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第24話「獣人族の報復」

 赤鷹第三獣人収容地の夜は、終わらなかった。


 夜明けは近いはずだった。山の端には薄い灰色が滲み、森の梢には朝の湿気が降りている。けれど、収容地の底にいる者たちにとって、夜はまだ深かった。


 檻が開いていた。


 首輪は砕かれていた。


 聖札の縄は黒く枯れ、見張り塔の火は消えている。


 それでも、獣人たちはすぐには動けなかった。


 長く鎖につながれた者は、鎖が外れたあとも、歩き方を思い出すまでに時間がかかる。番号で呼ばれ続けた者は、名を名乗るまでに喉が震える。鞭を避けて丸まる癖は、檻が開いても体に残る。


 だから、狼族は急がせなかった。


 急ぐべきは救出であって、傷ついた者の心を踏みつけることではない。


 ラグは檻の前に立ち、解放された獣人たちを一人ずつ外へ出していた。


「名を」


「森風のリナ」


「次」


「月跳びのミア」


「次」


「岩背のボルク」


 名前が記録される。


 番号は削られる。


 背に書かれた数字を濡れ布で拭いながら、若い狼族たちが歯を食いしばっていた。


 人類は獣人を商品として記録した。


 ならば異種族連合は、彼らを民として記録し直す。


 それは慈悲ではなかった。


 奪われたものを、王の名のもとに取り戻す作業だった。


 第三収容地の広場には、二つの列が作られていた。


 一つは王都へ戻る者の列。


 負傷者、子ども、老人、衰弱した者、すぐには戦えない者たちである。


 もう一つは、その場に残る者の列。


 動ける者。


 牙を失っていない者。


 爪が折れていても、まだ立てる者。


 名前を取り戻したばかりの獣人たちが、自分の意思でそこに並んでいた。


 熊の腕を持つボルクが、ラグの前に立った。


「俺は残る」


「傷は」


「まだ動く」


「怒りだけで立つな。倒れれば、救う者が増える」


「分かっている」


 ボルクは低く言った。


「俺は番号で呼ばれたまま死ぬのが嫌だった。今は名を取り戻した。なら、この名で人間どもに返す」


 ラグはしばらく彼を見た。


 そして頷いた。


「王命を守れるか」


「守る」


「救出対象を巻き込まないか」


「巻き込まない」


「命令なくローデンを追わないか」


 ボルクの目に怒りが浮かぶ。


 だが、彼は牙を噛みしめた。


「追わない」


「なら残れ」


 ボルクは膝をついた。


 それはラグへの礼ではない。


 遠く黒曜宮に座す王へ向けたものだった。


 同じように、狐の獣人、兎の獣人、山羊の獣人、豹の獣人が列へ加わっていく。彼らは疲弊していた。飢えていた。傷ついていた。


 それでも、目に火が戻っていた。


 名を奪われた者が、名を取り戻した。


 その瞬間から、彼らは単なる救出対象ではなくなった。


 報復の証人であり、報復の担い手となった。


 奥の隔離坑からは、サナの母が運び出されていた。


 痩せた腕で毛布を握り、まだ意識は薄い。それでも彼女は、ラグの手を離さなかった。


「サナは……」


「王都にいる」


 ラグは同じ答えを返した。


 それは三度目だった。


 だが、母は三度とも涙を流した。


 ラグは彼女を荷車へ乗せる。かつて人類が獣人を鎖でつなぎ、売り場へ送るために使った荷車だった。今は毛布が敷かれ、負傷者が横たえられている。


 その荷車の先頭には、黒天蓋の小さな紋が刻まれていた。


 王都へ戻る道を示すための紋だった。


 隠し部屋から救い出された幼い狼族たちは、黒天蓋の旗の切れ端を抱いている。焼け焦げた布。煤けた黒。だが、完全には燃えなかった旗。


 子どもの一人がガルムを見上げた。


「これ、王様に見せる」


「そうしろ」


「返せって言われたら?」


「王が決める」


「怒られたら?」


 ガルムは膝を折った。


 肩の傷が軋む。それでも子どもと目の高さを合わせる。


「王は、お前を怒らない」


「本当?」


「王が怒っているのは、人間どもだ」


 子どもは布を抱きしめた。


