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第27話「聖教会の聖火」

前線礼拝車は、白い灰を車輪にまとわせながら森を出た。


 車輪は軋んでいた。


 だが、壊れてはいない。


 聖火炉はまだ燃えていた。


 白い火は炉の内側で静かに揺れ、人類の小司祭たちは、それを勝利の証だと思っていた。


 森はまだ焼けている。


 妖精族は姿を見せたが、襲ってはこなかった。


 前線礼拝車は無事に森を抜けた。


 ならば、神の火は森に勝っている。


 そう考えた。


 彼らは知らない。


 聖火炉の底に、細い根が絡んでいることを。


 それは目に見える根ではない。


 森が覚えている道だった。


 焼かれた古木の記憶。


 濁らされた泉の記憶。


 歌で縛られた妖精の小径。


 白い火で名を消された幼い妖精たちの最後の震え。


 それらが、火の底へ沈んでいる。


 聖火炉は、聖教会の炉であると同時に、今は森の耳でもあった。


 前線礼拝車に乗る小司祭オルデンは、何度も背後を振り返った。


 白い森が遠ざかっていく。


 焼けて骨のようになった木々。


 濁った泉。


 聖印杭。


 白く揺れる残り火。


 そこに妖精族の姿はない。


 だが、彼は見られている気がしていた。


 木に。


 灰に。


 水に。


 火に。


「司祭様。森は追ってきません」


 聖火番の男が言った。


 その声には、自分自身を安心させる響きがあった。


 オルデンは頷く。


「妖精どもは、火を恐れたのだ」


 そう口にしてから、自分の喉が乾いていることに気づく。


 聖歌隊の一人が、小さく咳をした。


 喉に、白い葉の形をした痕が浮いている。


 森で歌を止めた時から、その痕は消えていなかった。


「歌えるか」


 オルデンが問う。


 聖歌隊の青年は、青ざめたまま頷いた。


「はい。神のためなら」


「なら歌え。聖火を絶やすな。白冠砦へ戻るまで、火を弱めてはならん」


 聖歌隊は歌い始めた。


 白い旋律。


 森の根を縛るための歌。


 妖精の小径を閉ざすための歌。


 泉の記憶を濁らせるための歌。


 だが、その旋律の奥に、別の音が混じっていた。


 葉擦れ。


 水音。


 根が土の下を進む音。


 聖歌隊は気づかない。


 歌っているつもりで、森の音を運んでいた。


 白冠砦は、敗北と祈りの匂いに満ちていた。


 黒曜王都包囲軍の敗走以来、この砦では聖杯が割れ、聖水が黒く染まり、兵士たちが夜ごと「人類を許さない」という声を聞いている。


 それでも聖教会は、砦を捨てなかった。


 砦はまだ報告の中継点だった。


 敗北も、恐怖も、聖火も、ここを通る。


 前線礼拝車が砦へ入ると、兵士たちは道を開けた。


 誰も歓声を上げない。


 聖火炉の白い光を見て膝をつく者はいたが、その顔には信仰よりも怯えが浮いていた。


 小司祭オルデンは、砦内礼拝堂へ入った。


 そこには、マティアス司祭の代理として残された助祭たちがいた。


 マティアス本人は白冠砦にいる。


 だが、黒曜王都での敗北以降、彼は奥の書庫に閉じこもり、聖教会本部へ密書を書き続けていた。


 聖杯が割れるたび、彼の顔色は悪くなっている。


 それでも彼は生きていた。


 そして、まだ聖教会の道を閉じてはいない。


「報告せよ」


 助祭が命じた。


 オルデンは膝をつく。


「南方森域の外縁浄化は継続中。妖精族の長と思われる存在を確認しましたが、直接攻撃は受けておりません。森はなお燃えております」


 助祭の顔に、安堵が広がる。


「妖精族は退いたか」


「はい。聖火を恐れたものと」


 そう答えながら、オルデンは背筋に冷たいものを感じた。


 自分の言葉なのに、どこか遠い。


 まるで、言わされているようだった。


 助祭は気づかない。


「よし。ならば火を増やす。南方森域の浄化を止めるな。王都包囲軍が崩れても、森を焼き続ければ妖精族は戻れぬ」


「聖火炉の追加を?」


「そうだ。南方巡礼都市へ連絡する。大聖火炉から火種を三つ分けさせる。聖歌隊も追加する」


 オルデンは頭を下げた。


 その瞬間、聖火炉の底で、緑の光が一瞬だけ揺れた。


 誰も見なかった。


 ただ、礼拝堂の床石の隙間に、小さな根の影が落ちた。


 白冠砦の奥。


 書庫では、マティアス司祭が一通の書簡を読んでいた。


 彼の前には、割れた聖杯が置かれている。


 何度取り替えても割れる。


