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第13話「人類軍一掃」

 夜明け前、人類軍の陣では誰も眠れていなかった。


 黒曜王都ヴァルドレインを囲む白い旗は、夜風の中で静かに揺れている。


 だが、その下にいる兵士たちは静かではなかった。


 聖印を握りしめる者。

 震える手で剣を研ぐ者。

 祈祷を繰り返す者。

 空を見上げる者。

 黒曜宮の窓を、見ないようにしている者。


 誰もが見た。


 夜空に浮かんだ黒天蓋の紋を。


 聖印杭の白い光が黒く染まった瞬間を。


 眠っているはずの魔王の子が、黒曜宮の窓辺に立っていた姿を。


 そして、聞いた。


 まだ生きていたのか、人間ども。


 その一言が、兵士たちの耳に残っていた。


 怒声でもない。

 呪詛でもない。

 殺意を剥き出しにした叫びでもない。


 ただの確認だった。


 だからこそ、恐ろしかった。


 人間が虫を見つけた時のように。

 火の前に残った塵を見た時のように。

 生きていること自体を、些末な誤差として扱う声だった。


 人類軍本陣では、ギュスターヴ・レオンハルト侯爵が鎧を着込んでいた。


 彼の顔には疲労がある。


 だが、退くとは言わなかった。


 王国の侯爵として。

 東征軍司令官として。

 魔王の都を包囲した指揮官として。


 ここで撤退を命じれば、彼の名は地に落ちる。


 それ以上に、聖教会が許さない。


「夜明けと同時に総攻撃をかける」


 ギュスターヴは言った。


 幕僚たちは顔を見合わせる。


「閣下、兵の動揺が大きすぎます」


「だから攻める」


 ギュスターヴの声は硬かった。


「怯える時間を与えれば、恐怖は広がる。日が昇る前に整列させ、日の出と同時に前進させる。黒曜宮へ到達すれば終わりだ」


「ですが、魔王の子が」


「目覚めたから何だ」


 その言葉は強かった。


 だが、強すぎた。


 自分へ言い聞かせる声だった。


「魔王アルヴァーンは死んだ。魔王の子は五年も眠っていた。目覚めたばかりの体で何ができる」


 幕僚は答えなかった。


 昨日、眠っていたはずの王子は、黒曜宮への聖別砲を防いだ。


 目覚めたばかりだから弱い。


 そう信じるには、彼らはすでに見すぎていた。


 天幕の外から、聖歌が聞こえる。


 マティアス司祭が、夜明けの祈祷を始めていた。


 彼の声はよく通る。


 だが、昨日までのような余裕はない。


「神は我らと共にある。恐れるな。魔の子は目覚めたのではない。眠りの残響にすぎない。黒い影は虚ろな幻である」


 司祭はそう唱える。


 兵士たちは膝をつき、聖印を握る。


 だが、祈るほどに思い出す。


 昨夜、その聖印が黒く染まったことを。


 聖別砲に刻まれた神の印が、何の抵抗もできずに塗り潰されたことを。


 マティアス自身も、それを忘れていない。


 だからこそ声を強めた。


「今日、我らは黒曜宮へ至る。魔王の子を聖火で焼く。神敵の都は清められる。人類の勝利は揺るがない」


 その時、地面が揺れた。


 砲撃ではない。


 地震でもない。


 黒曜王都の方角から、低い音が届いた。


 門が動く音だった。


 人類軍の陣に、一斉に緊張が走る。


 黒曜王都の東門。


 半壊したまま、昨夜から閉ざされていた門。


 その門が、内側からゆっくりと開いていく。


 ギュスターヴは天幕を出た。


 遠眼鏡を手に、東門を見る。


 破れた門扉の向こうに、黒い影があった。


 兵ではない。


 軍列でもない。


 一人だった。


 黒い衣をまとった王子が、門の内側から歩いてくる。


 レイヴァルト。


 慈悲王アルヴァーンの遺児。


 魔王の子。


 五年三月の眠りから覚めた、新しい災厄。


