
ドワーフは火に祈らない。
火を守る。
奪われた火を、奪い返す。
「止まれ、異形ども!」
炉司祭リカードが聖印を掲げた。
顔は青ざめている。だが、聖教会の白衣をまとったまま、なお自分がこの場の支配者であるかのように叫ぶ。
「ここは神火炉の聖域だ! 魔王に仕えた野蛮な炉は、すでに神の火として清められた! お前たちに触れる権利はない!」
ボルガンは歩みを止めなかった。
白い鐘が鳴る。
甲高く、不自然な音だった。
炉の炎が揺らぐ。
赤い火の奥へ、白い膜のようなものが広がる。聖油が燃え、聖印が光り、炉の周囲に張られた結界が熱を押さえ込もうとした。
リカードは声を張り上げる。
「見よ! 神火炉は神の名に従う! 異形の王の火など、もはや――」
ボルガンの槌が、床を打った。
どん、と。
それだけで、炉心区画の空気が変わった。
白い鐘の音がわずかに歪む。
王火炉の奥で、黒鉄色の炎が脈打った。
「王火炉だ」
ボルガンの声は低かった。
「その名を、もう一度間違えるな」
リカードは後ずさる。
それでも、聖印を掲げ直した。
「兵! 炉を守れ! 神火炉へ近づけるな!」
王国兵たちが前へ出る。
だが、そこは炉心区画だった。
広く見えて、実際には炉、溝、灰路、金属型、排熱孔、鍛造台が複雑に並んでいる。剣を振るための場所ではない。隊列を組むための場所でもない。
火を扱う者のための場所だ。
バルドが片目を細める。
「右の灰路、開くぞ」
坑夫が頷いた。
床に埋め込まれた古い鉄輪へ槌を入れる。人類が作業台を上に置いて塞いでいた場所だ。作業台を支えていた脚に楔が打ち込まれ、わずかに角度が変わる。
次の瞬間、王国兵の足元の床板が沈んだ。
深くはない。
ただ膝まで落ちる程度。
だが、隊列を崩すには十分だった。
兵が悲鳴を上げる。後ろから押された者が前へ倒れる。剣が炉縁に当たり、火花が散る。
その隙に、ドワーフたちは動いた。
短槌が剣を叩き落とす。鎖が足を絡める。鍛冶師の肩が兵士の腹へ入り、石壁へ押しつける。
誰も無駄に叫ばない。
復讐は怒号ではない。
ひとつずつ、奪った者の力を奪い返す作業だった。
ネルドは、首輪を外したばかりの徒弟たちへ叫ぶ。
「聖印杭には触るな! 熱を見ろ! 白く光ったら下がれ!」
彼は炉の周囲へ駆けた。
王火炉の根元に、三本の聖印杭が打ち込まれている。
炉心の熱を縛り、聖油の燃えを強制的に混ぜるための杭だった。杭の根元には、人類側の鉱山技師が取り付けた冷却管が伸びている。
ネルドは歯を食いしばった。
「炉を、首輪みたいに……」
獣人の首輪。
ドワーフの首輪。
そして今、炉の首輪。
構造は同じだった。
奪ったものへ番号をつけ、名を消し、従わせるための仕組み。
ネルドの手が震える。
その肩を、バルドが叩いた。
「震えるな。震えるなら、槌を持て」
ネルドは息を吸った。
「はい」
彼は鑿を構え、杭の根元へ差し込む。
無理に抜けば炉の縁が割れる。
だから、まず聖印の噛み合わせを殺す。
刻みを読む。
火の通りを読む。
鉄の癖を読む。
ネルドは低く呟く。
「外側は聖教会式。中は鉱山技師の補強。継ぎ目は……ここだ」
小槌が一度鳴る。
白い光が走った。
ガンツが息を呑む。
ネルドは手を引かない。
もう一度、槌を打つ。
聖印杭の光が濁る。
王火炉の炎が、奥からゆっくりと赤を取り戻し始めた。
リカード司祭が叫ぶ。
