第31話「奪われた鉱山都市」
西方鉱山都市グラド=ヴォルグは、山の中に築かれた都市だった。
外から見れば、それは岩肌に穿たれた巨大な城塞に見える。
黒鉄の門。
幾重にも重なる石壁。
山腹を走る軌道。
火口のように赤く瞬く煙突群。
だが、本来のグラド=ヴォルグは城塞ではなかった。
炉の都市だった。
石を割る音。
鉄を打つ音。
鉱道を渡る車輪の音。
溶けた金属が型へ注がれる音。
老いた鍛冶師の怒声。
徒弟たちの返事。
酒場で歌われる低い歌。
それらが山の内側で響き合い、ひとつの巨大な心臓の鼓動となっていた。
ドワーフにとって、炉はただの道具ではない。
火は祖先から受け継ぐもの。
槌は名を刻むもの。
鉄は誓いを形にするもの。
その中心にあったのが、王火炉だった。
慈悲王アルヴァーンが、かつて自らの手で火を入れた大炉。
異種族連合の成立を祝して、ドワーフの王工匠たちが築き上げた炉。
王火炉の前では、どれほど頑固な鍛冶師も帽子を脱いだ。どれほど若い徒弟も声を落とした。
そこは祈りの場ではなかった。
ドワーフは火に祈らない。
火を守る。
火を継ぐ。
火に恥じぬものを打つ。
それが、グラド=ヴォルグの誇りだった。
今、その都市には白い旗が垂れている。
人類王国西方攻略隊の旗。
聖教会の聖印。
アルベリク・ダイン伯爵家の紋章。
黒鉄の門には、もとのドワーフ文字を削った跡があった。
かつてそこには、こう刻まれていた。
――グラド=ヴォルグ。王火炉を抱く鉄の都。
今は、その上から白い石板が打ちつけられている。
――聖別鉱山都市グラド=ヴォルグ。神火炉管理区。
名が奪われていた。
都市の名は残されている。
鉱脈も残されている。
炉も残されている。
だが、その意味だけが、人類の手で書き換えられていた。
山腹の外壁には新しい櫓が建てられていた。
ドワーフの石積みの上に、人類の木材と鉄板が無理やり継ぎ足されている。
聖印を刻んだ投射台。
山道を見下ろす弩砲。
谷底へ落とすための油槽。
坑道の入口には、二重三重の鉄格子と聖札結界。
奪った都市を守るため、人類はグラド=ヴォルグを要塞へ変えていた。
かつての通風孔には鉄柵が打たれた。
排煙路には見張りが置かれた。
鉱石搬出用の軌道は兵站路として使われ、街区を区切る門には王国兵が槍を並べている。
街の広場には、聖教会の簡易礼拝壇が築かれていた。
そこでは、司祭が毎朝こう叫ぶ。
「神敵どもの炉は、神の火によって清められた。異形の鍛冶師どもは、神の御業に奉仕することで罪を削られる」
兵士たちはそれを聞いて笑う。
奴隷監督官たちは鞭を鳴らす。
そして、ドワーフたちは黙って炉へ向かう。
彼らの足首には鎖がある。
首には聖印入りの鉄環がある。
手には槌がある。
だが、その槌は自分たちの誇りのためではなく、人類の砲弾と杭を作るために握らされていた。
王火炉の前には、白い祭壇が置かれている。
炉の縁には聖印が刻まれ、白い油が塗られている。炉心の上には聖教会の鐘が吊るされ、その音が鳴るたび、炎の色が一瞬だけ濁った。
人類はそれを清めと呼んだ。
ドワーフたちは、それを穢れと呼んだ。
王火炉の正面にあった古い銘板は削られていた。
完全には削り切れていない。
王、という一字の深い彫り跡だけが、白い石粉の下からまだ残っている。
その上に、新しい銘板が掛けられていた。
――神火炉。
若い徒弟が、それを見上げて歯を食いしばる。
ネルドよりさらに幼い少年だった。
名はガンツ。
腕は細く、頬はこけ、火傷の跡が指に残っている。まだ一人前の鍛冶師ではない。
だが、火の前で膝を折らないことだけは、師から教わっていた。
「おい、番号二十七」
監督官が声をかけた。
少年は返事をしなかった。
人類は彼を番号で呼ぶ。
だが、ドワーフは名で生きる。
隣にいた老鍛冶師が、少年の肩をかすかに押した。
「……はい」
