幕間 ディレアとテッドの話Ⅲ
雨の朝、古びた教会の真下で倒れていた青年——テッドを、ディレアは連れ帰った。
目立った傷はなかったが、彼はひどい高熱にうなされていた。
一体何があったのか。
ディレアに対する金払いは悪くなかった。
その身なりからしても、まさか安宿にすら泊まれないほど貧しい人間ではないだろう。
急な病気で倒れ込み、屋根のある場所まで辿り着かなかっただけなのか。
ディレアは酒場の二階で、廊下の窓を見つめたまま、淡く息を吐いた。
目の前で曇る硝子を、音もなく濡らす細雨は、そろそろ止むだろうか。
背後で扉が開き、はっと振り向く。
呼びつけていたドクターが、テッドを寝かせている部屋から出てきた。
ドクターはディレアの反応に驚き、眼鏡の奥の目を見開いた。
表情はすぐに落ち着き、無精髭に囲まれた口元がにやりと引き上げられる。
「僕は、彼にあまり関わらないほうがいいと思うなぁ」
「……ここまで関わった後に、そんな忠告意味あるの?」
冷静に言い返したディレアだったが、態度に出る胸中は隠しきれない。
ドクターの視線に耐えきれず、顔を背けた。
「ま、とりあえずさぁ、寝かしておけばいいよ。深刻な感染症の類じゃなさそうだし、ただの風邪として扱えばいい」
階段を降り始めたドクターを、ディレアは慌てて追いかける。
「ね、ねえ。薬とか食事とか、どうしたらいいの?」
「君の自己満足にしかならないから、好きにすればいいよ」
ドクターは振り向かず、掲げた右手をひらひらと払う。
「どうせ、しぶとく生きるやつは生きるし、死ぬときはあっけない」
しばらくすると、テッドは目を覚ました。
驚きながらも、ディレアへ感謝の言葉を述べた彼の回復に、時間はそうかからなかった。
ドクターの言うように、放置していても問題なかったのかもしれない。
ふと話を聞けば、行くところもなく、新たに王都で滞在する居所を探すという。
ディレアは、この部屋をしばらく使うといいと提案した。
自分だって帰る場所を失った時、他人に拾われ、しばらくその家に住んだ。
だから他人を住まわせる考えが浮かぶのも、当然なはずだ。
テッド自身困っていたのは確かなようで、少し悩んだ後、素直に受け入れた。
ディレアは、倒れていた日のことについて深く聞かなかった。
テッドも、以降は情報屋としてディレアを使わなかった。
彼の穏やかな声も。
さりげなく向けられる優しさも。
自由な振る舞いも。
何もかも居心地が良かった。
一日の始まりが楽しくなった。
何事もない平和な日々に浮かれていた。
捨てたはずの過去が訪れるまでは。
* * *
早朝に帰ってきてからこの夜まで、テッドは自室に篭り、階下へ降りてこなかった。
ラウロアたちから救い出してくれたのは、昨晩のことだ。テッドには、特に迷惑をかけたと思う。
ディレアは、食事の盆を抱え、テッドの部屋の戸を叩いた。
扉越しに人の気配を感じる間、ふわふわと実感のない安堵が心に巡る。
昨日の記憶が呼び起こされ、ディレアは恥ずかしさに顔が熱くなった。
思い返せば、抱き上げられていた時など、水面を歩いていたというから、とんでもない経験をしたものだ。
現れたテッドは、上着などは羽織らず、シャツだけの簡素な格好だった。
あくびを噛み殺す様子から、ずっと寝ていたのかもしれない。
薄着の姿を見かけるのが、初めてというわけではないはずなのに、急に緊張が押し寄せる。
「ああ、ありがとう。お腹空いてたんだ」
食事を受け取り、下がろうとしたテッドを、ディレアは呼び止めた。
「あの、さ……」
離れる寂しさに呑まれただけだ。
続く言葉が浮かばず、漂う静寂を壊せない。
テッドが心配そうに首を傾げ、ディレアの顔を窺い覗き込んだ。
「色々あったしね」
考える仕草とともに、テッドが柔和に笑いかける。
気楽な調子でディレアを部屋の中へと誘ってきた。
