幕間 アルスとジャックの旅行Ⅵ ―砕けた空―
この主人、いざやるとなると、案外そつなくこなす。
狩りの間、ジャックはアルスのそばに付き従ったが、細かくその内容を指導する必要もなかった。
折を見て、会話を促したり、その内容など、すこし助言を加えたが、その程度で十分役割を果たしていた。
薄々感じていたが、この王子の浮ついた様子がない実直で真面目な態度は年長者に好かれやすい。
学校の同窓生だったという息子よりは、公爵の方と話がよく弾む。
息子相手には適度に仕入れさせておいた遊戯の話で凌いだようだった。
メリアフィールド公爵は、アルスに対して終始穏やかで好意的だった。
翌日の小旅行についても相談すると、気を悪くするどころか、移動に必要な馬車や、食事場所など手厚く手配に動いてくれた。
別れ際の公爵は、この三日でアルスに対し一気に情が移った様子で、それがジャックにも手に取るように分かった。
アルスの置かれた状況の不憫さも入り混じったのだろう。
困ったことがあったら相談に来るようにと、まるで親類の年長者のように目尻を下げて言い含め、アルスが差し出した手を名残惜しげに握りしめる。
戸惑いながらも、控えめにはにかむアルスを、ジャックは横からそっと眺めていた。
* * *
見える建物は、海の灯台と小さな小屋くらいか。
なだらかな緑の丘が、右にも左にも見る限り続いていた。
薄く曇った、まだら模様の灰の空も同様に広いが、雲の進みは早い。
アルスとジャックは、砕けた空と名づけられた崖の上の丘に来ていた。
運が悪いと言うべきか、想像以上に風が強い日だった。
おかげで周囲には人もほとんどいない。
馬車を待たせ、海側の崖の先端を目指して丘を進む。
登れば登るほど、遮るものもないまま風が直撃してくる。
霧のように飛んでくる飛沫には、べたつきそうな潮の匂いが混じっていた。
二人は今、海の方から吹き付ける風の圧力に翻弄されていた。外出用にかぶっていた帽子は二人分共に馬車へ置いてきた。確実に飛ばされる。
ジャックは、背に垂らした自分の長い髪が、取り巻いてくる風に煽られ暴れているのを抑えていた。
正直今すぐ切ってやりたいと考えるほどで、これほどまで邪魔な存在だと思ったのは初めてだ。
興味の惹かれるままにジャックの先を進んでいた、アルスがこちらを振り向いた。
「ジャッ……」
瞬間、突風が吹く。
ジャックの髪が顔の前面にまとわりつき視界を遮った。
「……お前……っ」
アルスが、途切れ途切れで言葉にならない単語を発したのち、顔を斜めに下げて噴き出した。
彼は、慌ててくるりと向きを変え、表情を隠していたが、ジャックを見て笑ったことなどとうにばれている。
肩も未だ小刻みに動いたままだ。
「そんなに、笑うところですか」
琥珀色の長い毛が口にまで入り、邪魔になる髪の毛を何度も払い避けながらジャックは抗議した。
「いや、だってジャック、お前……、髪で顔が、全部見えなくなるくらいで……」
「だから何か問題でも?」
「大変、そうだな……」
一応の同情を伝えてきたアルスに対して、声の震えの理由を問い詰めたくなる。
ジャックは一瞬、友人や若い部下にするように、アルスの首へ腕を回して締め上げる真似などしたら、どういう反応を示すか想像した。
さすがに堪えて自重したが、少なくとも怒り出すことがないのは、なんとなくわかった。
「うわっ……すごい迫力ですね」
足元から海岸線上に続く切り立った崖は真っ白で、海に削られた断面が遠くの丘まで伸びている。
落ちればひとたまりもないほどの高さを見下ろすと、岩にぶつかる荒い波しぶきが立っており、怖いもの見たさで近づいたジャックは思わず後ずさりした。
吹きすさぶ風の鳴き声と、激しい波音が周囲で響いている。
たとえ巨大な魔法を使ったところで太刀打ちなどできない自然の脅威を目の前にして、ジャックはただ立ち尽くした。
アルスのほうを見ると、彼もこの光景から目が離せないようだった。
表情はいつもの冷静な佇まいだ。
だが、ジャックには、なぜだかアルスが泣いているように見えた。
自分の心音がどくりと響き、見てはいけないものを見てしまったように感じて咄嗟に顔ごと背けた。
「すごいな」
丘を下り、馬車へと戻ったその車内で、アルスがぽつりとつぶやいた。
「人間など、世界にとっては取るに足らない些細な存在だと思い知らされるよ」
ジャックは、アルスが自分と同じことを考えていたのだと知った。
その気づきの勢いを借りて、この旅中ずっと抱えていた思いを吐露する。
「アルス様。出発時はすみませんでした。俺、いつまでもいられないって言いましたけど。軍人ですし、辞令には従わざるをえないってだけで……離れてもちゃんと味方ですから。そこは忘れないでください」
あまりに唐突で直情的な思いを発したジャックに、アルスが軽く目を見開いた。
それ以上の反応をせずに動きを止めており、戸惑いが伝わってくる。
ジャックは、今更引き返せない流れに任せる。
「それに多分、当分は左遷状態から抜けられると思えませんし……ってすみません、左遷は失礼か。あの、結構今の仕事も嫌いじゃないっていうか」
「わかってるよ」
言い訳のように言葉を重ねようとしたジャックを、アルスは遮ってきた。
よく見る笑い方だ。
諦めを許容するような、眉を下げて静かに微笑する彼の姿。
ジャックはそれを見るたびに、少し寂しさを感じる。
アルスはどこか今を見ていない瞬間がある。
過去の孤独を抱え、未来への憂いを纏わせて生きているようだと思った。




