第29話 図書室
扉を開けた途端に一変する雰囲気は、多くの歴史が積み重なる紙の匂いによるものだろうか。
ただの静謐な部屋とも違う、独特の浄化されたような空気感がここにはある。
リブラル城の図書室は、単なる館の一つの機能と考えるには非常に巨大な施設だった。
規則的に配置された柱と、膨大な数の本棚が並ぶ、ひと続きの空間。
見上げた視線の先にあるのは、円筒状にくり抜かれた明かりとりの窓硝子。
吹き抜け天井はその日の空を絵画のように映し出す。
(今日は雨か……)
ぽとぽとと硝子を打つ雨音が心地よい。
アルスはこの天気に満足していた。
視線を戻し、壁沿いの大きな硝子張りの窓を通して雨に濡れた木々を一瞥する。
棚上のランプを一つ手に取ると、アルスは灯をともした。
ありったけの本が詰め込まれた木製の棚たちは、大きな窓から降り注ぐ陽の光に灼かれ、色褪せが目立っていた。
アルスは、それらの棚を見向きもしないまま、薄暗さが増す奥へと進んでいく。
人気はなく、雨音以外はとても静かだ。
そこに響く足音は、周りの本へと吸収され鈍くかき消える。
しばらく進むと、アルスはようやく足を止めた。
明かりの行き届かない暗がりの為、棚の劣化が少なく真新しさすら感じる隅の空間だ。
まだ木に残る油絵の具のようなワックスの香りが鼻腔に引っかかる。
(静かだ……)
この場所はほとんど人が来ない。
いくつかの本を手に取り、アルスはそばの長椅子へ腰を下ろした。
そのままかざしたランプの下で本を広げて文字を追う。
アルスはたびたび日中の空き時間を、ここでつぶした。
幾万とある蔵書から本を選び出しその世界へと入り込むのは、やりきれない思考を追い出すにはちょうど良い。
意識せざるを得ない他人の存在も、拒絶の言い訳にしやすかった。
* * *
本を読み始めてからしばらく時間が経った。
ふと、気がつけば雨音はすでにない。
アルスは、読み終わった本を棚に戻すために立ち上がる。
あたりは雨雲の名残か薄暗いままで、手元のランプの明かりなしでは各棚に割り振られた数字すらも読み取りにくい。
棚の本にさらりと沿わせた指が止まる。
橙色に照らされ、浮かび上がる本の題名に懐かしさを覚えた。
――マフィラスの寓話集
それは赤褐色の古い本だった。
アルスは、複雑な文様の刻まれた象牙の表紙が傷まないよう丁寧に手元へ引っ張り出す。
母や先生に何度も読むようにせがみ、覚えるほど読み込んだその寓話集は、元が古代語で書かれていたものだったようで、勉強の題材としても使っていたことを思い出す。
アルスはゆっくりとその本を開く。
「っ……と」
するりと、表紙の間から羊皮紙が滑り落ちてきた。
慌てて拾い上げると、そこに書かれた文字にはっとする。
「これは……」
覚えのある筆跡だ。数字の書き方に特徴がある。
アルスは何年も前に見たはずの、その文字まで記憶に残っていることに寂しさを覚え、目を細めた。
先生の字だ。
「なんだこれは……本の題名か?」
全部で六つ。
歴史書から戯曲、料理本と思われるものまで統一感のない題名が並んでいる。
その横には記述されている番号はおそらく書庫の配置か。
そして、最後に書かれた文章。
――古代語だ。
古代語を長く履修してきているものの、流れるように書き記された文字を瞬時に訳せるほど流暢には扱えない。
ランプをかざし、じっと文字を見つめながら、読み解く。
「『必要な時期に正しく活用されることを願う』か?」
一人首を傾げて、困惑する。
「なんだ……? この本の一覧について……か?」
可能なら、何かしらの思いが込められているであろう先生の言葉の意図を理解したい。
アルスは紙片に記された本の題名を見つめる。
まずは、この本たちを探し出すのが真っ当な手段だろう。
* * *
棚の番号が併記されているため、本の探索は少し時間をかければ造作もないことだった。
ただし、行き着いたその場所は特殊な作りのもので、いつも立ち寄る棚とは違っていた。
「鎖付き図書か……」
目の前に見える棚は本よりもまず、滝のように垂れ下がる多くの鎖が目に入る。
片端を棚に固定された鎖の行き着く先は、この貴重な資料が集まる図書室の中でも、とりわけ歴史の重みを感じる本たちだ。
自由を奪われたその扱いはまるで囚人のようだとアルスはいつも思う。
古い時代によくとられていた仕組みで、今よりもさらに高価であった本は、盗難防止のため棚に鎖で繋がれ管理されていた。
この場所で、アルスは一冊の本を手に取った。
「これか……『ローネット自然派絵画の起源と発展』。なんだこれは。これが必要な状況なんて……」
周囲の蔵書も、あまり実用的とは言えない古い歴史書ばかりだった。
「これまさか、ほかの本も同じってことはないよな……」
一度この本を放置し、次の「レッティ・オッティの船」という古くからある戯曲の本のもとへ向かった。一冊目と同様に、こちらも鎖付き図書だ。
アルスは本の題名が書かれた羊皮紙を睨み、呟く。
「共通点は何だ? 古代文明時代の文献の訳本か?」
一部内容のわからないものもあるが、書名から推察できる何冊かはその条件に当てはまっている。
わざわざ、走り書きの文章が古代語で書かれているという件もあり、その線は有力な気がした。
「古代文明……魔法……」
アルスは「レッティ・オッティの船」という題の背表紙をじっと眺めた。
さすが、先代の王が管理していた蔵書の一つだ。
古いながらも立派な象牙と上質な皮で補強されている。
その背表紙の装飾。上流階級が集める本にはたびたび装飾として見かけることもある小さな魔石が輝いている。
アルスはふと気づく。
「中枢がある……」
中心部が濃く輝いている。魔石が初期化処理されていない。
装飾品として扱われる魔石と、魔法を使用するための魔石。
その二種類の魔石は、元は同じものである。
装飾品――いわゆる宝石としての魔石は、魔法発動のしくみが無効化されたものだ。
処理済みの魔石には中枢がない。
つまりこれは――
アルスは本の表紙へと指を伸ばし、その深緑の石に触れる。
「当たり、か?」
薄暗い部屋の中、ぼんやりと浮かび上がるかのように本が輝く。
アルスの魔力に呼応し光ったその本は、明滅したのちすぐに何事もなかったかのように元に戻った。




