第26話「焼かれた森」
南方森域は、まだ燃えていた。
炎は赤くなかった。
白かった。
人類が聖火と呼ぶその火は、木を燃やすだけではない。葉を焦がし、幹を裂き、根を焼き、泉を濁らせ、土の奥に眠る妖精たちの記憶まで白く塗り潰していた。
普通の火なら、雨で消える。
普通の火なら、灰になれば終わる。
だが、聖教会の聖火は違った。
灰の中で生きる。
水の上で揺れる。
焼け落ちた幹の内側に入り込み、芽吹こうとする若木の命を白く腐らせる。
それは森を殺す火ではなかった。
森を、別のものへ作り替える火だった。
黒曜宮の玉座の間で、リュシエラは膝をついていた。
羽の光は弱い。王都防衛で根を支え続け、聖歌隊の呪いだけを殺し、聖札結界を破る種まで渡した彼女の体は、まだ回復していない。
だが、彼女の顔に疲労はなかった。
あるのは、静かな怒りだった。
獣人族の怒りが牙ならば、妖精族の怒りは凍った泉だった。
表面は動かない。
だが、その底には、深く暗い流れがある。
「南方森域の根から、声が途切れています」
リュシエラは報告した。
「聖火に焼かれた木々は、まだ死にきっていません。死ぬことすら許されず、白い火に縛られています。泉は濁り、土は聖印に汚され、妖精の小径は閉じられました」
レイヴァルトは玉座に座り、黙って聞いていた。
獣人族の檻を開けた直後である。
ローデン・カイスは捕縛され、黒天蓋の紋を刻まれたまま地下の拘束室へ運ばれている。灰牙村の生存者は王都へ戻り、名を記録されている。ガルムは重傷のままローデンを殺さず、王命に従った。
その余韻は、まだ王都に残っていた。
だが、人類の罪は一つの種族だけに向けられたものではない。
父王アルヴァーンが守った国は、狼の村だけではない。
森もまた、父王の民だった。
リュシエラは細い指で、黒曜石の床に種を置いた。
それは本来、緑色の光を宿すはずの妖精の種だった。
今は白く濁っている。
殻の表面には、聖印のような傷が浮かんでいた。
「これは、森の最奥にあった泉の種です。かつて父王陛下が、南方森域の古木へ水脈を戻した日に生まれたものです」
ボルガンが低く唸った。
セレイアが片翼を押さえながら目を伏せる。
ネレイドの髪から、水滴が音もなく落ちた。
ゴウラでさえ、拳を握ったまま黙っていた。
父王アルヴァーン。
慈悲王。
彼は人類を滅ぼさなかった王であると同時に、異種族の傷を癒やした王でもあった。
その父王が蘇らせた泉を、人類は聖火で汚した。
それは、森への攻撃であると同時に、父王の記憶への冒涜だった。
リュシエラは静かに続ける。
「人類側は、これを浄化と呼んでいます。森の穢れを焼き、妖精の巣を清め、神の土地へ戻すのだと」
レイヴァルトの指が、玉座の肘掛けを叩いた。
小さな音だった。
それだけで、玉座の間の影が揺れた。
「森は、誰のものだ」
リュシエラは顔を上げた。
「父王陛下の民のものです。そして今は、陛下の国のものです」
「なら、取り戻せ」
レイヴァルトは短く命じた。
「焼いた者を殺すだけでは足りない。聖火を読め。火の道を辿れ。どの司祭が火を運び、どの聖堂が火を祝福し、どの聖歌隊が根を縛ったか記録しろ」
「御意」
「マティアスにはまだ届くな」
リュシエラの羽がわずかに震えた。
黒曜王都包囲軍で聖印杭と聖別砲を用い、聖歌隊を指揮した司祭。
妖精族の森を汚した聖教会奥部へつながる道。
殺すには、まだ早い。
リュシエラは、その意味を理解していた。
「マティアスは、火の根へ続く司祭ですね」
「そうだ」
レイヴァルトは言った。
「枝を折れ。幹へ届くまで、根を掘れ」
妖精族の長は、深く頭を垂れた。
「妖精族は、王命に従います」