 彼の背後には、異種族の軍勢は続いていない。


 ガルムもいない。

 リュシエラもいない。

 ボルガンもいない。

 竜人族の翼もない。


 王子一人だけだった。


 人類軍の前列に、ざわめきが走る。


「一人だ」


「なぜ一人で」


「罠か」


「魔王の子だ」


「撃て、撃てば」


 誰も撃たなかった。


 命令が出ていない。


 それ以上に、撃てる距離ではないはずなのに、すでに見られている気がした。


 レイヴァルトは、門を出てから足を止めた。


 王都の外。


 昨日まで人類軍の聖印杭が地を汚していた場所。


 彼はそこに立ち、朝霧の中に広がる人類軍を見た。


 白い旗。


 王国の紋章。


 聖教会の聖輪。


 槍。


 盾。


 奴隷運搬車。


 聖別砲二門。


 聖歌隊。


 騎士団。


 兵士の群れ。


 レイヴァルトは静かに言った。


「多いな」


 その声は、王都の城壁上にいた異種族たちにも聞こえた。


 ガルムは東門の上で拳を握っていた。


 彼の傷は深い。今すぐ飛び出せば死ぬ。


 だが、王子の命令は出ている。


 門を開けても、誰も続くな。


 見ていろ。


 それがレイヴァルトの命令だった。


 リュシエラは城壁中央で、消えかけた羽を震わせている。


 ボルガンは砲座から、息を止めて見下ろしていた。


 エルミアは黒曜宮の窓から王子の背を見ている。


 ザルギウスはまだ意識を戻していない。


 それでも、担架の上で彼の指が動いた。


 王子が外へ出た。


 それだけで、王都全体の空気が変わっていた。


 ギュスターヴ侯爵は剣を抜いた。


「弓兵、魔導砲、構え!」


 ようやく命令が飛ぶ。


 人類軍の前列が動く。


 弓兵が弦を引き、魔導砲が角度を合わせ、聖別砲の残り二門が黒い王子へ砲口を向ける。


 マティアス司祭が叫ぶ。


「聖印杭を起動! 神敵を縛れ!」


 白い光が地面を走った。


 王都を削るために打ち込まれた聖印杭が、一斉に輝く。


 レイヴァルトの足元へ、白い鎖のような光が伸びる。


 彼は避けなかった。


 鎖が足首に触れる。


 その瞬間、白い光は黒くなった。


 音もなく。


 抵抗もなく。


 聖印杭の輝きが、一本ずつ消えていく。


 杭が黒く染まり、地面へ沈むように崩れた。


 司祭たちが悲鳴を上げる。


「聖印が」


「なぜ」


「浄化を、浄化を重ねろ!」


 レイヴァルトは、足元を一度だけ見た。


「邪魔だ」


 それだけだった。


 右手を軽く払う。


 聖印杭の列が、黒い灰になった。


 爆発もしない。


 派手な光もない。


 ただ、消えた。


 人類軍の前列が後退しかける。


 ギュスターヴが怒鳴った。


「撃て!」


 矢が放たれる。


 魔導砲が火を噴く。


 聖別砲二門が白い光を溜める。


 空が矢と光で埋まる。


 レイヴァルトは動かなかった。


 黒い魔力が、彼の背後で薄い天蓋を描く。


 黒天蓋。


 かつて父王を守るために命を削った防御魔法。


 今は、彼一人を覆うには大きすぎるほどだった。


 矢が触れる。


 消える。


 魔導砲の光弾が触れる。


 沈む。


 聖別砲の白い光が迫る。


 黒天蓋がそれを受け止めた。


 衝撃はあった。


 大地が揺れる。


 だが、レイヴァルトの髪一本すら動かない。


 白い光が黒い天蓋の表面で歪み、細い糸に分解され、空へ散った。


 レイヴァルトは聖別砲を見た。


「それはドワーフの砲だ」


 声が低くなった。


「お前たちのものではない」


 右手を上げる。


 指を折る。


 ただ、それだけ。


 聖別砲の一門が内側から軋んだ。


 砲身に刻まれた白い聖印が黒く染まり、金の輪がひび割れ、砲台を支えていた鉄がねじれた。


 人類の技師が叫ぶ。


