第21話「獣人奴隷収容地」
黒曜宮の玉座の間には、血の匂いではなく、紙の匂いが満ちていた。
赤鷹街道の奴隷中継所から奪われた帳簿、売買記録、移送先の札、焼き印の写し、首輪職人の刻印一覧。それらが黒曜石の床へ並べられている。
かつては王の前に、剣と誓約が置かれた場所だった。
今は、人類の罪を記した紙束が積まれていた。
レイヴァルトは玉座に座り、黙ってそれを見下ろしている。
玉座の前には、裂けた黒い繭の残骸が残されていた。父を守れず、民を守るために眠った証。それを片づける者はいない。王が命じなかったからではない。異種族の誰も、それを捨てるべきものだと思わなかったからだ。
玉座の右には、片腕を失った吸血種エルミアが立っていた。彼女の前には、若い吸血種たちが夜通し整理した帳簿が積まれている。
玉座の左には、狼族の長ガルムがいた。
肩には、まだ聖槍の傷が残っている。白く焼けた傷口は塞がりきっていない。立っているだけでも痛みはあるはずだった。だが、ガルムの背は曲がらなかった。
その後ろには、ラグが控えていた。
赤鷹街道の奴隷中継所を落とし、灰牙村から連れ去られた少女サナを救い出した狼族の戦士である。
さらに奥には、ミルとサナがいた。
二人とも獣人の子どもだった。
黒曜宮に戻され、首輪は外され、体は洗われ、傷には薬が塗られている。けれど、首に残った赤黒い輪の痕は消えていない。人類が商品につけた印は、肉から消えても、目からは消えなかった。
サナは、ラグの外套の端を握っていた。
ミルは床に並べられた帳簿を見て、小さく震えている。
エルミアが一冊の帳簿を開いた。
「赤鷹街道の中継所で回収した売買記録です。灰牙村から連れ去られた者の一部は、三つの経路に分けられていました。幼い者は北方貴族領へ。戦える者は闘技場、または軍用奴隷へ。傷病者と老人は、まとめて労役場へ送られています」
ガルムの爪が床を削った。
硬い黒曜石に、白い傷が刻まれる。
「名を読め」
その声は、獣の唸りに近かった。
エルミアは目を伏せずに答えた。
「灰牙村の名簿と照合中です。ただ、帳簿では名ではなく番号で扱われています」
ミルの唇が震えた。
「番号……」
その小さな声に、玉座の間の空気がさらに沈んだ。
サナが自分の首を押さえる。
「わたしたち、名前を言ったら、叩かれた。商品に名前はいらないって」
ラグの耳が伏せられた。
ガルムの牙が剥き出しになる。
だが、彼は前へ出なかった。
玉座に座る王の前で、怒りに身を任せることはしなかった。
レイヴァルトは黙っていた。
彼は慰めの言葉を吐かなかった。子どもへ優しく手を伸ばすこともしなかった。
ただ、帳簿を見ていた。
紙に記された数字。
売却価格。
移送先。
首輪の型番。
飼料費。
処分予定。
人類は、父の民を肉と労力に分けた。
老人を荷物として扱い、子を血統として記録し、戦士を獣として檻に入れた。
人類は、慈悲王が守った命に値札をつけた。
「続けろ」
レイヴァルトは短く命じた。
エルミアは次の書類を開いた。
「捕虜バゼルの供述と、帳簿係の記録が一致しました。赤鷹街道中継所は、単なる売買拠点ではありません。各地の獣人を一度集め、首輪を付け替え、用途ごとに振り分ける中継点です。さらに上位の収容地があります」
ラグが低く問う。
「どこだ」
「黒曜王都の北東。灰牙村から、さらに人類領側へ二日。旧石切場を改造した施設です。帳簿上の名は、赤鷹第三獣人収容地」
ガルムの耳が動いた。
「第三、だと」