少年は低く答える。
監督官は満足したように顎を上げ、炉を指した。
「神火炉の火を落とすな。次の聖別砲弾は今夜中に二百だ。伯爵閣下が追加を命じられた」
老鍛冶師の太い眉が動いた。
彼の名はバルド。
グラド=ヴォルグ外郭陥落の際、最後まで門側に残った王工匠のひとりだった。
生きていた。
だが、その事実はまだ黒曜王都へ届いていない。
バルドは炉の前に立ち、鎖に繋がれた手で槌を持っていた。背は曲がっていない。髭は焼け、片目は潰れかけている。それでも、炉を見る目だけは死んでいなかった。
監督官が鼻を鳴らす。
「聞こえなかったか。神火炉だ」
バルドは槌を置いた。
周囲のドワーフたちが息を止める。
兵士が槍を構えた。
司祭が顔を上げた。
バルドは、白い銘板を見なかった。
その奥に残る古い文字だけを見て、低く言った。
「王火炉だ」
監督官の表情が歪んだ。
「何だと」
「これは王火炉だ。アルヴァーン王が火を入れ、我らの祖が守り、我らの子が継ぐ炉だ。人間の札一枚で、名は変わらん」
少年ガンツの唇が震えた。
他の徒弟たちも、顔を伏せたまま拳を握る。
監督官が鞭を振り上げる。
だが、鞭が落ちるより早く、炉の中で火が鳴った。
ごう、と。
白い油に押さえつけられていた赤い炎が、一瞬だけ黒鉄の色を帯びた。
人類の司祭が目を剥く。
「聖油を足せ! 火を鎮めろ!」
兵士たちが慌てて白い油壺を運び込む。司祭は祈りの言葉を唱え、監督官は怒鳴り、技師は炉温を記録する。
その騒ぎの中で、バルドは少年にだけ聞こえる声で言った。
「覚えろ。名を奪われた時は、名を口にしろ」
「……王火炉」
少年は囁いた。
バルドは頷いた。
「もう一度」
「王火炉」
炉の奥で、火が小さく応えた。
同じ時、黒曜王都ヴァルドレインの玉座の間には、グラド=ヴォルグの地図が広げられていた。
それは吸血種が命を削って持ち帰った写しだった。人類側の補給路、外壁の増築箇所、聖印杭の位置、坑道封鎖の記号、そして炉心区画の監督体制が、黒い墨で記されている。
地図の前に、ボルガンが立っていた。
彼の拳は震えていた。
怒りで。
だが、振り下ろされてはいない。
玉座にはレイヴァルトが座っている。
その前で暴れることを、ボルガンはしなかった。
それは恐怖ではない。
服従でもない。
王の前で怒りを武器に変えることが、ドワーフの長としての矜持だった。
エルミアが片腕の袖を揺らしながら、静かに報告する。
「外壁は三層化されています。第一壁は旧市壁。第二壁は人類側が増設した木鉄混成の防御帯。第三壁は坑道入口を結ぶ内側の封鎖線です。正面から攻めれば、谷の両側から弩砲と投石を受けます」
ボルガンが唸る。
「俺たちの石壁に、腐った木を貼りつけおったか」
「さらに、通風孔の八割に鉄柵。排煙路に見張り。旧鉱石軌道は兵の移動路に転用されています」
「鉱石の道を兵の道にしたか。無知な連中め。あの軌道は重さを逃がすためのものだ。踏み方を知らん足で走れば、山が覚える」
ボルガンの声には怒りと、冷たい計算が混じっていた。
レイヴァルトは地図を見下ろしたまま、短く問う。
「炉は」
エルミアは目を伏せた。
「王火炉は稼働中です。ただし、人類側は神火炉と呼称。聖教会の司祭が常駐し、聖油と聖印で炉を制御しようとしています。製造物は聖別砲弾、聖印杭、首輪部品、坑道封鎖具。西方攻略隊の補給中枢になっています」
玉座の間の空気が重く沈んだ。
ボルガンの髭がわずかに揺れる。
彼は笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、低く言った。
「王よ」
レイヴァルトは視線だけを向ける。
「言え」
「グラド=ヴォルグを奪還する許可を」
ボルガンは膝をつかなかった。
ドワーフは、炉の名を取り戻す時、膝で願わない。
立って誓う。