「やめろ! 神火炉の聖印を壊すな!」
ボルガンがそちらを向いた。
リカードは聖印を掲げ、聖句を唱えようとする。
だが、その舌は途中で止まった。
ボルガンの槌が、リカードの足元の白い祭壇を打ったからだ。
祭壇が割れた。
聖油の壺が倒れ、白い油が床へ流れる。
ボルガンはその油を見下ろした。
「火を知らん者が、油を注ぐな」
彼は腰から黒い粉袋を取り出し、白い油の上へ撒いた。
火消し粉。
聖油は、じゅう、と嫌な音を立て、白い煙を上げて沈黙した。
リカードの顔が歪む。
「冒涜だ……!」
「冒涜」
ボルガンはその言葉を繰り返した。
「お前が言うか」
彼は白い鐘を見上げた。
王火炉の上に吊るされた鐘。
ドワーフの工房に、本来あのような鐘は要らない。火を測るのは音ではなく、色、熱、揺らぎ、鉄の鳴りだ。人類はそれを知らず、聖なる音で火を従わせようとした。
ボルガンは隣の鍛冶師へ顎を動かした。
「鎖を切れ」
鍛冶師が灰路を渡り、鐘を吊るす白銀鎖へ登る。兵が弩を向けようとしたが、バルドの槌がその腕を叩き落とした。
鐘がもう一度鳴った。
今度は震えている。
まるで、自分が落とされることを知っているように。
鍛冶師の鑿が鎖へ入る。
一打。
二打。
三打。
白銀鎖が切れた。
鐘が落ちる。
床に叩きつけられた白い鐘は、澄んだ音を出さなかった。
潰れた金属の悲鳴だけを響かせた。
王火炉の炎が、一段高くなった。
ドワーフたちの髭が熱で揺れる。
炉心区画にいた人類兵が後ずさった。
彼らは初めて理解し始めていた。
この場所は、彼らの要塞ではない。
彼らが立っているのは、奪った火の口の中だ。
「監督長オルドはどこだ」
ボルガンが問う。
返事はない。
だが、捕虜から解放された坑夫の一人が、通路の奥を指した。
「捕虜区画側へ逃げた。焼却命令を出した奴だ」
ボルガンの目が細くなる。
「生かせ」
バルドが頷く。
「炉前へ連れてくる」
「そうしろ」
その頃、監督長オルドは逃げていた。
捕虜区画は崩れた。聖札制御室からの応答はない。炉心区画にはドワーフが踏み込んだ。ならば、司令部へ戻り、伯爵の兵を呼び込むべきだった。
そう考えながら、彼は通路を走る。
だが、グラド=ヴォルグの通路は人類の城の廊下ではない。
同じように見える石壁。
低い天井。
分岐。
傾斜。
排熱用の隙間。
鉱石運搬用の横穴。
オルドには、どれが主通路でどれが脇道か分からなかった。
「こっちだ! 司令部はこっちだ!」
彼は部下へ怒鳴る。
だが、角を曲がった先にあったのは、閉じた鉄格子だった。
「なぜ閉まっている!」
部下が聖札へ手を伸ばす。
聖札は黒く沈んでいた。
その背後で、石床が鳴る。
こつん。
オルドは振り返った。
煤まみれのドワーフたちが立っていた。
全員、首に首輪の跡がある。
手には槌。
鎖を引きずる者もいる。
だが、その鎖はもう彼らを縛っていない。
彼らが持つ武器になっていた。
「来るな、番号ども!」
オルドは剣を抜く。
誰も返事をしない。
ドワーフたちは一歩ずつ近づく。
「お前たちは王国の所有物だ! 神火炉に仕える労働力だ! 逆らえば――」
鎖が飛んだ。
オルドの剣に絡み、引き落とす。別のドワーフが彼の膝裏を槌で叩く。崩れた体を、二人がかりで押さえ込む。
オルドは叫んだ。
「やめろ! 私は監督長だぞ!」
老坑夫が低く言う。
「知っている」
