第66話 辺境伯の死——霧雨の王都
行きついた真実を目の当たりにした時の感情が、とても冷めていたことを思い出す。
冷静に。それはとても冷静に。
——殺してやる。
目を閉じれば、すぐにその感情へ触れられるというのに、それに付き合い続ける気力もなかった。
使命として急き立てられる思いはあれども、泥のなかを進むような億劫さもある。
そして、責める。
忘れたのか。あの時の恨み辛みは果たさずにいられるのか。
家族に顔向けできるのか。
繰り返す。
ディレアは駅の方角へと向かう人の流れに沿って歩き続けていた。目的はない。
しとしとと続く霧のような小雨は街を静かに包みこみ、周囲から隔絶されたかのような孤独感に囚われる。
どうか教えてほしい。正解を知りたい。
どう生きればいいのか。
事情を知るドクターに会いに行くか。
あの男のところへ行って泣きつくのか。
これ以上弱みなど見せたところで虚しいだけだとわかる。
泣いた顔など二度と見せてたまるものか。
クロードや、アルスの前で崩れるわけにはいかなかった。
一人でいたほうが楽だ。
つまりそう。きっと期待しているのは——……。
「——ディレア」
耳に届く、柔らかな青年の声。
あてもなく動かし続けていた足がついに止まる。
「傘くらいさしたほうがいい。女性が外で肌を濡らすものじゃないよ」
テッドが差し出した傘の落とした影を見つめる。
「なんで?」
何故追いかけてきてくれるのか。
ディレアは歪む顔を俯かせ、無理やりに声だけを明るくする。
その答えはなく、肩へと重みが触れた。
かけられたのは彼が先ほどまで着ていた上着だった。
からだに余る大きさとまだ残る体温、そこからのぼる彼の香りに思わず意識が奪われる。
「悩んでる?」
あまり重苦しさもなく。かといって茶化すような浮ついた雰囲気もない。
絶妙な調子の問いだった。
それでも、返事を形にできないまま、ディレアは再び歩き出す。
気配を窺う限り、テッドが特別気分を害した様子などはなさそうだ。
背後から、徐々に近づく蹄の音が耳に入る。
テッドがそっとディレアの肩に触れ、道の端へと誘導した。
泥混じりの水を跳ね上げた馬車は、伸びる車輪の轍だけを残し、霧の向こうへと消えていく。
「気晴らしにオレの話でもしようかなあ」
目の前に、箒を抱えた小さな少年が現れた。
テッドは、じっと見あげてくる姿へ静かに頷き、一つ硬貨を差し出す。
少年はそれを受け取ると、二人の少し前に駆け出した。黙って泥だらけの道を掃除し始める。
「オレさ、元々孤児で、挨拶の仕方覚えるより前に、食べ物の盗み方を覚えてた」
話を理解するまでに、少し時間がかかった。
彼は明らかに学のある会話をするし、身なりも態度も庶民にしては洗練されている。
想像に及ばなかったテッドの過去に、ディレアは落ち着かないまま瞬きをした。
続く発言に耳を傾ける。
「生きるために、多少の悪いこともした。運悪く捕まって死にかけたり、傭兵として金目的で人も殺したこともある。色々あったかなあ」
「そんなふうに、見えなかった。だって喋りも上品だし、知識もあるし……」
テッドは道路掃除の少年を見つめて、目を細める。
「あの子ぐらいの見た目の頃、俺を拾ってくれた変な奴らがいたんだよ」
「変なやつら?」
「単純馬鹿な煙草中毒者に、優しそうで毒舌な物識り眼鏡と、おまけで騒々しいだけの生意気な小娘もいたかな」
「なにそれ。なんか、その言い回しすっごく変」
異様なほど辛辣な表現にディレアは笑った。
テッドの話ぶりは天気を語るほどに軽い。
影響され、ディレアも気負わず会話に応じる。
そのまま彼らにまつわる話が続く。内容に特出した出来事などはなかった。
それでも彼の語りに耳を傾ける時間が、日常を取り戻すように平穏さをもたらしてくる。
会話に間が空くと、ディレアは尋ねた。
「ねえ。なんで、急にそんなこと話してくれたの」
ディレアの疑問へ、テッドがおどけるように笑って見せた。
「いいことを教えてあげよう。自分のことを話さない相手に、人は心を開かない」
「それ、自分のこと話したから、あたしにも話せって?」
不機嫌に声を低くしたディレアに、テッドが狼狽える。
「ええ……いや、そう強制する気はないんだけど……」
テッドが明確にしてきた意図には、正直どきりと心が揺さぶられた。
せめて飄々《ひょうひょう》とした表情を崩したいという意地をみせられ、胸がすく。
そうして、ディレアの堰き止められていた我慢が解放された。
「自分の手で、殺したいと思ってた。父も母も、下の子たちも、クロード以外みんな死んで、わけがわからなくて。優しかった人もそれが本当じゃなくて。辛いことがあっても辛いままで変わらなくて」
