第15話「新王即位」
黒曜宮の地下には、音がなかった。
地上では負傷者が運ばれ、炉が再び燃やされ、救出された民の名が記録されている。王都の外には、敗走した人類軍が捨てていった旗と鎧と死体が残っていた。
だが、地下へ降りるほど、それらの音は遠ざかっていく。
石段は古い。
壁には黒曜石の燭台が並び、青い火が小さく揺れている。炎の色は冷たく、墓所の沈黙を乱さない。
レイヴァルトは一人で階段を降りた。
護衛はいない。
エルミアも、ガルムも、リュシエラも、ボルガンもついてこない。
ここは王族の霊廟だ。
そして今から行うのは、新王として玉座に座る前に、死んだ父へ捧げる報告だった。
誰にも聞かせる必要はない。
長い階段の先に、黒い扉がある。
扉には慈悲王アルヴァーンの紋章が刻まれていた。
大きな翼でも、牙でも、槌でも、炎でもない。
重なり合う複数の種族の紋を、一つの輪で包む紋。
異なる者たちを王のもとにまとめた証だった。
レイヴァルトはその紋を見た。
五年三月。
眠っていた時間の長さが、そこで初めて重くのしかかる。
父はその間、墓の中にいた。
自分は繭の中にいた。
民は炎と鎖の中にいた。
レイヴァルトは扉に触れた。
扉は、音もなく開く。
霊廟の中には、黒い石棺があった。
慈悲王アルヴァーン。
異種族連合をまとめた王。
人類を滅ぼす力を持ちながら、滅ぼさなかった王。
和平の席で殺された王。
レイヴァルトが守れなかった父。
石棺の周囲には、各種族から捧げられたものが置かれていた。
狼族の牙飾り。
妖精族の枯れない花。
ドワーフの小さな槌。
竜人族の鱗。
翼人族の羽根。
吸血種の黒い杯。
鬼族の割れた角。
海魔族の深海石。
どれも、埃を被っていない。
誰かが毎日、手入れしていたのだろう。
王都が包囲され、砲弾が足りず、薬が尽きかけても、父の墓は放置されていなかった。
レイヴァルトは棺の前に立った。
しばらく黙っていた。
死者に祈る言葉を、彼は知らない。
父ならば、何かを言ったかもしれない。
死者の安寧。
民の無事。
争いの終わり。
未来への希望。
だが、レイヴァルトの口からそれらは出なかった。
代わりに、彼は短く言った。
「父上」
霊廟の空気が、わずかに震えた。
返事はない。
当然だった。
死者は答えない。
それでも、レイヴァルトは続けた。
「遅くなりました」
その言葉だけは、わずかに低かった。
謝罪に近い。
だが、許しを乞うものではない。
五年三月眠り続け、その間に民を奪われた事実の報告だった。
「王都は落ちていません」
彼は言った。
「玉座も守られていました。誰も座らず、誰も俺を売らず、誰も俺を責めませんでした」
黒い石棺は沈黙している。
レイヴァルトは、父の棺へ視線を落としたまま続けた。
「あなたの民は、裏切りませんでした」
狼族は村を焼かれても待った。
妖精族は森を焼かれても根を残した。
ドワーフは炉を奪われても王都の炉を燃やした。
竜人族は翼を砕かれても門を守った。
吸血種は腕を失っても報告を続けた。
誰も玉座を奪わなかった。
誰も眠る王子を人類へ差し出さなかった。
「父上」
レイヴァルトは言った。
「あなたの国は、まだ生きています」
その報告を終えると、霊廟の沈黙は少しだけ重さを変えた。
救いではない。
慰めでもない。
ただ、報告すべきことを報告した。
それだけだった。
レイヴァルトは石棺へ一歩近づいた。
「ですが、あなたの慈悲は終わりました」
声は冷たかった。
だが、そこに侮辱はない。
憎しみもない。
父を否定する声ではある。
しかし、父を軽んじる声ではなかった。
「あなたは人類を許した。滅ぼす力を持ちながら、滅ぼさなかった。共存の席を用意し、白杯の間を開いた」
レイヴァルトの指が、わずかに動く。
白杯の間。
床下の聖印。
聖縛王冠。
聖断杭。
父の胸を貫いた白い棘。
「その席で、殺された」
彼の黒い瞳に、静かな影が沈む。
