第28話 変わる日常
「どうしたの? アルス」
十歳になったばかりのアルスは、それでもまだ子供だった。
母の顔色をうかがいながら、言葉を形へとできずにいると、彼女の大きめの紅玉の瞳が穏やかに細まった。
「わかった、緊張してるんだ。怖いの? それともうまくできるか不安?」
どちらが正解とも言えず、しかしどちらもが正しいとも言えた。
アルスが返事を出しあぐねる様子をみて母は辛抱強く待っている。
「……一人で、やる必要がある」
アルスの言葉に、母は首を傾げた。
長い緋色の髪がさらりと揺れ、花のような仄かな香水の香りが漂う。
母は、うーんと透き通る声で唸り、意味を推し量ろうとしているようだった。
「一人じゃなかったら、大丈夫?」
それは当然のことなのでアルスは大きく頷く。しかし、そういうわけにはいかないことは理解している。
「じゃあ、そんなあなたにはこれを貸してあげようかな」
母は左の耳元に手を添えると、その瞳の色によく似た色のピアスを取り外した。
「本当はね、もうすこしだけ大きくなったときに、親が子へと渡すものなの。でも私はまだこの作り方を知らないし、あなたが背負うものは私以上に大きなものでしょう。だから、貸してあげる。あの伝説の最強戦士、グウェルフ大佐の石だから、心強いでしょ!」
アルスは、母がその父——アルスの祖父より譲り受けたピアスを受け取る。
大切な預かり物をどうすべきか少し悩み、丁寧にハンカチに包んでポケットへとしまった。
「さあ、いこうか」
母に連れられて、挨拶に来た幾人かの大人と会話する。儀式の開始まで、もうすぐだった。
* * *
厳しい冬もとうにすぎ、城砦内にある庭で色とりどりの花が咲く、鮮やかな季節がやってきた。
しかし、その陽気な季節とは裏腹に、アルスはカーテンの閉じた暗い部屋の中で、現実と夢の間に逃げ込むことが増えていた。
目覚めの朝は、最も嫌いな瞬間だった。
ジャックの死を知ったその日からひと月ほど。そして、この城砦に戻ってきてもうすぐ一年の月日が過ぎようとしていた。
アルスの日常は変わった。
できるだけ、人に会わない生活を望み、執務も夜にこなすことが増えた。
謹慎後、もともとアルスの訓練参加をよく思っていなかった王側からの指摘もあり、第六近衛兵団の訓練に以前ほど顔を出すことはなくなった。
鈍る体は、いつの間にかギブソンと夕方に剣を合わせることが習慣となり、そこで解消した。
ただしそれも、毎日ではなかった。
ギブソンは、ジャックの件や、今のアルスの生活について、余計な言葉を口にすることなく接してきている。
それを形にすると、アルスがギブソンを拒絶する可能性を恐れたのかもしれなかった。
どうであれ、アルスがギブソンのその態度に助かったことは事実だった。
(今日は母様か……)
先ほどまで夢を見ていた。
夢そのものの内容はすぐにつかめなくなり思い出せない。
ただ、断片的に蘇った光景から過去の記憶が連想され、それがアルスの目覚めを妨げてくる。
はっきりとしない意識のまま、視界の外にある左耳のピアスの存在に気持ちが引っ張られた。
このところ見る夢は、既に会えなくなった人間か、会うには難しい人間の登場が多い。
——夢は、自分の歴史に向き合うようなものですからね
そう話したのはかつての師だったか。
幼少の頃、誰よりもそばにいたはずの先生——アルスの付き人を兼ねた家庭教師。
彼の夢も何度か見た。
この前は先生が、アルスを責め立て城を去っていく夢を見た気がする。
先生がアルスに対して、そのような態度をとったことなど一度もなかったが、城を去った事実は同じだった。
「余計な歴史が増えたものだな……」
きっかけなど、わかりきっている。
繰り返し、嫌な記憶が引き出される。
「勘弁してくれ……」
アルスは顔を歪め、誰へ向けるでもない文句をつぶやいた。
直後、寝室の扉の外でかたりと音が響く。
