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第14話「逃がされた生存者」

 リオット・ハーゼンは、走っていた。


 剣は捨てた。


 盾も捨てた。


 聖印も捨てた。


 鎧の留め具すら外し、胸当てを泥の上へ落として、それでも走った。


 背後から追ってくる足音はない。


 狼族の咆哮もない。


 竜人の翼音もない。


 ドワーフの砲声もない。


 黒い王子は、追ってこない。


 それが何よりも恐ろしかった。


 追えば殺せるはずだった。


 逃げる兵士たちの背中など、黒い影を伸ばせばすべて串刺しにできただろう。聖別砲を沈め、聖壁を黒い檻に変え、人類軍の前列を膝から崩したあの王子なら、敗走する歩兵一人を殺すことなど、息をするより容易いはずだった。


 だが、殺されなかった。


 リオットは命を与えられた。


 逃げるためではない。


 伝えるために。


 胸が熱い。


 焼けているわけではない。


 傷もない。


 しかし、胸の皮膚の下に刻まれた黒天蓋の紋が、鼓動に合わせて冷たく疼いていた。


 見たことだけを話せ。


 嘘をつけば喉を裂く。


 黒い王子はそう言った。


 リオットは、何度も自分に言い聞かせる。


 嘘をつかない。


 見たことだけを話す。


 新しい王が目覚めた。


 父の慈悲は終わった。


 次に来るのは許しではない。


 その言葉を忘れようとした瞬間、胸の紋が冷たく締まった。


 リオットは泥の上に倒れ込む。


 喉が塞がる。


 呼吸ができない。


 何かが内側から、彼の舌を掴んでいる。


「忘れません……忘れません……!」


 掠れた声で叫ぶと、喉が開いた。


 空気が肺へ入る。


 リオットは咳き込みながら立ち上がった。


 生きている。


 まだ。


 だが、自分の命が自分のものではなくなったことを、彼は理解した。


 逃がされた生存者。


 それが今の彼だった。


 人類軍の敗走は、軍ではなかった。


 群れだった。


 王国東征軍の旗は泥の中に落ち、聖教会の白布は踏まれ、馬車は横転し、負傷者は置き去りにされている。命令系統は崩れ、部隊番号は意味を失い、兵士たちはただ王都から遠ざかる方向へ走っていた。