若い鍛冶師が続けた。
「だから生かす」
オルドの顔から血の気が引いた。
殺されない。
その事実が、彼にとって初めて恐怖になった。
炉心区画へ引き戻されたオルドは、白い油の匂いと、鉄の熱の前に投げ出された。
ボルガンは彼を見下ろした。
「捕虜区画に火を回す命令を出したな」
オルドは震える。
「伯爵閣下の命令だ! 私は命令に従っただけだ!」
「従ったのか」
ボルガンは槌を持ち上げない。
ただ問う。
「なら、その命令を証言しろ」
「する! 証言する! だから命だけは――」
「命の話はしていない」
オルドは言葉を失った。
ボルガンは炉の方へ視線を向ける。
「お前が番号で呼んだ者の名を言え」
「な、何を……」
「鍛冶師七十二名。徒弟百三十九名。坑夫二百四十六名。管理していたのだろう。言え」
オルドの喉が鳴る。
「そ、そんなもの、番号で管理していた。名など――」
捕虜ドワーフたちの気配が、静かに冷えた。
怒りではない。
それより重いものだった。
ボルガンは言った。
「では覚えろ」
ネルドが解除した首輪を、オルドの前へ積み上げる。
番号札がついた鉄環。
ひとつ、またひとつ。
床へ重い音を立てて落ちる。
「お前はこれから、全員の名を聞く。番号で呼んだ口に、名を刻め」
オルドは震えた。
殺しではない。
だが、それは彼がしてきた支配を、炉の前で逆さに吊るす行為だった。
ボルガンは部下に命じる。
「縛れ。逃がすな。証言も名も取る」
「御意」
オルドは引きずられていった。
その間にも、ネルドは聖印杭を外し続けている。
一本目。
白い光が消え、杭が抜けた。
王火炉の炎が赤みを増す。
二本目。
炉の奥で、低い唸りが響く。
ガンツはその音を聞いていた。
怖い。
だが、逃げたいとは思わなかった。
炉が怒っている。
炉が泣いている。
炉が、自分たちを覚えている。
「三本目は深い」
ネルドが言った。
「鉱山技師が補強してる。無理に抜くと炉縁が欠けます」
ボルガンは視線を鋭くする。
「セヴランだな」
バルドが頷いた。
「鉱山技師セヴラン。王火炉の下に冷却管を入れた男だ。炉を生産設備と呼んだ」
ボルガンの拳が鳴る。
「そいつも生かして捕らえろ」
その時、上層から爆ぜるような音が響いた。
遠くの司令部側。
何かが閉じられた音だった。
エルミアの影鴉が、黒曜王都から届かぬはずの情報を、玉座の黒紋を通じて映した。
旧王工匠組合館。
アルベリク・ダイン伯爵は、すでに異変を知っていた。
彼は長卓の上の図面と帳簿を抱え込ませ、側近兵に命じている。
「第三防御帯を閉じろ。炉心区画へ続く通路を落とせ。セヴランを呼べ。リカードは捨ててよい」
側近が青ざめる。
「炉心を放棄なさるのですか」
「炉そのものは持ち出せん。だが、技術者と帳簿は持ち出せる。鉱脈図、聖印改造図、砲弾鋳型、捕虜名簿、売却予定表。すべて運べ」
「捕虜は」
「奪われたものは諦める。残りの区画にいる者は処分しろ」
その声に、慈悲はない。
信仰すらない。
損失を切り捨てる商人の冷たさだけがあった。
アルベリクは外套を翻す。
「西側搬出軌道を使う。正面門の兵には、敵は外にいると思わせておけ。時間を稼がせる」
「伯爵閣下、炉司祭リカードは――」
「聖教会には、殉教したと書く」
アルベリクはそう言った。
リカードが聞けば絶叫しただろう。
だが、炉司祭は炉心区画で捕らわれつつあった。
