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第33話「地下からの逆襲」

 黒鎚坑道は、地図に載らない道だった。


 それは逃げ道ではない。


 攻め道でもない。


 炉が死にかけた時、鍛冶師が最後に炉心へ戻るための道である。


 グラド=ヴォルグを築いた初代の王工匠たちは、火をただ燃やすものとは考えなかった。火は息をする。怒る。眠る。飢える。暴れる。鉄を鍛える者は、火の前に立つのではない。火の呼吸に合わせて、自分の呼吸を変える。


 だから、王火炉には心臓へ至る道が必要だった。


 正面門が落ちても、外郭が崩れても、鉱道が塞がれても、炉の火が完全に消える前に職人が戻るための道。


 それが黒鎚坑道だった。


 入り口は岩壁ではない。


 山の記憶そのものに隠されている。


 人間がいくら壁を叩いても開かない。魔術で探っても、ただの硬い岩として返る。聖印を貼っても意味がない。そこに扉があると知っている者だけが、正しい槌音で山へ呼びかけられる。


 ひとつは、火を問う音。


 ふたつは、鉄を呼ぶ音。


 みっつは、名を返す音。


 その三打に、山が応えた。


 黒曜王都の地下から開いた黒鎚坑道は、冷たい闇を吐き出していた。


 ボルガンは先頭に立った。


 手には戦斧ではなく、古い鍛冶槌。鎧は黒鉄。背には短柄の戦槌。腰には楔、鉄杭、細い鎖、折り畳み式の支柱抜き、聖印を剥がすための刻み鑿が差してある。


 彼の後ろには、選ばれたドワーフたちが続く。


 戦士だけではない。


 坑夫、鍛冶師、石工、排熱職人、水路番、軌道師、そしてネルド。


 武器を持つ者よりも、工具を持つ者の方が多かった。


 それが、ドワーフの戦だった。


 斬るためではなく、崩すため。


 燃やすためではなく、火の向きを変えるため。


 壊すためではなく、奪われたものを取り戻すため。


 彼らは声を出さずに進んだ。


 足音は重い。だが、乱れない。


 坑道の床は古く、ところどころ水が染み出している。壁面には黒く焼けた古い火印が刻まれ、天井には排熱のための細い溝が走っていた。


 ネルドが小声で言う。


「ここ、まだ生きてるんですか」


 ボルガンは振り返らない。


「死んだ坑道は湿った匂いしかしねえ。ここは鉄の匂いがする」


「鉄の匂い……」


「山が覚えている証だ」


 ネルドは黙った。


 彼は獣人収容地で首輪を壊した。聖印入りの拘束具を見た。人類が異種族の身体をどう扱うかを見た。


 だが、グラド=ヴォルグはそれとは違う。


 ここでは身体だけではない。


 炉の名が奪われている。


 鍛冶師の手が奪われている。


 槌が、敵のために振らされている。


 ネルドの指が、腰の小槌を握った。


 ボルガンはそれに気づいていたが、何も言わなかった。


 怒りを持つなとは言わない。


 ただ、怒りに持たれるな。


 それは、ドワーフが鉄から学ぶことだった。


 最初の封鎖扉が現れた。


 岩盤が横に噛み合い、目で見ただけでは隙間も継ぎ目も分からない。人類が見れば、ただの行き止まりと判断しただろう。


 ボルガンは壁へ耳を当てた。


 少しの間、動かない。


 やがて、彼は左の拳を上げた。


 後ろのドワーフたちが止まる。


 ボルガンは槌で壁を叩いた。


 低く、一度。


 返事はない。


 今度は、少し上を叩く。


 やはり返事はない。


 三度目、彼は膝の高さを叩いた。


 奥から、かすかな音が返った。


 こつん。


 ネルドには、それが石の軋みにしか聞こえなかった。


 だが、ボルガンは頷いた。


「右下の歯が錆びている。支えを抜く」


 石工のドワーフが前へ出る。細い鑿を差し込み、木の楔ではなく、黒鉄の楔を打つ。音は柔らかく抑えられていた。硬いものを打っているのに、不思議なほど響かない。


 やがて、岩盤が指一本分だけ沈んだ。


 扉は開かない。


 だが、それで十分だった。


 排熱職人が細い管を差し込み、息を吹く。


 管の先から戻ってきた煙の流れを、ボルガンが手の甲で受ける。


「向こうは上り。煙が詰まっている。人間どもが通風を塞いだせいだな」


 彼は地図を見ない。


 山を読んでいる。


「この先で、奴らの第二防御帯の下を抜ける。聖札は上に貼ってあるだけだ。岩盤の腹までは届いていない」


 ネルドが呟く。


「聖教会の結界は」


「炉と門には効く。祈る連中にはな」


 ボルガンは低く笑った。


「だが、石は祈らん」