 誰も整列しない。


 誰も振り返らない。


 誰も祈らない。


 祈る者は、昨夜までいた。


 だが、今は祈りを唱えることすら恐れている。


 神の印が黒く染まったのを見たからだ。


 聖別砲が沈んだのを見たからだ。


 司祭の聖壁が、黒い檻に変えられたのを見たからだ。


 リオットは、何度も転びながら進んだ。


 途中、同じ部隊の兵士に肩を掴まれる。


「おい、リオット。止まれ。止まれって!」


 顔を見る。


 同じ第三歩兵隊のマルクだった。


 昨日まで、彼は聖印を肌身離さず持っていた。異種族は悪魔で、人類は神に守られていると、何度も言っていた男だ。


 今、その首に聖印はない。


 紐だけが残っていた。


「何なんだよ、あれは」


 マルクは泣きそうな顔で言った。


「なあ、俺たち、勝ってたんじゃないのか。魔王は死んだんだろ。魔王の子は封印されてたんだろ。黒曜王都は落ちるんじゃなかったのか」


 リオットは答えようとした。


 だが、喉が痛んだ。


 言えることと言えないことを、胸の紋が選んでいる。


「目覚めた」


 それだけが口から出た。


「誰が」


「新しい王が」


 マルクの顔が歪んだ。


「魔王の子か」


 リオットの胸が冷えた。


 その呼び方が間違いというわけではない。


 だが、足りない。


 その足りなさを、紋が許さない。


「違う」


 リオットは震えながら言った。


「王だ」


「何を言って」


「新しい王が目覚めた」


 マルクは後ずさった。


 リオット自身も、自分の声が怖かった。


 そこに信仰はない。


 忠誠もない。


 ただ、事実を言わされている。


 見たものを、そのまま言葉へ変えられている。


 マルクは、リオットの胸元を見た。


 裂けた衣の隙間から、黒い紋が覗いていた。


「それ……何だ」


 リオットは答えなかった。


 答えようとしたが、舌が動かない。


 代わりに、黒い紋が一瞬だけ光った。


 マルクは悲鳴を上げて手を離す。


「近づくな!」


 彼はそう叫び、別の方向へ逃げていった。


 リオットは追わなかった。


 追う意味もない。


 恐怖は、すでに移った。


 敗走する人類軍が最初に辿り着いたのは、白冠砦だった。


 黒曜王都攻略のための後方拠点であり、聖教会の補給所でもある。白い石で築かれた砦の上には、王国旗と聖教会の旗が並んでいた。


 昨日までは、そこへ勝利の報せが届くはずだった。


 黒曜王都陥落。

 魔王の子焼却。

 異種族の選別開始。

 王国の新領土確保。


 砦の記録官は、その文面まで準備していた。


 だが、戻ってきたのは勝利の使者ではなかった。


 泥だらけの敗兵。


 聖印を捨てた歩兵。


 兜を失った騎士。


 砲兵の生き残り。


 声を失った聖歌隊。


 そして、顔から血を流しながら戻った司祭たちだった。


 白冠砦の門番は、最初、彼らを通さなかった。


「隊列を整えろ! 所属を名乗れ!」


 返ってきたのは、叫びだった。


「開けろ!」


「魔王の子が来る!」


「黒い影が!」


「聖印が効かない!」


「砲が沈んだ!」


「開けろ、開けてくれ!」


 門番たちは顔を見合わせた。


 その瞬間、敗走兵の一人が門にすがりつき、泣きながら叫んだ。


「新しい王が目覚めた!」


 その言葉が、白冠砦の門前に落ちた。


 沈黙が広がる。


 そして、恐怖が広がった。


 砦の指揮官は、すぐに門を開けさせた。


 人道ではない。


 外で騒がれてはまずいからだ。


 敗兵たちは中へ雪崩れ込んだ。


 負傷者は治療所へ。


 司祭は礼拝堂へ。


 兵士は広場へ集められた。


 だが、収拾はつかない。


 誰もが同じことを言った。


 黒い王子が門から出てきた。


 一人だった。


 聖印杭が灰になった。


 聖別砲が壊れた。


 騎士団が膝を折った。


 司祭たちが黒い檻に閉じ込められた。


 魔導砲も矢も通じなかった。


 そして、逃がされた。


 白冠砦の指揮官は、信じなかった。


 信じたくなかった。


「集団幻覚だ」


 彼は言った。


「魔族の幻術だ。敗走の恐怖で記憶が混乱している。聖教会の司祭を呼べ。証言を整理させろ」


 だが、呼ばれた司祭たちも青ざめていた。


 その中に、マティアス司祭がいた。


