第30話「沈黙する教会都市」
南方巡礼都市セラフィム・ロンドは、白い都市だった。
白い石壁。
白い尖塔。
白い聖堂。
白い巡礼路。
中央の大聖堂からは、常に聖歌が流れていた。
朝には祈りの鐘が鳴り、昼には聖火番が大聖火炉の火を確認し、夕には巡礼者たちが聖水場へ列を作る。
この都市は、聖教会南方の火の心臓だった。
南方森域を焼いた聖火も、ここから出た。
聖印杭を祝福したのも、ここだった。
森を穢れと呼び、妖精を神敵と呼び、泉を清めるべき汚染源と記録したのも、この都市の司祭たちだった。
だが今、その都市は音を失い始めていた。
最初に沈黙したのは、聖歌隊だった。
大聖堂地下。
大聖火炉の前で、白い衣をまとった聖歌隊が並んでいる。
老司祭ヴェルナーは、杖を握りしめて命じた。
「歌え」
誰も声を出さなかった。
歌えば、森の名が出る。
神を讃えようとしても、焼いた泉の名が出る。
聖火を讃えようとしても、消した妖精の名が出る。
喉が覚えている。
舌が覚えている。
火が覚えさせた。
森を忘れさせるための聖歌は、森を呼び戻す歌へ変わっていた。
「歌えと言っている!」
ヴェルナーの怒号が大聖堂の地下に響く。
聖歌隊の青年が、震えながら口を開いた。
「神よ――」
続かなかった。
喉の奥から出たのは、祈りではなかった。
「セラの泉」
その一言で、彼は口を押さえた。
別の聖歌隊員が泣きながら膝をつく。
「言いたくない……言いたくないのに……」
老司祭は杖で床を叩いた。
「妖精の幻惑だ! 神への信仰を強めよ! 森の名など吐くな!」
彼自身が祈ろうとした。
「神よ、我らの聖火を――」
声が止まった。
喉の奥に、葉が詰まったような感覚があった。
焼けた白い葉。
聖火で白くなり、葉脈だけが黒く残った葉。
祈りの続きを吐こうとすれば、その葉が喉を塞ぐ。
ヴェルナーの顔が歪んだ。
彼は大聖火炉を睨む。
白い炎は燃えている。
燃えているはずだった。
だが、炎の底には黒緑の根が張りめぐらされていた。
炉壁を這い、聖印を覆い、祝福の文字の上に森の名を刻んでいる。
神の火。
浄化。
聖戦。
その文字の上に、別の名が重なっていた。
セラの泉。
リィナの小径。
アルヴァーンの水脈。
ミレイの巣。
トーニャの枝。
森は、聖教会の言葉の上に、自分の名を戻していた。
ヴェルナーは聖火番へ怒鳴った。
「油を足せ! 火を白く戻せ!」
聖火番たちは動かなかった。
動けなかった。
聖火炉へ近づけば、影に焼かれた森の記憶が映る。
自分たちが笑って火を運んだ日。
白い杭を泉へ打ち込んだ日。
小さな妖精の巣を燃やした日。
火の前で、それを浄化と呼んだ日。
それらが影から戻ってくる。
肉は焼かれない。
だが、逃げられない。
聖火番の一人が震えながら言った。
「司祭様……あれは、神の火では……」
「黙れ!」
ヴェルナーは叫んだ。
「言うな! それを言えば、我らは――」
言葉が途切れた。
我らは。
その先を、彼は言えなかった。
我らは何をしたのか。
神の火で何を焼いたのか。
浄化の名で何を消したのか。
大聖堂の床下で、根が鳴った。
木の根が石を割る音ではない。
祈りの根を断つ音だった。
聖水場では、巡礼者たちが膝をついていた。
聖水はすべて緑に濁っている。
水面には、焼けた森が映る。
巡礼者の女は、自分が瓶に汲んだ聖水の中に、小さな妖精の小径を見た。
白い火が小径を塞ぐ。
逃げようとした幼い妖精が、戻れなくなる。
女は瓶を落とした。
割れた瓶から水が広がる。
水は床に染み込まず、泉の形を作った。
巡礼者たちは後ずさる。
だが、後ろにも聖水がある。
聖堂の影にも、森がある。
窓から差し込む白い光にも、灰が舞っている。
「これは悪魔の幻だ!」
誰かが叫んだ。
その声に、鐘楼から音が返った。
鐘の音ではない。
葉擦れの音。
遠い水音。
焼けた枝が軋む音。
巡礼者たちは空を見上げた。
白い鐘楼の影が、緑に揺れていた。
南方巡礼都市は、まだ崩れていない。
壁も塔も倒れていない。
大聖堂も燃え落ちていない。
だが、祈りの都市としては死に始めていた。