「はい。少なくとも第一、第二も存在します。ただ、灰牙村から連れ去られた者は、第三へ送られた数が最も多い」
エルミアは一枚の地図を広げた。
黒曜石の床に、赤い鷹の印が置かれる。
その印の周囲に、細い線が何本も伸びていた。街道、山道、隠し道、奴隷商の私道。血管のようだった。人類王国の内側へ、獣人の命を流し込むための血管だった。
「第三収容地には、現在も多数の獣人が囚われている可能性があります。灰牙村の生存者も含まれます」
ミルが息を呑んだ。
サナが顔を上げた。
「母さん……?」
その声は、玉座の間に落ちた石のように小さかった。
誰も答えられなかった。
死んだかもしれない。
売られたかもしれない。
まだ檻の中にいるかもしれない。
希望という言葉は、ここでは軽すぎた。希望を与えることは簡単だった。だが、簡単な希望は、外れた時にさらに深く傷を抉る。
レイヴァルトはサナを見た。
黒い瞳に、温度はなかった。
「生きていれば取り戻す」
それだけだった。
だが、サナは外套を握る手に力を込めた。
優しい言葉ではない。
慰めでもない。
それは王命だった。
生きていれば取り戻す。
奪った者は、その分だけ支払わせる。
この王は、人類に請わない。祈らない。交渉しない。
奪い返す。
ガルムが膝をついた。
「陛下。狼族に命を」
ラグも膝をついた。
玉座の間に控えていた狼族たちが、一斉に頭を垂れる。
獣の耳が伏せられ、爪が床に触れた。
それは服従ではない。
狩りの前に、群れの王へ牙の向きを示す儀式だった。
「灰牙村の血は、俺たちで取り戻します。獣人を商品と呼んだ人間どもに、俺たちの爪を思い知らせます」
ガルムの声は震えていた。
恐怖ではない。
怒りが、あまりにも深すぎた。
「俺は灰牙村の灰を見ました。母が子を投げて逃がした場所を見ました。黒天蓋の旗が焼け残った場所を見ました。子の名を番号に変えた帳簿を見ました。陛下。どうか、狼族に復讐を」
レイヴァルトは肘掛けに指を置いた。
黒い紋が薄く浮かぶ。
玉座の間の影が、わずかに揺れた。
「許す」
その一言で、狼族たちの背に走る毛が逆立った。
だが、次の言葉で、すべての牙が止まる。
「ただし、先に救え」
ガルムが顔を上げた。
レイヴァルトは続けた。
「檻の中にいる獣人を巻き込むな。首輪職人は殺す前に吐かせろ。帳簿係は奪え。聖札を扱う小司祭は生かして連れ戻せ。逃げ道は俺が塞ぐ。だが、檻を開けるのはお前たちだ」
ガルムは目を閉じた。
それは怒りを抑えるためではなかった。
怒りの形を、王命に合わせるためだった。
「承知しました」
「ローデンはまだ殺すな」
その名が出た瞬間、ガルムの唇から獣の息が漏れた。
ラグの爪が床に沈む。
サナが小さく肩を震わせた。
灰牙村を焼いた者。
逃げ道を塞ぎ、聖火を放ち、狼族を商品にした男。
ガルムに名を刻まれ、レイヴァルトにも報告された男。
ローデン・カイス。
獣人族の怒りが、玉座の間に熱として満ちる。
だが、レイヴァルトの声は冷たかった。
「奴は道だ。奴を殺せば、後ろの巣が閉じる。流通網を吐かせる前に喉を裂くな」
ガルムは牙を剥いたまま頭を下げた。
「……御意」
「復讐は禁じない」
レイヴァルトの指先から、黒い紋が床へ広がった。
その紋は、獣人の影に触れた。
熱ではなく、重さが落ちる。
怒りを消すものではない。
怒りを縛るものでもない。
怒りの向きを定める、王の鎖だった。
「だが、俺の命令なく獣に堕ちることは許さない。奪われた者を取り戻せ。奪った者は記録しろ。殺す時は、名を呼んで殺せ。番号で扱われた者の分まで、人間どもに己の名で死なせろ」
