表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/50

第32話「人類の要塞化」

 グラド=ヴォルグの正面門は、かつて誇りの門だった。


 ドワーフたちが山から掘り出した黒鉄を、三代の鍛冶師が鍛え、七代の石工が岩盤へ噛ませた大門である。


 門扉には、王火炉の炎、慈悲王アルヴァーンの黒曜紋、そしてドワーフの槌印が刻まれていた。


 その門の前では、かつて商人も戦士も旅人も、帽子を脱いだ。


 炉の都へ入る者は、まず火に敬意を払う。


 それが、グラド=ヴォルグの掟だった。


 今、その門には白い鎖が巻かれている。


 聖教会の聖印札が貼られ、王国軍の鉄鋲が乱暴に打ち込まれ、門の中央にあった黒曜紋は半ば削られていた。削り切れなかった部分には、上から白銀の板が打ちつけられている。


 ――神火炉防衛門。


 そう書かれていた。


 門の両脇には、人類王国の弩砲塔が二基ずつ増設されている。


 ドワーフの石積みは緻密で美しかったが、その上に貼りつけられた木と鉄板は粗く、醜く、急造の跡を隠せていない。


 だが、醜いからといって弱いわけではなかった。


 谷へ通じる山道は、三か所で削られていた。攻め手が正面門へ向かうには、細い道を一列に進むしかない。その左右の崖上には弩砲と投石台が置かれ、油槽の蓋が半開きになっている。


