第19話「復讐の権利」
人類殲滅宣言の翌朝、黒曜宮の玉座の間には、地図が広げられていた。
ただの地図ではない。
血と煤と涙で書き足された、戦争の地図だった。
黒曜王都ヴァルドレインを中心に、焼かれた村には黒い牙の印が置かれている。
南方森域には灰色の枝。
西方鉱山都市グラド=ヴォルグには割れた槌。
空中都市リィン=ファロスには折れた羽根。
鬼族の前線砦には砕けた角。
港湾都市セラドには黒い水滴。
吸血種の諜報網が途絶えた人類貴族領には、黒い杯。
竜人族の高山拠点には、割れた鱗。
そして、人類側の拠点には白い聖輪と王国の紋章が打たれていた。
白冠砦。
王国東征軍の退却路。
ローデン・カイスの赤い鷹の領地。
アルベリク・ダイン伯爵が押さえた西方鉱山線。
聖教会の前線礼拝車が通った道。
奴隷商の中継市場。
王都へ通じる街道。
そこに、レイヴァルトは玉座から視線を落としていた。
各種族の長と代表が、地図を囲むように立っている。
ガルム。
リュシエラ。
ボルガン。
エルミア。
セレイア。
ゴウラ。
ネレイド。
竜人族の若者たち。
担架のザルギウスも、玉座の間の端に運ばれている。まだ目は開かないが、呼吸は昨日より深い。
その場にいる者の多くは、すぐにでも出陣したい顔をしていた。
だが、誰も動かない。
昨日、人類殲滅は国是となった。
だが、復讐はまだ割り振られていない。
勝手に噛み、勝手に焼き、勝手に砕くことは、王命に反する。
今から行われるのは、戦の開始ではない。
戦の秩序を定める儀式だった。
レイヴァルトは言った。
「今日、復讐権を与える」
玉座の間が静まる。
「これは褒美ではない」
その一言で、空気が引き締まった。
「慰めでもない。怒りを満たす遊びでもない。奪われた者が、奪った者を裁くための権利だ」
レイヴァルトの黒い瞳が、地図の上を滑る。
「だが、権利には鎖をつける」
ゴウラの拳がわずかに鳴った。
ガルムの耳が動く。
セレイアの片翼が震える。
レイヴァルトは続けた。
「勝手に殺すな。勝手に燃やすな。勝手に沈めるな。怒りで動けば、敵ではなく復讐そのものを壊す」
誰も反論しない。
彼らは理解していた。
王は復讐を禁じているのではない。
復讐を失敗させるなと言っている。
レイヴァルトは玉座の肘掛けに指を置いた。
「まず、狼族」
ガルムが一歩前へ出る。
重傷の体を押して膝をつく。
「は」
「灰牙村を焼いた者たちへの復讐権を、狼族へ与える」
玉座の間に、低い唸りが広がった。
狼族たちの牙が一斉に鳴る。
ガルムは頭を下げたまま、声を震わせずに答えた。
「御意」
「標的は、ローデン・カイス。赤い鷹の紋章を持つ部隊。灰牙村から連れ去られた者を扱った奴隷商。獣人奴隷の収容地。首輪を作った職人。売買記録を持つ商人」
エルミアが記録する。
ガルムの目が冷える。
「殺してよろしいか」
「すぐには許さない」
ガルムの牙が止まる。
レイヴァルトは言った。
「まず奪われた者を探せ。生きている者を回収しろ。奴隷商の帳簿を押さえろ。ローデンの部隊がどこで誰を売ったかを追え」
「ローデンは」
「逃がすな。だが、まだ殺すな」
ガルムは頭を上げた。
その目には、抑え込んだ炎がある。
「なぜです」
「灰牙村だけで終わらせるな」
レイヴァルトの声は冷たい。
「ローデンは獣人奴隷の流通を知っている。奴を殺せば、その道が途切れる。奴を生かして追えば、鎖の先にいる人類が見える」
ガルムはゆっくりと息を吐いた。
怒りが、形を変える。
牙が獲物の喉ではなく、鎖の根元へ向かう。
「承知しました」
「狼族には追跡を命じる。救出を優先しろ。殺す時は、俺が許可する」
ガルムは深く頭を垂れた。
「狼族、王命を受けます」
