第28話「森の呪い」
聖火は、燃えていた。
南方森域へ向かう三台の前線礼拝車。その荷台に据えられた聖火炉の中で、白い炎が静かに揺れている。
聖教会の者たちは、それを神の火だと信じていた。
穢れを焼く火。
魔を払う火。
妖精の巣を清め、森を神の土地へ戻す火。
だから彼らは、白い炎の底に混じった微かな緑を見なかった。
見えていたとしても、見間違いだと思っただろう。
聖火は白い。
神の火は白い。
そう教えられてきた者たちに、火の中で根が伸びるなど、想像できるはずもなかった。
前線礼拝車の車輪が、焼けた街道を進む。
聖歌隊が歌う。
歌は、火へ意味を与える。
火は、土地へ意味を押しつける。
森よ、お前は穢れである。
泉よ、お前は清められるべきものである。
根よ、お前は神の下に伏すべきものである。
その歌が、白い炎を震わせる。
だが、今は違った。
歌が震わせているのは、炎だけではない。
炎の底に沈んだ、森の根だった。
聖歌隊の一人が、歌の途中で眉をひそめた。
自分の声に、別の声が重なっている。
幼い声。
かすれた声。
葉の裏を通る風のような声。
燃やさないで。
そこは、わたしたちの泉。
そこは、父王が水を戻した場所。
その声は、歌えば歌うほど濃くなる。
聖歌隊の青年は喉を押さえた。
喉の皮膚の下に、白い葉脈のような痕が浮かぶ。
「歌を止めるな」
聖火番が叱責した。
「森の幻惑だ。聖歌で払え」
青年は青ざめた顔で頷いた。
そして、さらに強く歌った。
その瞬間、聖火炉の底で緑の光が広がった。
南方森域の奥で、リュシエラは目を閉じていた。
彼女は焼けた泉の前に立っている。
指先には、前回、聖火に触れた焼け痕が残っていた。羽の光はいまだ弱く、身体は完全には戻っていない。
それでも、彼女は森の声を聞いていた。
聖火炉の中を走る根。
前線礼拝車の車輪へ絡む根。
聖歌隊の喉へ染み込む根。
聖印杭の内側へ入り込む根。
それらは肉の根ではない。
記憶の根だった。
焼かれた木々が覚えている。
濁らされた泉が覚えている。
聖歌で閉ざされた妖精の小径が覚えている。
聖火がどこから来て、誰の手を通り、誰の祈りで強められたのかを。
「長」
妖精族の一人が、焦げた幹の影から現れた。
「前線礼拝車が森の外縁へ近づいています。聖印杭も積まれています」
「打たせなさい」
リュシエラは静かに言った。
「杭を打てば、根は道を得ます」
「聖火がまた森へ入ります」
「入れさせます」
妖精族の者は唇を噛んだ。
森を焼いた火を、また森へ入れる。
怒りがないはずはなかった。
だが、リュシエラの顔は冷たかった。
「今、火だけを消しても、また別の火が来ます。炉を壊しても、別の炉が運ばれます。司祭を殺しても、別の司祭が祈ります」
彼女は白く濁った泉を見た。
「なら、火そのものに森を覚えさせます」
妖精族は頭を垂れた。
「御意」
前線礼拝車が、南方森域の外縁へ戻ってきた。
小司祭オルデンも同行している。
彼は前回より明らかに疲れていた。眠れていない目をしている。耳の奥で森の音が鳴り続けているからだった。
それでも彼は、聖教会の者として命じた。
「聖印杭を打て。泉へ向けて火を流し込む。妖精族は逃げた。今こそ、森を完全に浄化する」
聖火番たちが杭を持つ。
白い杭。
祈りを刻まれた釘。
それを焼けた土へ打ち込む。
一打。
二打。
三打。
杭が土へ沈むたび、白い火が根へ入る。
そして同時に、根も杭へ入った。
聖火番の影が、わずかに揺れた。
「今、何か……」
「続けろ」
オルデンは言った。
「止まれば、森の幻惑に飲まれるぞ」
聖火番は青ざめたまま、また杭を打った。
その影の中に、焼かれた妖精の小さな手が浮かんだ。
彼は悲鳴を上げそうになったが、声は出なかった。
喉に葉が詰まったような感覚があった。
聖歌隊が歌う。
だが、歌はもう白くない。
歌の裏に、森の音が混ざる。
葉擦れ。
水音。
木の実が落ちる音。
妖精が小径を駆ける羽音。
そして、聖火に焼かれた時の悲鳴。
聖歌隊は歌えば歌うほど、その音を大きくしていった。
小司祭オルデンは聖火炉へ近づいた。
炉の底を覗く。
白い火の奥に、緑があった。
根の形だった。
「……火に、根が」
彼は呟いた。