 高位司祭として、彼は本来なら勝利の正当性を語る立場だった。


 今は、法衣が裂け、片袖は黒く汚れ、聖輪の半分が変色している。


 それでも、彼は顔を上げた。


「敗北ではない」


 砦の広間で、彼はそう言った。


 周囲には王国軍の士官、砦の指揮官、書記官、聖教会の司祭たちが集まっている。


 ギュスターヴ侯爵は、まだ到着していない。


 彼は後衛をまとめながら撤退中だった。


 だから、最初に言葉を支配しようとしたのはマティアスだった。


「これは一時的な後退である。魔王の子は完全には覚醒していない。黒曜王都側が禁術により虚像を投影し、兵の恐怖を煽ったにすぎない」


 司祭たちが頷こうとした。


 だが、その時、礼拝堂の聖杯が一つ割れた。


 乾いた音が広間まで響く。


 マティアスの言葉が止まる。


 全員が礼拝堂の方を見る。


 白い聖杯の破片に、黒い筋が走っていた。


 誰かが息を呑む。


 マティアスは強引に続けた。


「神は試練を与えた。恐れることはない。魔王の子など、聖火の前では」


 彼の胸の聖輪が、黒く光った。


 マティアスの喉が詰まる。


 言葉が途切れる。


 まるで見えない手に喉を掴まれたように、彼は苦しげに膝をついた。


「司祭様!」


 若い司祭が駆け寄る。


 マティアスは喉を押さえながら、必死に息を吐いた。


 黒い王子の声が、耳の奥で蘇る。


 祈れ。


 届くならな。


 マティアスは、理解した。


 自分もまた、逃がされた生存者なのだ。


 真実を歪めれば、黒い檻の記憶が喉を締める。


 彼に黒天蓋の紋は刻まれていない。


 だが、祈りそのものを反転された傷が残っている。


 マティアスは、ゆっくりと顔を上げた。


 広間の全員が彼を見ている。


 彼は唇を震わせながら言った。


「……魔王の子は」


 言葉を選ぼうとした。


 神敵。

 虚像。

 封印中。

 未覚醒。


 どれも口にできなかった。


 喉が、拒む。


 マティアスは歯を食いしばる。


「目覚めた」


 広間が凍りついた。


 司祭たちの一人が崩れ落ちる。


 砦の指揮官が顔をしかめる。


「司祭殿」


 マティアスは睨んだ。


 だが、続けるしかなかった。


「黒曜宮への砲撃は防がれた。聖印杭は消された。聖別砲は奪われた。祈りは……届かなかった」


 最後の言葉は、彼にとって血を吐くより苦しかった。


 聖教会の司祭が、祈りは届かなかったと認める。


 その一言で、広間にいた者たちは理解した。


 兵士たちの錯乱ではない。


 司祭の幻覚でもない。


 何かが起きた。


 聖教会の言葉で隠せない何かが。


 そこへ、リオットが連れてこられた。


 彼は砦の広場で保護され、胸の黒い紋を見た兵士たちに取り押さえられていた。


 縄で縛られ、槍を突きつけられ、広間の中央へ引き出される。


 砦の指揮官が眉をひそめた。


「こいつは」


「王国東征軍第三歩兵隊、リオット・ハーゼンです」


 兵士が答えた。


「胸に、黒い印が」


 リオットの衣が裂かれる。


 胸に刻まれた黒天蓋の紋が露わになった。


 広間の空気が止まる。


 それは火傷ではない。


 刺青でもない。


 黒い魔力が皮膚の下で静かに脈打っていた。


 マティアスの顔色が変わった。


 彼はその紋を知っている。


 昨夜、空に浮かんでいた黒い紋。


 聖印を塗り潰した紋。


 黒天蓋。


 砦の指揮官は、リオットを睨んだ。


「誰に刻まれた」


 リオットは震える。


「黒い王子に」


 胸の紋が冷たく光る。


 訂正を求めるように。


 リオットは慌てて言い直した。


「新しい王に」


 その場にいた士官たちがざわめいた。


 砦の指揮官が怒鳴る。


「魔王の子と言え!」


 リオットの口が開く。


 だが、声が出ない。


 喉の奥で、黒いものが締まる。


 彼は苦しげに膝をついた。


「言え!」


「言えません……!」


「なぜだ!」


「見たことと違うからです!」


 広間が静まり返った。


 リオットは涙を流しながら続けた。


「王でした。あれは、王でした。異種族どもは、誰も逆らわなかった。追撃も、命令が出るまでしなかった。捕虜を救出しても、逃げる我々を追わなかった。あれは……ただの化け物じゃない」


