第33話「地下からの逆襲」
黒鎚坑道は、地図に載らない道だった。
それは逃げ道ではない。
攻め道でもない。
炉が死にかけた時、鍛冶師が最後に炉心へ戻るための道である。
グラド=ヴォルグを築いた初代の王工匠たちは、火をただ燃やすものとは考えなかった。火は息をする。怒る。眠る。飢える。暴れる。鉄を鍛える者は、火の前に立つのではない。火の呼吸に合わせて、自分の呼吸を変える。
だから、王火炉には心臓へ至る道が必要だった。
正面門が落ちても、外郭が崩れても、鉱道が塞がれても、炉の火が完全に消える前に職人が戻るための道。
それが黒鎚坑道だった。
入り口は岩壁ではない。
山の記憶そのものに隠されている。
人間がいくら壁を叩いても開かない。魔術で探っても、ただの硬い岩として返る。聖印を貼っても意味がない。そこに扉があると知っている者だけが、正しい槌音で山へ呼びかけられる。
ひとつは、火を問う音。
ふたつは、鉄を呼ぶ音。
みっつは、名を返す音。
その三打に、山が応えた。
黒曜王都の地下から開いた黒鎚坑道は、冷たい闇を吐き出していた。
ボルガンは先頭に立った。
手には戦斧ではなく、古い鍛冶槌。鎧は黒鉄。背には短柄の戦槌。腰には楔、鉄杭、細い鎖、折り畳み式の支柱抜き、聖印を剥がすための刻み鑿が差してある。
彼の後ろには、選ばれたドワーフたちが続く。
戦士だけではない。
坑夫、鍛冶師、石工、排熱職人、水路番、軌道師、そしてネルド。
武器を持つ者よりも、工具を持つ者の方が多かった。
それが、ドワーフの戦だった。
斬るためではなく、崩すため。
燃やすためではなく、火の向きを変えるため。
壊すためではなく、奪われたものを取り戻すため。
彼らは声を出さずに進んだ。
足音は重い。だが、乱れない。
坑道の床は古く、ところどころ水が染み出している。壁面には黒く焼けた古い火印が刻まれ、天井には排熱のための細い溝が走っていた。
ネルドが小声で言う。
「ここ、まだ生きてるんですか」
ボルガンは振り返らない。
「死んだ坑道は湿った匂いしかしねえ。ここは鉄の匂いがする」
「鉄の匂い……」
「山が覚えている証だ」
ネルドは黙った。
彼は獣人収容地で首輪を壊した。聖印入りの拘束具を見た。人類が異種族の身体をどう扱うかを見た。
だが、グラド=ヴォルグはそれとは違う。
ここでは身体だけではない。
炉の名が奪われている。
鍛冶師の手が奪われている。
槌が、敵のために振らされている。
ネルドの指が、腰の小槌を握った。
ボルガンはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
怒りを持つなとは言わない。
ただ、怒りに持たれるな。
それは、ドワーフが鉄から学ぶことだった。
最初の封鎖扉が現れた。
岩盤が横に噛み合い、目で見ただけでは隙間も継ぎ目も分からない。人類が見れば、ただの行き止まりと判断しただろう。
ボルガンは壁へ耳を当てた。
少しの間、動かない。
やがて、彼は左の拳を上げた。
後ろのドワーフたちが止まる。
ボルガンは槌で壁を叩いた。
低く、一度。
返事はない。
今度は、少し上を叩く。
やはり返事はない。
三度目、彼は膝の高さを叩いた。
奥から、かすかな音が返った。
こつん。
ネルドには、それが石の軋みにしか聞こえなかった。
だが、ボルガンは頷いた。
「右下の歯が錆びている。支えを抜く」
石工のドワーフが前へ出る。細い鑿を差し込み、木の楔ではなく、黒鉄の楔を打つ。音は柔らかく抑えられていた。硬いものを打っているのに、不思議なほど響かない。
やがて、岩盤が指一本分だけ沈んだ。
扉は開かない。
だが、それで十分だった。
排熱職人が細い管を差し込み、息を吹く。
管の先から戻ってきた煙の流れを、ボルガンが手の甲で受ける。