「我らの炉を穢した者を、我らの鉱道で裁きます。捕らわれた鍛冶師と徒弟を取り戻します。王火炉の銘板を戻します。アルベリク・ダインの名を、炉前に引きずり出します」
レイヴァルトは静かに目を細めた。
「殺すな」
ボルガンの拳が鳴った。
だが、返事は遅れなかった。
「情報を吐かせるためですな」
「そうだ。アルベリクは鉱山を奪っただけではない。聖別砲を作り、王都へ向けた。王火炉を穢し、職人を鎖に繋ぎ、名を奪った。殺して終わらせるには、まだ足りない」
玉座の影が、地図の上へ落ちた。
黒い影はグラド=ヴォルグの炉心区画を覆い、そこから伸びる補給路をなぞる。
「伯爵、鉱山技師、炉司祭、監督官。全て捕らえろ。帳簿を取れ。聖印改造の構造を取れ。聖別砲に関わった名を取れ」
「御意」
「だが、炉は壊すな」
ボルガンは顔を上げた。
レイヴァルトの声は冷たい。
「俺が山ごと割れば早い。人類の守備兵も、司祭も、技師も、炉ごと潰せる」
玉座の間の誰も、それを疑わなかった。
レイヴァルトなら可能だった。
山腹を裂き、都市を崩し、王火炉ごと人類を埋めることなど、この新王にとっては難事ではない。
だが、それでは奪還ではない。
復讐でもない。
ボルガンが低く息を吐く。
「炉は、我らが取り戻すものです」
「ならば行け」
レイヴァルトは言った。
「これはドワーフの戦争だ」
その一言で、ボルガンの目に火が戻った。
若い兵が怒りに燃える時の火ではない。
老いた鍛冶師が、長く使う刃の芯を見極める時の火だった。
「ドワーフの復讐を、お見せしましょう」
ボルガンは地図の一点を太い指で叩いた。
正面門ではない。
山の裏手でもない。
外壁から遠く離れた、何もない岩盤の印だった。
エルミアが眉を上げる。
「そこには入口がありません」
「人間の地図にはな」
ボルガンは口元だけを歪めた。
「グラド=ヴォルグには、火を逃がす道、水を逃がす道、煙を逃がす道、罪人を閉じ込める道、王だけが通れる道がある。だが、もうひとつある」
「何だ」
レイヴァルトが問う。
ボルガンは答えた。
「炉が死にかけた時、職人だけが炉心へ戻るための道です。黒鎚坑道。人間どもは知らん。知っていても、入れん」
「なぜだ」
「あの道は、槌の音にしか開かんからです」
ボルガンは腰の古い槌を抜いた。
柄は傷だらけで、鉄頭には無数の打痕がある。だが、その中心には黒曜王家の紋と、王火炉の古い火印が刻まれていた。
「この槌で三度打てば、山が聞く」
レイヴァルトは短く言った。
「使え」
「御意」
その夜、グラド=ヴォルグでは、王火炉の火がまた濁っていた。
白い油を注がれ、聖印を押しつけられ、鐘の音で縛られながらも、炉は完全には人類の色に染まらない。
バルドは鎖を引きずりながら、灰捨て場へ向かった。
灰捨て場の床には、日々の煤が厚く積もっている。人類の監督官はそこをただの廃棄場所だと思っている。
だが、ドワーフは違う。
灰は火の記憶だ。
バルドは膝をつき、指で煤を払った。
その下に、古い鉄板がある。
彼は周囲を見ず、小さく槌を握った。
打てば響く。
だが、人類に聞かれてはならない。
だから彼は、鎖の輪を鉄板へ軽く当てた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
音はほとんどなかった。
ただ、山の奥がわずかに震えた。
少年ガンツが息を呑む。
バルドは口を動かした。
声にはしなかった。
――王火炉は、まだ生きている。
その震えは、深い岩盤の底へ落ちていった。
人類の聖印杭の下を抜け、封鎖された坑道のさらに下を通り、古い鉱脈の骨を伝い、閉じられた黒鎚坑道の入口へ届く。
そして、遠い闇の中で。
誰かが、同じ間隔で槌を鳴らした。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
グラド=ヴォルグの山が、目を覚まし始めていた。