 士官の一人が剣を抜いた。


「黙れ。貴様、魔に魅入られたか」


 剣が振り上げられる。


 その瞬間、リオットの胸の紋が黒く光った。


 影が床に落ちる。


 影は剣を持つ士官の足元へ伸びた。


 刃が振り下ろされる前に、士官の手首が見えない力でねじ上げられた。


 剣が床へ落ちる。


 士官が悲鳴を上げる。


 影は、それ以上は何もしなかった。


 殺さない。


 ただ、証人を殺すなと告げるように、黒い紋が静かに脈打った。


 マティアスは、その光を見ていた。


 冷たい汗が流れる。


 レイヴァルトはリオットを救ったのではない。


 証人を保護したのだ。


 真実を運ぶ道具として。


 その冷酷さが、マティアスの背骨を凍らせた。


 砦の指揮官も、ようやく剣を収めさせた。


「……何を伝えろと言われた」


 リオットは、震えながら顔を上げた。


 胸の紋が光る。


 言葉が、喉から押し出される。


「新しい王が目覚めた」


 誰も動かなかった。


「父の慈悲は終わった」


 広間の空気が重くなる。


「次に来るのは、許しではない」


 その言葉が、白冠砦の石壁に染み込んだ。


 砦の中で、どこかの兵士が聖印を落とした。


 金属が床に跳ねる音が、やけに大きく響いた。


 その日の昼、ギュスターヴ・レオンハルト侯爵が白冠砦へ到着した。


 彼の軍は、軍と呼べるものではなくなっていた。


 近衛の半数を失い、騎士団は散り、歩兵隊は部隊単位で行方不明、砲兵隊は聖別砲を失い、聖歌隊も半壊している。


 侯爵は泥に汚れたまま砦の広間へ入り、椅子へ座った。


 誰も勝利を口にしない。


 誰も慰めを言わない。


 ギュスターヴは、机の上に置かれた地図を見た。


 黒曜王都ヴァルドレインの周囲に、王国軍の包囲線が赤く描かれている。


 昨日まで、それは勝利目前の地図だった。


 今は、死地の記録に見えた。


 砦の指揮官が恐る恐る問う。


「侯爵閣下。報告書には、どのように」


 ギュスターヴはしばらく答えなかった。


 彼もまた、逃がされた生存者だった。


 レイヴァルトに生きろと言われた。


 逃げて伝えろと言われた。


 慈悲王は死んだ。

 魔王の子は目覚めた。

 次は、お前たちの番だ。


 その言葉は、命令として彼の中に残っている。


 貴族としての誇りが、それを否定しようとする。


 だが、否定できない。


 否定すれば、自分があの黒い瞳から逃げた事実まで消さねばならない。


 それはできなかった。


 ギュスターヴは、低く言った。


「王都包囲軍は、作戦継続不能」


 書記官の手が止まる。


「閣下」


「書け」


 ギュスターヴは睨んだ。


「聖別砲二門喪失。聖印杭効果なし。敵王子レイヴァルト、覚醒を確認。単独で前線部隊を制圧。包囲軍は後退」


 書記官は青ざめながら筆を動かす。


「敗北、と記しますか」


 ギュスターヴの顔が歪む。


 その一語だけは、口にしたくなかった。


 だが、広間の隅にいたリオットの胸の紋が、黒く光った。


 ギュスターヴはそれを見た。


 自分には紋が刻まれていない。


 それでも、同じものが喉にある気がした。


「……敗北だ」


 書記官が震えながら記す。


 王国東征軍、黒曜王都攻略に失敗。


 司令官ギュスターヴ・レオンハルト侯爵、敗北を認む。


 その一文が、白冠砦で書かれた。


 人類側にとって、それは戦況報告以上の意味を持っていた。


 魔王の子は封じられている。


 異種族連合は崩れる。


 王都は落ちる。


 その前提が、すべて崩れたからだ。


 マティアス司祭は、その報告書とは別に聖教会宛ての密書を書いた。


 だが、彼の手は止まっていた。


 どう書くべきか分からなかった。


 神敵覚醒。


 聖印汚染。


 祈祷干渉失敗。


 聖壁反転。


 黒天蓋の紋による証言強制。


 どれも、聖教会の威信を傷つける言葉だった。