「父上。俺はあなたを尊敬しています」
その言葉は、嘘ではなかった。
レイヴァルトは父を軽蔑していない。
父の慈悲が、弱さだけでできていたとは思わない。
父は強かった。
滅ぼせる者が滅ぼさないことは、弱さではない。
多くの者をまとめ、異なる種族を同じ王都に住まわせ、憎しみを抑え、傷を癒やし、未来を残そうとした。
それは偉業だった。
だからこそ、異種族たちは崇拝した。
だからこそ、玉座は守られた。
だが。
「それでも、あなたの失敗は繰り返しません」
霊廟の青い火が揺れた。
「俺は人類を許しません」
それは父への宣言だった。
同時に、自分への命令だった。
「俺は人類を滅ぼせます。今すぐでも」
王都の外で証明した。
一人で軍を崩せる。
聖印を黒く染められる。
聖別砲を沈められる。
人類の軍など、彼にとっては群れにすぎない。
「ですが、一瞬では終わらせません」
灰牙村の母が、子を投げた。
王火炉の職人が、自分の胸に鑿を突き立てた。
リュシエラが焼けた根を抱えた。
ザルギウスが砕けた翼で門を守った。
その怒りを、王が奪ってはならない。
「狼族には狼族の牙を。妖精族には妖精族の呪いを。ドワーフにはドワーフの槌を。竜人族には竜人族の空を。吸血種には吸血種の影を」
レイヴァルトの声は、霊廟の石へ染み込む。
「俺は、その復讐を王権のもとに置きます」
父王の慈悲とは違う。
だが、無秩序な虐殺でもない。
憎しみを否定せず、獣に堕とさず、王の命令として方向づける。
それが、レイヴァルトの王だった。
「あなたは、俺に王であれと言いました」
石棺は答えない。
それでも、レイヴァルトは続けた。
「だから王になります」
彼は膝をつかなかった。
父の前でも、王として立っていた。
だが、頭だけは静かに下げた。
「父上。あなたの国は守ります」
一呼吸。
そして、顔を上げる。
「あなたの道は選びません」
それが、墓前でのすべてだった。
長い祈りはない。
涙もない。
許しを乞う言葉もない。
父への敬意と、父の慈悲からの決別。
それだけを残し、レイヴァルトは背を向けた。
霊廟の扉が閉まる直前、彼は一度だけ振り返った。
「次に来る時は、人類の王都を落とした後です」
扉が閉じた。
青い火だけが、石棺の周囲で静かに揺れていた。
黒曜宮の地上では、すでに各種族の長たちが集まっていた。
玉座の間は、五年三月ぶりに新しい意味を持とうとしている。
黒い繭の残骸は、玉座の前の右側へ移されていた。
捨てられてはいない。
父王を守れず、民を守るために眠った証として、黒い殻はそのまま残された。
玉座そのものは、磨かれていた。
慈悲王アルヴァーンが座っていた座。
誰も座らず守り続けた座。
今、そこへ新しい王が向かってくる。
玉座の間には、傷ついた異種族たちが並んでいた。
ガルムは包帯に血を滲ませながら立っている。
リュシエラは従者に支えられているが、目は伏せていない。
ボルガンは煤を落とさず、炉の鍵を胸に抱いている。
ザルギウスは担架のままだ。
意識はまだ戻っていない。
だが、竜人族の若者たちがその担架を玉座の間へ運び込んでいた。
エルミアは片腕で記録板を抱えている。
その後ろには、各種族の代表。
さらにその後ろには、救出された民たちがいた。
灰牙村のミル。
グラド=ヴォルグのネルド。
翼を縛られていた翼人の若者。
首輪の痕を残す鬼族。
奴隷運搬車から解放された者たち。
そして、王都防衛で家族を失った者たち。
彼らは皆、静かだった。
勝利の歓声はない。
この場は祝宴ではない。
即位だった。
王が生まれる場ではない。
王が責任を受け取る場だった。
玉座の間の扉が開く。
レイヴァルトが入ってきた。
誰も声を上げない。
ただ、一斉に膝をついた。
音が揃う。
狼族の膝。
妖精族の羽。
ドワーフの拳。
竜人族の翼。
吸血種の黒衣。
鬼族の角。
翼人族の羽根。
海魔族の鱗。
すべてが王へ向けられる。
レイヴァルトはその中を歩いた。