 扉が開いた。


 黒鎚坑道の奥に、さらに深い闇が続いている。


 その頃、グラド=ヴォルグの捕虜区画では、鎖の音がいつもより多かった。


 人類の監督長オルドは、それを不快そうに聞いていた。


「静かにしろ、番号ども」


 鞭が石床を叩く。


 ドワーフたちは顔を伏せた。


 誰も逆らわない。


 逆らえば殴られる。鎖を締められる。首輪の聖印を焼かれる。炉心区画へ連れて行かれ、過酷な作業に戻される。


 だから、彼らは逆らわないふりをした。


 鎖が鳴る。


 一度。


 別の鎖が答える。


 二度。


 鉄箱が床を擦る。


 三度。


 監督官には、疲れた奴隷が荷を引きずっているようにしか聞こえない。


 バルドには、はっきりと聞こえていた。


 捕虜区画の外通路。油槽が二つ。火入れ役が三人。聖札制御室からの導火符あり。


 人類は、捕虜を奪還される前に焼くつもりでいる。


 バルドは槌を持てない。


 腕は鎖で制限されている。首輪が聖印で縛っている。片目は霞み、背中は痛む。だが、耳は死んでいない。


 彼は炉の鼓動を聞く。


 王火炉の奥底で、火が濁っている。


 白い油と祈りに押し潰されながら、まだ赤い芯を残している。


 そして、それとは別に。


 遠い岩盤の奥から、懐かしい響きが近づいている。


 槌の音だ。


 戦太鼓ではない。


 職人の槌音。


 バルドは少年ガンツを見た。


 ガンツは震えている。


 恐怖ではない。怒りでもない。


 声を出してはいけない場で、叫びを胸の中に押し込んでいる震えだった。


 バルドは唇だけで言った。


 ――覚えろ。


 ガンツは頷く。


 ――王火炉。


 少年も唇だけで返す。


 ――王火炉。


 その時、捕虜区画の外で人類兵が走った。


「監督長! 下層排煙路の熱が上がっています!」


 オルドが舌打ちする。


「またか。通風孔を閉じたせいだろう。技師を呼べ」


「セヴラン技師は司令部です」


「なら下級技師でいい。火を回す準備は終わっているな」


「はい。伯爵閣下の命令どおり、導火符は聖札制御室に接続済みです」


 バルドの目が細くなった。


 導火符。


 聖札制御室。


 火を回す命令はそこから出る。


 彼は鎖をわずかに揺らした。


 音は小さい。


 だが、捕虜区画の奥へ伝わる。


 そして、さらに下へ。


 古い排熱洞へ。


 黒鎚坑道を進むボルガンの足が止まった。


 彼は手を上げる。


 全員が止まる。


 岩盤の向こうから、かすかな鎖音が落ちてきた。


 こつ。


 こつ、こつ。


 少し間を置いて、こつ。


 ネルドには意味が分からない。


 だが、ボルガンの顔が変わった。


「導火符は聖札制御室。火口は捕虜区画外通路。油槽二つ。火入れ役三」


 ネルドが息を呑む。


「分かるんですか」


「分かるように鳴らしている」


「誰が」


 ボルガンは答えた。


「生きている職人だ」


 その声に、わずかだけ熱が混じった。


 だが、すぐに消える。


「第一目標を変更する。聖札制御室を先に潰す。捕虜区画はその後だ。油槽を奪われれば間に合わん」


 ネルドが顔を上げた。


「でも、捕虜区画の首輪は」


「火を止めねば首輪ごと焼かれる」


「……はい」


 ボルガンは後ろの部隊を二つに分けた。


 ひとつは排熱洞を通り、捕虜区画下へ。


 ひとつは彼自身が率い、聖札制御室の下へ向かう。


 ネルドは捕虜区画側へ行きかけた。


 だが、ボルガンが止める。


「お前は俺と来い」


「俺は首輪を」


「聖札制御室を落とせば、首輪の焼き込みも鈍る。先に根を切る」


 ネルドは一瞬だけ迷い、すぐに頷いた。


「分かりました」


 黒鎚坑道は、途中から細い旧排熱洞へ分かれていた。


 人間なら膝をついて進むほどの狭さだが、ドワーフにとっては十分な通路だった。天井は低く、壁は熱を帯びている。遠くで王火炉の鼓動が聞こえる。


 どくん。


 どくん。


 白い鐘の音に縛られ、濁った鼓動。


 ボルガンは歯を食いしばった。


「泣くなよ、古火」


 誰に向けた言葉か、ネルドには分からなかった。


 だが、王火炉へ向けていることだけは分かった。


「今、戻る」


 聖札制御室は、旧水路調整室を改造した場所だった。


 人類はそこに白い机を置き、聖札を並べ、導火符と鉄線を壁へ這わせている。捕虜区画の首輪、坑道入口の結界、炉心区画の聖印、油槽の点火符。それらを一括で管理する小さな中枢である。


