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第29話「妖精族の復讐」

 南方巡礼都市セラフィム・ロンドの大聖火炉は、白く燃えていた。


 白い石で築かれた大聖堂の地下。


 その最奥に据えられた巨大な炉は、聖教会南方支部の心臓だった。


 ここから火種が分けられる。


 ここから前線礼拝車が出る。


 ここから聖印杭が祝福される。


 ここから聖歌隊が派遣される。


 人類は、それを神の火だと呼んだ。


 森を焼く火ではない。穢れを清める火だと教えた。


 妖精の巣を消す火ではない。魔の棲み処を神の土地へ戻す火だと唱えた。


 だから、老司祭ヴェルナーは恐怖を認めなかった。


 大聖火炉の底に緑が混じっていても、聖水が森を映しても、聖歌隊の声に妖精の名が混ざっても、彼はそれを妖精の幻惑と呼んだ。


 神の試練。


 悪魔の妨害。


 信仰を試す影。


 そう名づければ、まだ耐えられると思っていた。


 だが、炉の底で根は伸びていた。


 白い炎の下。


 聖印の隙間。


 銀の炉床。


 歌で満たされた空気。


 祈りで清められたはずの石壁。


 そのすべてに、森の根が入り込んでいる。


 それは土を割る根ではない。


 記憶を這う根だった。


 焼かれた木々の名。


 汚された泉の名。


 閉ざされた妖精の小径。


 白い火に消された幼い妖精たちの声。


 父王アルヴァーンが水脈を戻した古木の記憶。


 人類が浄化と呼んだものの下に埋めた、森のすべてだった。


 老司祭ヴェルナーは杖を掲げた。


「歌え」


 聖歌隊は震えた。


 誰も歌いたがらなかった。


 歌えば、聞こえる。


 神への讃歌の奥から、森の名が戻ってくる。


 自分たちが焼いたものの名が、舌に絡みついてくる。


 だが、老司祭の命令は絶対だった。


「歌え! 聖火は神の火だ! 妖精の呪いごと焼き払え!」


 聖歌隊は歌い始めた。


 白い旋律が、大聖火炉の周囲に満ちる。


 その歌は本来、森の根を縛るためのものだった。


 泉に、お前は穢れていると教えるための歌。


 妖精の小径に、お前は閉じられるべきだと刻むための歌。


 聖火へ、燃やすことは救いであると意味を与えるための歌。


 だが、今は違った。


 歌が炉へ届いた瞬間、火の底の根が震えた。


 そして、歌は返された。


「セラの泉」


 聖歌隊の一人が、意図せずそう口にした。


 老司祭が振り向く。


「何を言った」


 歌は止まらない。


「リィナの小径」


「アルヴァーンの水脈」


「ミレイの巣」


「トーニャの枝」


 次々に、聖歌隊の口から森の名が漏れ出した。


 彼らは神の名を歌おうとしていた。


 だが、喉が別の名を覚えている。


 覚えているはずがない名を、聖火が教えてくる。


 森を焼いた火が、森の名を運んでくる。


 聖歌隊の青年が泣きながら口を押さえた。


「止まらない……」


 老司祭は杖で床を叩いた。


「歌を乱すな! 神を讃えろ!」


「讃えています!」


 青年は泣き叫んだ。


「讃えようとしているのに、森の名が出るんです!」


 大聖火炉が揺れた。


 白い炎の根元から、黒緑の線が這い上がる。


 それは炉の表面へ葉脈のように広がった。


 聖火番たちが慌てて聖水を撒く。


 聖水は炉へ触れる前に緑に濁った。


 水面に、焼けた森が映る。


 水の中で、白い木々が揺れていた。


 葉のない枝。


 灰の中に残った小さな飾り。


 泉の底へ沈んだ妖精の羽。


 聖火番の一人が後ずさる。


「これは、何だ……」


 その影に、白い火が伸びた。


 炎は彼の肉を焼かなかった。


 影だけを焼いた。


 彼の足元に、かつて彼が聖火炉を運び込んだ森の光景が浮かぶ。


 笑っていた。