「話し相手が欲しいなら、今から一緒に飲む?」
* * *
酒など弱くないし、大した量は呑んでいない。
他愛もない雑談から、なぜ打ち明けることになったのか。
ディレアは椅子を借り、寝台に腰掛けるテッドと向き合った状況で、ぽろぽろとこぼす。
「あたし、さ。子ども産めないの。昔無茶苦茶な生き方してて。その時の影響で、もうダメなんだって」
深刻に同情されるかと思えば、朗らかなほどに軽快な口調が返ってくる。
「奇遇だね。……オレも、子ども作れないんだ」
「え……? それって、不能——」
「ディレア、女の子がそういうこと言わない」
テッドがさらりと嗜める。
この男、案外こういうことに口煩い。
ディレア自身、数年前まで置かれていた環境のせいで、露骨な情話を吐く文化に慣れすぎた自覚はあるのだが。
「子どもが作れないっていうか、なんていうのかな」
やれやれと、困ったように頭をかき、テッドは続けた。
「生まれてくる子ども、不幸にしちゃうからさ」
テッドの諦観が漂う微笑。
踏み込ませない。割り切っている。
気にしていない。
全て自分自身で完結させ終わった感情だ。
「……なにそれ」
声が冷えたまま、露出した。
テッドは、ディレアの変化に気圧され口を噤む。
ディレアは立ち上がり、テッドへ近づいていく。
「前から思ってた。あんたなんなの? 平気そうに振る舞っておきながら、この世の不幸背負ってます、みたいな顔をたまにする」
他人の在り方を決め、勝手に罪や負担を背負う選択に動く。
これを美談とするなど、とんでもない。
人と向き合うのを避け、逃げているだけだ。
「子どもが不幸になるってなに? あんた自身のことじゃないのになんで決めつけるの。そういうの一番腹が立つ!」
膨れ上がる思いが抑えられない。抑えたくない。
「あたしは!! あたしは——」
たとえ胸を抉りたくなるほど苦しんでも、進まなかった後悔はしない。
薄暗い室内でも、はっきりと確認できた。
翡翠色の瞳孔が震え揺らいでいる。
それを認めた途端、ディレアの目の前の景色が滲み出す。
余裕そうに振る舞う彼だって、一人の人間だった。
たまらなく愛しいと思うと同時に、自分の目から涙が溢れた。
* * *
蝋燭の炎が隙間風に揺れ、燻る煤は微かに鼻をつく。
それを認識する裏で、テッドの頭の中に忠告がちらついた。
(ああ、これは、きっと良くない)
ディレアの頬に伝う雫へと腕を伸ばし、指で拭う。
瞬間、視線が交錯し繋がった。
動揺に露呈した感情が、自分を映す瞳の奥に取り込まれる。
ゆっくりと寄せられる距離を、テッドは拒否できなかった。
止めたはずの吐息が漏れ、求めるように彼女の唇を撫でる。
テッドはそれでも、動かないままだった。
相手を受容するだけならば、許されるかもしれない。
一つ一つ崩れるように、狡い自分が流されていく。
——触れたのは、ただ一度。
初めの温度を感じるより早く、再びを欲し、嚥下に喉が鳴る。
渇望する心が、言い訳を探す行為など、どれほど浅はかなことか知っているというのに。
目の前の体を抱え込みそうになる腕は、下ろしたまま耐えていた。
これ以上進めばきっと、歯止めが効かなくなる。
「あたしは……あたしは、あんたにも幸せになってほしいと思ってるの!」
言葉に、衝動が解放される。
それは最悪だった。
あるべき姿より、自分の欲を優先することを肯定するだなんて。
抱き留めた体は、少しだけ震えていた。
肩に埋もれる頭を撫で、滑らかに指が通る長い髪を、蝋燭の炎に翳す。
心にもない台詞を吐こうとしている自覚はあったが、それでいいと思う。
静かに刺す胸の痛みは、自分にも残る善良さの証であるかもしれない。
「——ありがとう」
〈ディレアとテッドの話 完〉
カクヨム版に追いついてきたので、以降更新ペースが週一回か二回ほどの不定期になります
よろしくおねがいします