 だが、隠せない。


 兵士たちは見た。


 司祭たちも見た。


 リオットの胸に、証拠がある。


 嘘をつけば、その紋が喉を裂く。


 そして何より、マティアス自身が恐れていた。


 黒い檻の中で祈りが反響し、どこにも届かなかった感覚を。


 彼は羽根ペンを握りしめた。


 紙に、最初の一文を書く。


 魔王子レイヴァルト、覚醒。


 その文字を見て、マティアスは歯を食いしばった。


 屈辱だった。


 だが、書くしかなかった。


 同じころ、白冠砦の外では、敗走兵たちの噂が広がっていた。


 砦にいた補給兵。

 荷運びの商人。

 奴隷商の残党。

 従軍鍛冶師。

 洗濯女。

 馬丁。

 徴発された農民。


 彼らは広場の隅で、兵士たちの話を聞いた。


「黒い王子が一人で出てきた」


「矢が消えた」


「聖印が黒くなった」


「聖別砲が沈んだ」


「侯爵閣下が逃げた」


「マティアス司祭の祈りが届かなかった」


「胸に黒い紋を刻まれた兵士がいる」


「嘘をつけないらしい」


「新しい王が目覚めた」


 噂は、砦の壁を越える。


 荷馬車に乗る。


 早馬に乗る。


 逃げる商人の口に乗る。


 聖教会の伝令より速く、恐怖は広がっていく。


 王国の街道へ。


 貴族領へ。


 教会都市へ。


 奴隷市場へ。


 鉱山へ。


 人類の土地へ。


 まだ誰も、正確な意味を理解していない。


 だが、一つだけ伝わった。


 黒曜王都は落ちなかった。


 魔王の子は目覚めた。


 そして、逃がされた者たちは、逃がされた理由を背負っている。


 その夜、リオットは白冠砦の地下牢に入れられた。


 保護ではない。


 隔離だった。


 彼の胸の紋を恐れたからだ。


 鉄格子の向こうには、灯りが一つ。


 リオットは壁に背を預け、膝を抱えていた。


 目を閉じると、黒い王子の姿が浮かぶ。


 王都の前に一人で立ち、人類軍を見下ろす姿。


 膝を折れ、と命じた声。


 逃げろ、と命じた声。


 伝えろ、と命じた声。


 リオットは、震えながら呟いた。


「新しい王が目覚めた」


 胸の紋は、痛まなかった。


 正しい言葉だったからだ。


 少しの間を置いて、彼はもう一度言った。


「父の慈悲は終わった」


 紋は静かだった。


「次に来るのは、許しではない」


 灯りが揺れた。


 地下牢の石壁に、黒天蓋の紋の影が映る。


 リオットは、それを見て、初めて声を殺して泣いた。


 命が助かったからではない。


 生きている限り、これを伝え続けなければならないからだった。


 一方、黒曜王都ヴァルドレインでは、夜が別の意味を持っていた。


 勝利の宴は開かれなかった。


 レイヴァルトが禁じたからだ。


 王都には、宴より先にすべきことがある。


 死者を数えること。

 負傷者を治療すること。

 捕らわれていた者の名を聞くこと。

 どの村から奪われたのかを記録すること。

 どの商人が運んだのかを覚えること。

 どの紋章の兵が鎖をかけたのかを残すこと。


 王都の広場では、救出された異種族たちが毛布に包まれていた。


 狼族の子どもが、ガルムの部下に抱かれて眠っている。


 ドワーフの徒弟は、震える手で折れた工具を握っていた。


 翼人の若者は、縛られていた翼の縄を外されても、しばらく広げることができなかった。


 鬼族の青年は、鎖を外された後も、首輪の痕を何度も触っていた。


 レイヴァルトは、その広場を歩いた。


 誰も歓声を上げない。


 誰も近づこうとしない。


 救われた者たちは、彼を見て震えた。


 恐れている。


 当然だった。


 レイヴァルトは優しい救済者ではない。


 黒い魔力をまとい、人類軍を膝から崩した王子だ。


 だが、彼らは同時に頭を垂れた。


 この恐ろしい王子が、人類ではなく自分たちの側に立っていることを理解したからだ。


