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第22話「狼族の怒り」

 赤鷹第三獣人収容地を囲む夜は、黒く沈んでいた。


 旧石切場を改造したその施設は、山肌を抉った巨大な傷口のように口を開けている。岩壁の上には見張り塔が並び、塔の間には聖札を編み込んだ縄が張られていた。外門には鉄板が打ちつけられ、銀を混ぜた杭が地へ深く打ち込まれている。


 人類はそれを堅牢な収容地だと思っていた。


 檻の内側に獣人を閉じ込め、檻の外側に兵を置き、聖札を掲げれば、狼も熊も狐も兎も、すべて商品として管理できると信じていた。


 だが、今夜だけは違った。


 外へ逃げる道は、すでに黒い紋に塞がれている。


 レイヴァルトの黒天蓋の紋が、門、裏門、荷車道、廃坑道、監督官用の抜け道まで染め上げていた。紋はまだ誰も殺していない。ただ、そこにあるだけだった。


 逃げようとする人間だけが、それを檻だと知る。


 森の縁に、狼族の影が沈んでいた。


 先頭に立つラグは、地面に片手をついた。湿った土。鉄の匂い。聖札の焦げた匂い。獣人の血。人間の油。荷車の車輪痕。


 すべてが鼻に入る。


 その奥に、怯えた同胞の匂いがあった。


 幼い者の匂い。


 傷んだ肉の匂い。


 飢えの匂い。


 首輪に焼かれた皮膚の匂い。


 ラグの喉の奥で、低い唸りが生まれた。


 今すぐ飛び込みたい。


 見張り塔にいる人間を引きずり下ろし、監督官の喉を裂き、小司祭の舌を噛み砕いてやりたい。


 だが、ラグは動かなかった。


 王命がある。


 先に救え。


 殺す時は、名を呼んで殺せ。


 番号で扱われた者の分まで、人間どもに己の名で死なせろ。


 ラグは息を吐いた。


「第一隊、見張り塔。第二隊、外門。第三隊、檻へ向かう。首輪を壊す者を守れ。檻の内側にいる者を巻き込むな」


 狼族たちは無言で頷いた。


 遠吠えは、まだ上げない。


 狩りは、叫びから始めるものではない。


 獲物が眠っているうちに、喉元へ牙を置くものだ。


 収容地の見張り塔では、人類の兵が混乱していた。


「南の札が消えたぞ!」


「火を入れ直せ!」


「聖印が黒い。なんだこれは、煤か?」


「馬鹿を言うな。聖印が煤けるわけがない!」


 兵の一人が鐘を鳴らそうとした。


 その手首に、黒い影が巻きつく。


 鐘の紐へ伸びた指が、寸前で止まった。


「動かない……っ」


 兵が悲鳴を上げる前に、塔の外壁を駆け上がった狼族が、背後からその口を塞いだ。


 短い音が、夜の中へ沈む。


 塔の上で松明が倒れる。


 だが、炎は広がらなかった。リュシエラの種が、聖札に混じる火の力だけを殺している。人間が頼った聖火は、今夜だけはただの湿った火種だった。


 ラグは外門へ駆けた。


 門の前には、銀杭と鉄鎖が複雑に絡み合っている。その中央に、小さな聖印が刻まれていた。獣人を縛り、傷つけ、近づく者の肉を焼くための印だった。


 ラグの後ろから、ドワーフ製の小さな鉄具を持った獣人が出る。


 ボルガンが作らせた首輪破壊用の道具だった。


「門にも使えるか」


「やってみる」


 若い獣人は震えていた。


 彼は戦士ではない。赤鷹街道の中継所で救われたばかりの、元鍛冶場奴隷だった。首にはまだ輪の痕が残っている。


 それでも、彼は鉄具を聖印へ差し込んだ。


 聖印が白く光る。


 皮膚が焼ける臭いがした。