話の順序なんて気にしていられない。思いつくままに、溢れていく。
「不幸って底がないんだって気づいたから、受け入れるだけはやめた。なんでこんなことになったのかわからなかったから、わかりそうなところに身を置いた。そのせいで真っ当に生きられなくなって……」
それほど遠い過去ではない。すぐそばだ。
まだ二年は経っていない。唇が震える。
「悪いこともたくさんしてきた」
いい人間ではいられなかった。
生きる場所が本当にそこしかなかったのかと言うとそうではない。
真っ当な道をいく選択は提示されたのに、それを選ばなかった。
だから罪はある。
「非合法な組織で仕事をしながら、たくさん調べて……ヴィルワースの親子が煽動して父を追い込んだってわかった。でもそれがわかったところで何もできなくなってた。組織からも簡単に抜けられなくて、日々の苦しさを一時凌ぎでごまかすばかりで。そんなとき、ドクターと出会って、なんとか抜け出して王都に逃げてきたの」
表の喧騒から離れ、たどり着いた場所は川縁だった。
揺れる手漕ぎ船のそばの岸辺は、すっかり水浸しだ。
そこらじゅうにできた水溜まりの波紋により、霧雨が続いていることがわかる。
室内で鉄を打つ、かすかな音が聞こえてくるほどにここは静かだ。
「ヴィルワースへの恨みはこんなにも残ってるのに、全部忘れたいし何もしたくない。何もかも中途半端に投げ出した。やってきたことの清算もできないまま、ここではまともなふりをして自分を庇ってる」
ディレアは、独り言とも取れるほどに、か細い声でつぶやく。
反応が、怖い。
優しくしてくれるのかもしれない。
そう期待をしながらも、何を言われるのか。
覚悟を決めて、顔を上げた。
彼は、さも当然かのように自然と目を合わせ、微笑してみせる。
「これまで、頑張って生きてきたね」
声が、好きだと思った。
「無理して、乗り越えて、それでもここまで辿り着いたなら、すごいと思う」
ぽつり、ぽつりと、テッドの声が浮かびあがる。
それを聞き逃すまいと心が求めている。
「そのヴィルワースが報いを受けたとか、そういうことを言うのは簡単だけど、多分世界はそうなってなくて。ここには現実が淡々とあるだけで。自分たちですら、真っ当に生きてきた自信もない」
憐憫の湿りも、軽蔑の棘も、どちらもない。
ここにあるのは共感だ。
「——だからさ、オレは単純に好きか嫌いかみたいにしか語れない」
「好きか嫌い……?」
「君は家族のためにやり遂げようとしたし、きっとクロードのためにも頑張った。周りの人間のために動いて、今も結局困った人を放っておけない君を知ってる。オレは、そうやって人のために生きるってすごいなあって、そう思ったよ」
優しいのに、優しくない。
抑え込んでいた気持ちが暴れ出す。
ディレアは傘を低めに引き寄せ、柄を強く握りしめた。
雨でよかった。
ぽたぽたと落ちる水滴は、きっと雨だ。
腕を滴った雫を拭うのすら、気づかれたくなくて我慢する。
「夢を、見るの。家族のことも。これまでやってきた色んなことも。たくさん嫌な記憶。だからいつも、眠るのが怖い」
身体的にも、精神的にもずっとまともではなかった。
ぞわりとたつ鳥肌と目眩を思い出し、傘を持たぬ手で自分を抱えこむ。
「なんだったかなあ。夢は、自分の歴史に向き合うようなものだって。昔、そんなふうに言われたっけなあ」
「……拾ってくれた人に?」
「そ。毒舌物識り眼鏡がね。しかし、夢もこっちが今を生きようとしてるのに過去に向き合えだなんてお節介がすぎるよね」
テッドの苦笑するような口ぶりから、同じように夢で苦しめられているのだと確信する。
「ねえ、初めて会った時から思ってた。なんでそんなに優しくしてくれるの?」
「そんなにいい人間じゃないよ。ただ、まあ、しいて言うと真似かな」
「真似……」
「拾ってくれたやつらと一緒に旅する中で、そいつら、しょっちゅう面倒ごとに首突っ込んで人助けして回ってたからさ。その頃が懐かしくて、同じように振る舞いたくなるだけだよ」
ディレアはテッドに寄り添うような言葉を渡したかった。
それでも彼の思い出にどう触れていいのか考えつかず、ただ凡庸に今の気持ちを口にした。
「ありがとう」
「どういたしまして。でもきっと——感謝するのはまだ早い」
そうやって笑う青年があまりに寂しげに見えたので、ディレアはその顔が頭に焼き付いて離れなくなった。
おかげでひとときの間、新聞が呼び込んできた感情すらも見事に忘れ去ってしまえたのだった。




