第30話 魔法陣
「——当たりだと思ったんだがなあ……」
今しがた、アルスは息をのみ、わずかに震える手で、最後の魔石に触れたばかりだった。
しかし、本は光を帯びただけでそれ以上の変化はない。すでに光ることすらしていない。
「何かが足りないのか?」
アルスは、羊皮紙が挟まっていた寓話集を再び手に取った。
実は情報が不足しており、別の紙が残っている可能性を考え付いたからだ。
ただの寓話集というには、重厚できらびやかな装丁の本。
アルスはその本を傷つけることのないようゆっくりと表紙を開いた。
——その途端。
「っ……⁉︎」
アルスの視界が激しく明滅した。
眼前を覆う砂嵐のような光景が不快で、耐えきれず目を閉じる。
全身がじりじりと軽く痺れるような感触に襲われ、アルスは愕然とする。
(一人で安易に実行すべきではなかった——ッ!)
正直なところ、それほど危険なことは起きないだろうと安心しきっていた。
羊皮紙の文字が先生のものであったからだ。
隠し扉の発見や、貴重な品が出てくるといった事象を期待していており、一種の宝探しのつもりだったのだ。
アルスは閉じた瞼を何とかこじ開け、事態を把握する。
「まさか魔法陣か⁉︎」
足元で翡翠色に発光し浮かび上がっている文様。
真円に囲われる中に複雑な図形や文字が表現されるその見た目は、ずいぶんと特徴的で誰が見てもすぐにわかる。
文献や遺跡で見た魔法陣の形そのものだった。
(これは、結構……まずい、かもな……)
耐え切れず再び目を閉じる。抵抗の手段なく、腕で顔を庇った。
自分の浅慮さにただ後悔するしかなかった。
鳴り止まなかった耳鳴りが徐々に収束していく。
——ふっ、と周囲の空気が変わった気配がした。
時間にしておそらくわずか十数秒。
体に対する圧迫感と眩暈から解放され、アルスは魔法陣の発動が終了したことを悟った。
ゆっくりと体を戻し、顔を上げる。
辺りは微かに影が見える程度の暗闇だ。得体の知れない空間に心臓の音がどくりと響く。
アルスは小さく一歩後退りした。
その足になにかがぶつかった。金属の触れ合う音が鳴る。
先ほどまで使用していたランプだ。火は消えている。
はっとし腰に手を回すと、安心できる慣れ親しんだ剣の感触があった。
——魔法が使える。
アルスは、急いで剣の魔石に触れ、ランプに明かりを灯しなおす。
浮かび上がったその場所は、覚悟していた通り、全く知らない部屋だった。
アルスは自分の置かれた状況を理解し呆然とつぶやく。
「――転移、か」
転移。現代では再現不可能といわれる、四大古代魔法の一つ。古代遺跡内の魔法陣としては最も発見数が多いとされるものだ。
知識としては持っていた。だが、実際に転移による移動を経験したのは、アルスにとって初めてのことだった。
アルスは剣を握りしめたままの右手とは逆の手でランプをかざし、辺りを窺う。
(どこかの屋根裏部屋か?)