 若い獣人の手から血が滲む。


 ラグが低く言った。


「代われ」


「嫌だ」


 若い獣人は歯を食いしばった。


「俺の弟が、この中にいるかもしれない。人間が作った鍵なら、人間に使わせない。俺が壊す」


 鉄具が軋む。


 聖印に黒い亀裂が走った。


 次の瞬間、銀杭をつないでいた鎖が音を立てて落ちる。


 外門が、ゆっくりと開いた。


 ラグはその肩に手を置いた。


「名は」


「ネイル。岩爪のネイル」


「覚えた」


 それだけ言って、ラグは門の内側へ踏み込んだ。


 収容地の中では、人類側がようやく夜襲に気づいていた。


 監督官たちが剣を抜き、兵たちが檻の前へ走る。小司祭が聖札を掲げ、声を張り上げた。


「奴隷を前へ出せ! 盾にしろ! 獣どもは同族を傷つけられん!」


 その命令で、兵が檻の鍵へ手を伸ばした。


 だが、鍵穴にはすでに黒い紋が浮かんでいた。


 兵の指が弾かれる。


「開かない!?」


「壊せ!」


「駄目です、鍵が、鍵が黒く……!」


 人類は獣人を盾にすることすら許されなかった。


 遠く黒曜宮の玉座から、王がそれを禁じていた。


 レイヴァルトは現地にいない。


 剣も振るわない。


 だが、逃げ道を塞ぎ、卑劣な手を一つずつ潰していた。


 檻を開けるのは、獣人族の役目だった。


 檻の奥で、老いた狼族が顔を上げる。


 小さな獣人たちが、鉄格子の向こうを見つめた。


 闇の中から、狼族が来る。


 人類の鞭ではない。


 奴隷商の荷車ではない。


 奪い返すための爪が来る。


 ラグは檻の前に立った。


 中にいる獣人たちの背には番号が書かれていた。


 首には鉄輪。


 足には鎖。


 目には、諦めかけた者の濁り。


 ラグは剣を振り上げなかった。


 まず、名を問うた。


「お前たちの名を言え」


 檻の中が沈黙する。


 名を口にすれば殴られる。


 名を口にすれば食事を減らされる。


 名を口にすれば、商品に名前はいらないと笑われる。


 その恐怖が、声を塞いでいた。


 ラグはもう一度言った。


「番号ではない。名を言え。俺たちは、それを聞きに来た」


 老いた狼族が、震える膝で立ち上がった。


「灰牙の、ドルガ」


 それが最初だった。


 次に、狐耳の女が言った。


「森風の、リナ」


 熊の腕を持つ男が言った。


「岩背の、ボルク」


 兎の脚を持つ少女が泣きながら言った。


「月跳びの、ミア」


 次々に名が続く。


 番号で潰されていた名が、檻の中から戻ってくる。


 ラグは頷いた。


「聞いた。全員、連れて帰る」


 背後からネイルが走り寄り、首輪破壊用の鉄具を檻の聖印へ当てた。


 別の狼族が鎖を切る。


 聖札の縄が黒く枯れる。


 鉄格子が開く。


 閉じ込められていた獣人たちが、一歩、檻の外へ出た。


 その一歩は弱々しかった。


 だが、それは奴隷が移送される足取りではなかった。


 奪われた者が、自分の足で戻るための一歩だった。


「馬鹿な……!」


 監督官が後ずさった。


「なぜ聖印が効かない! お前らは畜生だろうが! 神敵だろうが!」


 その言葉に、ラグの耳が動いた。


 彼は監督官へ振り向く。


「神敵か」


 ラグはゆっくり歩いた。


 監督官は剣を構える。


「来るな! 来るな、化け物!」


「灰牙村の子を番号で呼んだのは、お前か」