歌えない。
祈れない。
聖水を配れない。
聖火を祝福できない。
鐘を鳴らせば、森が鳴る。
聖印を掲げれば、葉脈が浮かぶ。
聖火を見れば、焼いた森の名が返ってくる。
物理的な破壊よりも深い沈黙が、都市へ降りていた。
南方森域では、リュシエラが泉の前に立っていた。
羽の光は、今にも消えそうだった。
顔色は悪い。
指先は震えている。
聖火網へ森の根を伸ばし、大聖火炉を支配し、都市全体の祈りへ呪いを返している。
その負担は、妖精族の長である彼女にも重かった。
周囲の妖精族たちは、誰も彼女に休めとは言わなかった。
それは優しさではない。
今、止まれば森の報復は途中で終わる。
焼かれた森の名は、まだすべて返っていない。
リュシエラは泉の水面に映る南方巡礼都市を見つめる。
聖歌隊が沈黙する。
聖水場が閉じる。
聖印杭が床へ逆流する。
大聖火炉が森の根で覆われる。
老司祭ヴェルナーが、神の火と呼べなくなる。
それでも、まだ足りない。
「長」
妖精族の一人が声をかけた。
「都市の聖歌隊は沈黙しました。聖水場も使えません。聖印杭も逆流しています」
「鐘は」
「まだ鳴っています」
リュシエラは目を閉じた。
「なら、最後に鐘を残します」
「なぜですか」
「白冠砦へ届くからです」
妖精族の者は理解した。
マティアス司祭。
聖火を強める命令を出し、森の呪いを聖火網へ広げた男。
彼には、聞かせなければならない。
自分の祈りが招いた沈黙を。
リュシエラは泉へ手を沈める。
水面の白い火が、彼女の指を焼く。
痛みが走る。
だが、彼女は指を引かない。
「鐘を鳴らしなさい」
森が応えた。
南方巡礼都市の鐘楼で、鐘が揺れた。
誰も綱を引いていない。
鐘はひとりでに鳴った。
音は、都市全体へ広がる。
ごうん、ではない。
ざわり。
森が息をする音だった。
葉のない木々が揺れる音。
泉が濁る音。
小径が閉じる音。
火に焼かれた妖精たちの名が、風のように都市へ流れる。
セラの泉。
リィナの小径。
アルヴァーンの水脈。
ミレイの巣。
トーニャの枝。
名は、鐘の音に混じって都市中へ広がった。
巡礼者たちは膝をついた。
司祭たちは耳を塞いだ。
聖歌隊は口を閉じたまま震えた。
聖火番は炉へ近づけず、老司祭ヴェルナーは大聖火炉の前で崩れ落ちた。
「神の火……」
彼は言おうとした。
だが、その言葉は出なかった。
代わりに、喉から別の名が漏れた。
「アルヴァーンの水脈……」
老司祭は目を見開いた。
自分の口から出た名。
聖教会が魔王と呼び、神敵と呼び、殺害を正当化した王の名。
その王が戻した水脈。
それを焼いた火を、自分は神の火と呼んだ。
ヴェルナーは震えた。
「違う……私は、神の命に……」
大聖火炉が静かに揺れる。
炎の底から、森の根がさらに伸びる。
老司祭の影へ触れる。
影の中に、書類が浮かんだ。
南方森域浄化計画。
聖火炉派遣記録。
聖印杭使用許可。
妖精巣焼却報告。
老司祭ヴェルナーの署名。
彼は、それを見せられた。
消せない。
破れない。
言い訳できない。
森は、裁判をしない。
ただ、記録を返す。
「やめろ……」
ヴェルナーは膝をついたまま言った。
「もう、歌えない……祈れない……」
大聖堂の地下に、深い沈黙が落ちた。
その沈黙こそ、妖精族の復讐だった。
白冠砦では、マティアス司祭が鐘の音を聞いていた。
遠い南から届くはずのない音。
だが、白冠砦の聖杯、聖水、壁の聖印、床の影を通じて、音は届いていた。
森の鐘。
いや、鐘の形をした森の記憶。
マティアスは机の前に立ち尽くす。
助祭が震えながら報告する。
「南方巡礼都市より連絡途絶。聖歌隊沈黙。大聖火炉制御不能。聖水場封鎖。老司祭ヴェルナーより、祈祷不能の報告が……」
「祈祷不能」
マティアスはその言葉を繰り返した。
聖教会の都市が、祈れない。
聖火を扱う都市が、火を神の火と呼べない。
巡礼者の聖水場が、森の記憶を映して閉じた。
これは陥落ではない。
兵に攻められたわけではない。
壁を破られたわけではない。
だが、教会都市としては終わっている。
マティアスの指が震えた。