「向こうは上り。煙が詰まっている。人間どもが通風を塞いだせいだな」
彼は地図を見ない。
山を読んでいる。
「この先で、奴らの第二防御帯の下を抜ける。聖札は上に貼ってあるだけだ。岩盤の腹までは届いていない」
ネルドが呟く。
「聖教会の結界は」
「炉と門には効く。祈る連中にはな」
ボルガンは低く笑った。
「だが、石は祈らん」
扉が開いた。
黒鎚坑道の奥に、さらに深い闇が続いている。
その頃、グラド=ヴォルグの捕虜区画では、鎖の音がいつもより多かった。
人類の監督長オルドは、それを不快そうに聞いていた。
「静かにしろ、番号ども」
鞭が石床を叩く。
ドワーフたちは顔を伏せた。
誰も逆らわない。
逆らえば殴られる。鎖を締められる。首輪の聖印を焼かれる。炉心区画へ連れて行かれ、過酷な作業に戻される。
だから、彼らは逆らわないふりをした。
鎖が鳴る。
一度。
別の鎖が答える。
二度。
鉄箱が床を擦る。
三度。
監督官には、疲れた奴隷が荷を引きずっているようにしか聞こえない。
バルドには、はっきりと聞こえていた。
捕虜区画の外通路。油槽が二つ。火入れ役が三人。聖札制御室からの導火符あり。
人類は、捕虜を奪還される前に焼くつもりでいる。
バルドは槌を持てない。
腕は鎖で制限されている。首輪が聖印で縛っている。片目は霞み、背中は痛む。だが、耳は死んでいない。
彼は炉の鼓動を聞く。
王火炉の奥底で、火が濁っている。
白い油と祈りに押し潰されながら、まだ赤い芯を残している。
そして、それとは別に。
遠い岩盤の奥から、懐かしい響きが近づいている。
槌の音だ。
戦太鼓ではない。
職人の槌音。
バルドは少年ガンツを見た。
ガンツは震えている。
恐怖ではない。怒りでもない。
声を出してはいけない場で、叫びを胸の中に押し込んでいる震えだった。
バルドは唇だけで言った。
――覚えろ。
ガンツは頷く。
――王火炉。
少年も唇だけで返す。
――王火炉。
その時、捕虜区画の外で人類兵が走った。
「監督長! 下層排煙路の熱が上がっています!」
オルドが舌打ちする。
「またか。通風孔を閉じたせいだろう。技師を呼べ」
「セヴラン技師は司令部です」
「なら下級技師でいい。火を回す準備は終わっているな」
「はい。伯爵閣下の命令どおり、導火符は聖札制御室に接続済みです」
バルドの目が細くなった。
導火符。
聖札制御室。
火を回す命令はそこから出る。
彼は鎖をわずかに揺らした。
音は小さい。
だが、捕虜区画の奥へ伝わる。
そして、さらに下へ。
古い排熱洞へ。
黒鎚坑道を進むボルガンの足が止まった。
彼は手を上げる。
全員が止まる。
岩盤の向こうから、かすかな鎖音が落ちてきた。
こつ。
こつ、こつ。
少し間を置いて、こつ。
ネルドには意味が分からない。
だが、ボルガンの顔が変わった。
「導火符は聖札制御室。火口は捕虜区画外通路。油槽二つ。火入れ役三」
ネルドが息を呑む。
「分かるんですか」
「分かるように鳴らしている」
「誰が」
ボルガンは答えた。
「生きている職人だ」
その声に、わずかだけ熱が混じった。
だが、すぐに消える。
「第一目標を変更する。聖札制御室を先に潰す。捕虜区画はその後だ。油槽を奪われれば間に合わん」
ネルドが顔を上げた。
「でも、捕虜区画の首輪は」
「火を止めねば首輪ごと焼かれる」
「……はい」
ボルガンは後ろの部隊を二つに分けた。
ひとつは排熱洞を通り、捕虜区画下へ。
ひとつは彼自身が率い、聖札制御室の下へ向かう。
ネルドは捕虜区画側へ行きかけた。
だが、ボルガンが止める。
「お前は俺と来い」
「俺は首輪を」
「聖札制御室を落とせば、首輪の焼き込みも鈍る。先に根を切る」
ネルドは一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。