「離れろ!」


 遅い。


 砲身が裂けた。


 白い光が逆流し、聖別砲を包む。


 爆発は城壁へ向かわなかった。


 レイヴァルトがそうさせなかった。


 爆ぜた光は、人類軍側へ押し戻された。


 砲兵隊が吹き飛ぶ。


 結界兵が倒れる。


 白い旗が燃える。


 城壁上で、ボルガンが息を呑んだ。


 奪われた砲が、奪った者たちの中で壊れた。


 だが、レイヴァルトは完全には砕き尽くさなかった。


 砲身の一部を黒い魔力で包み、地面から引き抜くように浮かせる。


 それは城壁の方へ飛び、東門前に突き刺さった。


 回収せよ、という無言の命令だった。


 ボルガンは額を伏せた。


「御意」


 最後の聖別砲が旋回する。


 人類側は慌てて再装填を始める。


 レイヴァルトは、それを見た。


「まだ使うか」


 今度は指を折らなかった。


 歩いた。


 一歩。


 それだけで、彼の足元から黒い影が前方へ走った。


 影は地面を這い、兵士たちの足元を抜け、最後の聖別砲の下へ達する。


 砲台が沈んだ。


 まるで地面が沼になったように、砲ごと黒い影へ呑まれていく。


 兵士たちが逃げる。


 逃げ遅れた技師が叫ぶ。


 砲は完全に沈む前に、レイヴァルトの意思で止まった。


 半分だけ地面へ埋まり、使えない形で固定される。


 砲身には黒天蓋の紋が刻まれていた。


 破壊ではない。


 押収だった。


「ボルガン」


 レイヴァルトは振り返らずに言った。


 その声は城壁まで届く。


「後で持っていけ」


 城壁上で、ドワーフたちが一斉に拳を胸に当てた。


 ボルガンの目に、煤とは違う熱が宿った。


「必ず」


 人類軍は混乱した。


 聖別砲二門。


 彼らが頼りにしていた対王都兵器。


 一門は自壊し、一門は地面に埋められた。


 黒曜王都を削っていた聖印杭も消えた。


 魔導砲も矢も通らない。


 それでも、ギュスターヴは叫んだ。


「騎士団、前へ! 歩兵、包囲しろ! 一人だ、囲め!」


 貴族騎士団が動く。


 重装の騎士たちが馬を進める。


 槍を構え、聖油を塗った刃を光らせ、黒い王子へ殺到する。


 レイヴァルトは彼らを見た。


「遅い」


 かつて白杯の間で人類兵へ言った言葉と同じだった。


 黒い影が地面から立ち上がる。


 槍の柄を絡め取る。

 馬の脚を止める。

 鎧の関節へ入り込む。

 兜の隙間から目の前を覆う。


 騎士たちは落馬した。


 何人も。


 何十人も。


 悲鳴が重なる。


 だが、影は彼らをすぐには殺さなかった。


 地面に押し伏せ、顔を王都の方へ向けさせた。


 レイヴァルトは近くに倒れた騎士を見下ろした。


「お前たちは、王都を見上げていたな」


 騎士は震えた。


「資源としてか。奴隷の囲いとしてか。聖堂の建材としてか」


「ち、違う。我らは神の命で」


「神は来ない」


 影が騎士の口を塞ぐ。


 レイヴァルトは踏み越えた。


 殺さない。


 まだ。


 この騎士たちは、狼族の牙でも、ドワーフの槌でも、妖精の呪いでも、竜人の炎でもない。


 ただの前菜だ。


 自分がすべて潰してはならない。


 だが、王都を囲んだ軍としての罰は受けさせる。


 レイヴァルトは右手を地面へ向けた。


「膝を折れ」


 黒い魔力が波のように広がった。


 人類軍の前列が、一斉に膝をつく。


 自分の意思ではない。


 鎧が重くなり、足元の影が体を引きずり下ろし、地面が命令に従わせる。


 兵士たちは必死にもがいた。


 立てない。


 剣が持ち上がらない。


 盾が落ちる。


 祈りの声が震える。


 レイヴァルトは、その中を歩く。


 誰も近づけない。


 誰も止められない。


 人類軍の中央へ、黒い王子が進んでいく。


