幕間 アルスとジャックの旅行Ⅶ —海—
ジャックとアルスは、昼食を終え、街中へと馬車で移動を始めていた。
とりあえずと中心部へ向かっているが、次の目的地は未定だ。
「砕けた空だけで終わるには、時間も余りそうです。他に行きたいところあります? 買い物とか、劇場とか」
保養地としても有名なこの港町。余暇を過ごすには多くのものがそろっている。
「……近くで海が見たい」
「海、ですか」
ぽつりと落としたアルスの要望は意外なものだった。
「ああ。昔数度行ったきりで、あまり行ったことがない」
「寄宿学校のそばにもあったでしょう?」
ジャックとアルスは同じ寄宿学校出身だ。
過ごした時期は、ちょうどすれ違いではあっただろうが、そうそう大きな変化があるわけでもない。
ジャックは今更な場所な気がして、つい思ったままを口にする。
指摘を受けたアルスが、不思議そうに瞬きをして返した。
「決められた日以外は外出禁止だったし、街まで出るのは週末旅行の行事か付き添いがなければ禁止だっただろう?」
この王子、大概真面目であった。
ジャックは度々規則を破って友人らと街へと繰り出していたし、いっそ教師らの機嫌さえ損ねなければ黙認もされていたと思う。
「……そうでしたね。メリアフィールドの海なら、駅からそう遠くない場所に海浜と桟橋があったはずです」
御者に合図をし、行き先を伝えた。
鉄骨で支えられ、海上に延長された人工的な島の上には、劇場を中心とする娯楽施設と飲食店が並んでいた。
遠目からでも賑わっていることがよくわかる。
桟橋のある海辺は、泳ぐには寒い時期ではあるものの、過ごすのに困難な環境でもない。
海に近づけば近づくほど、周囲では浮かれた声と表情がそこかしこで増える。
人々は皆各々休暇を楽しんでいるようだった。
たどり着いた砂利の浜は、風の影響も多少は残るがさほど問題も感じられなかった。
背後には食事を提供する紅茶喫茶も存在しており、いくつかの軽食売りの出店もぽつぽつと目についた。
人混みから少し離れた椅子を確保し、曇り空配下の群青色の海を眺めると、鴎が飛び交っているのが目につく。
ほとんどの鴎は人のそばで食べ物を狙うか、建物の屋根や桟で羽を休めていたが、勇敢なものがその姿を見せつけるように滑空している。
一羽が目の前を横切り、桟橋を支える柱をすり抜けた。
アルスが、思わず小さく感嘆の声を漏らす。
(飛ぶのが下手な奴もいるもんだな)
風に流された別の一羽が海上に漂着したところを見届け、ジャックはアルスに声をかけた。
「飲み物を買ってきます」
近くの紅茶喫茶へ向かい二人分の茶を手に入れる。
戻る道すがら、ジャックはそそる匂いに引き寄せられ、追加で自分用にと食べ物を買った。
「……なんだそれは」
ジャックの手元をみて、アルスが不審げに眉を顰ませた。
古新聞に包まれた塊を示しながらジャックは説明する。
「揚げ魚とポテトフライです。労働者階級の味ってやつなんで、大味なんですけど、結構好きなんですよね、土地の味も出て。食べます?」
「いや……食事はすでにとったし遠慮する」
アルスは品のいい仕草で紅茶のカップを傾けている。
その隣で、ジャックは揚げ魚に食らいついた。
ジャック自身、王族と比べ見劣りしたところで、それなりに出自はいい。
だが、これでいて俗世の暮らしには慣れていた。
寄宿学校時代の遊びも理由の一端ではあったが、第一近衛兵団の部隊配属後、気のいい年上の下士官にも恵まれ、大概の経験はこなしていた。
脂ぎった雑多な味は、麦酒が合う気がしたが、いまは仕事の最中だ。
最後は紅茶で流し込んだ。
しばらく黙って周囲の景色を堪能していたアルスがつぶやいた。
「ここは砂浜じゃ、ないんだな」
「そうですね、ここは砂利の海岸です。砂がよかったですか?」
「いや、幼い頃出かけた浜辺がそういう記憶だっただけだ」
旅の中、これまでになくアルスが自分のことをよく話している気がする。
ジャックは静かに先を促すよう頷き、耳を傾ける。
「母が、変わった馬車のようなものに入り、海に浸かっていた。毒素が抜けるからと療養だ治療だなんだと言って」
「ああ、そういう時代のなごりがありましたか」
おそらく、水浴装置のことを指している。