父王アルヴァーンが生きていた頃、彼は王座の前に立ち、臣下と同じ床を踏むことが多かった。
それが父の慈悲だった。
同じ高さに立ち、同じ痛みを見る王。
レイヴァルトは、玉座へ向かった。
段を上がる。
一段。
二段。
三段。
父王があまり使わなかった高さへ、彼は迷わず上がった。
王は上にいる。
民と同じではない。
同じ痛みを見るだけでは、民を守れない。
上から見て、命じ、統制し、裁く。
それが自分の王だ。
玉座の前で、レイヴァルトは一度だけ振り返った。
膝をつく異種族たちが見える。
傷ついた者たち。
待ち続けた者たち。
奪われた者たち。
復讐を求める者たち。
彼らを見下ろして、レイヴァルトは言った。
「立つな」
誰も動かなかった。
彼は続ける。
「俺が座るまで、頭を上げるな」
その命令に、全員がさらに深く頭を垂れた。
レイヴァルトは玉座へ向き直る。
父の座。
慈悲王の座。
空席のまま守られた座。
そこへ、彼は座った。
黒い魔力が、玉座の背を這い上がる。
慈悲王の紋章の下に、黒天蓋の紋が重なる。
白くはない。
金でもない。
深い黒。
父の王権を消すのではない。
その上に、新しい時代の影を重ねる。
玉座の間の空気が変わった。
誰もが感じた。
王が座った。
五年三月空いていた玉座に、正統な血が戻った。
だが、戻ったのは慈悲ではない。
裁きだった。
レイヴァルトは玉座から臣下たちを見下ろした。
「頭を上げろ」
異種族たちが、ゆっくりと顔を上げる。
誰もが息を呑んだ。
玉座に座るレイヴァルトの姿は、父王アルヴァーンに似ていた。
血のつながりは明らかだった。
だが、同じではない。
父は太陽のように王都を照らした。
レイヴァルトは夜のように王都を覆う。
温めはしない。
だが、外敵の目から隠し、牙を研ぐ時間を与える夜。
人類にとっては、終わりの夜。
ガルムが最初に拳を胸に当てた。
「狼族、ガルム」
彼は頭を垂れた。
「新王レイヴァルト陛下に、牙を捧げます」
その言葉に続き、狼族たちが一斉に牙を鳴らす。
リュシエラが前へ出る。
「妖精族、リュシエラ。森の根と呪いを、新王に捧げます」
彼女の羽から、弱いが確かな燐光が散った。
ボルガンが炉の鍵を掲げる。
「ドワーフ、ボルガン。炉と槌と、奪われた名を取り返す怒りを、新王に捧げます」
ドワーフたちが拳を胸へ叩きつける。
竜人族の若者が、ザルギウスの担架の横で膝をついた。
「竜人族、将軍ザルギウスに代わり申し上げます。空と鱗と炎を、新王に捧げます」
担架の上で、意識のないザルギウスの指が動いた。
それだけで十分だった。
エルミアが片膝をつく。
「吸血種、エルミア。影と血と、失われた諜報網の残りすべてを、新王に捧げます」
続いて、鬼族の代表が棍棒を伏せる。
「鬼族、前線で失った血の分まで、新王の敵を砕きます」
翼人族の代表が羽を伏せる。
「翼人族、汚された空を取り戻すため、新王の空を飛びます」
海魔族の代表が深海石を掲げる。
「海魔族、封じられた海路と狩られた同胞の恨みを、新王の潮に乗せます」
次々と、異種族たちが誓いを述べる。
それは父王の時代の誓いとは違った。
救いを求める声ではない。
庇護を願う声でもない。
復讐を王のもとに置く誓いだった。
レイヴァルトは、すべてを聞いた。
そして、短く言った。
「受け取る」
その一言だけで、玉座の間に張りつめていたものが形を得た。
復讐は認められた。
だが、まだ解き放たれてはいない。
刃は鞘の中に入った。
鞘を握っているのは王だった。
「俺は父のようにはならない」
レイヴァルトは言った。
玉座の間が静まる。
「父は偉大だった。父がいたから、この国は生まれた。父がいたから、お前たちは同じ王都に立っている」
誰も否定しない。
慈悲王アルヴァーンへの崇拝は、今もこの場にある。
レイヴァルトもそれを踏みにじらない。
「だが、父の慈悲は人類に殺された」
その言葉に、空気が冷えた。