その夜、リュシエラは南方森域へ向かった。
同行したのは、妖精族の生き残りたちだった。
彼らは獣人族のように大きな武器を持たない。
鎧もない。
足音もほとんどない。
羽は弱く光り、髪には枯葉が絡み、目の奥には森の底のような怒りが沈んでいた。
森へ近づくほど、空気は変わった。
生きた森には、湿った土の匂いがある。
木の皮、苔、葉の裏、水脈、獣の息、虫の羽音。
だが、南方森域の外縁には、それがなかった。
あるのは、白く焦げた匂い。
燃えた木ではなく、祈りで焼かれた命の匂いだった。
森の入り口には、聖教会の杭が打ち込まれていた。
白い杭。
表面には聖印。
杭と杭の間には、白い糸のような火が渡されている。
その奥に、焼けた森が広がっていた。
幹は炭化していない。
白い。
まるで骨のように立っている。
枝には葉がない。
だが、葉の形をした白い灰が張りつき、風もないのに震えていた。
泉は濁っていた。
水面には、薄い聖火が浮いている。
水の上で火が燃えているという異常を、人類は奇跡と呼んだのだろう。
リュシエラは泉の前で膝をついた。
指先を水面へ伸ばす。
触れる直前、白い火が指へ絡みつこうとした。
周囲の妖精たちが息を呑む。
リュシエラは指を引かなかった。
白火が爪先を焼く。
小さな煙が立つ。
だが、彼女は声を上げなかった。
「まだ泣いている」
リュシエラは言った。
「水が、まだ森を覚えている」
妖精たちが一斉に目を閉じた。
森の声を聞くためだった。
聞こえたのは、葉擦れではない。
小鳥の声でもない。
焼かれた根が、土の下で擦れる音。
泉の底に沈められた妖精の小径が、白い火に縛られて軋む音。
かつて木々の間を飛び交っていた幼い妖精たちの名が、灰の中で途切れる音。
リュシエラの顔から、表情が消えた。
涙は流さない。
妖精族は、森の前で泣く時期を過ぎていた。
今は、返す時だった。
森の奥から、人類の声がした。
「火炉を確認しろ! 聖火が弱まっていないか!」
「司祭様、外縁の杭が黒ずんでいます!」
「湿気のせいだ。火を足せ!」
焼けた森の中に、人類の前線礼拝車が置かれていた。
車輪つきの小さな祭壇。
その上に、白い火を燃やす聖火炉がある。
周囲には小司祭、聖火番、護衛兵、聖歌隊の残りがいた。
彼らは森の中で、白い布をまとい、灰を踏みながら祈っていた。
その足元にあるものが、妖精の住処だったことを知っているのか。
知っていて踏んでいるのか。
どちらでも同じだった。
小司祭が聖火炉へ油を注ぐ。
「この森は深く穢れている。魔王の残した妖精の巣だ。すべて焼き、神の土地へ戻さねばならん」
聖火番が頷く。
「しかし、黒曜王都から魔王の子が反攻したという話が……」
「恐れるな。聖火は神の火だ。妖精どもの幻惑など焼き尽くす」
「マティアス司祭への報告は」
「白冠砦を経由して送った。司祭様は聖教会本隊へ再編を求めておられる。ここを守れば、南方森域は完全に浄化される」
その名が出た瞬間、リュシエラの羽がわずかに光った。
マティアス。
やはり、この火の道はそこへつながっている。
妖精族の一人が、短い刃を抜こうとした。
リュシエラは手で制した。
「まだ」
「長。あれは森を焼いています」
「知っている」
「なら、今すぐ――」
「火を殺す前に、火の名を読む」
リュシエラの声は静かだった。
だからこそ、反論は続かなかった。
妖精族は怒っている。
だが、王命がある。
殺すだけでは足りない。
火の道を辿る。
聖火を運んだ者、祝福した者、歌で根を縛った者を記録する。
妖精族の復讐は、獣人族の牙とは違う。
森は、獲物をすぐには噛み砕かない。
根は、長く、静かに、深く絡む。
リュシエラは焼けた幹へ手を当てた。