次の瞬間、聖火炉の白い炎が高く跳ねた。
それはオルデンを焼かなかった。
ただ、彼の影を濡らした。
影の中に、映像が浮かぶ。
自分が森へ火を入れた日。
泉へ聖印杭を打たせた日。
小さな妖精の巣を「汚染源」と記録した日。
聖歌隊の歌で、逃げようとした妖精の小径を閉じた日。
オルデンは膝をついた。
「やめろ……これは、神の命で……」
森は答えない。
許しもしない。
ただ、見せる。
彼がしたことを。
彼が命じたことを。
彼が見なかったことを。
南方巡礼都市セラフィム・ロンドでも、異変は始まっていた。
大聖堂の地下。
大聖火炉の周囲で、聖歌隊が歌っている。
老司祭は白い火を見つめ、満足げに頷いていた。
前線へ送った聖火炉は三基。
白冠砦からの要請に応えた。
南方森域の浄化は進む。
妖精族は逃げた。
魔王の子がどうあれ、聖火は森を殺す。
そう信じていた。
だが、大聖火炉の火が揺れた。
白い炎の底から、細い緑が伸びる。
最初は糸のようだった。
次に、葉脈のように広がった。
聖火番が目を見開く。
「司祭様。炉の底が……」
「灰だろう」
「いえ、緑に……」
老司祭が身を乗り出した。
その瞬間、聖火炉の火が彼の影へ触れた。
老司祭の影の中に、森が映った。
白く焼けた木。
濁った泉。
枝に残った妖精の小さな飾り。
父王アルヴァーンがかつて水脈を戻した古木。
それを焼けと命じた書類。
自分の署名。
老司祭は後ずさった。
「妖精の幻惑だ!」
彼は叫んだ。
「歌を強めろ! 火を強めろ! これは試練だ!」
聖歌隊が声を張る。
大聖火炉が白く燃え上がる。
だが、強めれば強めるほど、緑は広がった。
聖歌は、森の声を遠くまで運んだ。
火は、呪いの道を太くした。
聖印は、根が絡む足場になった。
聖火番の一人が、炉の周囲に聖水を撒いた。
白い炎を整えるための聖水だった。
聖水は床に落ちた瞬間、淡い緑に濁った。
その水面に、焼けた森が映る。
聖火番は悲鳴を上げた。
「水が、森を映している!」
老司祭は聖印を掲げる。
「神よ、神の火を守り――」
祈りの途中で、聖印に焦げた葉が張りついた。
葉はどこから来たのか分からない。
大聖堂の地下に、森の葉などあるはずがない。
だが、それは確かに葉だった。
聖火で白く焼かれ、葉脈だけが黒く残った葉。
老司祭の手が震えた。
その葉脈が、文字のように見えたからだ。
返せ。
そう読めた。
白冠砦でも、呪いは広がっていた。
礼拝堂の聖杯が、次々と緑に濁る。
聖水の表面には、焼けた森の光景が映る。
兵士たちはそれを恐れ、布で聖杯を覆った。
だが、覆っても無駄だった。
水面に映る森は、今度は床の影に移る。
床の影を避ければ、壁の聖印に映る。
聖印を外せば、窓の白い光に映る。
どこにでも、森があった。
マティアス司祭は書庫で立ち尽くしていた。
机の上の聖杯は、すでに三つ割れている。
四つ目は割れていない。
代わりに、緑に濁った聖水の中で、南方森域の泉が揺れていた。
泉の水面に、リュシエラの影が映る。
はっきりとした顔ではない。
妖精族の長の輪郭だけ。
だが、マティアスには分かった。
見られている。
黒曜王都では、レイヴァルトに見られていた。
今度は、森に見られている。
「これは……妖精の呪いか」
彼は呟いた。
背後の助祭が震える。
「司祭様。南方巡礼都市から緊急報告が。大聖火炉に異常。聖水が緑に濁り、聖歌隊が森の声を聞くと」
マティアスは目を閉じた。
やはり。
火が戻ってきている。
自分が強めろと命じた火が、森を連れて戻ってきている。
「聖火を止めろ」
彼は反射的に言いかけた。
だが、その言葉は最後まで出なかった。
止めれば、認めることになる。
聖火が汚されたことを。
神の火が森に侵されたことを。
浄化が、呪いの入口になったことを。
聖教会の権威が揺らぐ。
信仰が崩れる。
聖戦が疑われる。
マティアスは唇を噛んだ。
「……聖火を弱めるな」
助祭が目を見開く。
「ですが」
「これは試練だ。妖精の幻惑にすぎない。南方巡礼都市へ伝えろ。聖歌を倍にしろ。聖印杭を追加しろ。祈りを強めろ」
言いながら、マティアス自身が理解していた。
それが、相手の望むことかもしれないと。
だが、止まれない。