「知らん! 俺は命令に従っただけだ!」


「鞭を持っていたのは、お前の手だ」


 ラグの爪が、剣を弾いた。


 監督官の腕が跳ね上がる。


 だが、ラグは喉を裂かなかった。


 王命がある。


 情報を取る必要がある者は、まだ殺せない。


 ラグは監督官の首根っこを掴み、地面へ叩きつけた。


「名前を言え」


「ひっ……」


「お前の名だ。番号ではなく、名で死なせてやる。その前に、誰の命令で処分を始めたか言え」


 監督官の顔が青ざめる。


 彼は初めて理解した。


 自分たちが管理していた檻は、すでに反転している。


 檻の中にいたのは獣人ではない。


 今、逃げられないのは自分たちだった。


 小司祭が聖札を振り上げる。


「主よ、神敵を焼き――」


 祈りは最後まで続かなかった。


 白い札の表面に、黒い紋が浮かぶ。


 札が小司祭の手へ貼りついた。


「ああああっ、離れない、離れない!」


 小司祭が悲鳴を上げる。


 黒い紋は彼を殺さない。


 ただ、祈りを封じる。


 ラグの後ろから、ガルムが歩み出た。


 重傷の肩を押さえながら、それでも一歩ずつ進む。


 その姿を見た檻の中の獣人たちが息を呑んだ。


 狼族の長。


 灰牙村の灰を見た者。


 王へローデンの名を届けた者。


 ガルムは檻の中を見渡した。


 老いたドルガが、彼を見て膝をつこうとする。


 ガルムは片手を上げて制した。


「膝をつくな。お前たちは奴隷ではない」


 ドルガの目が赤く滲む。


「王都は……」


「落ちていない」


 ガルムは答えた。


「王は目覚めた。父王の慈悲は終わった。俺たちは、迎えに来た」


 その瞬間、檻の中から嗚咽が漏れた。


 泣く者。


 牙を剥く者。


 床に額をつける者。


 子を抱いて崩れる者。


 だが、ガルムは優しい慰めを長くは与えなかった。


 彼の怒りは、まだ収まっていない。


 収まるはずもない。


 ガルムは監督官の前に立った。


「灰牙村から来た者はどこだ」


 監督官は震えながら答えない。


 ラグが爪を少しだけ首に当てる。


「言え」


「お、奥の隔離坑だ! 灰牙の残りは奥にいる! だが、全員じゃない! 一部はもう北へ送った! 俺は命令書を受け取っただけだ!」


「誰の」


「赤鷹部隊だ! ローデン・カイスの印があった!」


 空気が止まった。


 ガルムの目が、暗く沈む。


 ラグの息が荒くなる。


 周囲の狼族たちが、一斉に牙を鳴らした。


 ローデン・カイス。


 やはり、その名がここにもあった。


 だが、ガルムは監督官を殺さなかった。


 震える腕を押さえ、王命を思い出す。


 奴は道だ。


 奴を殺せば、後ろの巣が閉じる。


 ガルムは、監督官の胸ぐらを掴んだ。


「命令書はどこだ」


「管理棟の地下……赤い封筒に……処分命令と移送命令が……」


「ラグ」


「はい」


「奥の隔離坑を開けろ。生存者を救え。俺は管理棟を見る」


「長、その傷で――」


「俺はまだ殺しに行くわけではない」


 ガルムは低く言った。


「名を取り戻しに行く」


 管理棟へ向かう途中、収容地のあちこちで戦いが起きていた。


 狼族は速かった。


 人類兵が剣を抜く前に影へ沈み、槍を構える前に足を刈られる。だが、殺し尽くしはしない。捕らえるべき者は捕らえる。逃げ道へ走った者は黒い紋に弾かれ、恐怖に叫びながら地面を這った。