 彼はあの日、笑っていた。


 森がよく燃えると。


 妖精の巣は小さいから探すのが面倒だと。


 聖印杭を多めに打てば、逃げ道まで焼けると。


 その会話が、影の中から聞こえてくる。


「やめろ……違う、俺は命令で……」


 森は答えない。


 ただ、返す。


 彼が森へ入れた火を。


 彼が聞かなかった悲鳴を。


 彼が記録しなかった名を。


 リュシエラは南方森域の泉の前に立っていた。


 焼けた森の中、泉はまだ白く濁っている。


 水面には、遠く離れた南方巡礼都市の大聖火炉が映っていた。


 彼女の羽は弱い。


 細い肩は、長く森の根を伸ばし続けた負担で震えている。


 それでも、膝は折れなかった。


 妖精族の生き残りたちが周囲にいる。


 誰も声を上げない。


 彼らの復讐は、怒号ではなかった。


 木の根が石を割るように、静かで遅く、確実なものだった。


「長。大聖火炉が染まり始めました」


 妖精族の一人が囁いた。


「聖歌隊が森の名を歌っています」


「まだです」


 リュシエラは静かに言った。


「名を歌わせるだけでは足りません」


「では」


「彼らが聖火を神の火と呼んだ理由を、火そのものに問い返します」


 妖精族たちは目を伏せる。


 その意味を理解したからだった。


 森は、人間をただ焼かない。


 森は、人間の信仰へ問いを返す。


 お前たちは、何を清めたのか。


 お前たちは、誰の名を消したのか。


 お前たちは、どの泉を穢れと呼んだのか。


 お前たちは、父王が戻した水脈を、何の権利で神の火へ差し出したのか。


 リュシエラは泉へ指を沈めた。


 水は熱くない。


 だが、指先の焼け痕が痛んだ。


 白い聖火が残した傷が、森の呪いを通じて疼いている。


「返しなさい」


 彼女は命じた。


「歌を。祈りを。杭を。水を。火を」


 泉の底で、黒緑の光が広がった。


 南方巡礼都市の大聖堂地下で、異変はさらに深まった。


 聖印杭の保管庫から音がした。


 杭が、ひとりでに震えている。


 聖職者たちが駆け寄る。


「何が起きている!」


 白い杭の表面に、黒緑の線が走っていた。


 それは根の形だった。


 本来、聖印杭は森の根を縛るための道具である。


 だが今、その杭そのものが根に縛られていた。


 一本の杭が床へ落ちる。


 次に、床石へ突き刺さった。


 誰も打っていない。


 だが、杭は自ら大聖堂の床へ沈んだ。


 聖印が逆流する。


 床下へ。


 壁へ。


 柱へ。


 聖堂の影へ。


 根が走った。


 聖職者が悲鳴を上げる。


「杭が、聖堂に……!」


 老司祭ヴェルナーは顔を歪めた。


「抜け! 早く抜け!」


 聖火番が杭を掴む。


 だが、抜けない。


 抜こうとすれば、手の影に森の記憶が焼きつく。


 彼は見た。


 自分が杭を打った泉。


 杭の周りで水が白く濁った瞬間。


 小さな妖精が逃げようとして、小径ごと閉じられた瞬間。


 彼は叫んだ。


「知らない! 俺は知らない!」


 その叫びに、聖堂の壁から葉擦れが返った。


 知らない。


 森はその言葉を覚えた。


 知らないと言った者の影に、もっと深く記憶を刻んだ。


 聖水場では、巡礼者たちが混乱していた。


 南方巡礼都市の聖水は、聖火で清められた水として知られている。巡礼者たちはそれを飲み、瓶に詰め、家へ持ち帰る。


 だが、その水が緑に濁った。


 水面に、焼けた森が映る。


 巡礼者の女が瓶を落とした。


 割れた瓶から水が流れる。


 水は床へ広がり、そこに小さな泉の形を映した。


 泉の縁に、妖精の子どもが立っていた。


 白い火が近づく。


 子どもは逃げようとする。


 小径が閉じる。


 女は悲鳴を上げて目を塞いだ。


 だが、目を閉じても見えた。