 人類は、グラド=ヴォルグを理解していない。


 だが、奪ったものを守るための恐怖だけは知っていた。


 外壁の上で、王国兵が冷たい風に身を縮めている。


「本当に来ると思うか」


 若い兵が言った。


 隣の兵は答えなかった。


 彼らは黒曜王都の敗北を聞いていた。獣人収容地が落ちたことも聞いていた。南方巡礼都市セラフィム・ロンドの聖火が沈黙したという噂も、補給隊の口から漏れていた。


 祈れなくなった司祭。


 歌えなくなった聖歌隊。


 森の名を吐く聖水。


 兵士たちは笑い飛ばそうとしたが、笑い切れなかった。


 何より、黒曜王都から逃げてきた者たちの顔が忘れられなかった。


 あれは敗兵の顔ではない。


 獣に追われた者の顔でもない。


 神に祈ったのに、何も返ってこなかった者の顔だった。


「来るなら、正面からだろう」


 年嵩の兵が言った。


「ドワーフは頑固だ。門を取り返すなら門から来る。そう教えられた」


「誰に」


「監督長だ」


 若い兵は、白い鎖に縛られた門を見た。


「なら、地下は」


「地下は封じた。坑道入口は全部、鉄格子と聖札だ。通風孔も排煙路も見張りつきだ。旧鉱石軌道には兵を置いた。鼠一匹通れん」


 年嵩の兵はそう言った。


 だが、その声には確信よりも、そうであってほしいという願いが混じっていた。


 グラド=ヴォルグは、人類が築いた都市ではない。


 奪った者に、山の内側は分からない。


 都市の中心、旧王工匠組合館。


 そこは今、アルベリク・ダイン伯爵の西方攻略司令部に変えられていた。


 壁に掛けられていた鍛冶師たちの銘板は外され、その代わりに王国旗、伯爵家の紋章、聖教会の白い垂れ幕が掲げられている。


 炉の図面、坑道図、鉱脈分布図、捕虜配置表、砲弾生産表が長卓に広げられていた。


 アルベリク・ダイン伯爵は、黒い外套を肩に掛け、銀縁の杯を片手にそれらを見下ろしていた。


 年齢は四十を越えている。


 整えられた髭。


 細い目。


 厚い指輪。


 戦場に立つ将ではなく、奪った土地の価値を測る貴族の顔だった。


「正面門の補強は」


 伯爵が問う。


 鉱山技師セヴランが頭を下げる。


「第二防御帯まで完了しております。第三防御帯は炉心区画と捕虜区画を分断する形で増設中です。万一、外郭が突破されても、炉心と鉱脈は保持できます」


「捕虜は」


「鍛冶師七十二名、徒弟百三十九名、坑夫二百四十六名。うち即時稼働可能なのは三百弱。反抗的な個体は下層へ移しました」


 個体。


 その言葉に、伯爵は何の違和感も示さなかった。


「死なせるな。腕のあるドワーフは鉱脈より高い。だが、逆らうなら腕を一本落としてもよい。槌は片腕でも振れる」


 側にいた監督長オルドが、薄く笑った。


「承知しました。王火炉……失礼、神火炉の生産量はさらに上げられます」


 部屋の奥で、白衣の司祭が眉をひそめた。


 炉司祭リカード。


 王火炉を「神火炉」と呼び変え、聖油と聖印で管理している聖教会の男だった。


「監督長。呼称を誤らぬように。あれはすでに神火炉です。異形どもの王の火ではない」


 オルドは肩をすくめた。


「ええ、神火炉でしたな」


 アルベリクは杯を置いた。


「呼び名など、利益が出れば何でもよい」


 リカード司祭の顔が強張る。


「伯爵閣下。それは信仰への――」


「分かっている。神の火だ。清められた炉だ。聖戦を支える尊き設備だ。報告書にはそう書いている」


 アルベリクは退屈そうに言った。


「だが、あの炉が生む砲弾がなければ、王国軍の西方防衛線は維持できん。聖印杭も、首輪部品も、聖別砲弾も、ここから出る。つまり、火の名よりも生産量が重要だ」


 リカードは口を閉じた。


 伯爵は信仰深い男ではなかった。


 聖戦を語る。


 浄化を語る。


 魔王討伐を語る。


 だが、それは領地と鉱脈と功績を得るための言葉でしかない。


 聖教会も、それを知りながら利用している。


 人類側は一枚岩ではない。


 だが、異種族から奪うという一点では、彼らは同じ方向を向いていた。


 アルベリクは坑道図を指で叩いた。


「黒曜王都の魔王の子が目覚めたという話は、どこまで確かだ」


 部屋の空気が一段冷えた。


 オルドが笑いを消す。


 セヴラン技師は視線を落とす。


 リカード司祭は胸元の聖印を握った。


「白冠砦からの報告では、黒曜王都包囲軍が壊滅。聖別砲も奪われた可能性があると」


「可能性ではなく、奪われたのだろう」


 アルベリクは静かに言った。


「だから西方防衛線へ追加の聖別砲弾を命じた。王都が落ちなかった以上、次に狙われるのはここだ。獣人の檻、妖精の森、と来た。ならば、次は炉だ」


 彼はグラド=ヴォルグの地図を見下ろす。


「ドワーフどもは必ず来る。特にボルガン。あの頑固者は、この炉を捨てられん」


 リカード司祭が言う。


「ならば、炉心区画へ捕虜を集めますか。異形どもは同族を盾にされれば――」


「効かん」


 アルベリクは遮った。


「獣人収容地で、それは失敗した。黒い紋が、盾にする行為そのものを封じたという報告がある」


 司令部に沈黙が落ちた。


 黒い紋。


 その言葉だけで、人類側の者たちは喉を詰まらせる。


「では、どうなさいます」


「要塞として使う」


 アルベリクは指を折った。


「第一に、正面門で削る。第二に、外壁を越えられても第二防御帯で止める。第三に、坑道入口は聖札で閉じる。第四に、炉心区画へ入られた場合、通路を落として分断する。第五に、捕虜区画へ火を回す準備をしておけ」


