第59話 パーカー少尉の言葉
数歩進んだだけだというのに、積まれた藁の香りが、家畜特有の臭気に変化しはじめていた。
アルスは厩舎を抜け、突き当たった古い煉瓦づくりの兵舎を回り込むように進んだ。
パーカーがいるであろう兵舎の裏側へ曲がる直前。
少しだけためらうように、アルスの足早だった歩みが緩やかになる。
アルスがパーカーの姿を認めたのと、パーカーがこちらに目線をよこしたのは同時だった。
パーカーはふいと目を逸らしてきたが、特別表情を変えることなく指輪に嵌る石に触れた。
咥えていた紙巻煙草へ魔法で火をつける。
そばに寄ってきたアルスを拒否する素振りは見せない。
近くの壁に寄りかかったアルスへ、パーカーは紙巻煙草の詰まった入れ物を差し出してきた。
流し見てくるその目線で、煙草が必要か尋ねてくる。
アルスは喫煙者ではない。首を横に振り断る。
パーカーは吸った煙を、すぐに吐き出す。
忙しなく繰り返されるパーカーの仕草を追いながら、アルスは遠慮がちに話しかけた。
「パーカー、ジャックもいなくなってお前には負荷をかけてしまっているとは思う。だが、ギブソンたちを除けば、唯一の士官だろう。もう少し——」
「いちいちあの坊っちゃんと比べんじゃねえよ!」
パーカーの、不意な強い叫びにアルスは驚き黙る。
当然比べたつもりはなかった。
アルスが少し萎縮した様子を見せたせいか、パーカーはバツの悪そうに顔を歪ませる。
パーカーは、ふたたび落ち着かない様子で、何度か煙草を口につけては吐き出すと、苛々《いらいら》と頭を掻きむしった。
「ちょっと口説いたお嬢さんが、軍のお偉いさんのご令嬢だったってだけでさあ、クソ」
——軽薄、女好き、横柄な態度。
周囲から聞くパーカーの評価だ。
「なんなんだよ、んとにイラつく。あの坊っちゃんみたいに、もともとご立派な精神も、きらきらした自信もねえ。剣がちょっと得意だっただけで、座学もさっぱりだし、クソめんどくせえ」
パーカーが小刻みに体を揺らしつぶやく声を、アルスは黙ったまま聞き続ける。
アルスが見る限り、パーカーはジャックほどでないにせよ、比較的視野を広く持っているように思えた。周囲への指摘は案外真っ当なことも多い。
アルスもこれまで何度か、振る舞いを指導されてきた。
人を馬鹿にするような態度は確かに気にかかるが、文句をいいながらも、意外に面倒見が悪くないことも知っている。
「こんな小間使いで、いうこと聞かねえ馬鹿どもの面倒見て。頭使う書類仕事も多いし、やってらんねえっての」
パーカーは自分の足元に、まだ長さの残る紙巻煙草を投げ捨てた。
躙り踏みつけている。
「あれで、レオポルドの坊っちゃんは王子の付き人までこなしやがって化け物かよ。いつもへらへらと笑って、あいつの周りには人が集まってくる。剣や弾射の演習くらいしか勝てるとこなくて、ちょっと優位に立って見せたら素直に褒めてくるときた」
アルスは、じりじりと吸殻を粉々にしていくパーカーの長靴を眺めながら、彼の語気が強まるのを感じた。
「俺がくっだらねえ、皮肉や文句言ったって、笑っていなすんだぜ。悪意なんてこれぽっちも感じねえ。いっそ惨めだったね!」
一気に吐き出して少し落ち着いたのか、パーカーは静かに空を仰ぎ見た。
そのまま再び新しい煙草を一本取り出すと、先程よりはゆったりと吸い、煙を味わい始めた。
「王子さんの前で悪いな。人間できてないのわかったろ」
やっとまともにアルスの方へ振り向き、パーカーはひねたように笑った。
アルスはすぐに返事を返さなかった。
パーカーの抱え込んでいた胸の内を目の当たりにし、自身の中で思い起こされた気持ちと向き合う。
周りから慕われ、信頼される。ジャックの周りにはいつも楽しげに人が集まる。
自分はその姿をどう見ていただろう。
「——お前の気持ちもわかる気がする」
少し間を置いた後の、アルスから発せられた言葉。