黒曜王都の玉座で、レイヴァルトは薄く目を細めた。
「逃げるか」
エルミアが問う。
「追わせますか」
「ボルガンが追う」
「外へ逃げ切る可能性は」
「逃げ切らせない」
レイヴァルトの声は短い。
玉座の影が、グラド=ヴォルグの地図に落ちる。
「だが、捕らえる手はドワーフのものだ」
炉心区画では、リカードが床に押さえつけられていた。
聖印を握る手は縛られ、祈祷書は取り上げられている。白衣は煤に汚れ、顔は恐怖で歪んでいた。
「私は聖教会の炉司祭だ! 私に危害を加えれば、神罰が――」
ボルガンは彼の前に、落ちた白い銘板を置いた。
神火炉。
その文字が煤で汚れている。
「読め」
リカードは唇を震わせた。
「……神火炉」
次の瞬間、王火炉の火が低く唸った。
ボルガンは槌を持ち上げなかった。
ただ、リカードの顔を見た。
「違う」
リカードは呼吸を荒くする。
「神火炉だ! 聖教会が清め、神の火として――」
バルドが白い銘板の裏を見せた。
そこには、削り残された古い文字の跡があった。
王。
深く、黒く、消えずに残った一字。
リカードの目が、そこに吸い寄せられる。
ボルガンが言う。
「読め」
「……」
「読め」
リカードの喉が震えた。
信仰があるなら、拒むべきだったのだろう。
だが、彼の背後では聖油が沈黙し、白い鐘が潰れ、聖印杭は抜かれ、火は赤を取り戻し始めている。
彼の神は、この炉で沈黙していた。
「お、王……」
「全部だ」
リカードは床に額をつけるようにして、掠れた声を出した。
「王火炉……」
炉心区画に、沈黙が落ちた。
その名を、人類の司祭が口にした。
謝罪ではない。
悔悟でもない。
恐怖に押し出された言葉。
だが、それで十分だった。
名は戻り始めた。
ボルガンは白い銘板を掴み、炉の前へ進む。
ガンツが見ている。
ネルドも、バルドも、救出された鍛冶師たちも見ている。
ボルガンは「神火炉」の銘板を床に置いた。
槌を振り上げる。
一打。
銘板に亀裂が入る。
二打。
神、の字が砕ける。
三打。
白い石板は粉々になった。
王火炉の炎が、ごう、と立ち上がる。
熱が炉心区画全体を満たした。
聖油の白い匂いが焼け散り、鐘の残響が消え、壁に刻まれた王工匠たちの名が赤く照らされた。
ドワーフたちは誰も歓声を上げなかった。
代わりに、全員が槌を床へ置いた。
静かに。
重く。
炉へ、名を返すために。
ボルガンは炎を見上げた。
「王火炉」
バルドが続く。
「王火炉」
ネルドが言う。
「王火炉」
ガンツも、震える声で言った。
「王火炉」
捕虜だった者たちが、ひとりずつ名を呼ぶ。
王火炉。
王火炉。
王火炉。
その声が重なるたび、炉の火は赤を取り戻していく。
まだ完全ではない。
三本目の聖印杭が残っている。
冷却管も残っている。
炉心の奥に、人類の技師が仕込んだ制御具がまだ噛んでいる。
だが、名は戻り始めた。
ボルガンは振り返る。
「リカードを縛れ。聖教会の聖油、聖印杭、炉への干渉命令を吐かせる」
ドワーフたちがリカードを引きずる。
「オルドは名を覚えさせろ。逃がすな」
「御意」
「セヴランを捕らえる。三本目の杭を壊すには、奴の図面が要る」
バルドが顔を上げた。
「アルベリクは」
ボルガンの目が冷たくなる。
「逃げる」
その場にいた全員が、理解した。
アルベリク・ダイン伯爵は、炉を信仰していない。
職人を人とも見ていない。