 守備兵は十二人。


 下級司祭が二人。


 火入れ役が三人。


 彼らは緊張していたが、視線は扉と上の通路へ向いている。


 足元には向いていない。


「伯爵閣下は本気で捕虜を焼く気か」


 兵の一人が小声で言った。


「異形どもだ。焼いて何が悪い」


「だが、職人が減れば生産が」


「また捕まえればいい。ドワーフは山に湧くんだろ」


 笑いが起きる。


 下級司祭がたしなめるように言った。


「軽口を慎め。神火炉に仕える労働力は、神の御用のために管理されている。勝手な殺傷は許されん」


「でも焼く準備はある」


「神敵へ奪われるよりは清い」


 その時、床の一部が沈んだ。


 誰も気づかない。


 人類が置いた机の下。白い布の陰。旧水路の蓋が、ほんのわずかにずれる。


 そこから、細い黒鉄の管が差し込まれた。


 煙は出ない。


 音もない。


 管の先から流れたのは、黒い粉だった。


 ドワーフの火消し粉である。


 水では消えない炉火の暴走を抑えるために作られた、鉱塩と灰と鉄粉を混ぜた古い粉。聖油の燃えを鈍らせ、導火符の火走りを重くする。


 白い机の足元に、粉が静かに広がっていく。


 火入れ役の一人が鼻を動かした。


「何か匂わないか」


 次の瞬間、床が割れた。


 いや、割れたのではない。


 最初からそこは、外せる床だった。


 人類が知らなかっただけである。


 黒鉄の床板が下へ落ち、そこからドワーフが三人飛び出した。


 一人が火入れ役の足を鎖で絡め取る。


 一人が導火符の束へ鑿を打ち込む。


 一人が下級司祭の口を塞ぎ、聖句を唱える前に床へ叩き伏せる。


 兵士たちが剣を抜く。


「敵襲!」


 叫びは続かなかった。


 壁の向こうから、鈍い音が響いた。


 ボルガンの槌音。


 それは合図ではない。


 命令だった。


 旧水路の蓋が一斉に開く。


 床下から、さらに十数人のドワーフが現れた。


 彼らは広い剣を振り回さない。狭い室内で使うのは、短槌、鎖、楔、膝、肩。


 兵士の膝に槌が入る。


 剣を持つ手に鎖が絡む。


 聖札を握った司祭の指に鉄輪が噛み、手首ごと机へ打ちつけられる。


 ひとりの兵が油槽起動符へ手を伸ばした。


 その腕を、ネルドが小槌で叩いた。


 骨を砕くためではない。


 手の力だけを抜く正確な一打だった。


 起動符が床へ落ちる。


 ネルドは即座にそれを踏み、腰の刻み鑿で聖印の中心を削った。


 白い光が走る。


 首輪で何度も見た光。


 彼は歯を食いしばった。


「同じだ」


 同じ構造。


 異種族を縛る首輪と、捕虜区画を焼く符。


 根は同じ。


 祈りの形をした拘束。


 神の名を使った脅し。


 ネルドは鑿を深く入れた。


 聖印が割れる。


 起動符は黒く沈み、ただの紙になった。


 兵士が背後から斬りかかる。


 ネルドは振り向けなかった。


 だが、剣は届かない。


 ボルガンの槌が、兵士の胸当てを真正面から打った。


 兵士は吹き飛び、壁に叩きつけられて動かなくなる。


 ボルガンは見下ろした。


「炉の火を、鎖に繋がれた職人へ向けるだと」


 彼の声は低い。


 怒鳴らない。


 だからこそ、室内の人類兵たちは震えた。


「貴様らは、火の使い方も知らん」


 下級司祭が、床を這いながら聖印を掲げようとした。


「神火炉は、神の――」


 ボルガンの槌が机を打った。


 机が割れ、聖札の束が跳ねる。


 司祭の言葉が止まった。


「王火炉だ」


 ボルガンは言った。


「もう一度間違えれば、その舌を炉前へ持っていく」


 司祭は震え、口を閉じた。


 殺しはしない。


 レイヴァルトの命がある。


 情報を取る者は生かす。


 だが、それは慈悲ではない。


 殺すより長く恐怖を抱かせるための保管だった。


 聖札制御室は、短い時間で制圧された。


 導火符は切断。


 油槽起動符は破壊。


 首輪焼き込みの聖札はネルドが外した。


 坑道入口の結界札は逆に残した。人類側からの増援を妨げるためである。


 ボルガンは床に膝をつき、旧水路の蓋へ向けて槌を三度打った。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 捕虜区画の下に潜った別働隊へ、火は止まったという合図を送る。