「じゃあ、王様に言う。名前を言ってもいいって、ガルム様が言ったって」


「言え」


 ガルムは低く答えた。


「何度でも言え」


 荷車が動き出す。


 第三収容地から王都へ戻る列には、狼族の護衛がついた。リュシエラの種を持つ者も同行する。聖札の残滓が道にあっても、獣人たちを焼かせないためだった。


 ラグは見送った。


 サナの母。


 黒天蓋の旗を持つ子どもたち。


 名前を取り戻した獣人たち。


 彼らが森の奥へ消えるまで、狼族は誰一人として背を向けなかった。


 やがて、ガルムが口を開く。


「ラグ」


「はい」


「残る者を数えろ。第三収容地の証拠をまとめろ。監督官、小司祭、首輪管理者、帳簿係は生かして運ぶ」


 ラグの目が鋭くなる。


「殺さずに、ですか」


「今は、だ」


 ガルムは管理棟地下から持ち出した命令書を見た。


 ローデン・カイスの署名。


 灰牙村の選別。


 処分命令。


 第二収容地への移送。


「こいつらには、誰の命令で何をしたかを王の前で吐かせる。死ぬのはその後でも遅くない」


 周囲の獣人たちが唸った。


 だが、反発はなかった。


 彼らは理解し始めている。


 復讐とは、目の前の人間を殴り殺すことだけではない。


 奪った者の名を掘り出し、命令した者の署名を暴き、金を払った者の紋章を白日の下に晒し、そのすべてへ牙を届かせること。


 それが、新王の復讐だった。


 そして、獣人族はその牙となる。


 黒曜宮の玉座の間では、影の地図に三つの点が刻まれていた。


 赤鷹第三獣人収容地。


 赤鷹北連絡所。


 赤鷹第二獣人収容地。


 レイヴァルトは、その線を見下ろしている。


 玉座の脇にはエルミアが控え、床に映る影から拾い上げた名と役職を書き留めていた。


「赤鷹北連絡所内で、証拠隠滅の準備が始まりました。移送台帳、買い手貴族一覧、聖教会検査記録を燃やそうとしています」


「燃やす手を止めろ」


「殺しますか」


「手だけでいい」


 エルミアは頷いた。


 影が床へ沈む。


 遠く、赤鷹北連絡所の地下で、台帳へ火をつけようとした会計係の腕に黒い紋が絡みついた。骨は折れなかった。だが、指は動かない。火種が床に落ち、湿った石の上で消えた。


 会計係が悲鳴を上げる。


「な、なんだ! 手が、手が動かない!」


 その声は黒曜宮へも届いていた。


 レイヴァルトは眉一つ動かさない。


「逃げる者は」


「裏口、地下搬入口、巡礼道、井戸横の隠し階段へ分散しようとしています」


「井戸横だけ開けろ」


「また餌にしますか」


「違う」


 レイヴァルトは冷たく言った。


「そこへ集めろ」


 エルミアの唇が薄く動いた。


 笑みではない。


 理解だった。


「御意」


 影の地図上で、三つの逃げ道が黒く閉じた。


 一つだけ、井戸横の隠し階段へ続く道が薄く残る。


 赤鷹北連絡所の人類たちは、自分たちでそこへ逃げ込んでいると思い込む。だが実際には、逃げられる道を選ばされていた。


 ゴウラが低く笑った。


「陛下は人間を走らせるのが上手い」


「鼠は穴に戻る」


 レイヴァルトは言った。


「だが穴が一つしかなければ、そこへ集まる」


 リュシエラが静かに羽を伏せる。


「北連絡所の地下に、まだ獣人の匂いがあります」


 エルミアが影を読み取る。


「巡礼者用の倉庫と偽装した地下檻です。数は多くありません。第二収容地へ送る前の一時保管と思われます」


「なら、狼族へ伝えろ」


「はい」


 レイヴァルトの声が、影を通じてガルムとラグの足元へ届いた。


「北連絡所に地下檻がある。先に救え」


 ガルムは即座に頭を垂れた。


「御意」


「証拠を燃やす手は止めた。逃げ道は井戸横へ集めてある。生かす者と殺す者は、現場で選べ」


 レイヴァルトの声は温度を持たなかった。


「獣人を盾にした者は、許すな」


 ラグの牙が鳴る。


「御意」


 狼族が動き出した。


 第三収容地から北連絡所までは、夜の森を抜ける細道でつながっている。途中には聖札の標識があったが、その光はすでに黒く沈んでいた。レイヴァルトの紋が先に道を踏んでいる。


