第5話 城砦
馬車から見える外の景色には、街を覆うほどの規模の巨大な湖が広がっている。
対岸のさらに奥には国内有数の高山が連なるターミゼル山脈が、湖の背景として壁のように並び立っていた。
湖畔の水面は、薄く藍が透ける空の色が映り込み、穏やかな風により揺らぐ。
置き去りにした道の空は、茜色に染まり日が傾きかけているが、目の前は昼間のように青々とした空が広がっている。
それはまるで、今日という日がまだ続くことを主張しているようだった。
さらに進むと高く積み上がる灰褐色の石の壁が眼前に迫ってきた。
リンデル王国の王家が住まうネイピアス城を囲む城壁である。
湖に浮かぶ島の上にあり、天然の城砦として長い間リンデル王国の歴史の中心に居座ってきた場だった。
城下と城砦をつなぐ橋は三つあり、その真ん中の最も重厚で豪奢な橋は、特別な行事の際にしか使われることはない。
アルスたちは、その中心の橋を通り過ぎ、普段この城砦で働くものたちが出入りする一番奥のはね橋をわたった。
その先の島の中に広がる庭は、木々が生い茂る小さな森となっており、黒鳥らしき水鳥が水を跳ね飛ばす音ともに影を震わせる。
薄暗くなった道を抜けていく中で、いくつかの建物から灯りが漏れ出しているのを横目に見ながら馬車は走り続けた。
「久しぶりだな、この場所も」
「寄宿学校に進まれてからこちらには?」
「五年間一度も」
ギブソンからの質問にアルスは首を横に振る。
この城を出たのは十一の歳だった。
アルスは十歳の時、王位継承権を証明するための儀式で魔力の暴走による事故を起こしている。
母である王妃シャーロットはその際に命を落とした。
遺体は見つかっていないが、亡くなったと見て間違いない状況だったという。
アルス自身、その時の記憶については曖昧だ。
正確なところを未だ把握しきれていない。
儀式には王家に近い一部の家の人間と限られた教会関係者しか関わってはいなかったし、彼らには厳格な緘口令がしかれた。
まだ子どもの立場であったアルスに詳細を知る術はなかった。
「シャーロット様が生きておられたら、また違ったんでしょうか」
ぽつりとギブソンがつぶやいた。
暴走事故を起こし、後ろ盾となる母を失ったアルスの立場は、あれよあれよという間に地に落ちた。
元々リンデル王家は十の齢を超えて儀式に通らない限りは正式な王位継承権が認められない。
その理由もあって、当時、アルスの名は公式に世間へ向けて公表されてはいなかった。
社会の衝撃はむしろ、王妃が亡くなったことの方が大きかったようだ。
「母が生きていればか……どうかな。起こした事件の大きさの割に、俺自身は無事に生きている。まともな断罪もされず、割といい待遇のほうなのかもしれない」
「……アルス様もむしろ事故の被害者でしょうに」
同情はありがたいが、当時の現場を知らぬギブソンの慰めはアルスには響かない。
「俺がきっかけであることは変わらないんだよ」
アルスはギブソンに聞こえるか聞こえないかの小声でぼそりと自嘲した。
馬車を引く馬の蹄が石畳を鳴らす高い音へと変わり、そして、ゆっくり止まった。
ネイピアス城についたようだ。
そこには、先ほど通り過ぎた城壁と同じ色をした灰褐色の石を重ねた荘厳な城があるはずだった。
しかし、日が落ち切る寸前の今では、その姿を確認することは難しい。
所々灯りに照らされながら鎮座している巨大な建造物は、憂鬱になるほど重苦しい気配を放っているように感じられる。
寄宿学校を卒業の後、ネイピアス城へ入城するようにとの命令は受けていた。
しかし、今後のアルスの処遇はまだ何も聞かされていない。
(もし、辺境に飛ばされるのなら、俺に付き合うことになるギブソンに申し訳ないな……)
果たして明日からどこまでの自由が残っているのか。
先導するギブソンのあとを追いながら、アルスは名残惜しそうに夜空を仰ぎ見た。
建物の中に入ると、幾人かの使用人や、遅くまで働く官僚たちとすれ違う。
見慣れないアルスに怪訝な顔をするものや、ギブソンの姿にはっとして端によけるものなどさまざまであったが、そのうちにひそひそと声が聞こえてきた。
「ああ、例の外の学校に出されていた……」
「長子というのに王太子はユージン様なのでしょう?」
「既に前の王妃様はお亡くなりになっているし、お立場がね」
アルスは、多少の陰口は慣れてはいたが、誰かと共にいる間にされるのは落ち着かない。
ギブソンが何か行動を起こさないか、はらはらしながら彼の様子気を配る。
アルスの不安は的中し、案の定ギブソンが足を止めた。
大型の犬が吠えるような咳払いを一つするとまわりをじろりと見回す。
周りはしんと静かになり、そばにとどまっていた人間が何か用事を思い出したと言わんばかりに散っていく。
「やめろ、ギブソン。わざとらしいぞ」
アルスが小声で咎める。
「伝わらなければ意味がないでしょう」
ギブソンは、悪びれずに堂々とした態度で返した。
アルスは、ただ自分の思いが伝わらないことにもどかしさを感じ、唇を噛み目を伏せた。
その様子を見て、さすがの歴戦の猛者の目にも動揺が走り狼狽える。
何か言おうと口を開くも言葉が見つからなかったようだ。
ギブソンはそれ以降、目的の場所までアルスを先導するだけで黙っていた。
城内の応接間の一つにたどり着くと、ギブソンが呼び鈴を鳴らす。
しばらくすると、王城を取り仕切る執事の一人がやってきた。
「ではアルス様、私は此処までとなります」
「ああ。ありがとう、ギブソン」
アルスは、この熊のような髭面の大男がただ純粋に、心配そうに見つめてくることには気づいていた。
未だ少し硬い声音でまともに目を合わせないまま別れた。
執事の案内に従い歩き出したアルスは、先程のギブソンに対する自分の態度に、自分自身で傷ついていた。
急にいらいらと湧き立つ感情を押さえ込めない自分の未熟さを感じる。
アルスは、細く息を吐くと、腰に吊った剣の鞘を握りしめ、ひんやりとした無機質な感触に意識を向けて心を落ち着かせた。
王の執務室の手前で執事はアルスを制止する。
「そちらの剣は預かります。こちらへ」
側にいた別の使用人へ合図し、アルスの剣を受け取らせる。
アルスは剣を手放すと、ギブソンと別れた時よりも一層心細さを感じた。
執事は、王の執務室の扉へと近づき、二度叩いた。
少し離れた場所で待つアルスには王の返事は聞こえなかったが、執事は扉を開けアルスを迎え入れる。
歩きだすアルスの足取りは自然と重くなったが、目の前の現実にただ突き動かされるように、扉の中へと足を踏み入れた。