 聖水を注げば黒く濁る。


 祈れば、耳の奥で黒い声が響く。


 人類を、許さない。


 マティアスは指でこめかみを押さえた。


 彼は愚かではなかった。


 黒曜王都で何が起きたかを知っている。


 レイヴァルトが父王の慈悲を継がなかったことも知っている。


 聖印杭が黒く染められたことも、聖別砲が奪われたことも、祈りが届かなかったことも知っている。


 それでも、聖教会は止まれない。


 止まれば、これまでの聖戦が罪になる。


 浄化の名で焼いた森も、神敵討伐の名で殺した異種族も、すべて侵略だったと認めることになる。


 だから、彼らは火を足す。


 祈りを強める。


 嘘を、より大きな声で唱える。


 書庫の扉が開いた。


 助祭が入ってくる。


「マティアス司祭。南方森域より前線礼拝車が戻りました」


「結果は」


「聖火は維持。妖精族は姿を見せましたが、退いたとのことです。森はまだ焼けております」


 マティアスは目を閉じた。


 退いた。


 その言葉に、安堵すべきだった。


 だが、胸の奥が冷えた。


 黒曜王都でも、彼は同じように考えた。


 王子は眠っている。


 魔王の子は封じられている。


 聖別砲で黒曜宮ごと焼けば終わる。


 そして、目覚めた。


 今も同じではないか。


 森が退いたのではない。


 何かを待っているのではないか。


 助祭が続ける。


「南方巡礼都市へ追加聖火を要請します。大聖火炉より火種を分け、前線へ三基送る準備を」


 マティアスはしばらく沈黙した。


 やがて、羽ペンを取る。


「書簡を出せ」


「はい」


「聖火を増やせ。聖歌隊も送れ。森の根を完全に焼け。泉を聖別し、妖精の小径を封じろ」


 助祭は安堵したように頭を下げた。


「神の御心のままに」


 マティアスはその言葉に返事をしなかった。


 羽ペンの先が震えている。


 書簡の最後に署名する。


 マティアス。


 その名が黒い地図のどこかに刻まれるような気がした。


 彼は気のせいだと思おうとした。


 だが、机の上の割れた聖杯の破片に、白い葉脈のような影が映った。


 南方巡礼都市セラフィム・ロンド。


 そこは聖教会が南方一帯に聖火を供給する拠点だった。


 白い石で造られた巡礼都市。


 中央には大聖堂があり、その地下には大聖火炉がある。


 聖火はそこから生まれる。


 正確には、生まれるのではない。


 異種族の土地を焼くために、祈りと聖印と歌で火へ意味を与える。


 薪は聖別された木。


 油は聖堂で祈りを受けたもの。


 炉の周囲には聖歌隊が並び、休むことなく歌い続ける。


 聖印杭は、火の意味を土地へ打ち込むための釘。


 聖火炉は、火を運ぶ器。


 前線礼拝車は、その器を森へ届ける車。


 泉や根を汚す原理は単純だった。


 火そのものが強いのではない。


 聖教会が火へ「これは浄化である」と意味を刻む。


 聖歌隊が、その意味を土地へ歌い込む。


 聖印杭が根へ固定する。


 聖火炉が火を絶やさず供給し続ける。


 すると森は、燃えるだけでなく、自分自身を穢れとして認識させられる。


 泉は自分の水を汚れと思い、根は自分の緑を罪と思い、妖精の小径は自分が存在してはいけない道だと縛られる。


 聖火とは、炎の形をした改宗だった。


 南方巡礼都市の大聖堂で、司祭たちは白冠砦からの書簡を受け取った。


「南方森域、浄化継続。妖精族は退避。追加聖火炉三基を要請」


 老司祭は満足げに頷いた。


「やはり森の妖精など、聖火の前では逃げるだけか」


「黒曜王都で魔王の子が目覚めたとの噂が」


「噂だ。たとえ事実でも、聖火は神の火。森を焼けば妖精族は力を失う」


「マティアス司祭の署名です」


「ならば急げ。聖歌隊を二組、聖火番を六名。前線礼拝車を三台出す。大聖火炉より火種を分けよ」


 大聖堂の地下で、白い火が揺れていた。


 大聖火炉。


 聖教会南方の火の心臓。


 炉の周囲には聖印が刻まれ、鎖で吊るされた香炉から白い煙が立っている。


 聖歌隊が歌う。


 聖火番が火種を銀の器へ移す。


 火は美しかった。


 白く、静かで、神聖に見えた。


 だが、火種が銀の器へ移された瞬間、その底で緑が瞬いた。


 ほんの一瞬。


 見間違いとしか思えないほど微かな光。


 聖火番は気づかなかった。


 聖歌隊も気づかなかった。


 老司祭も気づかなかった。


 大聖火炉へ、森の根が入った。


 黒曜宮の玉座の間では、影の地図に緑の線が伸びていた。