「開けろ! 門を開けろ!」


「開かない! なんでだ、外に道があるだろうが!」


「黒い……壁が……!」


 人間たちはようやく知った。


 自分たちは、獣人の檻を管理していたのではない。


 新しい王の手のひらの上で、罪の重さを量られていたのだ。


 奥の隔離坑では、さらに重い匂いがした。


 湿気。


 血。


 薬草ではない薬品。


 弱った命。


 ラグは息を止めずに踏み込んだ。


 そこには、灰牙村の者たちがいた。


 数は多くない。


 多くはないが、生きていた。


 傷ついた母。


 片目を失った少年。


 熱にうなされる老人。


 そして、木の札を握った幼い狼族。


 その札には、人類の番号ではなく、爪で削った名が刻まれていた。


 サナ。


 ラグの胸が詰まった。


「サナの……」


 母親が、かすかに目を開けた。


「サナは……逃げたか……?」


 ラグは膝をついた。


「生きている。王都にいる」


 母親の頬を、涙が伝った。


 それは救いではなかった。


 失ったものは戻らない。


 焼かれた村は戻らない。


 死んだ者は戻らない。


 それでも、生きている者の名が一つ戻った。


 その事実だけで、隔離坑の空気が変わった。


 ラグは振り返る。


「全員運び出せ。歩けない者を先に。戦える者は無理に戦わせるな。今日は復讐の日だが、救出が先だ」


 狼族たちは頷いた。


 その頃、ガルムは管理棟の地下にいた。


 壁には帳簿棚が並び、机の上には赤い封筒が積まれている。赤い鷹の紋章。奴隷移送許可。処分命令。首輪の型番。収容地間の移送記録。


 そして、一通の命令書。


 封蝋には、赤い鷹。


 署名は、ローデン・カイス。


 ガルムはそれを開いた。


 そこには、灰牙村から得た獣人のうち、反抗的な者を第三収容地で選別し、使える者は北方へ、使えない者は処分せよと記されていた。


 さらに、追記がある。


 黒天蓋の旗を持つ者、王子の名を口にする者は、別途隔離せよ。


 ガルムの手が震えた。


 怒りで紙が裂けそうになる。


 だが、彼は裂かなかった。


 これは証拠だ。


 王の前へ持ち帰るものだ。


 ローデンを殺すためだけではない。


 ローデンの後ろにいる者まで引きずり出すための牙だ。


 その時、地下室の奥で物音がした。


 ガルムは振り向く。


 壁際に、小さな扉があった。


 隠し部屋。


 その前には聖札が貼られている。


 ガルムが近づくと、聖札は黒く染まり、灰になって落ちた。


 扉の向こうから、かすかな声が聞こえる。


「……王子様は……まだ……眠ってるの……?」


 ガルムの心臓が、重く脈打った。


 彼は扉を開けた。


 中には、幼い狼族の子どもたちがいた。


 背には番号。


 首には二重の首輪。


 その中の一人が、焼け焦げた布切れを抱いている。


 黒天蓋の旗の残り布だった。


 灰牙村で、燃え残った旗。


 ローデンが封眠札を作るために持ち去った残滓。そのさらに切れ端が、なぜか子どもの手元に戻っていた。


 子どもは、ガルムを見上げた。


「王都は……落ちた?」


 ガルムは膝をついた。


 傷ついた肩が痛む。


 だが、その痛みなど、何の意味もなかった。


「落ちていない」


 ガルムは答えた。


「王は目覚めた」


 子どもの目が震える。


「じゃあ……名前、言ってもいい?」


 ガルムは目を閉じた。


 怒りが、涙よりも熱く胸を焼いた。


 人類はこれをした。


 子どもに、自分の名を言っていいかと尋ねさせる世界を作った。


 慈悲王の民を、そこまで踏みにじった。


 ガルムは静かに言った。


「言え。何度でも言え。お前の名は、お前のものだ」


 子どもは震える唇で、自分の名を告げた。


 その名を、ガルムは聞いた。


 地下室の外では、収容地の鐘がようやく鳴り始めていた。


 だが、それは警鐘ではない。


 人類の支配が終わる音だった。


 狼族の遠吠えが、収容地全体に響く。


 檻は開き始めた。


 首輪は砕かれ始めた。


 名は戻り始めた。


 そして、人類の兵たちは、まだ知らない。


 この夜襲は、収容地を落とすためだけのものではない。


 彼らが逃げようとする道。


 命令書が示す移送先。


 ローデン・カイスへ続く赤い鷹の道。


 そのすべてが、すでに黒い紋によって王の前へつながれていることを。


 ガルムはローデンの命令書を握った。


 遠く、黒曜宮の玉座で、レイヴァルトが地図を見下ろしている。


 赤鷹第三獣人収容地から伸びる逃走路の一つが、黒く光った。


 王は短く告げる。


「逃がせ」


 エルミアが目を細めた。


「追跡用に、ですね」


「そうだ」


 レイヴァルトは冷たく笑った。


「逃げたと思わせろ。巣まで帰らせる」


 その夜、収容地の門は閉ざされたままだった。


 だが、一つだけ、黒い紋が薄く開いた道があった。


 恐怖に狂った人類の伝令が、そこへ向かって走る。


 狼族は追わない。


 王が、まだ追うなと命じたからだ。


 伝令は知らない。


 自分の影に、黒天蓋の紋が刻まれていることを。


 そして、その先で待つ者たちが、もう逃げ道ではなく、次の獲物として数えられていることを。


 獣人族の怒りは、檻を破った。


 だが、復讐はまだ始まったばかりだった。


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