彼の前には、自分の書簡の写しがある。
聖火を増やせ。
聖歌を強めろ。
聖印杭を追加しろ。
その命令が、森の呪いを大聖火炉へ導いた。
彼は理解していた。
理解してしまった。
自分が火を強めたから、森は火に乗って戻ってきた。
自分が祈りを強めたから、祈りは呪いの道になった。
自分が聖歌を増やしたから、森の名は都市中へ広がった。
マティアスは椅子に手をつく。
「……止めればよかったのか」
その声は誰にも聞こえないほど小さかった。
だが、森は聞いていた。
書庫の聖杯が、静かに緑へ濁る。
水面に、リュシエラの影が浮かんだ。
はっきりとは見えない。
だが、羽の輪郭がある。
静かな怒りがある。
マティアスは水面から目を逸らせなかった。
リュシエラの声は聞こえない。
だが、森の音が言葉になった。
まだ。
マティアスの背筋が凍る。
まだ終わっていない。
自分はまだ殺されない。
殺されないまま、見せられ続ける。
自分が正義と呼んだものが、どのように返ってくるのかを。
黒曜宮の玉座の間では、影の地図に南方巡礼都市が映っていた。
白い都市は、緑の根に包まれている。
大聖堂は立っている。
壁も門も残っている。
だが、聖歌隊は沈黙し、聖水場は閉じ、大聖火炉は森の呪いの炉となり、鐘楼は森の音だけを鳴らしている。
レイヴァルトはそれを見下ろしていた。
傍らにはエルミア。
少し離れて、ボルガン、ゴウラ、ネレイド、セレイアが控えている。
ガルムは重傷のため、この場には短時間しか立てない。
ローデン・カイスは地下で拘束されている。
ザルギウスはまだ意識不明。
異種族連合は反攻を進めているが、傷はまだ深い。
リュシエラは玉座の前に膝をついていた。
ついに、彼女の羽の光が大きく揺らいだ。
体が傾く。
妖精族の側近が支えようとする。
だが、リュシエラは自分で膝を立て直した。
「南方巡礼都市、沈黙しました」
声はかすれていた。
「聖歌隊は歌えません。司祭たちは祈れません。聖火炉は森の炉になりました。聖水場は閉じました。鐘は森の音を返しています」
レイヴァルトは頷かなかった。
労いもしなかった。
ただ、命じた。
「倒れるな」
リュシエラは顔を上げる。
レイヴァルトの瞳は冷たい。
だが、それは無関心ではない。
王として、彼女の復讐がまだ終わっていないことを告げていた。
「次の火はまだ残る。マティアスも、聖教会の奥も、森を焼いた書類も残っている。ここで眠るな」
リュシエラは、かすかに息を吸った。
そして頭を垂れる。
「御意」
レイヴァルトは影の地図から南方巡礼都市を消さなかった。
緑に沈黙した都市は、聖教会への警告として残す。
白い火は消えていない。
森の炉として燃えている。
それは妖精族の報復の証だった。
「妖精族の復讐は、ここで一区切りとする」
レイヴァルトは言った。
「聖火の道は記録した。マティアスは生かす。聖教会本体へ届くまで、恐怖を運ばせろ」
リュシエラは答えた。
「承知しました」
玉座の間に沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、別の音が響いた。
金属の軋む音。
炉の低い唸り。
石を打つ槌の記憶。
ボルガンが顔を上げた。
ドワーフの長。
王都防衛で炉を守り、弾薬不足の中で装飾まで溶かし、奪われた鉱山都市グラド=ヴォルグを今も忘れていない男。
彼の拳は、膝の上で硬く握られていた。
影の地図の西方に、赤黒い点が浮かぶ。
グラド=ヴォルグ。
王火炉。
人類に奪われ、「神火炉」と呼ばれようとしているドワーフの聖地。
そこにはまだ、捕らわれた鍛冶師と徒弟がいる。
人類側鉱山技師がいる。
アルベリク・ダイン伯爵がいる。
奪われた炉がある。
レイヴァルトは、ボルガンを見た。
「次は鉱山だ」
ボルガンはゆっくり膝をつく。
その目には、溶岩のような怒りが宿っていた。
「王火炉の名を、取り戻します」
レイヴァルトは短く告げた。
「許す」
南方巡礼都市の鐘は、なお鳴っている。
だが、それはもう聖教会の鐘ではない。
焼かれた森が、人類の祈りを沈黙させた音だった。