 南方森域から前線礼拝車へ。


 前線礼拝車から白冠砦へ。


 白冠砦からマティアスの書簡へ。


 書簡から南方巡礼都市へ。


 そして、大聖火炉へ。


 リュシエラは玉座の前に立っていた。


 彼女は森にはいない。


 だが、森の根を通じて火の動きを見ている。


 羽の光は弱いままだ。


 それでも、目は冷えていた。


「入りました」


 リュシエラが言った。


 レイヴァルトは地図を見下ろす。


「大聖火炉か」


「はい。聖火の供給元です。南方森域を焼いた火は、ここから枝分かれしています」


「殺すか」


 その問いに、リュシエラはすぐには答えなかった。


 妖精族なら、大聖火炉の根元を呪いで腐らせることもできる。


 聖歌隊の声を奪うことも、司祭の祈りを閉じることもできる。


 だが、それでは早い。


 火はまだ広がる。


 人類は、自分たちで聖火を増やそうとしている。


 ならば、その火へ森の呪いを乗せたまま、聖教会自身に運ばせればいい。


 リュシエラは静かに答えた。


「まだ殺しません」


 レイヴァルトの口元が、わずかに動いた。


 笑みではない。


 確認だった。


「理由は」


「火は、まだ枝分かれします。彼らは聖火を強めるつもりです。ならば、そのすべてに森を混ぜます」


 玉座の間に沈黙が落ちる。


 ゴウラが低く唸る。


「陰湿だな」


 リュシエラは振り向かない。


「森は一度焼かれました。すぐに噛み殺すほど、森の怒りは浅くありません」


 ボルガンが腕を組む。


「聖火網そのものを汚し返すわけか」


「汚されたものを、返すだけです」


 リュシエラの声には、怒号より冷たい響きがあった。


 レイヴァルトは頷いた。


「許す」


 リュシエラは膝をつく。


「御意」


「だが、記録を忘れるな」


「火種を分けた者、歌った者、杭を打った者、命じた者。すべて森が覚えます」


「よい」


 レイヴァルトは地図上の南方巡礼都市を見た。


「マティアスはまだ殺すな」


「承知しています」


「奴には、自分の祈りが森を招いたと理解させる」


 リュシエラの羽が、静かに震えた。


「それは、森にとっても望むところです」


 その頃、南方巡礼都市では、三台の前線礼拝車が出発の準備を終えていた。


 銀の器に分けられた聖火が、それぞれの聖火炉へ移される。


 聖歌隊が乗り込む。


 聖印杭が荷台へ積まれる。


 聖火番が炉の温度を確認する。


 老司祭が前に立ち、祝福を与える。


「神の火を南方森域へ。妖精の巣を焼き、森の穢れを払え」


 白い火が揺れる。


 その底で、緑の根がさらに細かく枝分かれした。


 一つの炉から三つへ。


 三つから、さらに前線へ。


 聖火番が火を増やしたつもりで、森の呪いを増やしている。


 聖歌隊が歌を強めたつもりで、根へ道を教えている。


 聖印杭が森を縛るつもりで、呪いの釘を自分たちの聖火網へ打ち込んでいる。


 誰も気づかない。


 人類は、勝っていると思っていた。


 妖精族は逃げたと思っていた。


 森はまだ焼けていると思っていた。


 その通りだった。


 森はまだ焼けている。


 だからこそ、森はその火を覚えた。


 白冠砦で、マティアス司祭は再び聖杯が割れる音を聞いた。


 彼は振り向く。


 誰も触れていない聖杯が、机の上で真っ二つになっていた。


 中の聖水は黒くない。


 今度は、淡く緑に濁っていた。


 マティアスの喉が鳴る。


 耳の奥で、風の音がした。


 森の音だった。


 彼は窓へ近づく。


 遠く南の空に、白い火の光が見える。


 それは聖教会の火であるはずだった。


 だが、火の奥に、何かがいる。


 根。


 泉。


 灰。


 消えた妖精の名。


 マティアスは小さく呟いた。


「……火が、戻ってくる」


 その言葉は、彼自身にも意味が分からなかった。


 だが、黒曜宮では、リュシエラが静かに目を閉じた。


「聖火網へ入りました」


 レイヴァルトは玉座から立たない。


 ただ、黒い地図を見下ろしている。


 南方巡礼都市から伸びる白い火の線が、一本、また一本と緑に染まり始めていた。


 人類は聖火を増やした。


 そのつもりだった。


 実際には、自分たちの聖火網全体へ、森の呪いを広げていた。


 リュシエラは静かに言った。


「次に、森が返します」

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