 北連絡所は、表から見れば小さな巡礼者の休息所だった。


 白く塗られた壁。


 聖杯の看板。


 祈りの小部屋。


 水場。


 貧しい巡礼者へ粥を配るための大鍋。


 だが、その裏手には荷車の轍が深く刻まれていた。地下搬入口には鉄鎖の擦れた跡がある。聖なる休息所の地下には、獣人を一時保管する檻があった。


 人類は、いつも表と裏を分けていた。


 表では祈りを掲げる。


 裏では首輪を締める。


 表では神の慈悲を説く。


 裏では異種族の子を番号で呼ぶ。


 ガルムはそれを見上げ、静かに言った。


「ここからは、報復だ」


 ラグが頷く。


「救出を先に」


「分かっている」


 ガルムは爪を立てる。


「だからこそ、報復だ。救ったあとでなければ、奪った者に十分な恐怖を味わわせられん」


 狼族たちは散った。


 見張り塔はない。


 代わりに、巡礼所の屋根裏には弓兵が潜んでいた。彼らは巡礼者を装い、敵が近づけば窓から射るための兵だった。


 だが、狼族は正面から近づかなかった。


 屋根の上に影が滑る。


 裏手の壁を爪が這う。


 地下搬入口の前にいた門番は、背後から口を塞がれた。


 屋根裏の弓兵が異変に気づくより早く、狐の獣人が煙を流し込む。毒ではない。眠りでもない。ただ、目を潰すための灰だった。


「敵襲――」


 叫びは最後まで続かない。


 狼族が屋根裏へ飛び込み、弓を蹴り折った。


 正面の祈りの小部屋では、聖教会の助祭が聖印を掲げていた。


「神よ、神敵を退け――」


 聖印は黒く染まった。


 助祭の声が詰まる。


 祈りの言葉が、喉の奥で凍ったように止まる。


 ラグが扉を蹴破って入る。


「祈れ」


 助祭が震えた。


「ひっ……」


「祈れ。今まで獣人を焼いた言葉を、もう一度言え」


 助祭は聖印を握りしめる。


 だが、聖印は何も返さない。


 白い光は出ない。


 神の名も力にならない。


 ラグはゆっくり近づいた。


「どうした。祈りは届くのだろう。俺たちは神敵なのだろう」


「や、やめろ……私は、ただ検査を……」


「何を検査した」


「首輪が正しく効くか、聖札に耐えるか、移送前に……」


「誰に」


 助祭は答えられなかった。


 ラグの爪が壁を裂く。


「地下檻はどこだ」


 助祭は震える指で床を指した。


 地下への階段は、祭壇の下に隠されていた。


 祈りの場の下に、檻がある。


 狼族たちは誰も驚かなかった。


 人類はそういうものだと、もう知っていたからだ。


 地下檻には、七人の獣人がいた。


 第二収容地へ送られる前の一時保管。


 首輪は新しく、聖印も強い。売却前に再聖別されたものだった。


 そのうち二人は灰牙村の者だった。


 一人は片耳の少年。


 一人は老婆。


 少年はラグを見るなり、体を丸めた。


「番号を言え」


 その口から出たのは、名前ではなかった。


 ラグの目に怒りが宿る。


 だが、少年へ向けたものではない。


「番号はいらない」


 少年は震えた。


「でも、番号を言わないと……」


「誰がそう言った」


「赤い鷹の人……」


 ガルムが階段を降りてきた。


 少年はその姿を見て、さらに震える。


 ガルムは膝をついた。


「俺はガルム。狼族の長だ」


 少年が目を見開く。


「狼族の……」


「お前の名は」


 少年は喉を震わせた。


 すぐには言えない。


 番号は出そうになる。


 だが、ガルムは待った。


 急がせない。


 名を取り戻すことは、檻を開けるより重い。


 やがて、少年は小さな声で言った。


「灰牙の、ロア」


「聞いた」


 ガルムは答えた。


「ロア。お前は商品ではない」


 少年の顔が歪む。


 泣き声は出なかった。


 泣き方すら忘れているようだった。


 ネイルが首輪へ鉄具を当てる。


 新しい聖印が白く燃えた。


 ネイルの手から血が落ちる。


 だが、彼は止めなかった。


「これを作った職人の刻印がある」


 ネイルは首輪の内側を見た。


「第三収容地のものと同じじゃない。別の工房だ」


 ラグが問う。


「場所は分かるか」


「刻印だけなら無理だ。でも帳簿と合わせれば追える」


 ガルムは頷いた。


「外せ」


「分かっている」


 首輪が外れた。


 地下檻の七人が解放されるまで、狼族は一人も地上へ戻らなかった。


 その頃、北連絡所の地上では、人類側が井戸横の隠し階段へ集まっていた。


 赤鷹部隊の連絡役。


 奴隷商会計係。