鉱山を誇りとも思っていない。
だから逃げる。
持ち出せる利益だけを抱え、残りを焼いて捨てる。
ボルガンはそれを読んでいた。
「西側搬出軌道だ」
彼は言った。
「鉱石を出すための道を、自分が逃げる道にしたか」
バルドが片目を細める。
「あそこは荷重制御を知らん者が走れば、車輪ごと落ちる」
「落とすな」
ボルガンは短く言った。
「殺すな。王の命だ」
ドワーフたちは頷いた。
殺したい。
その思いは全員にある。
だが、殺すだけでは足りない。
アルベリクには、炉前で名を聞かせる必要がある。
奪ったものの数を数えさせる必要がある。
聖別砲弾がどこへ送られ、誰が命じ、どの貴族が利益を得たかを吐かせる必要がある。
復讐は、まだ途中だった。
遠くで、搬出軌道の鐘が鳴る。
人類側が退避用の鉱車を動かした音だった。
ボルガンは槌を肩に担ぐ。
「炉はバルドが守れ。ネルド、三本目の杭から目を離すな。ガンツ、ここに残って名を聞け」
ガンツが顔を上げた。
「俺も行きます」
「駄目だ」
即答だった。
「お前は徒弟だ。今見るべきものは、逃げる伯爵の背中ではない。戻りかけた炉の火だ」
ガンツは唇を噛み、頷いた。
「……はい」
ボルガンは振り返らない。
「バルド」
「何だ」
「炉を死なせるな」
バルドは槌を握り直した。
「死なせるものか」
ボルガン率いるドワーフたちは、炉心区画を出た。
その背後で、王火炉の火が燃えている。
白い銘板は砕けた。
白い鐘は落ちた。
聖油は沈黙した。
二本の聖印杭は抜かれた。
人類の司祭は、王火炉の名を口にした。
だが、グラド=ヴォルグはまだ完全には戻っていない。
正面門には白い鎖が残っている。
外壁には人類の旗が残っている。
司令部にはアルベリクがいる。
鉱石搬出軌道では、逃げるための車輪が回り始めている。
黒曜王都の玉座で、レイヴァルトはその流れを見ていた。
薄く、冷たく笑う。
「逃げ道を選んだか」
エルミアが静かに問う。
「塞ぎますか」
「いや」
レイヴァルトは言った。
「逃げ道は、罠に変わる」
グラド=ヴォルグの西側。
かつて鉱石を運び出した搬出軌道に、アルベリク・ダイン伯爵の退避鉱車が滑り出そうとしていた。
伯爵は帳簿箱を抱えた兵を怒鳴りつける。
「早く出せ! 炉心は失ったが、図面と技師があれば再建できる!」
その後ろで、鉱山技師セヴランが青ざめた顔で連れてこられる。
「伯爵閣下、軌道の支柱確認がまだ――」
「黙れ。お前は生きていればいい」
「しかし、この軌道はドワーフの荷重計算で――」
言葉は、途中で止まった。
遠く、石壁の奥から槌音が響いたからだ。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
セヴランの顔から血の気が引く。
「……まずい」
アルベリクが睨む。
「何がだ」
セヴランは震える声で言った。
「この軌道は、山の音で止まります」
次の瞬間、搬出軌道の下で、古い制動鎖が目を覚ました。
車輪が悲鳴を上げる。
退避鉱車は、谷へ出る寸前で止まった。
前へも進めず、後ろへも戻れない。
暗い軌道の奥から、槌音が近づいてくる。
アルベリク・ダイン伯爵は、初めて理解した。
自分は都市を奪ったのではない。
都市の中へ、入り込んでしまっていたのだ。
そしてその都市は今、ドワーフの手で目を覚ましている。