それはパーカーにとって予想だにしなかったものらしく、彼の動きが止まった。
煙草の灰を落とすのも忘れ、口を開けたままアルスをみてくる。
「俺も、ああなりたかった」
「はあ? 王子とかやりたい放題でしょ」
「ほんとにそう思うか?」
「いやあ、思ったよりは普通ってか……意外に窮屈そうっすね。行動も言動もあんまり俺らと変わんねえなとは思いました」
パーカーは紙巻煙草の煙で、もやもやと誤魔化す。
「俺はお前だってうらやましい。お前ほど、剣はうまく扱えない」
「王子が本職に対抗すんのやめませんか。なんつーか、分隊長、案外負けず嫌いですよね」
脱力したようにしゃがみ込んだパーカーは、先ほど粉々にした煙草の吸い殻を、手持ちの屑入れにかき集め始めた。
顔を伏せたまま、ボソリと言葉を落とす。
「なんか、あほくさ。俺ガキかよ。急に馬鹿馬鹿しくなってきた」
「俺もよく思う。自分は子どもだと」
「あのさあ、分隊長。あんたはなんならもうちょっとガキらしくしても構わない年齢かもしれないです。今からそんな真面目に過ごしてどうするんですか。人生もうちょっとやんちゃして遊んだほうがいいですって」
見上げてきたパーカーの表情はもう普段通りに見えた。
アルスはほっとし尋ねる。
「遊びはどういうことをすればいい?」
「どうってそりゃこう……いや、なんかわざわざ聞くあたりがねえ、真面目っていうかね」
徐々に噴き出すように笑い出したパーカーは、結局のところ、どこか頼りになる年上の男だった。
かつて、アルスがジャックへ抱いていた思いと同様に。
「思ったより世話焼けんね、あんた」
困ったように首を振るパーカーを前にして、アルスはくすぐったいような心地を感じ、照れくさく笑った。
「俺は同じ少尉でも、あんな下働きできやしねえし、気の利く従者にはなってやれないですけど」
そう言って言葉を切ると、パーカーは立ち上がり、自分の剣を軽く持ち上げた。
軽薄で得意げな、パーカーらしい表情が目の前にある。
「誰かがあんたに喧嘩ふっかけてきたときは、あのポンコツ弾射下手くそ野郎よりはうまく撃退してやりますよ」
「それは心強いな」
アルスは、パーカーが彼なりに今の現状に向き合っていること、努めを果たそうとしていることを理解した。
事実、書類仕事も訓練も、着実にこなしている姿をずっとみてきている。
口や態度よりは彼だって素直に真面目なのだ。
時刻を知らせる鐘の音が耳へと入り、アルスは城へ戻るため、壁から離れて歩き出そうとした。
「分隊長」
背後から、パーカーが声をかけてきた。
振り向くと、発言に迷っているのかパーカーは黙ったままだ。
怪訝な顔をし、アルスはじっと待つ。
パーカーは煙草をひと吸いした流れで、挟み込んだその指を体の横におろした。
微かな紫煙が揺らいでいる。
「俺だって、なんか悔しいなって思うとき、ありますよ」
アルスはパーカーの顔を見た。
いつになく真剣な響きに聞こえて、はっと息が止まる。
緊張した面持ちでこちらを見つめるパーカーの言葉の意図を掴みきれないアルスだったが、聞き返す勇気は持てなかった。
結局アルスは、曖昧に返事を濁してそのままパーカーと別れた。
* * *
その日の就寝前、アルスは寝室の窓を開け、外を眺めていた。
今夜は新月だった。
見上げた空は雲もなく澄み切り、よく星が見えている。
一つ一つ、星のわずかな色の違いを見つけてぼんやりと時間を潰すうち、ふと昼に会話したパーカーの言葉が頭の中で反芻された。
——俺だって、なんか悔しいなって思うとき、ありますよ
瞬間、アルスはようやく、パーカーがジャックの件について話していたのだと気付いた。
咄嗟に口元を押さえる。
月明かりもなく、人気のないリブラル城の庭。
漏れた小さなうめき声は、幸い誰に聞かれることもなく、宵闇の空にかき消えていった。