 返事はすぐに来た。


 ひとつ。


 ふたつ。


 その後、短く四つ。


 捕虜区画に到達。


 敵あり。


 救出開始。


 ボルガンはネルドを見た。


「行くぞ」


「はい」


 捕虜区画では、すでに異変が起きていた。


 監督長オルドは、聖札制御室からの返事が途絶えたことで顔色を変えていた。


「なぜ応答がない!」


 兵士が走る。


「通路が塞がっています! 第三防御帯側の扉が開きません!」


「馬鹿な。こちらから開けろ!」


「聖札が反応しません!」


 オルドは捕虜区画を見回した。


 ドワーフたちは顔を伏せている。


 だが、さっきまでと違う。


 恐怖ではない。


 待っている。


 その気配に、オルドの背筋が冷えた。


「全員、槍を構えろ。反抗する奴から殺せ。炉心区画へ運べる者だけ残す」


 兵士たちが檻の前へ並ぶ。


 その時、捕虜区画の床下から音がした。


 ごん。


 石の腹を叩く音。


 ごん。


 二度目。


 ごん。


 三度目。


 バルドが顔を上げた。


 ガンツも息を止める。


 オルドが怒鳴った。


「何の音だ!」


 床が裂けた。


 割れたのではない。


 そこは、かつて灰落としと鉱屑運搬に使われた旧穴だった。人類はその存在を記録に見つけられず、上から石を敷いて倉庫にしていた。


 下から押し上げられた石板が倒れ、煤まみれのドワーフたちが現れる。


 兵士が槍を突き出す。


 しかし、狭い捕虜区画で長槍は遅い。


 ドワーフの短槌が槍の穂を叩き落とす。鎖が足を絡める。肩からぶつかり、壁へ押し込む。別のドワーフが鉄楔を扉の蝶番へ打ち込み、檻の鍵穴を壊す。


 叫び声が上がった。


 捕虜ではない。


 人類兵の声だった。


 オルドは剣を抜いた。


「殺せ! 捕虜を殺せ!」


 近くの兵が、鎖に繋がれた少年へ剣を向けた。


 ガンツだった。


 少年は逃げられない。


 首輪が、白く光りかけた。


 その瞬間、床に黒い紋が浮かんだ。


 黒天蓋の紋。


 遠い黒曜王都の玉座から落とされた、王の影。


 兵士の剣が、途中で止まった。


 腕が震える。


 刃は少年の首筋の寸前で動かない。


 兵士の顔が恐怖に歪む。


「な、何だ、これは……!」


 ガンツは動けなかった。


 だが、その横でバルドが鎖を引いた。


 鎖が兵士の足へ絡む。


 兵士が倒れる。


 ガンツは床に転がった剣を見た。


 拾わない。


 彼は徒弟だ。


 剣ではなく、槌を探した。


 近くに落ちていた小さな作業槌を掴む。


 震える手で、それを胸に抱えた。


 別働隊のドワーフが叫ぶ。


「ネルドを待て! 首輪を無理に外すな!」


 捕虜たちは頷く。


 焦りはある。


 だが、暴走はしない。


 王命がある。


 ドワーフの救出は、略奪ではない。奪還である。


 やがて、ボルガンとネルドが制御室側から到着した。


 ネルドは捕虜区画を見るなり、顔をこわばらせた。


 首輪。


 鎖。


 焼き印。


 痩せた腕。


 火傷だらけの指。


 獣人収容地で見たものと似ている。だが、ここでは同族の手にある。


 怒りで視界が赤くなりかけた。


 ボルガンの声が飛ぶ。


「ネルド」


 それだけで、ネルドは息を吸い直した。


「やります」


 彼は最初の首輪へ駆け寄る。


 老鍛冶師の首。


 聖印入り鉄環。内側に焼き込み符。外側に管理番号。構造は獣人用より重く、熱に強い。無理に壊せば首を焼く。


 ネルドは指で継ぎ目を探る。


「右後ろ。噛み合わせ二重。焼き符は内側」


 腰の細鑿を入れる。


 火花が散る。


 老鍛冶師は動かない。


「名は」


 ネルドが聞く。


 老鍛冶師は一瞬、戸惑った。


 番号ではなく、名を問われたからだ。


「……ハルグ」


「ハルグ。動くな」


 ネルドは槌を一度だけ打った。