 聖教会助祭の配下。


 移送許可札を扱う書記。


 門番。


 そして、第三収容地から逃げてきたダリオ。


 彼らは逃げられると思っていた。


 だが、井戸横の階段を下った先には、黒い壁があった。


「開かない……」


「ここは脱出路だろうが!」


「なぜ塞がっている!」


 背後から、狼族たちが現れる。


 前には黒い壁。


 後ろには牙。


 人類の顔が絶望で歪んだ。


 ラグがその前に立つ。


「逃げ道は用意されていた」


 ダリオが震えた。


「あ、あの道は……開いていた……俺は……」


「開けられていたんだ」


 ラグは言った。


「お前が、ここを教えるためにな」


 ダリオの膝が崩れた。


 ようやく理解した。


 自分は逃げ延びたのではない。


 運ばされたのだ。


 恐怖も、息切れも、祈りも、すべて王の地図へこの場所を刻むために使われた。


 赤鷹部隊の連絡役が叫んだ。


「待て! 取引だ! ローデン隊長の居場所を教える! だから――」


 ガルムが一歩前へ出た。


 空気が軋む。


「その名を軽く口にするな」


 連絡役は黙った。


 ガルムの目は、怒鳴っていないのに、怒号より恐ろしかった。


「ローデンはどこだ」


「第二収容地へ……向かう予定だ。灰牙の残りを確認すると……だが、まだ着いていない。途中の赤鷹宿営地で合流するはずだ」


「第二収容地にいる灰牙の者は何人だ」


「知らない! 本当に知らない!」


 ラグが帳簿係を引きずり出した。


「お前は知っているな」


 会計係は泣きながら首を振る。


「帳簿は、帳簿は地下の金庫に……私は数字を写しただけで……」


「数字で答えろ」


 会計係は震えた。


「灰牙村由来は……第二収容地に二十三。うち、子どもが六。戦闘可能な男が五。女が八。老人が四。ただし、昨日の処分予定で変動が――」


 ガルムの爪が、石床に食い込んだ。


 二十三。


 数字として言われた。


 だが、ガルムには数字に聞こえなかった。


 二十三の名。


 二十三の顔。


 二十三の家。


 二十三の奪われた時間。


 ガルムは低く命じた。


「帳簿を出せ」


「出します! 出しますから、命だけは――」


「命を乞う相手を間違えるな」


 ガルムは言った。


「お前の命は、王が決める」


 その言葉で、人類たちはさらに震えた。


 彼らは狼族に殺されると思っていた。


 だが、狼族の向こうに王がいる。


 牙の奥に、玉座がある。


 その事実が、ただの暴力よりも深い恐怖を与えていた。


 やがて、帳簿が運び出された。


 北連絡所の地下金庫には、移送記録、首輪再聖別記録、買い手貴族の一覧、聖教会への納入書、赤鷹第二獣人収容地への搬送予定表が保管されていた。


 エルミアの若い吸血種たちが影から現れ、それらを素早く写し取っていく。


 人類側の会計係が顔を強張らせた。


「吸血種……貴族社会の……」


 エルミアの配下は、冷たい目で彼を見た。


「お前たちが潰した網は、すべて切れたと思ったか」


 会計係は黙り込んだ。


 吸血種は殺さない。


 今は。


 記録を奪う方が先だった。


 ガルムは広場に人類側の関係者を並べさせた。


 助祭。


 連絡役。


 会計係。


 書記。


 門番。


 監督役。


 ダリオ。


 彼らの前には、解放された獣人たちが立っている。


 灰牙のロア。


 森風のリナ。


 岩背のボルク。


 月跳びのミア。


 他にも、多くの者がいた。


 彼らは武器を持っている者もいれば、ただ立っているだけの者もいる。傷つき、痩せ、震えている者もいる。


 だが、全員が顔を上げていた。


 ラグが言った。


「お前たちは、こいつらに番号をつけた」


 人類たちは黙る。


「今日は違う。こいつらは名を名乗る。お前たちは、その名を聞いてから裁かれる」


 最初に進み出たのは、灰牙のロアだった。


 少年はまだ震えている。


 だが、自分の足で立っていた。


「灰牙のロア」


 その声は小さかった。


 けれど、広場に届いた。


「僕を、七四一番って呼んだ人は、どこ」


 門番の一人が顔を逸らした。


 ラグがその顎を掴み、前を向かせる。


「聞け」


 ロアは続けた。


「僕は、七四一番じゃない」


 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 門番は泣きながら許しを乞うた。


 だが、許しという言葉は、この場にはなかった。