 マティアス司祭が聖輪を掲げた。


「神敵め!」


 白い光が集まる。


 周囲の司祭たちも一斉に祈る。


 聖歌隊の子どもたちが泣きながら歌わされる。


 白い結界がレイヴァルトの前に立ち上がった。


 多層の聖壁。


 父王を封じた術式の簡略版だった。


 レイヴァルトは足を止めた。


 聖壁を見た。


 その奥にいるマティアスを見た。


「お前か」


 マティアスの顔が強張る。


「俺の眠りに、祈りを重ねようとしたのは」


「神の封印だ」


「破れたな」


「まだだ!」


 マティアスが叫ぶ。


「まだ神は貴様を認めていない! 魔王の子よ、貴様はこの世界に災厄を――」


 レイヴァルトは指を伸ばした。


 聖壁に触れる。


 白い光が黒く染まる。


 一枚目。


 二枚目。


 三枚目。


 すべてが、紙のように塗り潰されていく。


 マティアスは後退した。


 レイヴァルトは聖壁を砕かなかった。


 黒く染めた聖壁を、そのまま反転させた。


 結界はマティアスたち司祭を囲む檻になった。


 白ではない。


 黒い聖壁。


 祈りの形をした牢獄。


 マティアスが内側から叩く。


「何をした!」


「祈れ」


 レイヴァルトは言った。


「届くならな」


 司祭たちの顔から血の気が引いた。


 彼らの祈りは、檻の内側で反響し、外へ出ない。


 レイヴァルトはマティアスを殺さなかった。


 まだ殺さない。


 聖教会の根は、こいつ一人ではない。


 マティアスは証人にする。


 教会都市へ、神の印が黒く染まったことを持ち帰らせる。


 その恐怖が、後の復讐の土になる。


 ギュスターヴ侯爵は本陣で剣を握っていた。


 彼は逃げなかった。


 逃げられなかった。


 司令官が逃げれば軍は崩れる。


 だが、すでに軍は崩れていた。


 前列は膝をつき、騎士団は地に伏し、聖印杭は消え、聖別砲は失われ、司祭たちは黒い檻に閉じ込められている。


 ギュスターヴは、それでも叫んだ。


「近衛、私を守れ! 魔導砲、再装填! 後列を前へ出せ!」


 命令は飛んだ。


 だが、従う者が遅い。


 人は恐怖すれば、命令を聞く耳を失う。


 その時、レイヴァルトが本陣を見た。


 ギュスターヴと目が合った。


 距離はある。


 届くはずがない。


 だが、侯爵は喉を掴まれたように息を止めた。


 レイヴァルトは歩かない。


 ただ、影だけが伸びる。


 黒い影が本陣へ届き、ギュスターヴの足元を囲んだ。


 侯爵の近衛が剣を振るう。


 影は斬れない。


 次の瞬間、近衛たちの剣が重くなり、地面へ落ちた。


 ギュスターヴは膝をつきそうになり、必死に耐えた。


 レイヴァルトの声が届く。


「お前が司令官か」


 ギュスターヴは歯を食いしばる。


「王国東征軍司令官、ギュスターヴ・レオンハルト侯爵である」


「そうか」


 影が侯爵の首元まで伸びる。


「では、生きろ」


 ギュスターヴの目が見開かれる。


「何?」


「逃げて伝えろ」


 レイヴァルトの声は冷たい。


「慈悲王は死んだ。魔王の子は目覚めた。次は、お前たちの番だ」


 ギュスターヴは言葉を失った。


 生かされる。


 それは慈悲ではなかった。


 役割を与えられただけだ。


 恐怖を運ぶ役割。


 敗北を証明する役割。


 王都包囲軍が一人の王子に崩されたと、人類王国へ伝える役割。


 ギュスターヴの誇りが砕ける音がした。


 レイヴァルトは、今度は軍全体へ声を向けた。


「逃げたい者は、逃げろ」


 その声は、戦場全体へ広がった。


「ただし、背を向けた者は覚えておく。逃げた先で、自分だけが助かると思うな」


 兵士たちは動けない。


 逃げろと言われても、足が震える。


 レイヴァルトは続けた。


