第96話 絶対に壊れない橋
アルスの様子がおかしい。
ギブソンが、それに気づくのにさほど時間は要さなかった。
教練時の隊形の乱れ、指示の聞き漏らしに、所持品の不備や準備不足。
ついには、手持ちの書面の束を地面にばら撒いてしまったようだ。
隠しきれない苛立ちを堪え、引き結ぶ唇が震えている。
広場の砂塵を巻き上げる冷たい荒風に煽られ、紙が足元へとたどり着く。ギブソンはそれを拾い上げた。
顎髭をやれやれと撫で、隙間から吐いた息は白く舞う。
もはや、アルスを放置してなどいられなかった。
「アルス様、いったいどうされたのですか。今日は随分と注意が散漫なようです。そのようなご様子では、これからの遠征、周りの従軍から落伍し、はぐれてしまいますよ」
アルスは表情をさっと曇らせ、黙り込んだ。
ギブソンは、我慢しきれず口をついた自分の言葉の工夫のなさに、後悔を覚える。
とはいえ、事実は事実だ。命のかかる軍務は遊びでない。
ことこれから始まる遠征に至っては、アルス自身、過酷さを理解していたはずではなかったか。
甘やかしを許せる範囲も限度がある。
(まだ体力が戻っていないだけなのか、あるいは……)
アルスは先日より高熱で二日ほど寝込んでいた。
復帰の焦りかと想像したが、それにしても本人の気持ちがこの場にない気がする。
「隠し通せないほどの不調があるなら素直にお休みください。特にあなたは皆の前に立つ身分である以上、弱みや隙を見せてはいけません」
ギブソンは、アルスに無理をさせたくなかった。
説得を重ねる思いで続ける。
「あなたのお祖父さまなど、大戦期のどれほど苦しい時でも明るく振る舞っておられました。人の上に立つ存在が、与える影響というのはそれほど大きいのですから——」
「俺に祖父のような振る舞いを要求するな!」
アルスの叫びが、ギブソンの耳を貫く。
予想外の迫力で押されたギブソンは、顔をぎょっと強張らせて固まった。
「お前は昔から、俺に何を期待しているんだ! 俺の中に英雄を求めるのはやめろ。俺はお祖父様とは違うんだ。たかが血筋のみで、立派な人間になれると思うな!」
周りの兵たちのざわめきすら止まり、自分たちへ注目が集まっている。
戸惑いながらもギブソンは、その顔を見つめて真意を探る。
歯を食いしばり、地面を睨んだまま俯く姿とは、視線など合わない。
「わっ……!」
情けないギルバートの声が割り込む。荷に躓いたらしい。
じゃらじゃらと硬貨が流れ出すような音が、静寂を終わらせた。
「あ、すんません、邪魔して。ちょっと足が当たって、これ倒しちゃって……えと、今、予備の魔石仕分けしてて……すぐ拾います!」
気まずく言い訳を始めたギルバートにより、アルスとの間で張り詰めていた空気が途切れる。
アルスは、振り絞るようにギブソンへ伝えてきた。
「悪い。確かにお前のいうとおり、まだ本調子じゃないようだ。このまま過ごしても迷惑をかけるだけだし、今日はもう休ませてもらう。事務仕事はいくらかこちらに回せ。可能な範囲で進めておく」
返答を待たず館へと去るアルスの後ろ姿を、ギブソンは追いかけられなかった。
伸ばしかけた右手の行先を失い、そのまま近くの椅子にしおしおと座り込む。
「別にあの方と比べるつもりなどは、毛頭なかったんだが……」
しょんぼりと肩を落とすギブソンのそばに、人が集まってくる。
「え? 何どういうこと? 分隊長のじいちゃんってことは、前の王様ってこと?」
拾い終わった魔石の籠を抱えながら、ギルバートが疑問に首を傾げた。
調子外れに漏らす些細な問いに、周りは一気に脱力する。
ブライアンが、呆れながら説明した。
「違う。前王妃……アルス様の母君シャーロット様のご実家の方だ。グウェルフ大佐の名を聞いたことがないのか」
「え? あるある! なんか昔の人で、『絶対に壊れない』って言われてた、でっかい橋落として大戦終わらせた人だろ?」
ギブソンは、ギルバートの適当な発言を、正確に訂正する。
「『ドーゼン・バース橋の戦い』だ。……しかし昔の人か」
――ドーゼン・バース橋の戦い。
南の隣国ギニファの侵略戦争を決定的に挫いた戦いの名は、街の浮浪者ですら知るところであるだろう。
かつて、ギニファとの国境であるイズール河に架かる大きな橋があった。
大河を横切る橋の長さはもちろんのこと、驚くべきはその幅だ。
馬を全力で走らせても、その往路だけで十秒は掛かり、それほどに巨大な橋が国と国との間を陸地のように繋いでいた。
古代魔法文明の時代につくられたもので、ちょっとやそっとの攻撃では傷がつかないほど強固な代物であったという。
当然のことながら、要所として扱われたその場所は、先の大戦の中でも最終盤の激戦地となる。
ギルバートは、リンデル国内で知れ渡る戦いの話題に高揚した様子だ。
「絶対に壊れない橋を、一人で壊すなんてどうやったんだろうなあ」
ギブソンがすぐさま答える。
「強大な魔法を敵陣の中枢で発源させた自爆特攻だ。真偽は不明だが、三百人以上の兵たちとの魔力連携接続を維持し、単身乗り込んだといわれている」
「さ、三百……!? そんなんできるの?」
一人に魔力を集中させ、魔法の威力を上げる連携は当時から使われてきた。
ただし、通常は一人に対して五人までだ。
魔導部隊による砲としても、二十を超える連携すらほとんど例がない。
「信じがたいが、理論上は可能だ。もともと連携の手法を軍に浸透させたのもグウェルフ家であったし、魔法研究としては、ほかと一線を画す技術を持っていた。特殊な魔石を使用したのかもしれない」
説明しながら、ギブソンの心は暗く陰る。
ギブソンは、その戦場から遠く離れた山岳戦線に留められていた。
ドーゼン・バース橋の響きは、グウェルフ大佐を失った戦いとして、未だ忌々《いまいま》しく耳に痛いままなのだ。
先の大戦終結から三十年近く過ぎた。
当時はまだ若く、息をつく間も無く展開される戦闘に翻弄され、目の前のことで必死だった。
気がつけば、自分も随分と老いてしまった。
あの頃のことも知らずに生まれてきた世代にとっては、歴史に成り果てたことをまざまざと感じる。
平和に慣らされ、戦争の現実感もないままメルトへ旅立ったとして、この場に揃う兵たちにまともな戦いなど可能なのだろうか。