レイヴァルトの視線がリュシエラへ移る。
「妖精族」
リュシエラが進み出る。
その腕には、聖火に焼かれた森の枝と、聖印杭の黒く染まった欠片が抱えられていた。
「はい」
「南方森域を焼いた聖火、聖教会の前線礼拝車、聖火炉、聖歌隊の呪術、森を汚した司祭たちへの復讐権を妖精族へ与える」
妖精族たちの羽が、暗く光った。
リュシエラは静かに頭を下げる。
「御意」
「ただし、森を返す前に焼くな」
リュシエラは顔を上げた。
「焼き返してはならない、と」
「違う」
レイヴァルトは言った。
「焼くなら、森の名で焼け。怒りで火を放てば、聖教会と同じ火になる。お前たちが返すのは、森を焼いた火そのものだ」
リュシエラの瞳が深くなる。
「聖火を反転させます」
「そうだ」
「聖教会の火を、聖教会の根へ戻す」
「人類の街を無差別に焼くな。まず聖火の構造を解け。前線礼拝車を探せ。聖火炉の場所を特定しろ。マティアス司祭はまだ殺すな」
その名が出た瞬間、妖精族の列が静かにざわめいた。
マティアス。
聖歌隊と聖印杭を運用し、黒曜宮を焼こうとした司祭。
「マティアスは、聖教会の奥へ続く道だ」
レイヴァルトは言った。
「司祭一人を焼いて終わらせるには軽い。あれには、祈りが届かなかった事実を持って帰らせた。恐怖が聖堂に根を張るまで待て」
リュシエラは、ゆっくりと頭を垂れた。
「妖精族、王命を受けます」
次に、レイヴァルトはボルガンを見た。
「ドワーフ」
ボルガンが進み出る。
胸には王火炉の鍵。
手には、押収した聖別砲の黒く染まった聖印板がある。
「は」
「グラド=ヴォルグ、王火炉、捕らわれた鍛冶師と徒弟、アルベリク・ダインへの復讐権をドワーフへ与える」
ドワーフたちの拳が、低く胸を打つ。
ボルガンは頭を垂れた。
「御意」
「目的は三つだ」
レイヴァルトは言った。
「一つ、王火炉の名を戻す」
ボルガンの肩が震える。
「二つ、捕らわれた職人と徒弟を回収する」
ネルドが拳を握った。
「三つ、アルベリク・ダインを捕らえる」
ボルガンが顔を上げる。
「殺すな、ですな」
「そうだ」
レイヴァルトは短く答えた。
「奴には炉の前へ立たせる。王火炉の名を神火炉と呼ばせた舌を、どの順で砕くかはお前たちが決めろ。だが、殺す前に鉱山支配の帳簿と人類側の鉱山技師を吐かせる」
ボルガンの口元が、硬く歪んだ。
笑みではない。
鉄が焼ける前の軋みだった。
「御意」
「聖別砲の解析を進めろ。人類が穢した構造を、聖教会の防壁を食う弾に変えろ」
「すでに炉へ入れています」
「よい」
ボルガンは深く頭を垂れた。
「ドワーフ、王命を受けます」
レイヴァルトの視線は、セレイアへ移った。
「翼人族」
セレイアが片翼を伏せて膝をつく。
「はい」
「リィン=ファロス、空中都市外郭、空を汚した聖印砲、羽根を奪った聖具職人への復讐権を翼人族へ与える」
セレイアの唇が震えた。
「御意」
「だが、今は飛ぶなと言った」
「承知しております」
「空は奪い返す場所だ。焦って飛べば、また落とされる。まず地上から空を汚す聖印砲の位置を集めろ。羽根を飾りにした聖具がどの聖堂に納められたかを探せ」
セレイアは目を細める。
「羽根を取り戻してもよろしいですか」
「奪い返せ」
レイヴァルトは言った。
「ただし、飾りにされた羽根を持ち帰るだけで終わるな。その羽根を見て祈った人間の名も記録しろ」
セレイアの顔に、冷たい怒りが浮かんだ。
「御意」
「翼人族には偵察と空路回復を命じる。空を取り戻すのは、戦の中盤だ。それまで堪えろ」
「翼人族、王命を受けます」
次に、ゴウラが前へ出た。
鬼族の代表は、膝をつくというより地面を叩くように拳を置いた。
「鬼族」
「おう」