「分かりました」
黒鎚坑道は、途中から細い旧排熱洞へ分かれていた。
人間なら膝をついて進むほどの狭さだが、ドワーフにとっては十分な通路だった。天井は低く、壁は熱を帯びている。遠くで王火炉の鼓動が聞こえる。
どくん。
どくん。
白い鐘の音に縛られ、濁った鼓動。
ボルガンは歯を食いしばった。
「泣くなよ、古火」
誰に向けた言葉か、ネルドには分からなかった。
だが、王火炉へ向けていることだけは分かった。
「今、戻る」
聖札制御室は、旧水路調整室を改造した場所だった。
人類はそこに白い机を置き、聖札を並べ、導火符と鉄線を壁へ這わせている。捕虜区画の首輪、坑道入口の結界、炉心区画の聖印、油槽の点火符。それらを一括で管理する小さな中枢である。
守備兵は十二人。
下級司祭が二人。
火入れ役が三人。
彼らは緊張していたが、視線は扉と上の通路へ向いている。
足元には向いていない。
「伯爵閣下は本気で捕虜を焼く気か」
兵の一人が小声で言った。
「異形どもだ。焼いて何が悪い」
「だが、職人が減れば生産が」
「また捕まえればいい。ドワーフは山に湧くんだろ」
笑いが起きる。
下級司祭がたしなめるように言った。
「軽口を慎め。神火炉に仕える労働力は、神の御用のために管理されている。勝手な殺傷は許されん」
「でも焼く準備はある」
「神敵へ奪われるよりは清い」
その時、床の一部が沈んだ。
誰も気づかない。
人類が置いた机の下。白い布の陰。旧水路の蓋が、ほんのわずかにずれる。
そこから、細い黒鉄の管が差し込まれた。
煙は出ない。
音もない。
管の先から流れたのは、黒い粉だった。
ドワーフの火消し粉である。
水では消えない炉火の暴走を抑えるために作られた、鉱塩と灰と鉄粉を混ぜた古い粉。聖油の燃えを鈍らせ、導火符の火走りを重くする。
白い机の足元に、粉が静かに広がっていく。
火入れ役の一人が鼻を動かした。
「何か匂わないか」
次の瞬間、床が割れた。
いや、割れたのではない。
最初からそこは、外せる床だった。
人類が知らなかっただけである。
黒鉄の床板が下へ落ち、そこからドワーフが三人飛び出した。
一人が火入れ役の足を鎖で絡め取る。
一人が導火符の束へ鑿を打ち込む。
一人が下級司祭の口を塞ぎ、聖句を唱える前に床へ叩き伏せる。
兵士たちが剣を抜く。
「敵襲!」
叫びは続かなかった。
壁の向こうから、鈍い音が響いた。
ボルガンの槌音。
それは合図ではない。
命令だった。
旧水路の蓋が一斉に開く。
床下から、さらに十数人のドワーフが現れた。
彼らは広い剣を振り回さない。狭い室内で使うのは、短槌、鎖、楔、膝、肩。
兵士の膝に槌が入る。
剣を持つ手に鎖が絡む。
聖札を握った司祭の指に鉄輪が噛み、手首ごと机へ打ちつけられる。
ひとりの兵が油槽起動符へ手を伸ばした。
その腕を、ネルドが小槌で叩いた。
骨を砕くためではない。
手の力だけを抜く正確な一打だった。
起動符が床へ落ちる。
ネルドは即座にそれを踏み、腰の刻み鑿で聖印の中心を削った。
白い光が走る。
首輪で何度も見た光。
彼は歯を食いしばった。
「同じだ」
同じ構造。
異種族を縛る首輪と、捕虜区画を焼く符。
根は同じ。
祈りの形をした拘束。
神の名を使った脅し。
ネルドは鑿を深く入れた。
聖印が割れる。
起動符は黒く沈み、ただの紙になった。
兵士が背後から斬りかかる。
ネルドは振り向けなかった。
だが、剣は届かない。
ボルガンの槌が、兵士の胸当てを真正面から打った。
兵士は吹き飛び、壁に叩きつけられて動かなくなる。
ボルガンは見下ろした。
「炉の火を、鎖に繋がれた職人へ向けるだと」
彼の声は低い。
怒鳴らない。
だからこそ、室内の人類兵たちは震えた。
「貴様らは、火の使い方も知らん」
下級司祭が、床を這いながら聖印を掲げようとした。
