幕間 ディレアとテッドの話Ⅱ
皆が、各々の役割を思い出したように戻っていく。
その中心で、ディレアは未だぼんやりと立ち尽くしていた。
簡易裁判として神官の前に引きずり出されることも覚悟していたので、これほど平和的に、いつもの日曜日が再開されるとは思っていなかった。
気づけば酔っ払いも子供もどこかに消えている。
(とりあえず、行っても大丈夫かな……?)
改めて両手で荷物を抱え直していると、
「え……⁉︎」
背に衝撃が走った。
とび跳ねた林檎へ腕を伸ばすが、虚しく空を切る。
手をつき身体を支えたものの、膝を擦った痛みが、じんとひりつき始めた。
下衆な笑いと共に遠ざかる警官の足元を、視界の端に掴んだが、ディレアは座り込んだまま顔を上げられなかった。
(油断した……)
地面の土を掻き握る中、噛み締めた奥歯の鈍痛が頭に響く。
いくら、ならず者の温床である王都警察であろうと、明確な悪意を持って一市民を突き飛ばすなど、あまりに——
「性根が腐ってるね。そこのフルーディ川の溝ですらマシに浄化されてきたのに。さすが王都警察……とまでは言い過ぎか。凶悪犯を追い詰めたりと真面目に頑張ってる人もいたみたいだし」
自分の考え以上に、毒のある台詞が重ねられ、鬱屈した憤りが鎮まってしまった。
ディレアは、顔を上げた。
「大丈夫?」
後方に背負う陽の光と同じく、その笑顔はとても柔らかい。
青年は足元に転がっていた林檎を拾うと差し出してきた。
「あ、ありがとう……」
ディレアは受け取ろうとした。が、彼の腕はすっとひかれる。
「おっと、こっちじゃないね」
「——!?」
青年は林檎を持つ手を空け、再びディレアの指先へと伸ばす。
ディレアが遠慮がちにそれを掴むと、彼は引っ張り上げ、立たせてくれた。
この青年、華奢に見える体つきに反して、思いの外力は強い。
急に接近した青年との距離に、ディレアはどきりと鼓動が鳴る。
馬鹿みたいだ。
夢に憧れる少女の時代は遠くへ捨ててきたはずだった。
「あの……何で助けてくれたの?」
関係ない人間なのに、という言葉をディレアは飲み込んだ。
「何でだろうね。つい癖かな。気にしなくていいよ。ああ、でもせっかくだから一つ教えてほしい。この辺に酒場があるって聞いたんだけど、どこか知ってる? さっきから探してるんだけどなかなか見つけられなくて」
「……えっと、うちかな。あとすぐそこなんだけど」
今いる場所から、二軒隣だった。
青年は、目を丸くしたまましばらく固まった。
「……うん、近かったね」
「吊り看板を新しく描き換えてもらってる途中なの。わかりづらくてごめんなさい」
居心地悪く眉を下げたディレアに、青年は明るく依頼する。
「じゃあ、とりあえず案内よろしく!」
「すぐそこなのに?」
「オレはもう、方向音痴の自分が信じられないんだよ」
青年は首を振り、飄々とした口調で肩をすくめて腕を広げる。
その仕草に、ディレアは我慢しきれず声ごと笑みが漏れた。
——とはいえ、だ。
興味を惹かれると同時に、冷静な思考が警戒を通達する。
ディレアの酒場は、それを目指して訪れるような評判の店というわけではない。
むしろ、客もまばらな落ち着いた店とも言える。
その中でわざわざ訪ねてくるということは。
(訳ありってことかな)
ディレアの、もう一つの仕事を目的としている可能性が高い。
情報屋に接触してくる人間など、背景の後ろ暗い者も多く、安易に信用するのは危険だった。
青年を店へ案内すると、ディレアはカウンター越しに率直に切り込む。
「で? 貴方何飲むの?」
今はまだ開店前だ。
例外的に開けただけで、周りに人はいない。
ここからは、ディレアも一端の専門家としての矜持がある。
余裕のある態度で構え、青年の反応を待った。
「珍しいお酒が飲めると紹介されてここに来たんだけど」
「どんな?」
「リンデルからレグリッドの教団を経由し、マフィラスへ送られる特別な蒸留酒。そのおこぼれをここで売ってくれると聞いた」
「そう。でも、支払いが先よ」
青年は黙って、カウンター上に一枚の金貨を置いた。
ディレアはそれを手にすると、物陰に隠れる膝元で、小さな針を刺す。
指を滑らせ、開いた硬貨のなかに書かれていた印を一瞬で確認すると、頷く。
「名前は?」
「テッド。テッド・ブラックストン」
「そう、よろしくテッド。あたしはディレア。本来は奥の部屋に誘導するんだけど、誰も来ないからいいでしょう。で、何が知りたいの?」
* * *
一週間後、前回の別れ際に約束した通り、テッドは再び店へとやってきた。
既に人払いは済んでいる。
「ありがとう。仕事が早くて正確だね。紹介者の評判通りだよ」
テッドは、前金からの追加の代金をカウンターに積み上げた。
内容の把握が終わったらしく、広げていた大判の紙をくるくると丸め、帰り支度を始めている。
その穏やかで自然な彼の相貌を眺めていたディレアは、あえて駆け引きを考えずに率直に尋ねた。
「ねえ、これを手に入れて何する気?」
テッドは、意外そうにこちらを見た。
ディレア自身、自覚はあった。無配慮に事情へ首を突っ込むのはあまり行儀がいいことではない。
幸いテッドの気分を害しはしなかったようだが、ディレアは言い訳のように説明した。
「なんか普通そうな人だなと思って。大体は個人の仕事というより、背後に抱える組織の意図が透けて見えるんだけど。貴方にはそういう気配が感じられなくて。ごめんなさい、ただの雑談よ」
「……どうしても、やらなきゃいけないことがあってね」
ふっとテッドの表情が、真顔に沈む。
暖炉に逸らされた翡翠の瞳の奥で、揺らぐ炎がちらついた。
まるで平凡と判断していた青年の影を垣間見た気がして、ディレアの呼吸が止まる。
テッドはすぐに振り向いた。
こちらへ爽やかに笑いかけて饒舌に続ける。
「個人で石狩人をしながら、魔法について研究しているんだ。他の情報と照らし合わせて分析したかったんだけど、大学や軍に所属しているわけでもないとなると、こういったものも機密扱いで手に入りにくいでしょ? 困っていたら、こういう手段を紹介してくれた人がいて。まあ、興味本位に近いよ」
青年はとても親しみやすく、警戒を緩める雰囲気を作るのがうまかった。
反面、踏み込ませる隙は譲らず、闇を隠し慣れている人間の特有の香りを漂わせていた。