周囲の鬼族が一瞬ざわつく。
ゴウラはすぐに言い直した。
「御前に」
レイヴァルトは表情を変えなかった。
「前線砦を落とした人類軍砦群、攻城部隊、鬼族の角を折った将校たちへの復讐権を鬼族へ与える」
ゴウラの目が輝く。
「砦を砕いていいのか」
「砕け」
その一言で、鬼族の列から低い歓喜が漏れた。
だが、レイヴァルトはすぐに続けた。
「ただし、まだだ」
歓喜が止まる。
「鬼族は早すぎる。強いが、罠へ走る。人類はお前たちの怒りを知っている。砦の前に鎖を張り、聖油を撒き、落とし穴を掘って待つ」
ゴウラは唸った。
それは図星だった。
「では、いつだ」
「ドワーフが聖別砲を直し、妖精族が聖火を解析し、吸血種が砦内部の情報を取った後だ」
ゴウラの拳が床を軋ませる。
「待てと」
「待て」
レイヴァルトは言った。
「待ってから砕け。その時は、正門から行け。鬼族の復讐は正面からでいい」
ゴウラの目が大きく開いた。
彼はゆっくりと頭を垂れる。
「……鬼族、王命を受ける」
次に、ネレイドが黒い水壺のそばから進み出た。
「海魔族」
「はい」
「セラド港、封じられた海路、網で狩られた同胞、港湾貴族と補給船団への復讐権を海魔族へ与える」
水壺の中の水が揺れた。
「御意」
「ただし、補給船を今すぐ沈めるな」
「承知しております」
「人類王国はまだ敗北を隠す。軍を立て直す。補給を送り直す。海路が生きていると信じる」
レイヴァルトの瞳が冷える。
「その時に沈めろ」
ネレイドは静かに頭を垂れた。
「飢えを送ります」
「そうだ。港を一つ沈めて終わるな。海路という信頼を殺せ」
「海魔族、王命を受けます」
レイヴァルトは次にエルミアを見た。
「吸血種」
エルミアが片膝をつく。
「はい」
「人類貴族社会、失われた諜報網、銀杭で焼かれた同胞、粛清を命じた貴族と聖職者への復讐権を吸血種へ与える」
吸血種たちの瞳が暗く光った。
エルミアは頭を垂れる。
「御意」
「だが、最初に殺すな」
「情報を先に取る、ですね」
「そうだ」
レイヴァルトは言った。
「貴族は名で生きる。家系、血統、婚姻、借財、醜聞、隠し子、密約、聖教会への献金。すべて集めろ」
エルミアの口元が、わずかに動いた。
吸血種らしい、冷たい反応だった。
「血を吸うより先に、名を吸え」
「御意」
「貴族社会を壊すのは、刃だけではない。奴らが誇る血筋を、奴ら自身の記録で腐らせろ」
エルミアは深く頭を垂れた。
「吸血種、王命を受けます」
最後に、レイヴァルトは竜人族の担架へ視線を向けた。
ザルギウスは眠ったままだ。
竜人族の若者が代表として前へ出る。
「竜人族」
「はい」
「高山拠点、砕かれた翼、ザルギウスを撃った聖別砲、人類軍主力への復讐権を竜人族へ与える」
若い竜人が頭を下げる。
声が震えていた。
怒りではない。
誇りを預かる重さだった。
「御意」
「だが、今は出るな」
「将軍が目覚めるまで、ですか」
「それもある」
レイヴァルトはザルギウスを見た。
「竜人族の復讐は正面決戦だ。空と炎と鱗をもって、人類軍主力を砕く。その時に将軍がいないのは軽い」
若い竜人の目が熱を帯びる。
「将軍は戻ります」
「戻せ」
レイヴァルトは言った。
「死なせるな。だが焦って治すな。翼が戻らぬまま飛ばせば、また落ちる」
「御意」
「竜人族には再編を命じる。高山拠点の残存兵を集めろ。火力を温存しろ。最初の反攻で全力を出すな」
「竜人族、王命を受けます」
これで主要な種族への復讐権は割り振られた。
だが、レイヴァルトはまだ終えなかった。
「全員、聞け」
玉座の間の空気が再び張る。
「復讐権は、勝手な殺戮を許す札ではない」
黒天蓋の紋が床に浮かぶ。