「神火炉は、神の――」
ボルガンの槌が机を打った。
机が割れ、聖札の束が跳ねる。
司祭の言葉が止まった。
「王火炉だ」
ボルガンは言った。
「もう一度間違えれば、その舌を炉前へ持っていく」
司祭は震え、口を閉じた。
殺しはしない。
レイヴァルトの命がある。
情報を取る者は生かす。
だが、それは慈悲ではない。
殺すより長く恐怖を抱かせるための保管だった。
聖札制御室は、短い時間で制圧された。
導火符は切断。
油槽起動符は破壊。
首輪焼き込みの聖札はネルドが外した。
坑道入口の結界札は逆に残した。人類側からの増援を妨げるためである。
ボルガンは床に膝をつき、旧水路の蓋へ向けて槌を三度打った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
捕虜区画の下に潜った別働隊へ、火は止まったという合図を送る。
返事はすぐに来た。
ひとつ。
ふたつ。
その後、短く四つ。
捕虜区画に到達。
敵あり。
救出開始。
ボルガンはネルドを見た。
「行くぞ」
「はい」
捕虜区画では、すでに異変が起きていた。
監督長オルドは、聖札制御室からの返事が途絶えたことで顔色を変えていた。
「なぜ応答がない!」
兵士が走る。
「通路が塞がっています! 第三防御帯側の扉が開きません!」
「馬鹿な。こちらから開けろ!」
「聖札が反応しません!」
オルドは捕虜区画を見回した。
ドワーフたちは顔を伏せている。
だが、さっきまでと違う。
恐怖ではない。
待っている。
その気配に、オルドの背筋が冷えた。
「全員、槍を構えろ。反抗する奴から殺せ。炉心区画へ運べる者だけ残す」
兵士たちが檻の前へ並ぶ。
その時、捕虜区画の床下から音がした。
ごん。
石の腹を叩く音。
ごん。
二度目。
ごん。
三度目。
バルドが顔を上げた。
ガンツも息を止める。
オルドが怒鳴った。
「何の音だ!」
床が裂けた。
割れたのではない。
そこは、かつて灰落としと鉱屑運搬に使われた旧穴だった。人類はその存在を記録に見つけられず、上から石を敷いて倉庫にしていた。
下から押し上げられた石板が倒れ、煤まみれのドワーフたちが現れる。
兵士が槍を突き出す。
しかし、狭い捕虜区画で長槍は遅い。
ドワーフの短槌が槍の穂を叩き落とす。鎖が足を絡める。肩からぶつかり、壁へ押し込む。別のドワーフが鉄楔を扉の蝶番へ打ち込み、檻の鍵穴を壊す。
叫び声が上がった。
捕虜ではない。
人類兵の声だった。
オルドは剣を抜いた。
「殺せ! 捕虜を殺せ!」
近くの兵が、鎖に繋がれた少年へ剣を向けた。
ガンツだった。
少年は逃げられない。
首輪が、白く光りかけた。
その瞬間、床に黒い紋が浮かんだ。
黒天蓋の紋。
遠い黒曜王都の玉座から落とされた、王の影。
兵士の剣が、途中で止まった。
腕が震える。
刃は少年の首筋の寸前で動かない。
兵士の顔が恐怖に歪む。
「な、何だ、これは……!」
ガンツは動けなかった。
だが、その横でバルドが鎖を引いた。
鎖が兵士の足へ絡む。
兵士が倒れる。
ガンツは床に転がった剣を見た。
拾わない。
彼は徒弟だ。
剣ではなく、槌を探した。
近くに落ちていた小さな作業槌を掴む。
震える手で、それを胸に抱えた。
別働隊のドワーフが叫ぶ。
「ネルドを待て! 首輪を無理に外すな!」
捕虜たちは頷く。
焦りはある。
だが、暴走はしない。
王命がある。
ドワーフの救出は、略奪ではない。奪還である。
やがて、ボルガンとネルドが制御室側から到着した。
ネルドは捕虜区画を見るなり、顔をこわばらせた。
首輪。
鎖。
焼き印。
痩せた腕。
火傷だらけの指。
獣人収容地で見たものと似ている。だが、ここでは同族の手にある。
怒りで視界が赤くなりかけた。
ボルガンの声が飛ぶ。
「ネルド」