玉座の間に、狼族たちの息が重なる。
遠吠えはまだ上がらない。
王の前では、まだ牙を鳴らすだけだ。
エルミアが新たな報告を差し出した。
「陛下。第三収容地側も異変に気づいている可能性があります。赤鷹街道中継所が落ちたことで、証拠隠滅か移送を始める恐れがあります」
「人間は逃げるか」
「はい。特に奴隷商は、在庫を捨ててでも帳簿を守ろうとします」
レイヴァルトは静かに笑った。
笑みは薄かった。
それは喜びではない。
獲物が逃げ道を選んだことへの、冷たい確認だった。
「逃げ道はあると思わせろ」
エルミアが目を細める。
「追い込むのですね」
「違う」
レイヴァルトは地図へ視線を落とした。
赤鷹第三獣人収容地から伸びる道。その一つは森へ。一つは砦へ。一つは貴族領へ。一つは廃坑へ。
王の指が、道の上をなぞる。
黒い紋が地図の上に染み込んだ。
「選ばせる。逃げた先も罪の巣だ。どこへ向かうかで、誰につながっているか分かる」
ボルガンが低く笑った。
「なるほどな。鼠を潰すんじゃねえ。穴を数えるわけか」
「そうだ」
リュシエラは静かに羽を伏せた。
「捕らわれた獣人たちの命は?」
「優先する」
レイヴァルトは即答した。
それは慈悲ではない。
異種族の王として、自分の民を取り戻す判断だった。
「人間の命は数えるな。獣人の命だけ数えろ」
その命令に、誰も異を唱えなかった。
黒曜宮の夜が深くなる。
玉座の間では、作戦が定められていった。
ラグが率いる狼族の夜襲隊。
ガルムは重傷の身でありながら同行を願い出た。レイヴァルトは止めなかった。ただし、前線で最初に飛び込むことは禁じた。狼族の長の牙は、最後に必要になる。
リュシエラは聖札の匂いを殺す種を渡した。
ボルガンは首輪を壊すための小さな鉄具を用意した。
エルミアは奪った帳簿の写しと、収容地の見取り図を推測で補った。
ゴウラは出撃を望んだが、レイヴァルトは却下した。
「鬼族の足音は大きすぎる」
ゴウラは不満げに鼻を鳴らしたが、従った。
ネレイドは水路の有無を調べるため、黒い水鏡を差し出した。
セレイアはまだ飛べない片翼を押さえながら、風の流れから見張り塔の位置を読んだ。
異種族連合は、もはや守られるだけの残党ではなかった。
慈悲王の時代、彼らは共存の旗の下に集った。
今は、新王の報復の下に集っている。
父王アルヴァーンの名は、なお崇められていた。
だが、その慈悲は終わった。
そして夜が明ける前、視点は黒曜王都から北東へ移る。
赤鷹第三獣人収容地。
そこは、かつて石切場だった。
山肌を抉り、黒い岩を切り出した跡地である。人類はその穴を檻に変えた。高い柵。聖札の縄。銀を混ぜた鎖。見張り塔。鞭を持つ監督官。祈りを唱える小司祭。
穴の底には、獣人たちが押し込まれていた。
狼族だけではない。
狐の耳を持つ者。
熊の腕を持つ者。
豹の尾を持つ者。
兎の脚を持つ者。
角を折られた山羊の獣人もいた。
首には、聖印入りの鉄輪。
手には鎖。
背には番号。
名を呼ぶことは禁じられていた。
見張り塔の上で、人類の兵が吐き捨てる。
「東の中継所が落ちたらしい」
「魔王の子がどうとか、敗走兵が騒いでる話だろ」
「だが赤鷹街道から連絡が途絶えた。ローデン隊長もまだ戻らん」
「なら、ここを畳むのか?」
「上から命令が来るまでは動かすなとさ。ただし、売れない分は減らせと言われている」
兵たちは檻の底を見下ろした。
獣人たちは、その視線の意味を知っていた。