 聖水は目ではなく、記憶へ映していた。


 南方巡礼都市の鐘楼では、鐘が鳴らされた。


 異変を知らせるためだった。


 しかし、鐘の音も変わった。


 鳴ったのは、金属の音ではない。


 森の奥で木が軋む音。


 泉へ葉が落ちる音。


 火に包まれた小径が閉じる音。


 都市中の人々が空を見上げた。


 白い大聖堂の影が、緑に揺れていた。


 白冠砦の書庫で、マティアス司祭はその報告を受け取った。


 南方巡礼都市、大聖火炉異常。


 聖歌隊、制御不能。


 聖印杭、聖堂床へ逆流。


 聖水場、緑化。


 鐘楼、異音。


 報告書の文字が震えている。書いた者の手が恐怖に震えたのだろう。


 マティアスは紙を握りしめた。


 彼の耳には、まだ森の名が聞こえている。


 セラの泉。


 リィナの小径。


 アルヴァーンの水脈。


 その中に、父王の名が混じっていることに、彼は気づいた。


 アルヴァーン。


 慈悲王。


 聖教会が魔王と呼び、和平の場で殺した王。


 その王が戻した水脈を、自分たちは聖火で焼いた。


 マティアスの背筋が冷える。


 黒曜王都で敗北した時とは違う恐怖だった。


 あの時は、圧倒的な魔力への恐怖だった。


 今は、罪そのものが戻ってくる恐怖だった。


「司祭様」


 助祭が震えながら言う。


「南方巡礼都市より、追加の聖歌隊派遣要請です。妖精の呪いを払うため、祈りをさらに――」


「黙れ」


 マティアスの声は掠れていた。


 助祭は息を呑む。


 マティアスは椅子から立ち上がった。


 机の上の聖杯は、すべて緑に濁っている。


 聖水の中に、南方巡礼都市の大聖堂が映っていた。


 その床下へ、森の根が入り込んでいる。


 自分が書簡を出した。


 聖火を増やせと命じた。


 聖歌を強めろと命じた。


 聖印杭を追加しろと命じた。


 そのすべてが、森の呪いを広げた。


 マティアスは理解し始めていた。


 自分の祈りが、森を招いた。


 自分の命令が、聖教会の火へ根を入れた。


 だが、彼はまだ口にしなかった。


 口にすれば終わる。


 聖教会の聖火が、森の呪いの道になったと認めることになる。


「……聖火を止めるな」


 彼は言った。


 助祭が顔を上げる。


「司祭様」


「止めるな。止めれば、南方森域の浄化が失敗したと認めることになる」


「ですが」


「マティアス司祭の名で命じる。聖火を維持しろ。聖歌隊を交代させろ。祈れなくなった者は隔離しろ。聖水場は封鎖。大聖火炉は止めるな」


 助祭は青ざめながら頭を下げた。


「御意」


 マティアスは窓の外を見た。


 南の空が、白と緑に揺れている。


 彼は唇を噛む。


「これは幻惑だ」


 自分に言い聞かせる。


「これは神の試練だ」


 だが、耳の奥で森が囁いた。


 違う。


 それは声ではなかった。


 葉擦れだった。


 それでも、彼にはそう聞こえた。


 黒曜宮の玉座の間。


 影の地図には、南方巡礼都市が緑に染まり始めていた。


 白い火の線は、もう純白ではない。


 大聖火炉を中心に、根の網が広がっている。


 リュシエラは玉座の前に膝をついていた。


 呼吸が浅い。


 額に汗が浮かび、羽の光は今にも消えそうだった。


 それでも彼女は、森の根を離さなかった。


 レイヴァルトは彼女を見下ろす。


「限界か」


「まだ、森は返し終えていません」


 リュシエラは答えた。


「南方巡礼都市の聖火は、まだ神の火として扱われています」


「どこまで返す」


「祈りが止まるまで」


 その声に、妖精族の冷たい怒りが宿っていた。


「彼らが森を穢れと呼べなくなるまで。聖火を掲げるたび、焼いた泉の名を聞くまで。歌うたび、消した妖精の名を吐くまで」


 レイヴァルトはしばらく沈黙した。