女性はみだりに肌を露出させることは許されない。
そのため、驢馬が引く車輪付きの小さな小屋に入り、その小屋ごと海へと進んだ後、着替えて海水へ浸かっていたのだ。
昨今は、性別で分けられた海浜すら消え失せようとしているが、昔はもっと厳しかった。
「母は活動的な性格ではあったが、身体は少し弱かったんだ。俺の出産時も死にかけたらしい」
「アルス様に、シャーロット様と血縁のあるご兄弟がいらっしゃらないのはそのせいですか」
「ああ。おそらく」
目の前で、白く泡立つ波飛沫が揺蕩っている。
潮が、浜の小石を前後に転がすのを数度眺めたあと、ジャックは伸びをするようにして立ち上がった。
「——しかしせっかく海に来たものの、足を入れるにも冷たい時期ですね」
波打ち際へ近づいたジャックは、足元の石を拾った。
横に腕を振りかぶり、水面へと投げる。
石は五度ほど海面を滑るように跳ね、沈んだ。
「すごいな」
振り向くと、アルスが目を輝かせ、こちらを見ている。
「やってみます?」
学生時代、こうやってよく、石の跳ねる回数を友人たちと勝負をして賭けたものだ。
ジャックは、やり方を尋ねてきたアルスへ、軽く伝授する。
海面をじっと眺めたアルスは、慎重に石を投げた。
上手くいかず海にのまれた石を前に、アルスが首を傾げている。
ジャックは微笑ましい気分で見守る。
再び手順を丁寧に説明したジャックの横で、アルスが腕を振り上げた。
「おあァ⁉︎」
突き刺すように石が過ぎる。
ジャックの体のすぐそばを、だ。
「悪い……」
「嘘でしょ殺す気ですか」
どうやら考えすぎて、石を手放すのが遅れたらしい。
ジャックの心臓が跳ねたまま、なかなか動悸がおさまらない。
アルスの投擲は、普段剣を振るせいか威力があるだけに恐ろしい。
「俺以上に下手くそとか勘弁してくださいよ」
懲りずに再度石を拾ったアルスをみて、ジャックは後退りするよう長く距離をとる。
幸い以降は、アルスも要領を掴んだようで徐々に石の跳ねる回数が増えていく。
「七、八……九回だな!」
「まじですか。ちょっと、習得早くないですか」
嬉しそうに振り向く姿は、ただの無邪気な少年そのものだった。
もし、彼が少年らしく過ごせず、手に入れられなかった時間があるのなら。
果たして、それを少しでも取り戻してやれているだろうか。
ジャックは、自分まで学生の頃に時間を戻されたような気持ちになり、挑戦的に笑った。
「勝負しますか」
* * *
気がつけば、水面に反射する日差しが白く瞬くように輝いている。
ジャックは腕時計を見た。
帰りの列車の出発時刻まで、一時間を切っている。
「まさか、こんなところで時間を潰す羽目になるとは」
肩が痛い。
ついつい白熱した石投げに、お互い息も上がったままその場で座り込む。
「近くの博物館も行き損ねましたね」
「……どうせ、ああいうのは、お前あまり興味なかっただろう」
意外に気を使われたということか。
夕暮れを背景にゆらゆらと飛び立つ海鳥の鳴き声が哀愁を誘い、ジャックは旅の終わりを感じてこの三日を振り返る。
「列車もなかなかいいものですね」
「あまり好きじゃないんじゃなかったか」
「移動時間がつまらないってだけで、旅行自体は好きですよ」
ゆっくりと手をつき、ジャックは立ち上がった。
駅が近いとはいえ、列車に乗り遅れると大変だ。
そろそろここを出る時間だろう。
アルスに移動を促しながら会話を続ける。
「いつのまにか遠い場所も、朝出れば昼には着けるようになって。日帰り旅行も簡単だ。行こうと思えばこのまま隣国へだって日付が変わる前に着いちゃうんでしょうね」
「しかし、なんというか……少しはしゃぎすぎたな」
照れくさそうに言うアルスの姿に、ジャックは安堵し微笑む。
アルスは立ち止まり、名残惜しげに海を目に焼き付けている。
寄せては引くゆったりとした波音が耳から遠ざかる中、ジャックはふと、ひんやり吹きつけてきた海風の方へと振り向く。
茜色に照らされたジャックの一括りの髪の毛と耳飾りが、舞い上がるように揺れた。
「——次の夏は、砂浜のある海へ行きましょうか。海辺で食べるレモンアイスもいいものですよ」
<幕間 アルスとジャックの旅行 完>