「武器を捨てて走れ。聖印を捨てろ。旗を捨てろ。鎧を捨てろ。身軽になれ」


 静かな笑みが、彼の口元に浮かぶ。


「その方が、恐怖は遠くまで届く」


 最初に剣を落としたのは、若い歩兵だった。


 次に、別の兵士が盾を投げ捨てた。


 聖印を首から引き千切る者が現れる。


 白い旗を捨てる者が出る。


 そして、一人が走った。


 それを皮切りに、後列が崩れた。


 人類軍が逃げ始める。


 整然とした撤退ではない。


 敗走だった。


 兵士が兵士を押し倒し、馬が人を踏み、荷車が横転し、聖歌隊の子どもたちが泣きながら司祭に引きずられる。


 奴隷運搬車が置き去りにされた。


 その中には、捕らえられた異種族がいた。


 狼族の子。

 ドワーフの徒弟。

 翼を縛られた翼人。

 鎖につながれた鬼族の若者。


 ガルムが城壁から身を乗り出す。


 ボルガンの拳が震える。


 レイヴァルトはそれを見て、短く命じた。


「解放は許す。追撃は許さない」


 王都の門から、狼族とドワーフの救出部隊が走り出す。


 彼らは人類兵を追わない。


 奴隷運搬車へ向かい、鎖を断ち、扉を破り、捕らえられた同胞を抱え出す。


 ガルム自身は動かない。


 傷が深いこともある。


 それ以上に、王命を守っていた。


 今は追撃ではない。


 救出だ。


 その区別を、王が与えた。


 レイヴァルトは逃げる人類を見ていた。


 殺せる。


 全員殺せる。


 影を伸ばせば、逃げる背中をすべて串刺しにできる。


 空を黒天蓋で覆えば、逃げ道などない。


 聖印を黒く染めるように、命そのものを染めて消せる。


 だが、そうしない。


 今ここで終わらせれば、灰牙村の母は狼族の牙で報われない。


 王火炉はドワーフの槌で名を取り戻せない。


 森を焼いた聖火は、妖精族の呪いで返されない。


 貴族の寝台の下へ吸血種の影が戻る前に、人類の貴族社会が終わってしまう。


 それでは足りない。


 レイヴァルトは、逃げる兵士の一人を影で捕らえた。


 若い兵士だった。


 顔は青ざめ、聖印を捨て、剣も捨てている。


 レイヴァルトの前に引きずられ、地面へ転がされた。


「名は」


 兵士は震えながら答えた。


「リ、リオット……リオット・ハーゼン」


「所属」


「王国東征軍、第三歩兵隊……」


「見たな」


 兵士は泣きながら頷く。


「見ました、見ました、どうか、命だけは」


「命はやる」


 兵士の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。


 その安堵を、レイヴァルトは冷たく踏み潰した。


「言葉もやる」


 黒い魔力が兵士の胸に触れる。


 焼かない。


 殺さない。


 ただ、黒天蓋の紋を小さく刻む。


 兵士が悲鳴を上げる。


「その印は、お前を殺さない」


 レイヴァルトは言った。


「ただし、嘘をつけば喉を裂く。見たことだけを話せ」


 兵士は震えながら頷いた。


「何を、何を話せば」


 レイヴァルトは、人類軍の敗走を見た。


 黒く染まった聖印。


 埋められた聖別砲。


 黒い檻に閉じ込められた司祭たち。


 膝をつく騎士団。


 逃げる兵士。


 解放される異種族。


 そして、王都の門の前に立つ自分。


「伝えろ」


 彼は言った。


「新しい王が目覚めた」


 リオットは震えた。


「それだけ、ですか」


「まだある」


 レイヴァルトは、初めて兵士の目を正面から見た。


 黒い瞳に映った自分を見て、リオットは息を止めた。


「父の慈悲は終わった」


 兵士の喉が鳴る。


「次に来るのは、許しではない」


 レイヴァルトの声は、静かだった。


「逃げろ」


 影が兵士を放す。


 リオットは、しばらく立てなかった。