 セヴラン技師が顔を上げた。


「火を、ですか」


「捕虜を奪い返されるくらいなら焼く。ドワーフどもに死体を運ばせろ。怒りで突撃すれば弩砲で殺せる」


 リカード司祭はうなずいた。


「罪深き異形が神火炉へ仕える機会を失うのは残念ですが、神敵へ戻るなら浄化もやむを得ません」


 その言葉を、扉の外で聞いている者がいた。


 鎖に繋がれた坑夫だった。


 彼は膝をつき、運搬用の鉄箱を持たされている。顔には煤が付き、背には鞭痕がある。兵士たちは彼を見ていない。番号で呼び、荷物と同じように扱っている。


 坑夫は、視線を落としたまま唇を動かした。


 声にはしない。


 ――捕虜区画へ火。


 その情報は、鎖を通じて伝わる。


 ドワーフは地中で働く種族だ。


 大声を出せない坑道で、彼らは音を読む。槌の響き、鎖の揺れ、車輪の軋み、石を削る角度。


 人類はそれを知らない。


 だから、鎖に繋いだことで情報を閉じ込めたつもりになっている。


 実際には、鎖もまた音を運ぶ。


 坑夫は鉄箱を持ち上げ、ゆっくりと歩いた。


 廊下の角で、別のドワーフとすれ違う。


 鉄箱の底が、石床を三度擦った。


 かすかに。


 誰にも気づかれぬほどに。


 だが、聞く者には届いた。


 炉心区画。


 火。


 人類は捕虜を焼く。


 その夜、黒曜王都では、ボルガンがグラド=ヴォルグの要塞図を見ていた。


 粗い人類側の図面と、彼自身の記憶の中にある本来の都市図。


 その二つは、まるで別物だった。


 人類は壁を増やした。


 門を増やした。


 見張りを置き、聖札を貼り、鉄格子で塞ぎ、弩砲を据えた。


 だが、都市というものを分かっていない。


 グラド=ヴォルグは、ただの穴倉ではない。


 熱を逃がす道がある。


 煙を導く道がある。


 水を流す道がある。


 鉱石を運ぶ道がある。


 崩落を避けるための空洞がある。


 炉を守るために、意図的に閉じられた古い坑道がある。


 人類は、それらを塞いだつもりでいる。


 塞げば守れると思っている。


 ボルガンは低く笑った。


 笑い声に喜びはない。


 鉄を冷やす水のような音だった。


「阿呆どもめ。山の息を止めおった」


 エルミアが問う。


「それは弱点になりますか」


「なる。炉の熱は逃げ場を探す。煙は道を探す。水は低い方へ行く。人間どもは外から蓋をしただけだ。内側の圧を知らん」


 ボルガンは地図に印を打つ。


「ここは通風孔を塞いだ場所だ。だが、下に古い排熱洞が残る。ここは鉱石軌道を兵站路にしたらしいが、支柱を一本抜けば荷車ごと落ちる。ここは聖札結界。地上の魔力には強いが、岩盤の振動には関係ない」