「対象を外れた復讐は、王命違反とする」
ガルムが頭を垂れる。
ゴウラも不満を飲み込む。
ネレイドは水壺に指を触れたまま静かに聞いている。
「人類の民衆も、いずれ裁く」
その言葉に、全員が顔を上げた。
レイヴァルトは冷たく続ける。
「奴らは無垢ではない。教会の布告を聞き、異種族を神敵と呼び、奴隷市場で買い、見世物として見た者もいる」
ミルが震える。
ネルドが歯を食いしばる。
「だが、最初に切るのは根だ。軍、教会、貴族、奴隷商、鉱山支配者、港湾支配者。まずそこから砕く」
エルミアが記録する。
「逃げる民衆を勝手に狩るな」
ゴウラが顔をしかめる。
レイヴァルトは彼を見る。
「いずれ狩る場を与える。だが順序を間違えるな」
ゴウラは黙って頭を下げた。
「御意」
「捕虜は記録しろ。殺す前に名を吐かせろ。誰の命令で動いたかを吐かせろ。祈りを唱えた者は、どの聖堂で学んだかを吐かせろ。奴隷商は帳簿を吐かせろ」
レイヴァルトの声が低くなる。
「殺すのは、その後だ」
玉座の間に、冷たい沈黙が落ちた。
これは慈悲ではない。
より深く殺すための命令だった。
復讐を一瞬の怒りで終わらせず、根元まで辿るための命令だった。
「最初の反攻は」
レイヴァルトは地図へ視線を落とした。
全員が息を止める。
「白冠砦ではない」
その言葉に、意外そうな空気が走る。
白冠砦は人類側の後方拠点。
恐怖が集まり、敗北報告が溜まり、マティアスとリオットがいる場所。
多くの者は、そこを最初に砕くと思っていた。
レイヴァルトは言った。
「あそこは恐怖の巣にする。しばらく残せ」
エルミアが静かに頷く。
理解していた。
白冠砦は、生きた噂の炉だ。
恐怖を煮詰め、人類領へ流し続ける場所になる。
「最初に落とすのは、赤鷹街道の奴隷中継所だ」
ガルムの目が鋭くなる。
「ローデンの?」
「関係している」
レイヴァルトは地図の一点を指した。
「灰牙村から連れ去られた者の一部が通った可能性が高い。人類軍の敗走で守備は薄い。だが、帳簿は残っている」
ガルムの牙が覗く。
「狼族に」
「主攻は狼族」
ガルムが深く頭を垂れる。
「御意」
「ただし、単独では行かせない」
レイヴァルトは続けた。
「吸血種は帳簿と人名を取れ。妖精族は聖札を無力化しろ。ドワーフは檻と首輪を壊せ。鬼族は外門だけ砕け。殺しすぎるな」
ゴウラが呻く。
「外門だけか」
「外門だけだ」
「……御意」
「海魔族と翼人族は今回は動かない。竜人族も動かない。温存する」
セレイアとネレイド、竜人族の若者が頭を垂れた。
「赤鷹街道の中継所を落とし、捕らわれた者を救出し、帳簿を得る」
レイヴァルトは言った。
「これを、反攻第一手とする」
玉座の間に、静かな熱が広がった。
ついに、復讐は動き出す。
だが、それは怒りの突撃ではない。
王が定めた第一手だった。
ガルムは低く言った。
「王命、確かに受けました」
エルミアが続く。
「帳簿と人名、必ず取ります」
リュシエラが目を伏せる。
「聖札は森の根で黙らせます」
ボルガンが拳を握る。
「檻と首輪は、跡形もなく割ります」
ゴウラが歯を剥いた。
「外門だけ、砕く」
レイヴァルトは頷いた。
「出発は明日夜。昼は王都の負傷者を運べ。救出者の聞き取りを続けろ。焦るな」
そして、最後に付け加えた。
「ローデン・カイスがいれば、殺すな」
ガルムの目が一瞬だけ燃えた。
だが、すぐに鎮まる。
「御意」
レイヴァルトは玉座の上から、全員を見下ろした。
「復讐は始まる」
その声は低く、静かだった。
「だが、まだ序だ」
黒天蓋の紋が、地図の上に淡く浮かんだ。
赤鷹街道の奴隷中継所に、黒い印が刻まれる。
王の第一手。
それが、異種族連合の反攻開始地点となった。