 次に森風のリナが進み出る。


 彼女は首輪の痕に触れた。


「森風のリナ。私の妹を第二収容地へ送った書類を書いた者は誰」


 書記が震えた。


「私は命令を写しただけで……」


「なら、その手で写したのね」


 リナは静かに言った。


 ラグは書記の手を見た。


 王命がある。


 証拠を燃やす手は折れ。


 首輪を締める手は裂け。


 救出対象を焼く舌は潰せ。


 だが、必要な情報源は生かす。


 ラグは書記の利き手を使えなくした。


 悲鳴が上がる。


 それは報復だった。


 しかし殺しではない。


 まだ吐かせる情報がある。


 岩背のボルクが進み出る。


「岩背のボルク」


 彼は赤鷹部隊の連絡役を見た。


「俺を闘技場へ送ると笑ったのは、お前か」


 連絡役は青ざめる。


「覚えていない……」


「俺は覚えている」


 ボルクはそう言って、拳を握った。


 ラグは止めなかった。


 王命に反していない。


 ボルクの拳が、連絡役の顔の横の石壁を砕いた。


 破片が連絡役の頬を裂く。


 ボルクは鼻先が触れるほど近づき、低く言った。


「次に忘れたと言ったら、頭で思い出させる」


 連絡役は何度も頷いた。


 獣人族の報復は、血に溺れるだけのものではなかった。


 名を名乗る。


 罪を問う。


 証言を取る。


 必要な者は生かす。


 不要な者には、その場で恐怖を刻む。


 人類が獣人を商品として分類したように、今度は獣人が人類を罪によって分類していた。


 その分類の上に、王の黒い紋があった。


 北連絡所の奥で、一人の門番が逃げようとした。


 井戸横の黒い壁が消えたように見えたからだ。


 彼はそこへ飛び込んだ。


 だが、それは壁が消えたのではない。


 黒い紋が、彼一人を選んで通したのだ。


 門番は外へ転がり出る。


 そして森へ走った。


 ラグが追おうとする。


 だが、足元に黒い紋が浮かんだ。


 王の声が届く。


「追うな」


 ラグは止まった。


 ガルムが問う。


「陛下。また餌ですか」


「今度は違う。ローデンへの恐怖だ」


 レイヴァルトの声は、冷たい刃のようだった。


「第二へ伝えさせろ。第三は落ちた。北も落ちた。逃げ道は塞がれた。次は第二だと」


 ガルムは目を閉じた。


 その命令の意味を理解する。


 ローデンをまだ殺さない。


 だが、ローデンの周囲を削る。


 ローデンが築いた網を一つずつ奪う。


 そして、彼が守ろうとする場所へ恐怖を先に届ける。


「御意」


 ガルムは答えた。


 北連絡所は制圧された。


 地下檻の獣人たちは解放された。


 帳簿は奪われた。


 買い手貴族の一覧は写された。


 聖教会への納入書も押収された。


 ローデンへ向かう報告路も割れた。


 井戸横から逃がされた門番は、泣きながら森を走っている。


 その背に、今度は黒天蓋の紋は刻まれていない。


 追跡のためではない。


 恐怖を届けるためだった。


 夜が明ける。


 赤鷹北連絡所の白い壁は、朝日を受けても白くは見えなかった。


 その壁には、黒い紋が刻まれている。


 慈悲王の時代なら、ここは裁きの場にはならなかったかもしれない。


 だが、慈悲王は殺された。


 そして、新王は慈悲を継がなかった。


 黒曜宮の玉座で、レイヴァルトは影の地図を見下ろしていた。


 赤鷹第三収容地は黒く沈んでいる。


 赤鷹北連絡所も黒く染まった。


 次に光るのは、赤鷹第二獣人収容地。


 そこには、灰牙村の残りがいる。


 そこへ、ローデン・カイスが向かおうとしている。


 エルミアが報告した。


「北連絡所の台帳により、第二収容地への道が確定しました。ローデンは赤鷹宿営地を経由し、第二収容地へ向かう予定です」


 レイヴァルトは肘掛けに指を置く。


 黒い紋が、地図の上でゆっくり広がる。


「第二収容地への逃げ道を塞げ」


「全て、ですか」


「いや」


 レイヴァルトは冷たく笑った。


「ローデンが入る道だけは開けておけ」


 玉座の間に沈黙が落ちる。


 エルミアは深く頭を垂れた。


「御意」


 レイヴァルトは赤鷹第二獣人収容地を見下ろした。


 まだ遠い。


 まだ殺さない。


 だが、もう逃げ場は数え終えた。


「獣人には、獣人の復讐を」


 王の声が、黒い地図の上に落ちる。


「次で、檻を終わらせる」


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