それだけで、ネルドは息を吸い直した。
「やります」
彼は最初の首輪へ駆け寄る。
老鍛冶師の首。
聖印入り鉄環。内側に焼き込み符。外側に管理番号。構造は獣人用より重く、熱に強い。無理に壊せば首を焼く。
ネルドは指で継ぎ目を探る。
「右後ろ。噛み合わせ二重。焼き符は内側」
腰の細鑿を入れる。
火花が散る。
老鍛冶師は動かない。
「名は」
ネルドが聞く。
老鍛冶師は一瞬、戸惑った。
番号ではなく、名を問われたからだ。
「……ハルグ」
「ハルグ。動くな」
ネルドは槌を一度だけ打った。
聖印が割れた。
首輪が落ちる。
ハルグの喉が震えた。
声は出ない。
ネルドは次へ向かう。
ひとり。
またひとり。
首輪が落ちるたび、金属音が捕虜区画に響く。
それは解放の鐘ではない。
ドワーフに鐘はいらない。
鎖が床へ落ちる音こそが、彼らにとって名を取り戻す音だった。
バルドはボルガンを見た。
長い沈黙があった。
外郭陥落の日から今日までの時間が、その沈黙に詰まっている。
ボルガンの髭がわずかに震えた。
「生きていたか、バルド」
バルドは片目を細める。
「死ぬ暇がなかった」
「王火炉は」
「穢されている。だが、死んではいない」
「そうか」
ボルガンはそれだけ言った。
抱き合わない。
涙を流さない。
炉の前へ戻るまで、感情を使い切るわけにはいかない。
バルドは低く続けた。
「炉司祭が聖油を入れている。白い鐘で火を縛っている。炉心の下に、聖印杭が三本。銘板は削られたが、王の字は残した」
ボルガンの目が鋭くなる。
「残した?」
「削るよう命じられた職人が、自分の鑿を折った。指も折られたが、字は消えなかった」
周囲のドワーフたちが息を止める。
ボルガンは深く頷いた。
「なら、戻せる」
「戻せる」
バルドが答えた。
その時、遠くで警鐘が鳴った。
人類側がようやく異変に気づいたのだ。
第二防御帯の方から兵の足音が響く。聖札結界を操作しようとする声。弩砲を炉心区画側へ向け直せという怒号。
ボルガンは槌を握り直した。
「捕虜を下へ逃がせ。歩けん者は担げ。首輪解除が済んでいない者を優先しろ。戦える者だけ残れ」
バルドが作業槌を拾った。
「俺は残る」
「首輪は」
「もう外れた」
ネルドが振り向く。
いつの間にか、バルドの首輪は割れていた。
自分で壊したのではない。
王火炉の熱で、内側の聖印が焼き切れている。
バルドは槌を肩に担いだ。
「炉へ行く」
ボルガンは頷いた。
「行くぞ。第二目標、炉心区画」
捕虜区画の奥で、ガンツが立ち上がる。
彼の首輪はまだ外れていない。
ネルドが駆け寄る。
「待て、今外す」
ガンツは作業槌を握り締めたまま言った。
「俺も、炉へ」
ネルドは一瞬、言葉を失った。
少年の手は震えている。
戦える身体ではない。
だが、その目には、さっきまでの怯えだけではないものが宿っていた。
バルドが言う。
「徒弟は炉の名を見る義務がある」
ボルガンはしばらく少年を見た。
それから短く命じる。
「後ろにいろ。死ぬな。名を覚えろ」
ガンツは強く頷いた。
「はい」
警鐘が激しくなる。
人類側の兵が通路へなだれ込もうとしていた。
だが、そこはグラド=ヴォルグの通路だった。
ボルガンは壁の支柱を見た。
人類が補強した鉄材。位置が悪い。荷重の逃がし方を知らず、旧排熱洞の上へ無理に噛ませている。
彼は石工へ顎を動かした。
石工は楔を一本打ち込む。
鍛冶師が支柱を叩く。
坑夫が床を蹴る。
通路の一部が沈んだ。
人類兵の先頭が足を取られる。続く者が押し込む。隊列が崩れる。弩を構えた兵が味方にぶつかる。
そこへ、排熱洞から熱い煙が吹き上がった。
燃やす煙ではない。
目を潰し、喉を塞ぎ、隊列を乱すための煙。
人類兵が咳き込む。
その中を、ドワーフたちは進む。
叫ばない。
怒号を上げない。