 だが、背後で黒い魔力が揺れた瞬間、這うように逃げ出した。


 転び、立ち上がり、何度も振り返りながら、敗走する人類軍の後を追っていく。


 レイヴァルトは追わなかった。


 城壁の上で、異種族たちはそれを見ていた。


 誰も声を上げない。


 歓声もない。


 勝利の歌もない。


 ただ、王の背を見ていた。


 人類軍は崩れた。


 だが、復讐は始まったばかりだ。


 レイヴァルトは黒曜王都の前に立ち、逃げていく人類を見送った。


 白い旗が泥に落ちる。


 聖印が踏まれる。


 奴隷運搬車の扉が壊され、異種族の子らが王都側へ運ばれていく。


 マティアス司祭は黒い檻の中で祈り続けていた。


 祈りは外へ出ない。


 レイヴァルトは彼を見た。


「お前は後だ」


 マティアスの顔が歪む。


「殺すなら殺せ、神敵め」


「殺さない」


 レイヴァルトは答えた。


「お前には、聖教会へ帰ってもらう」


 マティアスの表情が変わる。


 死より重い命令を理解したからだ。


「お前の神の印が黒く染まったことを伝えろ。俺が目覚めたことを伝えろ。祈りが届かなかったことを伝えろ」


 レイヴァルトは黒い檻をほどいた。


 マティアスは膝から崩れ落ちる。


 司祭たちは立てない。


 レイヴァルトは彼らを見下ろした。


「行け」


 マティアスは唇を噛んだ。


 だが、立ち上がった。


 逃げるしかなかった。


 教会へ戻るしかなかった。


 そこで何を言うのか。


 どう言い繕うのか。


 神敵が目覚めたと叫ぶのか。


 神は試練を与えたと言うのか。


 どちらでもよかった。


 恐怖は、言葉を選ばず伝染する。


 ギュスターヴ侯爵も撤退を命じた。


 いや、命じた時には、すでに軍は撤退していた。


 彼は崩れた軍勢の中で、何度も振り返った。


 黒い王子は追ってこない。


 それが、さらに恐ろしかった。


 追えば勝てるのに追わない。


 殺せるのに殺さない。


 それは慈悲ではない。


 狩りの始まりを告げる余裕だった。


 黒曜王都の前から、人類軍は消えていく。


 死体と、壊れた兵器と、捨てられた旗と、解放された奴隷運搬車を残して。


 レイヴァルトは最後まで見届けた。


 そして、東門へ向き直る。


 門の内側では、異種族たちが頭を垂れていた。


 ガルム。


 リュシエラ。


 ボルガン。


 エルミア。


 竜人族の若者たち。


 救出された者たち。


 王都の兵たち。


 誰も歓声を上げない。


 彼らは理解していた。


 これは終わりではない。


 始まりだ。


 レイヴァルトは、城壁上の者たちへ言った。


「負傷者を運べ。捕らわれていた者を治療しろ。死者を数えろ。奪われた名を記録しろ」


 命令は冷静だった。


「追撃はまだ許さない」


 ガルムが頭を垂れる。


「御意」


「ボルガン。埋めた砲を回収しろ」


「御意」


「リュシエラ。聖印杭の残骸を調べろ。聖火を返す材料にする」


「御意」


「エルミア。逃がした者の行き先を追え。殺すな。どこへ恐怖が届くかを見ろ」


「御意」


 レイヴァルトは、最後に黒曜宮を見た。


 玉座はまだ空いている。


 父王の墓にも、まだ行っていない。


 だが、王都は守った。


 人類軍は退いた。


 次に必要なのは、座ることだ。


 王として。


 父の慈悲が終わった後の王として。


 レイヴァルトは静かに言った。


「玉座へ戻る」


 その声に、異種族たちは一斉に頭を垂れた。


 黒曜王都ヴァルドレインの朝は、ようやく陽を受けた。


 白い旗は倒れている。


 黒天蓋の紋だけが、薄く空に残っていた。


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