第52話 名簿
秋も近いとはいえ夏の昼間だというのに、あたりは薄暗い。うっすらと冷えが肌を覆うが、澱んで滞留している空気を吸い込む不快さが先に立つ。
入り組んだ建物の隙間に立っているため、爽快に抜ける風などはない。
ディレアはノッカーを叩き、返事がないことを確認して、鍵のかかっていない扉を開けた。
部屋に入るとすぐ、パイプを口にしマッチの火を引き寄せる無精髭の男と目が合う。
自分たちがドクターと呼んでいるその彼が、紫煙を燻らせながら見せてきたのは盛大なため息だった。
「ディレアちゃんさあ、綺麗な子が入ったっていったじゃん」
不満げに話す彼の感想は、アルスのことを指しているのだろう。
興味を持たせるために思わせぶりに話していたが、目論見が成功したと思って良さそうだ。
「綺麗な子だったでしょう」
「僕はァ、男に綺麗という修飾語を与える気はないねぇ」
ドクターは、温度を確かめるようにパイプの先端を撫でながらぼそぼそと呟いた。
声が出そうになるほど楽しげに笑うディレアを、怠惰に足を投げ出して座ったドクターが見上げてくる。
勝手に勘違いして期待するのが悪いのだ。
ドクターが口腔内で遊ばせた白い塊を一つゆっくりと吐き出す。
「結局、このまえの子供らどうしたの?」
ディレアは答えに躊躇し、少し間を置く。
それでもそのままというわけにはいかず、結局観念して口を開く。
「古巣に送った。あくまで真っ当な方だけど」
「……へえ」
短い返事に緊張する。明確な批判が返ってきているわけではないが、やりすぎだという含みがあるように感じた。
見知らぬ孤児に手をかけすぎという意味か、危険が高過ぎるという意味か。どちらもあるだろう。
「やりようがなかった。もし何かあってもあなたのことは絶対に喋らないから安心して」
ドクターの、肩をすくめるにやついた顔を見る限り、そこはあまり重要ではないらしい。
確かにこの男、その気になれば、勝手に逃げおおせる気がした。
実際、仕留め損ねたから今の状況になっている訳であるのだから。
武力という意味では圧倒的に非力だというのに。
ドクターがこめかみに手を当て、記憶を探るように小さく唸った。
「……なんだっけ。——傭兵ロバート・ガルブレイス」
「そう、そいつ。最初なんて返事よこしてきたと思う? 古い暗号使うなっていきなり文句言われたし。腹たったわ。知らないわよ、じゃあどうやって連絡取れって?」
連絡を二度と取らない。そういう約束だったことは脇に置く。
孤児引取先の相談をと、暗号化した電信を送った返事のほとんどが皮肉と罵倒だ。
返事の紙などすぐに魔法で燃やしてしまったが、思い出すだけで腹立たしい。
あとから来た手紙のやりとりで、双子の兄弟たちを救貧院に引き取らせる話はあっさりまとまった。
しかし、そのやり取りの最中、傭兵を慕うクロードの浮かれた表情も少々癪に障った。
自分たちは、以前確かに彼に助けられた。だが彼は聖人などでは決してない。
そして一番腹が立つのは、未だどこか彼への信頼を抱え続けている自分自身でもあった。
「そういえば弟くんまだ知らないの? 君が情報屋してること」
「まだ“裏”につながってると思われたら面倒なのよ。あいつ馬鹿だから気づく訳もないし、下手に教えて顔に出ても困る。そもそもこんな表層撫でて活動するくらいじゃ、大した事ないし」
「普通の生活してたら、こうやってコソコソと調べ物する必要なんてないんだけどねえ」
ドクターは明らかに目つきが鋭くなったディレアへ、両手を上げ降参するかのような仕草を見せた。
薄ら笑いで、宥めるように説明してくる。
「君のこと言ってるんじゃないよ。今更だし。——どちらかというと興味あるのはテッドくんの方」
表情を変えぬように耐えようとしたディレアの瞼が、わずかに動く。
「元々客として訪ねてきたんだっけ? あれはどう考えてもなにかあるでしょう。あまり信用しすぎない方がいいと思うなあ」
「胡散臭さはあなたの方が上だと思うけど」
間髪入れずにぴしりと言い返した。
ディレアは、いい加減本題を喋らせようと促す。
「で? 呼び出したのは何の用?」
「美人の新人についての報告書のお届け」
アルスの件だ。
ディレアは今、情報屋としては直接現場へ乗り込むというよりは仲介を主としていた。
持ち合わせの情報網で簡易的にかけた調査の結果が出たらしい。
差し出された大判の封筒に入った書類を取り出す。
「なにこれ。——第六近衛兵団の名簿……?」
ディレアは紙に書かれた名前をざっとさらう。
アルスに関連した名をすぐに見つけられずに、紙を険しい顔で睨んでいると、脇から指が伸びてきた。
ドクターが指し示したのは名簿に並ぶ名前ではなく、上部に書かれたサイン。
「アルス・リブラル……」