「ならば、俺は慈悲を継がない」
ガルムの牙が鳴る。
リュシエラの目が細くなる。
ボルガンの拳が震える。
ミルは震えながら母代わりの狼族の衣を掴む。
ネルドは折れた工具を握りしめる。
レイヴァルトは、すべてを見た。
「俺は父の国を守る」
言葉は静かだ。
「そのために、人類を許さない」
玉座の間に、低い熱が広がる。
それは歓声になる寸前で、王の気配に押さえられた。
レイヴァルトは続ける。
「復讐は認める。だが、俺の命令なく動くことは許さない」
全員が頭を垂れる。
「人類を殺したい者は多いだろう。村を焼かれた者。森を汚された者。炉を奪われた者。翼を砕かれた者。鎖をかけられた者」
レイヴァルトの目が、救出された民たちへ向けられる。
「その怒りを捨てろとは言わない」
ミルが顔を上げる。
ネルドが息を止める。
「忘れろとも言わない」
レイヴァルトは玉座の肘掛けに指を置いた。
「記録しろ。名を残せ。加害者を覚えろ。紋章を覚えろ。聖印を覚えろ。誰が奪い、誰が売り、誰が祈り、誰が笑ったかを残せ」
エルミアが深く頭を垂れる。
「その記録を、王の前へ積め」
彼の声が低くなる。
「俺が順に返す」
玉座の間の空気が震えた。
それは約束だった。
救いではない。
報復の約束だった。
「まずは王都を立て直す」
レイヴァルトは命じる。
「負傷者を治療しろ。死者を葬れ。救出者の名を記録しろ。奪還した聖別砲を修復しろ。聖印杭の残骸を解析しろ。逃がした生存者の行き先を追え」
それぞれの長が頷く。
「ガルム」
「は」
「狼族は灰牙村の生存者をまとめろ。奪われた者の名を全て出せ。ローデン・カイスはまだ殺すな」
ガルムの牙が震えた。
「御意」
「リュシエラ」
「はい」
「聖火を調べろ。森を焼いた火を、聖教会へ返す術を作れ」
「御意」
「ボルガン」
「は」
「押収した聖別砲を解体しろ。どこを穢され、どこを奪われたかを調べろ。王火炉奪還の準備は、今日から始めろ」
「御意」
「エルミア」
「はい」
「逃がした者の噂を追え。人類側がどう怯え、どう隠し、どう嘘をつくかを記録しろ」
「御意」
「竜人族」
若い竜人が頭を上げる。
「ザルギウスを死なせるな。空を奪われた者の名をまとめろ」
「御意」
命令が降る。
冷たく、明確に。
慈悲王の時代のように、慰めを先に置く命令ではない。
復讐の準備を進める命令。
だが、それは民を見捨てるものではなかった。
負傷者を治療しろ。
死者を葬れ。
名を記録しろ。
奪われたものを覚えろ。
その上で、返す。
レイヴァルトは、父王の最後の命令を違えてはいない。
ただ、父とは違う形で実行しているだけだった。
その時、玉座の間の外から鐘が鳴った。
黒曜王都の鐘だった。
人類軍の攻城鐘ではない。
王都の生存を告げる鐘。
五年三月、沈みがちだったその音が、初めて力を取り戻した。
一つ。
二つ。
三つ。
鐘の音が王都へ広がる。
負傷者の治療院へ。
炉へ。
東壁へ。
救出者の広場へ。
霊廟の上へ。
そして、王都の外へ。
黒曜王都ヴァルドレインに、新しい王が座った。
その知らせは、異種族の間に静かに広がっていく。
誰も笑わない。
誰も踊らない。
だが、膝をつく。
頭を垂れる。
牙を鳴らす。
羽を伏せる。
槌を胸に当てる。
王が戻った。
慈悲王ではない。
慈悲王の遺児。
父の国を守り、父の慈悲を継がず、人類を許さない王。
レイヴァルトは鐘の音を聞いていた。
玉座の上で。
空席ではなくなった場所から。
彼は静かに言った。
「始めるぞ」
その声は、玉座の間の全員に届いた。
誰も何を、と尋ねなかった。
分かっていた。
父の弔い。
民の記録。
国の再建。
そして、人類への報復。
すべてが、今始まった。
異種族たちは一斉に頭を垂れた。
「御意」
その声が、黒曜宮を満たした。
そして黒天蓋の紋が、玉座の背に深く刻まれた。
慈悲王の時代は終わった。
新王レイヴァルトの時代が始まった。