 レイヴァルトは、泣いている狼族の子の前で足を止めた。


 その子の首には、奴隷用の首輪の痕が残っていた。


 ガルムが一歩前へ出ようとする。


 レイヴァルトは手で制した。


 子どもは震えている。


 レイヴァルトは膝をつかなかった。


 父王なら、膝をついて頭を撫でただろう。


 自分はそうしない。


 彼はただ、子どもの首の痕を見た。


 そして言った。


「名は」


 子どもは答えられなかった。


 代わりに、そばにいた狼族の女が答える。


「灰牙村の、ミル」


 灰牙村。


 その名を聞いて、ガルムの肩が震えた。


 レイヴァルトは頷いた。


「記録しろ」


 エルミアが背後で筆を動かす。


「灰牙村、ミル。奴隷運搬車より救出」


 レイヴァルトは続ける。


「首輪をかけた者の紋章は」


 狼族の女は震えながら答えた。


「赤い鷹の紋……ローデン・カイスの兵です」


「記録しろ」


「はい」


 レイヴァルトは子どもへ言った。


「覚えておけ」


 子どもが怯えた目で見上げる。


「泣くなとは言わない。忘れるな」


 それだけだった。


 慰めではない。


 だが、狼族の女は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 レイヴァルトは答えない。


 次に、ドワーフの徒弟の前へ立つ。


「名は」


「ネ、ネルド……グラド=ヴォルグの徒弟です」


「誰に打たされた」


「人類の鉱山技師に……白い札をつけた兵が、炉の前で」


「記録しろ」


 エルミアが書く。


 レイヴァルトは、徒弟の震える手を見た。


 指は折れていない。


 だが、爪がいくつか剥がされていた。


「その手は残っているな」


 ネルドは涙をこらえて頷く。


「なら、炉へ戻れ」


 ボルガンが目を見開く。


 レイヴァルトは続ける。


「今すぐではない。治してからだ。だが、その手で王火炉の名を戻せ」


 ネルドの顔が歪む。


 泣きながら、彼は額を床につけた。


「御意……」


 レイヴァルトは広場を歩き、救出された者たちの名を聞き続けた。


 それは優しさではなかった。


 記録だった。


 復讐の帳簿だった。


 誰が奪われたか。

 どこから連れてこられたか。

 誰に鎖をかけられたか。

 どの紋章が関わったか。

 どの聖印が使われたか。


 すべて記す。


 すべて残す。


 すべて返す。


 夜更け、レイヴァルトは黒曜宮へ戻った。


 玉座の間には、まだ空席の玉座がある。


 黒い繭の残骸は片づけられていない。


 レイヴァルトはそれを見た。


「残せ」


 エルミアが問う。


「繭の残骸を、ですか」


「ああ」


 彼は黒い殻を見下ろした。


「父を守れず、民を守るために眠った証だ。捨てるな」


「承知しました」


 玉座の前には、父王の座がある。


 レイヴァルトは、まだ座らない。


 明日、座る。


 その前に、すべきことがある。


「父上の墓へ行く」


 その言葉に、玉座の間の空気が静まった。


 エルミアが頭を下げる。


「ご案内いたします」


「一人で行く」


 エルミアは一瞬だけ迷い、それから深く頭を垂れた。


「承知しました」


 レイヴァルトは、玉座を見た。


 父の時代の終わり。


 自分の時代の始まり。


 だが、それを告げる前に、死んだ父へ報告しなければならない。


 慈悲王は殺された。


 その息子は目覚めた。


 そして、慈悲を継がない。


 黒曜宮の地下へ続く扉が開かれる。


 冷たい石段が、霊廟へ続いていた。


 レイヴァルトは、黒い魔力を静かに収めた。


 人類に向ける刃を、しばし鞘へ戻すように。


 そして、父王アルヴァーンの墓へ向かって歩き出した。


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