 聖印が割れた。


 首輪が落ちる。


 ハルグの喉が震えた。


 声は出ない。


 ネルドは次へ向かう。


 ひとり。


 またひとり。


 首輪が落ちるたび、金属音が捕虜区画に響く。


 それは解放の鐘ではない。


 ドワーフに鐘はいらない。


 鎖が床へ落ちる音こそが、彼らにとって名を取り戻す音だった。


 バルドはボルガンを見た。


 長い沈黙があった。


 外郭陥落の日から今日までの時間が、その沈黙に詰まっている。


 ボルガンの髭がわずかに震えた。


「生きていたか、バルド」


 バルドは片目を細める。


「死ぬ暇がなかった」


「王火炉は」


「穢されている。だが、死んではいない」


「そうか」


 ボルガンはそれだけ言った。


 抱き合わない。


 涙を流さない。


 炉の前へ戻るまで、感情を使い切るわけにはいかない。


 バルドは低く続けた。


「炉司祭が聖油を入れている。白い鐘で火を縛っている。炉心の下に、聖印杭が三本。銘板は削られたが、王の字は残した」


 ボルガンの目が鋭くなる。


「残した?」


「削るよう命じられた職人が、自分の鑿を折った。指も折られたが、字は消えなかった」


 周囲のドワーフたちが息を止める。


 ボルガンは深く頷いた。


「なら、戻せる」


「戻せる」


 バルドが答えた。


 その時、遠くで警鐘が鳴った。


 人類側がようやく異変に気づいたのだ。


 第二防御帯の方から兵の足音が響く。聖札結界を操作しようとする声。弩砲を炉心区画側へ向け直せという怒号。


 ボルガンは槌を握り直した。


「捕虜を下へ逃がせ。歩けん者は担げ。首輪解除が済んでいない者を優先しろ。戦える者だけ残れ」


 バルドが作業槌を拾った。


「俺は残る」


「首輪は」


「もう外れた」


 ネルドが振り向く。


 いつの間にか、バルドの首輪は割れていた。


 自分で壊したのではない。


 王火炉の熱で、内側の聖印が焼き切れている。


 バルドは槌を肩に担いだ。


「炉へ行く」


 ボルガンは頷いた。


「行くぞ。第二目標、炉心区画」


 捕虜区画の奥で、ガンツが立ち上がる。


 彼の首輪はまだ外れていない。


 ネルドが駆け寄る。


「待て、今外す」


 ガンツは作業槌を握り締めたまま言った。


「俺も、炉へ」


 ネルドは一瞬、言葉を失った。


 少年の手は震えている。


 戦える身体ではない。


 だが、その目には、さっきまでの怯えだけではないものが宿っていた。


 バルドが言う。


「徒弟は炉の名を見る義務がある」


 ボルガンはしばらく少年を見た。


 それから短く命じる。


「後ろにいろ。死ぬな。名を覚えろ」


 ガンツは強く頷いた。


「はい」


 警鐘が激しくなる。


 人類側の兵が通路へなだれ込もうとしていた。


 だが、そこはグラド=ヴォルグの通路だった。


 ボルガンは壁の支柱を見た。


 人類が補強した鉄材。位置が悪い。荷重の逃がし方を知らず、旧排熱洞の上へ無理に噛ませている。


 彼は石工へ顎を動かした。


 石工は楔を一本打ち込む。


 鍛冶師が支柱を叩く。


 坑夫が床を蹴る。


 通路の一部が沈んだ。


 人類兵の先頭が足を取られる。続く者が押し込む。隊列が崩れる。弩を構えた兵が味方にぶつかる。


 そこへ、排熱洞から熱い煙が吹き上がった。


 燃やす煙ではない。


 目を潰し、喉を塞ぎ、隊列を乱すための煙。


 人類兵が咳き込む。


 その中を、ドワーフたちは進む。


 叫ばない。


 怒号を上げない。


 槌を振るうたび、確実に武器を落とし、膝を砕き、通路を塞ぐ。


 殺すためではない。


 逃がさないため。


 捕らえるため。


 後で、名を吐かせるため。


 ボルガンは煙の向こうに見える炉心区画の赤を見た。


 白い鐘が鳴っている。


 祈りの声が聞こえる。