白くなった木の内側に、まだ細い緑が残っている。
死にきっていない。
殺されきっていない。
ならば、森はまだ返せる。
「根を起こします」
リュシエラが囁いた。
妖精たちが散った。
足音はない。
羽音もない。
彼らは焼けた幹の影、灰の下、割れた石の隙間、濁った泉の縁へ消えていく。
聖火番は気づかない。
護衛兵も気づかない。
聖歌隊の一人だけが、ふと歌を止めた。
「今、何か……」
「歌を止めるな」
小司祭が睨む。
「森の呪いに耳を貸すな。歌え」
聖歌隊は歌を再開した。
白い旋律が森へ流れる。
根を縛り、妖精の小径を塞ぎ、泉の記憶を濁らせるための歌。
だが、その歌は途中でわずかにずれた。
一人の声が半拍遅れる。
次に、別の声が低く沈む。
聖歌隊は気づかない。
自分たちの歌に、森の音が混じり始めていることに。
焼けた木々の内側から、細い音が鳴った。
ぱき、と。
それは枝が折れる音ではない。
根が目を覚ます音だった。
小司祭が振り向く。
「誰だ」
返事はない。
白い森の奥で、影が動いた。
人影ではない。
木の影だった。
聖火に焼かれ、骨のように白く立っていた幹の影が、ゆっくりと長く伸びていた。
「火を強めろ!」
聖火番が慌てて炉へ油を注ぐ。
聖火炉が白く燃え上がった。
だが、火は上へ伸びなかった。
下へ沈んだ。
炉の底へ。
車輪へ。
地面へ。
そして、根の中へ。
リュシエラは泉の前で目を閉じていた。
彼女の指先には、白火に焼かれた痕がある。
そこから淡い緑の光が落ちる。
弱い光だった。
だが、森はそれを受け取った。
「返しなさい」
リュシエラは森へ命じた。
「奪われた熱を。焼かれた名を。白く塗られた記憶を。人間どもへ」
泉の水面に浮いていた白火が、揺れた。
聖火番が叫ぶ。
「炉が逆流している!」
「何をしている、止めろ!」
「止まりません! 聖火が、地面から……!」
前線礼拝車の下で、白い火が形を変え始めた。
人類が森へ押し込んだ火が、森の根を通じて戻ってくる。
燃やすためではない。
印をつけるために。
聖火炉の白い炎が、護衛兵の影へ絡みついた。
兵は叫んだ。
「熱い! いや、熱くない……なんだ、これは!」
火は肉を焼いていない。
影を白く染めていた。
その影の中に、彼が踏み潰した妖精の巣の形が浮かぶ。
兵の耳に、小さな声が聞こえた。
かつて森に住んでいた幼い妖精の声。
助けて。
やめて。
燃やさないで。
兵は耳を塞いだ。
だが、声は影から聞こえてくる。
小司祭が聖印を掲げた。
「神よ、森の呪いを――」
その聖印に、焦げた葉が張りついた。
葉は白い。
聖火に焼かれた葉だった。
葉脈が黒く光る。
小司祭の祈りが止まった。
喉から声が出ない。
リュシエラはゆっくり立ち上がった。
妖精族が彼女の周囲に戻ってくる。
誰も叫ばない。
誰も突撃しない。
ただ、焼けた森の中に立っている。
小司祭は彼女を見た。
顔が青ざめる。
「妖精……」
リュシエラは答えなかった。
代わりに、森が答えた。
白く焼けた幹の影が、小司祭の足元へ伸びる。
彼は逃げようとした。
だが、足が動かない。
根が絡んでいるのではない。
森が、彼の足元にあった聖火の記憶を掴んでいた。
「我々は浄化を……神の命により……」
リュシエラは小司祭を見た。
その目には怒りがあった。
しかし、熱はない。
「あなたたちは、森の名を聞きましたか」
「な、何を……」
「この泉の名を。燃やした古木の名を。踏んだ巣の名を。灰にした妖精の名を。聞きましたか」
小司祭は答えられなかった。
聞く必要がなかったからだ。
彼らにとって、森は穢れだった。
妖精は神敵だった。
名など、最初から存在しなかった。
リュシエラは目を伏せる。