売れない分。
運べない分。
証拠になる分。
人類はいつも、命を分類してから捨てた。
穴の奥に、一人の老いた狼族がいた。
白くなった耳は片方が欠け、足は折れたまま曲がっている。首輪の下には化膿した痕がある。それでも彼は、近くの幼い獣人たちを背に庇うように座っていた。
「名を忘れるな」
老いた狼族は、かすれた声で言った。
子どもたちが顔を上げる。
「番号で呼ばれても、名を忘れるな。お前たちは商品ではない。灰牙の子だ。森風の子だ。岩爪の子だ。帰る場所を焼かれても、名は焼けぬ」
小さな狼族の少年が震えながら聞いた。
「迎えは来る?」
老いた狼族は答えなかった。
嘘はつけなかった。
だが、黙ることもしなかった。
「王都は落ちていない」
それだけを言った。
子どもたちの目に、わずかな光が残る。
王都は落ちていない。
慈悲王は死んだ。
王子は眠った。
村は焼かれた。
檻に入れられた。
首輪をつけられた。
名を奪われた。
けれど、王都は落ちていない。
それだけが、彼らに残された、祈りではない何かだった。
その時、収容地の外で鐘が鳴った。
人類の監督官が叫ぶ。
「移送準備だ! 若い獣人から出せ! 残りは明朝処分する!」
檻の中がざわめいた。
母が子を抱く。
戦える者が鎖を鳴らす。
老いた者が歯を食いしばる。
小司祭が聖札を掲げた。
「静まれ、神敵ども! お前たちは浄化されるまで王国の所有物である!」
その声に、獣人たちは怯えた。
何度も聞いた言葉だった。
所有物。
商品。
労力。
血統。
素材。
人類は獣人を民として見なかった。
だから、人類は気づかなかった。
檻の奥で、老いた狼族が顔を上げたことに。
風の匂いが変わった。
土の下を、何かが走っている。
聖札の白い光が、一瞬だけ揺らいだ。
見張り塔の兵が眉をひそめる。
「おい、森側の札が暗くなってないか」
「湿気だろ」
「違う。黒いぞ」
次の瞬間、収容地を囲む外周の石に、黒い紋が浮かび上がった。
門。
裏門。
荷車道。
廃坑へ続く隠し道。
すべての逃げ道に、同じ紋が刻まれる。
黒天蓋の紋。
それはまだ檻を破らない。
まだ人間を殺さない。
ただ、逃げ道だけを塞いだ。
小司祭の持つ聖札が、端から黒く染まっていく。
「な、なんだこれは……祈りが、祈りが通らない……!」
監督官が剣を抜いた。
「警鐘を鳴らせ! 全員起こせ! 奴隷を盾にしろ!」
その命令に、兵たちが慌ただしく動く。
だが、収容地の外の闇は、すでに息をしていた。
森の縁に、狼族の影が並ぶ。
先頭に立つのはラグだった。
その後ろに、傷を負ったまま外套を羽織るガルムがいる。
ガルムは剣を抜いていない。
爪もまだ振るっていない。
ただ、収容地を見ていた。
檻の中にいる同胞。
番号を書かれた背。
首輪。
鎖。
痩せた子ども。
折れた耳。
それらすべてを目に焼きつける。
怒りは、今にも溢れそうだった。
だが、王命がある。
先に救え。
殺す時は、名を呼んで殺せ。
ガルムは静かに息を吐いた。
「狼族、構えろ」
夜の中で、爪が土を掴む。
獣人たちの目が光る。
収容地の中で、人類が初めて本当の恐怖を知る。
檻の中の老いた狼族が、闇の向こうを見た。
そして、かすれた声で言った。
「来た」
遠吠えが上がる。
それは救いの歌ではない。
報復の合図だった。
黒い紋に塞がれた収容地の中で、人類の兵たちは逃げ道を失った。
檻はまだ開いていない。
牙はまだ届いていない。
だが、獣人族の復讐は、もう門の前に立っていた。