 王火炉を神火炉と呼ぶ声が聞こえる。


 彼は槌を握り、低く言った。


「次は炉だ」


 黒曜王都の玉座の間では、レイヴァルトが地図を見下ろしていた。


 黒天蓋の紋は、捕虜区画に薄く残っている。


 人類が捕虜を盾にしようとした瞬間だけ、その行為を縛った。


 それ以上はしない。


 救出したのはドワーフだ。


 火を止めたのもドワーフだ。


 坑道を読んだのも、聖札制御室を落としたのも、捕虜区画へ踏み込んだのも、ドワーフだ。


 レイヴァルトは冷たく目を細めた。


「よくやる」


 その声に、褒める温かさはない。


 王が戦果を確認する声だった。


 エルミアが傍らで問う。


「介入なさいますか」


「しない」


 レイヴァルトは即答した。


「炉の名を奪われたのは、ドワーフだ。ならば、名を取り戻す槌もドワーフが振るう」


 黒曜の玉座の影が揺れる。


「ただし、人間どもがまた捕虜を盾にするなら、その腕だけ止める」


「殺さずに」


「まだ殺すなと言った」


 レイヴァルトの口元に、薄い笑みが浮かんだ。


 冷たく、暗い。


「炉前で聞くべき名が多い」


 グラド=ヴォルグの地下では、捕虜たちが黒鎚坑道へ逃がされていた。


 老いた鍛冶師。傷ついた坑夫。痩せた徒弟。意識のない者。歩けない者。火傷を負った者。


 彼らは全員、名前を問われた。


 番号ではなく。


 名を。


「名は」


「ドルグ」


「名は」


「ミナ」


「名は」


「ロッカ」


 ネルドは首輪を外しながら、ひとつずつ記録係へ伝える。


 鎖が落ちる。


 名が戻る。


 その音の向こうで、ボルガンたちは炉心区画へ進んでいく。


 人類の要塞は、外から見ればまだ堅い。


 正面門は閉じている。


 弩砲塔も立っている。


 白い鎖も巻かれている。


 聖印札も輝いている。


 外壁の兵は、まだ敵が来ていないと思っている。


 だが、都市の内側では、すでに逆襲が始まっていた。


 聖札制御室は沈黙した。


 捕虜区画の火は止まった。


 鎖は落ち始めた。


 ドワーフたちは、山の下から戻ってきた。


 そして、王火炉の前では、炉司祭リカードが異変に気づき、白い鐘を激しく鳴らしていた。


「聖油を足せ! 火を清めろ! 神火炉を守れ!」


 その叫びに、王火炉の炎が低く唸る。


 白い油の下で、赤い芯が黒く光った。


 炉心区画へ続く通路の奥から、槌音が近づく。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 バルドが、ガンツへ囁いた。


「聞け」


 ガンツは震えながら頷く。


「はい」


「これは戦の音じゃない」


 槌音がさらに近づく。


 人類兵が慌てて隊列を組む。


 炉司祭が聖印を掲げる。


 白い鐘が鳴る。


 だが、槌音は止まらない。


 バルドは言った。


「帰ってきた音だ」


 炉心区画の扉が、内側から震えた。


 次の瞬間、黒鉄の蝶番が弾ける。


 煙の中から、ボルガンが現れた。


 槌を肩に担ぎ、煤にまみれ、目だけが炉の火のように燃えている。


 彼は白い銘板を見た。


 神火炉。


 その文字を見た瞬間、玉座の前でも見せなかった怒りが、ほんの一瞬だけ顔に出た。


 だが、彼は叫ばなかった。


 ゆっくりと、炉心区画へ足を踏み入れる。


 そして、王火炉へ向けて槌を下げた。


「遅くなった」


 人類兵が剣を構える。


 炉司祭リカードが震える声で叫ぶ。


「神火炉へ近づくな、異形ども!」


 ボルガンは顔を上げた。


 声は低く、重い。


「王火炉だ」


 炉の奥で、火が応えた。


 ごう、と。


 人類が白く縛った炎の奥から、黒鉄色の火が立ち上がる。


 次に始まるのは、奪還ではない。


 復讐だった。

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