「なら、あなたたちも聞かれません」
妖精族の一人が進み出た。
彼女の手には、灰の皿がある。
焼けた森の灰。
その中には、白い聖火の粉が混じっている。
リュシエラはその灰を聖火炉へ投げ入れた。
炉の火が、一瞬だけ緑に揺れた。
次に、白へ戻る。
だが、戻った白は違っていた。
人類が森を焼くための白ではない。
森が人類へ返すための白だった。
聖歌隊の声が、一斉に止まった。
彼らの喉に、葉の影が浮かぶ。
歌えない。
祈れない。
ただ、自分たちが歌で縛った根の軋みだけが、頭の中で鳴り続ける。
護衛兵は剣を落とした。
聖火番は炉から離れようとして転んだ。
小司祭は膝をつき、震えながらリュシエラを見上げる。
「許して……」
その言葉に、妖精族たちの羽がわずかに震えた。
リュシエラは表情を変えなかった。
「許しは、父王陛下の時代に焼かれました」
小司祭は息を呑む。
「私たちは、あなたを今ここで殺しません」
小司祭の目に、愚かな安堵が浮かんだ。
だが、それはすぐに消えた。
リュシエラの次の言葉が落ちたからだ。
「あなたは火の道を覚えています。誰が聖火を渡し、誰が森を焼けと命じ、誰が聖歌隊を送ったのか。すべて、森に聞かせてもらいます」
焼けた根が、小司祭の影へ触れた。
彼は悲鳴を上げた。
体は傷ついていない。
だが、影の中から、彼が見て見ぬふりをした森の光景が逆流していた。
聖火を運ぶ前線礼拝車。
白冠砦を経由した報告。
マティアス司祭への書簡。
聖火炉の祝福印。
聖歌隊の名簿。
聖教会南方巡礼都市から来た火種。
リュシエラは、それらを一つずつ受け取った。
遠く黒曜宮では、レイヴァルトの前の影の地図に、新たな線が浮かんでいた。
南方森域。
前線礼拝車。
聖火炉。
白冠砦。
マティアス司祭。
さらにその奥。
聖教会南方巡礼都市。
レイヴァルトはその線を見つめた。
妖精族は、最初の火を読んだ。
まだ復讐は始まったばかりだった。
森では、白い火が静かに揺れている。
人類が森を焼くために持ち込んだ火は、森の根に覚えられた。
そして今、根はその火を返す準備をしている。
リュシエラは焼けた森の中央に立ち、静かに命じた。
「まだ殺しません」
小司祭も、聖火番も、聖歌隊も、護衛兵も震えていた。
森が彼らを囲む。
白い幹の影が、ゆっくりと円を描く。
「あなたたちは帰りなさい」
人類側が顔を上げる。
だが、そこに救いはなかった。
「聖火が消えなかったと伝えなさい。森はまだ焼けていると伝えなさい。妖精族は逃げたと伝えなさい」
リュシエラの声は、泉の底のように冷たかった。
「そして、火を足しに来なさい」
小司祭の顔から血の気が引いた。
それが罠だと、彼にも分かった。
だが、逃げるしかなかった。
森が道を開く。
一つだけ。
前線礼拝車の車輪が動き出す。
聖火炉はまだ燃えている。
だが、その火の奥には、森の根が絡みついていた。
人類は知らない。
自分たちが聖火を持ち帰るのではない。
森の呪いを持ち帰るのだ。
リュシエラは、去っていく前線礼拝車を見送った。
妖精族の一人が問う。
「長。追わないのですか」
「追いません」
リュシエラは答えた。
「根はもう乗りました」
焼けた森の奥で、白い火が一度だけ緑に瞬いた。
そして、土の下で何かが動き始めた。
根だった。
南方森域の根。
焼かれ、縛られ、汚され、それでも死にきらなかった森の根。
それが、人類の聖火炉へ静かに絡みついている。
黒曜宮の玉座で、レイヴァルトは影の地図に浮かぶ緑の線を見た。
獣人族の復讐は、檻を砕いた。
妖精族の復讐は、火の中へ根を入れた。
レイヴァルトは冷たく告げる。
「始めろ」
南方森域で、森そのものが目を覚ました。