聖教会は止まれない。
止まれない組織は、罠へ自分の足で進む。
黒曜宮の玉座の間では、緑の線が影の地図に広がっていた。
南方森域。
前線礼拝車。
白冠砦。
マティアスの書庫。
南方巡礼都市セラフィム・ロンド。
大聖火炉。
さらに、そこから伸びる聖火の配給路。
小さな礼拝所。
聖印杭の保管庫。
聖歌隊の宿舎。
巡礼者の聖水場。
火は広がっている。
それは人類が望んだことだった。
そして、森が待っていたことでもあった。
リュシエラは玉座の前で片膝をついていた。
彼女の額には汗が浮いている。
消耗した体で森の根を遠くまで伸ばしているのだ。羽の光はさらに弱まっている。
だが、目は閉じていない。
「南方巡礼都市の大聖火炉に根を張りました」
リュシエラは報告した。
「白冠砦にも、聖歌隊にも、聖水場にも根が入っています」
レイヴァルトは地図を見た。
「マティアスは」
「気づき始めています。ですが、止めませんでした」
「止められないのだろう」
レイヴァルトの声は冷たい。
「自分の信仰が森を招いたと認めれば、奴らの聖戦は崩れる」
リュシエラは静かに頷いた。
「だから、さらに祈ります」
「祈らせろ」
レイヴァルトは言った。
「祈りが呪いになるところを見せろ」
玉座の間に控える異種族たちは、誰も言葉を挟まなかった。
獣人族の報復は、檻を砕いた。
妖精族の報復は、祈りの内側へ入り込んでいる。
どちらも復讐だった。
ただ、牙の形が違うだけだ。
リュシエラは深く息を吸う。
「次に、聖歌を返します」
「どう返す」
「彼らが森の根を縛るために歌った歌へ、森の名を混ぜます。歌えば歌うほど、焼いた木々の名、汚した泉の名、消した妖精の名が、彼らの喉に残ります」
「殺すのか」
「すぐには」
リュシエラの声は氷のようだった。
「歌えなくします。祈れなくします。聖火を神の火と呼ぶたび、森の悲鳴を聞かせます」
レイヴァルトは頷いた。
「許す」
「御意」
南方巡礼都市の大聖堂地下では、聖歌隊が倍に増やされていた。
マティアスの命令は届いている。
聖歌を強めろ。
聖印杭を追加しろ。
祈りを強めろ。
老司祭は恐怖を怒りで隠し、聖歌隊へ命じた。
「歌え! 森の呪いなど、神の火で焼き払え!」
聖歌隊は歌った。
声が地下へ満ちる。
その瞬間、大聖火炉の底に張った根が一斉に震えた。
歌の中へ、名が混じる。
セラの泉。
リィナの小径。
アルヴァーンの水脈。
ミレイの巣。
トーニャの枝。
焼かれた妖精たちの名。
聖歌隊の声が乱れる。
彼らは神を讃えようとした。
だが、口から出た音の中に、森の名が混じる。
「なぜ……」
一人が喉を押さえた。
もう一人が泣き出した。
老司祭が叫ぶ。
「歌え! 止めるな!」
彼らは歌った。
歌えば歌うほど、森の名が増えた。
祈りは呪いになった。
大聖火炉の白い火が、ゆっくりと緑を帯びていく。
それでも炎は消えない。
消さない。
森は聖火を消すために来たのではない。
返すために来た。
南方森域では、焼けた木々の根元から、細い芽が出ていた。
それは新しい緑ではない。
呪いの芽だった。
白い灰を押しのけて伸びる、小さな黒緑の芽。
それらは南ではなく、人類の聖火網へ向かって根を伸ばしていた。
リュシエラは泉の前に立ち、静かに告げた。
「まだ、終わらせません」
妖精族たちが頭を垂れる。
「彼らが火を神と呼ぶ限り、森はその火の中で待ちます」
白冠砦で、マティアス司祭は膝をついた。
耳の奥で、聖歌隊の声が聞こえる。
だが、それは神を讃える歌ではなかった。
森の名を数える声だった。
彼は両耳を塞ぐ。
それでも聞こえる。
セラの泉。
リィナの小径。
アルヴァーンの水脈。
焼いたもの。
汚したもの。
消したもの。
すべてが、火の中から戻ってくる。
マティアスは震える声で呟いた。
「これは……浄化ではない……」
その言葉を、彼はすぐに飲み込んだ。
だが、もう遅い。
森は聞いていた。
黒曜宮の玉座で、レイヴァルトは影の地図を見下ろす。
南方巡礼都市の大聖火炉が、白から緑へ濁り始めている。
リュシエラは弱った羽を畳み、静かに告げた。
「大聖火炉に、根が張りました」
レイヴァルトは冷たく言った。
「なら、次は返せ」