 レイヴァルトは玉座から見下ろしている。


 口を挟まない。


 今回の戦は、ボルガンの戦だ。


 ただ、必要な時だけ命じる。


「捕虜区画は」


 ボルガンの指が止まる。


 エルミアが新しい報告を差し出した。


「内部からの音信です。捕虜区画へ火を回す準備があるようです」


 玉座の間にいたドワーフたちの気配が変わった。


 怒りが一斉に燃え上がる。


 若い戦士の一人が踏み出しかけた。


 だが、ボルガンが槌の柄で床を叩いた。


 ただ一度。


 それだけで、ドワーフたちは止まった。


「怒るなとは言わん」


 ボルガンの声は低い。


「だが、今燃えるな。炉に入れる前の鉄が勝手に赤くなれば、形を失う」


 若い戦士は歯を食いしばり、頭を下げた。


 レイヴァルトが静かに言う。


「よく止めた」


 ボルガンは振り返らない。


「王命を待つと決めた以上、勝手に走る者は俺が折ります」


「それでいい」


 レイヴァルトの影が地図の上を伸びた。


 黒い紋が、捕虜区画と炉心区画の境目に落ちる。


「捕虜を盾にする行為は、俺が封じる。だが、捕虜を救い出すのはお前たちだ」


「承知」


「炉司祭、鉱山技師、監督長。生かして捕らえろ。アルベリクも同じだ」


「殺したい者ほど、生かせということですな」


「殺す日は選ばせてやる。だが、今ではない」


 ボルガンは深く息を吸った。


 それだけで、怒りを炉の底へ押し込んだ。


 燃え盛る火ではない。


 鉄を鍛える火へ変える。


「黒鎚坑道を開けます」


 彼は言った。


 王都地下の鍛冶場に、選ばれたドワーフたちが集められた。


 全員が古い槌を持っている。戦槌ではない。鍛冶槌である。


 柄に家名を刻んだ者。


 師の名を刻んだ者。


 父の槌を継いだ者。


 失われた弟子の名を、鉄頭の裏に刻んだ者。


 彼らは鎧を着ていたが、その姿は兵士というより職人だった。


 ボルガンは中央に立つ。


「正面門は囮にもせん。人間どもは門から来ると思っている。来させてやる必要もない」


 ドワーフたちが黙って聞く。


「俺たちは山の下から入る。黒鎚坑道を開き、排熱洞を抜け、旧炉心補助路へ出る。第一目標は捕虜区画。第二目標は炉心区画。第三目標は聖札制御室。第四目標は司令部」


 ネルドが一歩前へ出た。


 かつて救出された徒弟であり、今は首輪破壊役として立つ若いドワーフだった。


「首輪は俺が見ます。獣人収容地で見た聖印と同じ構造なら、噛み合わせを外せます」


 ボルガンは頷く。


「お前は捕虜区画だ。無理に戦うな。鎖を壊せ」


「はい」


 別の老工匠が問う。


「王火炉の聖印は」


「俺が見る」


 ボルガンは短く答えた。


「王火炉の名は、俺が戻す」


 その言葉に、誰も異を唱えなかった。


 やがて、彼らは王都の奥深くにある古い坑道入口へ向かった。


 そこは普段、石壁にしか見えない。


 だが、ボルガンが槌を握ると、周囲の空気が変わった。


 彼は槌を振り上げない。


 ただ、岩壁の一点を正確に打った。


 ひとつ。


 深い音が、石の奥へ沈む。


 ふたつ。


 遠い山脈が、眠りの中で身じろぎするように震える。


 みっつ。


 岩壁の奥から、別の音が返ってきた。


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 グラド=ヴォルグからの応答だった。


 王火炉の灰捨て場で、バルドが鎖を握り締めている。


 少年ガンツが震える声で囁く。


「来るんですか」


 バルドは笑わなかった。


 だが、片目に宿った火は強かった。


「来る」


「誰が」


「山を知る者たちだ」


 グラド=ヴォルグの炉心では、聖教会の鐘が鳴っていた。


 白い油が注がれ、司祭が祈り、監督官が怒鳴り、技師が数字を読み上げている。


 人類は、炉を支配しているつもりでいた。


 都市を要塞にしたつもりでいた。


 地下を封じたつもりでいた。


 名を奪ったつもりでいた。


 だが、山はまだ彼らのものではない。


 炉はまだ死んでいない。


 名はまだ消えていない。


 黒曜王都の古い坑道で、石壁がゆっくりと開いた。


 闇の奥から、冷たい風が吹いた。


 それは土と鉄と、遠い火の匂いを運んでいた。


 ボルガンは槌を肩に担ぐ。


「行くぞ」


 ドワーフたちは、声を上げなかった。


 代わりに、全員が槌で石床を一度だけ打った。


 低い音が重なり、地下へ沈む。


 その響きは、グラド=ヴォルグの山腹の奥で、小さく返った。


 人類の要塞は、まだ何も知らない。


 その足元で、奪われた都市が、内側から目覚め始めていることを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