アルスは、思わず動きを止め、息をひそめる。
気分が落ち着かない中で人に会いたくはない。どうか放っておいて欲しい。
幸いすぐに足音は遠くへと消えていった。
それを聞き届けると、アルスはのろのろとベッドから降りる。
昨晩のうちに、朝食は不要との書き置きを残したはずだ。
それにもかかわらず、使用人の誰かが気を利かせて軽食を置いていったのだろうと思い至る。
すでにこういうことが何度かあったからだ。
* * *
夕方、ギブソンとの手合わせを終え、自室に戻ろうとしたところ、ふと目の端に庭の様子が映った。
アルスは周りに人がいないのを確認し、立ち止まる。
ジャックの育てていた薔薇の株に赤い蕾が三輪ほどついていた。
葉の病気も取り除かれ、支えに沿って美しく成長した姿は、さすがジャックが託したという王城の庭師の成果なのだろう。
アルスはその蕾に手を伸ばしかけ、棘の存在を思い出してその動きを止めた。
「あの!」
背後から突然声がかかり、アルスはびくりと振り向く。
ぱたぱたと近づいてきたのは小柄な黒髪の少年だった。書類を腕に抱えたままよっぽど必死に駆けてきたらしい。彼はアルスの前で息を整えようと目を白黒させている。
「……ロイか。どうした」
声をかけてきた少年——ロイはまだ十四歳ととても若いが、リブラル城で事務仕事をしている官僚の一人だった。
「仕事、ありがとうございます」
「あ……ああ」
唐突な言葉に戸惑ったが、夜中に彼の溜まった仕事を、何度か処理したことに思い至る。
ロイは、事務官としてとても優秀な人材だった。
しかし、若さゆえか他の要因か、職場の人間関係においては難しい状況に置かれている。
彼は周りから仕事を押し付けられているのが常だった。
見かねたアルスが、たびたびロイの仕事を引き取り手伝ってきたのだが、最近では人と会うことを避けている。
アルスはしばらくロイとまともに顔を合わせていなかった。
「……まだ、お前は仕事押し付けられているのか」
「ええ、変わらないです」
ロイの不器用な物言いを聞き、アルスはどこからか無性に親切にしたいという気持ちが湧き上がるのを感じた。
久しぶりに他人のための言葉を作る。
「あまり無理はするなよ」
「コネがないので無理くらいしますよ」
学閥が幅を利かせている社会だというし、そのせいで苦労しているのだろう。
「あの……アルス様、たまに、夜中に仕事してくれてますよね」
「……眠れない時の時間潰しなだけだ」
「朝起きられなくなるのはどうかと思いますけど」
ずばりと直球で切り込むロイにアルスは苦笑する。
「それは、まあ……もっともな意見だな」
「ちゃんと朝食くらいはお取りください。せっかく料理人が新鮮な食材を調達してきているのですよ」
「そうだな……」
「もったいないので、昼食としていただいていますが、いくら立派な食材でも、朝食を二度とるのは飽きてきました。冷えた紅茶のポットを回収するのも手間です」
どうやら世話を焼いてくれていた人間は彼だったらしい。
「……悪い。料理人にも申し訳なかったな。ただ、書き置きした通り、準備は不要と伝えているつもりでいるんだが」
ロイはむっとした表情で距離を詰める。
「不要というのは本末転倒です。僕は、きちんと食べるべきだと言っているのです。食事されるされないにかかわらず、準備は必ずいたします」
下から見上げて畳み掛けてくるロイの勢いにアルスは圧倒される。
「……努力しよう」
観念したようにため息をつき、頬をかく。
「では、あまりご無理はなさらないでくださいね」
最後にわずかに口角を上げ微笑し、ロイは立ち去った。
アルスはそのまま、ぼうっと立ち尽くす。
そうしている内、ようやく自分が気遣われていたらしいことに気づいた。
今、周りには誰もいない。
「……ありがとう」
閉じた萼の端から僅かに顔を出した深紅の花弁をじっと見つめ、アルスは静かにつぶやいた。