槌を振るうたび、確実に武器を落とし、膝を砕き、通路を塞ぐ。
殺すためではない。
逃がさないため。
捕らえるため。
後で、名を吐かせるため。
ボルガンは煙の向こうに見える炉心区画の赤を見た。
白い鐘が鳴っている。
祈りの声が聞こえる。
王火炉を神火炉と呼ぶ声が聞こえる。
彼は槌を握り、低く言った。
「次は炉だ」
黒曜王都の玉座の間では、レイヴァルトが地図を見下ろしていた。
黒天蓋の紋は、捕虜区画に薄く残っている。
人類が捕虜を盾にしようとした瞬間だけ、その行為を縛った。
それ以上はしない。
救出したのはドワーフだ。
火を止めたのもドワーフだ。
坑道を読んだのも、聖札制御室を落としたのも、捕虜区画へ踏み込んだのも、ドワーフだ。
レイヴァルトは冷たく目を細めた。
「よくやる」
その声に、褒める温かさはない。
王が戦果を確認する声だった。
エルミアが傍らで問う。
「介入なさいますか」
「しない」
レイヴァルトは即答した。
「炉の名を奪われたのは、ドワーフだ。ならば、名を取り戻す槌もドワーフが振るう」
黒曜の玉座の影が揺れる。
「ただし、人間どもがまた捕虜を盾にするなら、その腕だけ止める」
「殺さずに」
「まだ殺すなと言った」
レイヴァルトの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
冷たく、暗い。
「炉前で聞くべき名が多い」
グラド=ヴォルグの地下では、捕虜たちが黒鎚坑道へ逃がされていた。
老いた鍛冶師。傷ついた坑夫。痩せた徒弟。意識のない者。歩けない者。火傷を負った者。
彼らは全員、名前を問われた。
番号ではなく。
名を。
「名は」
「ドルグ」
「名は」
「ミナ」
「名は」
「ロッカ」
ネルドは首輪を外しながら、ひとつずつ記録係へ伝える。
鎖が落ちる。
名が戻る。
その音の向こうで、ボルガンたちは炉心区画へ進んでいく。
人類の要塞は、外から見ればまだ堅い。
正面門は閉じている。
弩砲塔も立っている。
白い鎖も巻かれている。
聖印札も輝いている。
外壁の兵は、まだ敵が来ていないと思っている。
だが、都市の内側では、すでに逆襲が始まっていた。
聖札制御室は沈黙した。
捕虜区画の火は止まった。
鎖は落ち始めた。
ドワーフたちは、山の下から戻ってきた。
そして、王火炉の前では、炉司祭リカードが異変に気づき、白い鐘を激しく鳴らしていた。
「聖油を足せ! 火を清めろ! 神火炉を守れ!」
その叫びに、王火炉の炎が低く唸る。
白い油の下で、赤い芯が黒く光った。
炉心区画へ続く通路の奥から、槌音が近づく。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
バルドが、ガンツへ囁いた。
「聞け」
ガンツは震えながら頷く。
「はい」
「これは戦の音じゃない」
槌音がさらに近づく。
人類兵が慌てて隊列を組む。
炉司祭が聖印を掲げる。
白い鐘が鳴る。
だが、槌音は止まらない。
バルドは言った。
「帰ってきた音だ」
炉心区画の扉が、内側から震えた。
次の瞬間、黒鉄の蝶番が弾ける。
煙の中から、ボルガンが現れた。
槌を肩に担ぎ、煤にまみれ、目だけが炉の火のように燃えている。
彼は白い銘板を見た。
神火炉。
その文字を見た瞬間、玉座の前でも見せなかった怒りが、ほんの一瞬だけ顔に出た。
だが、彼は叫ばなかった。
ゆっくりと、炉心区画へ足を踏み入れる。
そして、王火炉へ向けて槌を下げた。
「遅くなった」
人類兵が剣を構える。
炉司祭リカードが震える声で叫ぶ。
「神火炉へ近づくな、異形ども!」
ボルガンは顔を上げた。
声は低く、重い。
「王火炉だ」
炉の奥で、火が応えた。
ごう、と。
人類が白く縛った炎の奥から、黒鉄色の火が立ち上がる。
次に始まるのは、奪還ではない。
復讐だった。