部屋の様子を確認すると、天井は低めで壁に向かって斜めに下がっている。
人の気配がなく、しんと静かだ。夏の時期らしく生ぬるくこもった空気は埃っぽい。
荒れ果てた雰囲気があり、椅子や調度品が倒れ放置されてはいるが、よくみるとどれも元は質が良さそうにみえた。
壁も一部に傷はあるものの、しっかりとした石作りだ。
アルスは、足元を照らした。
繊維が潰れ、捲れ上がっている古びた絨毯を目線で辿る。
その先にあったものをじっと見つめた。
「ここにも魔法陣か……」
——必要な時期に正しく活用されることを願う。
紙に記載されていた言葉を思い出す。
(悪意がないと感じたのは正しかったのかもしれない)
アルスはこの魔法陣が元の場所に戻るためのものだと直感した。
動作を確かめるのはこれからだが、おそらくその勘は正しいだろう。
遺跡内で見つかるの転移の魔法陣も、そのほとんどが双方向で設置されていると聞く。
アルスは張り詰めた気持ちを少し緩め、息をついた。
「一体どこまで飛ばされたんだ」
* * *
雑踏の中、微かに陽気な音楽が聞こえる。
どこからか焼き上がったパンの香りが漂ってきた。その方向を首を動かし探し当てると、客が数名引き寄せられるように店へと向かっていた。
視線の奥、薄暗い路地から出てきた男はフラフラとした足取りで道の向こう側に行く。
雨でどろどろになった地面を器用に避けてその場で寝転んだ。
酔っぱらいがいびきをかき始めた様子に、通りを歩いていた夫婦が眉を顰めて避けて歩く。
走り飛び出してきた二人の子供。
兄らしき少年が年少の子供のおもちゃを取り上げ揶揄っている。
揚げた魚がのった盆を首から吊り下げ、値段を叫ぶ男が目の前を横切る。
その呼売商人の影が消えると、先ほどの弟の泣き声が代わりに主張を引き継いだ。
アルスは魔法陣のあった部屋から階下へ降り、外に出ていた。
寄りかかる薄汚れた白壁は、自身が出てきた場所。
連棟式住居の建物だ。
握りしめたままの手の中にはこの家の鍵が収まっている。
外へ出る扉のそばにあったものをそのまま持ち出した。
元から鍵がかかっていたためだ。
目の前の道は、乗合馬車が通るほどには広く、それなりに整っていることがわかる。
視界に続くのは、この場所と似たような高層の建物。
灰色の煙に覆われた雨上がりの空を見上げ、ざわめく人の言葉の訛りに耳を澄ませた。
(王都ではある、か?)
アルスは、目の前を通りかかった果物売りの少年に声をかけた。
「すまない。ここから一番近い駅はどこになるだろうか」
「この道をまっすぐ。あっちだよ。ウエストボーンの駅が一番近い。馬車に乗るか、歩いてでもいけるよ」
「ウエストボーンか……」
細かい地理には疎いアルスだったが、そんな自分でも知っている駅名にほっとした。
王都の西部のターミナル駅だ。
予想が当たり、王都内と確認できるとさらに安堵感が増す。
仮に魔法陣が双方向のものでないにしても、時間と体力さえかければ野垂れ死ぬことはなさそうだ。
「お兄さん、ねえなんか、買わない? 今朝方列車で到着したばかりの桃がいい感じだよ。一つ、半ラントにまけてあげるからさ」
少年は頭に乗せた籠の中の果物を指し示す。小ぶりの桃が山ほど乗っている。
アルスは少年の商売の邪魔をした事実に気づいた。
しかし今の自分には返せるものがない。
「申し訳ないんだが、今持ち合わせが少ないんだ。またの機会があれば必ず買う」
少年は意表をつかれたように目を丸くした。
何度か瞬きすると、ふき出すように笑いだす。
「律儀だね。また会えるかな。まあいいよ、その時はよろしく頼んだよ」
少年は再び軽快な足取りで道を歩き出した。
アルスも、そろそろ戻りの魔法陣の動作を確認すべきかと、手元の鍵へと目を落とす。
そこで、ふと安易な約束をした自分の発言を思い返し、アルスは再び顔を上げた。
果物売りの少年の姿を記憶に留めておく必要がある。
目を凝らしたが、残念ながら彼は既に道を曲がったか、雑踏に紛れてしまったようだった。
* * *
アルスはその日から度々転移で、王都へつながる見知らぬ館へ飛ぶことを繰り返した。
館の魔法陣は、予想を裏切らず、リブラル城の図書室へと無事アルスの身を戻してくれた。
夏の昼過ぎの時間、建物の壁に背を預け、何をするでもなく街の様子をぼんやり眺めた。
アルスのことを誰も知らない場所で、知らない人間の人生を覗き見る。
ぎしぎしと軋む音とともに始まる手回しオルガンの曲に耳を傾け、代わる代わるやってくる酔っぱらいを避け、馬車を追いかける子供の嬌声をきく。
商品を売り歩く呼売商人は、ひっきりなしに、品物を主張し入れ変わる。
自分はその世界には入れない。
肌に触れる煙の混じった風も、目の前を過ぎた乾酪の香りも同じものを共有しているはずだというのに。
孤独だ。
完全に他人で構成された世界。
それでも、空虚な心に風が通りぬける。
なぜだか、正常に息ができると思った。
ここがアルスの新しい居場所だった。