 そして短く命じた。


「倒れるな」


 リュシエラは顔を上げた。


 その命令は、優しさではない。


 王の戦力として、復讐の担い手として、ここで倒れることを許さないという命令だった。


「お前の復讐を、途中で終わらせるな」


 リュシエラは深く頭を垂れた。


「御意」


 レイヴァルトは影の地図へ視線を戻した。


「殺し尽くすな。都市を沈黙させろ」


「沈黙」


「祈れない都市にしろ。歌えない聖歌隊にしろ。聖火を掲げられない司祭にしろ。マティアスへ聞かせるために、鐘だけは最後まで残せ」


 リュシエラの羽がわずかに震えた。


「承知しました」


 南方巡礼都市では、聖歌隊が次々に声を失っていた。


 声帯が焼けたわけではない。


 口を開けば、神への歌ではなく森の名が出る。


 祈ろうとすれば、焼いた木々の名が浮かぶ。


 聖火を讃えようとすれば、聖火で消えた妖精たちの名を口にしてしまう。


 だから彼らは黙った。


 老司祭ヴェルナーは怒鳴った。


「歌え! なぜ黙る!」


 誰も答えない。


 答えれば、森の名が出るからだ。


 彼は自ら祈ろうとした。


「神よ、我らに――」


 そこで言葉が詰まった。


 喉の奥に、葉がある。


 見えない葉。


 焼けた白い葉。


 その葉が、彼の祈りを塞いでいた。


 彼は杖を振り上げる。


「妖精どもめ……!」


 その瞬間、大聖火炉が高く燃え上がった。


 白い火の中に、はっきりと緑の根が見えた。


 根は炉壁を覆い、聖印の上を這い、祝福の文字をなぞっていく。


 祝福の文字が変わった。


 神の火。


 浄化。


 聖戦。


 それらの文字の上に、森の名が重なっていく。


 セラの泉。


 リィナの小径。


 アルヴァーンの水脈。


 ミレイの巣。


 トーニャの枝。


 名が、聖印を覆った。


 大聖火炉は、まだ燃えている。


 だが、それはもう聖教会だけの炉ではなかった。


 炉の底から、根が伸びる。


 地下の石床へ。


 聖堂の柱へ。


 聖水場へ。


 鐘楼へ。


 聖歌隊の宿舎へ。


 司祭の控室へ。


 都市の祈りの道へ。


 南方巡礼都市セラフィム・ロンドは、白い石の都市だった。


 今、その白い石の下に、森の根が張った。


 巡礼者たちは鐘の音を聞いた。


 ごうん、と鳴るはずの鐘が、葉擦れの音を返す。


 聖歌隊は沈黙した。


 聖水場は封鎖された。


 聖火番は炉へ近づけなくなった。


 司祭たちは祈りの言葉を失い始めた。


 老司祭ヴェルナーは、大聖火炉の前で膝をついた。


 彼はまだ生きている。


 だが、祈れない。


 歌えない。


 聖火を神の火と呼べない。


 呼ぼうとすれば、焼いた森の名が喉を塞ぐ。


 その時、炉の奥から森の音がした。


 葉擦れ。


 水音。


 小径を走る羽音。


 そして、静かな声。


 返した。


 老司祭は顔を上げた。


 炉の白い火の奥に、リュシエラの影が立っているように見えた。


 だが、彼女はそこにはいない。


 いるのは森だった。


 森そのものだった。


 黒曜宮の玉座の間で、リュシエラは限界まで青ざめた顔で報告した。


「大聖火炉を、取りました」


 影の地図上で、南方巡礼都市の中心が緑に沈んだ。


 白い火は消えていない。


 消えていないからこそ、恐ろしい。


 聖教会が神の火と呼んだものは、森の呪いの炉へ変わった。


 レイヴァルトはその光を見下ろした。


「次は都市を沈黙させる」


 リュシエラは深く頭を下げた。


「はい」


 南方巡礼都市の鐘が、もう一度鳴った。


 だが、それは鐘の音ではなかった。


 森が、都市の中で息をした音だった。


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