第24話 薔薇の棘
ジャックがいなくなってから二ヶ月近い月日が過ぎようとしていた。
彼との別れ際についてはあっさりしたものだった。
ジャックのからっとした笑顔が印象に残る程度で、凡庸な会話をし、最後は力強く握手を交わした。
いつの間にか季節が一つ進み春になっていたが、暖かさとはまだ遠い気候で朝の目覚めが辛い。
アルスは未だに新たな従者をつける話を先送りしていた。
ジャックが戻ってくるとは思っていなかったが、すぐに別の人間に任せて切り替えることができずにいた。
再び他人に依存しきった生活をする気にはならなかったからだ。
立場上褒められたことではないが、うるさく言う人間も今はいない。
ある程度の身支度は寄宿学校時代の習慣によってこなせていたし、必要な場合は、他の使用人に声をかけ、その都度手伝ってもらうことで事足りていた。
しかし、思った以上にひとつひとつの動作について、想定より時間がかかることにまだ慣れず、朝は特に苛立った。
最近は、朝食時に読んでいた新聞も目を通す暇なく放り出したままのことが増えている。
この日、案の定身支度に手間取ったアルスは、訓練開始の時刻ぎりぎりに急いで広場へ向かっていた。
近道をしようとジャックが手をかけていた薔薇のそばを通ると、風か動物によるものなのか、茎があらぬ方向へ曲がっていた。
仲良くなった庭師に引き継いだと聞くが、小さな庭園の細かい手入れまで行き届くほど王城の庭師は暇ではないのだろう。
ジャックがいる間にもっと植物の育て方を勉強しておくべきだったと、アルスは少し反省し立ち止まる。
傾いた茎を戻そうと何気に手を伸ばす。
「痛っ」
薔薇の刺という存在が頭から消えていた。
右手の人差し指からじんわりと血が滲む。
ハンカチで拭おうと思ったものの、机の上に置き忘れたことを思い出す。
(うるさく言うやつは居ないしな……)
アルスは服の裾でさっと拭うと、今日の午後は城の図書室で植物の本を探そうと考えながら、広場の方へと再び急いだ。
広場へ到着すると、訓練開始直前にも関わらず、兵たちが異様な雰囲気でざわついていた。
中央では人の塊ができている。
いつもは各々に散らばり準備を進めている時間のはずだ。
集団から少し離れた場所にいた兵が、アルスの存在に気づき、険しい顔で何かを訴えるような目配せをする。
「どうした? そろそろブライアンたちが来る頃だろう」
「ぶ……分隊長」
落ち着きのない雰囲気での会話が止まり、しんと静かになった。
各々が目配せをしたり、目を伏せたりと様子がおかしい。
「何があった?」
嫌な予感がした。
「その様子から推測するに、あなたはまだ把握されていませんね?」
下士官の一人が硬い表情を張り付かせたまま発した言葉が、耳の中で刺すように響く。
周りの兵たちの空気が明らかに気遣ってくるものであると同時に、責められているようにも感じ、逃げ出したい心地になった。
「分隊長、これ……」
弱々しい声で近づいてきたのはギルバートだった。
その様子に心臓を打つ音が大きくなる。
ギルバートは、皺の寄った大衆紙の一面を丁寧に広げアルスに渡してきた。
震える手を抑えて受け取ると、ギルバートが目を真っ赤に腫らした顔を俯かせて離れる。
ベルエジ近郊の海域内で起きたメルト独立運動の一派による補給船爆破事件。
第49次補給任務で護衛任務についていた第一近衛兵団から派遣の小隊が全滅。
その隊長は、現宰相であるレオポルド卿の次男である――
「――ジャックが……死んだ?」
アルスは震える手で新聞を握り締め、呆然としたまま立ち尽くした。
(ギブソンとブライアンはどこだ? この件で何か動いているのか?)
アルスは苛立ち、周りを見渡す。
「分隊長……」
兵たちがアルスの言葉と反応を待っている。
この場にギブソンやブライアンがいない以上、兵団の管理者であるアルスの指示を待つのは当然のことだろう。
(俺は、今何をすべきなんだ? 何を言えば……?)
こういった状況に対処できるものこそ、ジャックだろうと思い浮かぶだなんて。
(一体どんな悪夢だ。どうして――……)
ついこの前までそばにいた人の死を唐突に知らされる経験など二度と御免だと思っていたのに。
何年も前、母の死を知らせてきた先生の表情が脳裏に蘇る。
(そう何度も経験してたまるか。なぜこんなことに)
固く握りしめた新聞に、じわりと指の傷から血が滲むのを他人事のように眺めたあと、アルスは口を開いた。
「たった今、事情を知った以上、俺から伝えられることは今はない。すまない」
アルスは顔を上げたが、兵たちの顔は見なかった。
「ギブソンたちがきたらその指示に従え。俺は俺なりに、まずは情報を集めてみる。とりあえず兵の任務は予定通りに。各隊長は兵の様子に気を配り、必要なら交代や休息を取らせてもかまわない。俺も含め、ジャックには散々世話になったんだ。皆動揺するのは当然だ。無理はするな。訓練については今日は個人に任せる」
アルスはなんとか必要な指示を出し切ると、逃げ出すようにその場を後にした。
涙を滲ませる兵を見続けるのは耐えられそうになかった。
アルスはリブラル城へ戻ると、すれ違った事務員の少年へ依頼し、各社の手に入るだけの新聞をかき集めさせた。
少年は部屋へと新聞を運び込んだ際、アルスを心配してハンカチを手渡そうとしたが、とっさにその手から目を逸らし、断った。
ここ数日溜め込んでいた新聞と、事務員の手配したものを広げ片っ端から読み漁る。
団員の持っていた大衆紙よりも幾分詳しくは書かれていたものの、内容はそう大差がなかった。
補給用の積荷を乗せた船が、リンデル北部の軍港ベルエジより出発し、その近海で爆発・沈没したこと。
声明は未だ出されていないものの、メルト独立運動を主導しているものたちの仕業であると断定されていること。
次男の死により、これまで態度を保留させていた宰相レオポルド卿も、ついには追加の軍の派遣に同意すると見られること。
ついこの間までこの部屋に立っていて、姿がありありと思い浮かぶ人間の死を告げる文字をアルスはうまく受け止められなかった。
別の人間を見下ろすように、現実感のないまま息をする自分を感じていた。
(思ったより冷静だな。涙も出ていない)
ジャックの行く末を案じ、心配した夜のほうがまだ悲しみもそばにあった。
「ギブソンたちと合流しよう。もっと詳しく何か知っているかもしれない」
そうつぶやいた、自分の声が震えていることにアルスはまだ気づいていなかった。




