幕間 ディレアとテッドの話I
王都ログスティリア西部、ウェストボーン。
世界でも有数の、人口過密都市の中心部から溢れた人間が住む街だ。
表の小綺麗な街並みの裏では、再開発前の寂れた鬱屈とした雰囲気が漂っている。
深く足を踏み入れると、王都有数のスラムとして悪名高い西の果てもある。
春先とはいえ、まだ凍えるほどの冷たさが残る風に煽られる朝。
黄みがかった煙霧が流されてくるこの地には、雨が降っていた。
ディレアは、ドクターを訪ねたその帰りだった。
「彼」の姿は、行きにはなかったと思う。
大きな道ではないものの、人通りもいくらかある場所であるし、夜間に道端で寝るなど王都警察の取り締まりの対象だ。
ディレアは傘を背後に傾け、黒ずんだ汚れが垂れ下がる外壁を見上げた。
ここは朽ち果てた教会だ。
再び視線を戻して見つめる先には、座り込んだまま俯き、壁に寄りかかる一人の青年がいた。
彼のことは見覚えがある。
――生きているのだろうか。
安酒に飲まれて酔い潰れたというよりは、力尽きた様子だった。
数日前に会話した限りでは、健康そうだった。
大きな傷も見当たらない以上、感染症かもしれない。
生死を確かめるためだとしても、接触は避けるべきだ。
だが、彼の綺麗な顔がこのまま雨に打たれ続けるのは、あまりに不憫だと思った。
せめて傘だけでも置いていこうかと、ディレアは足を踏み出し近付く。
急に覆った影へ反応したのだろうか。
ゆっくりと彼の瞼が開き、視線の揺れる翡翠色の瞳と目が合った。
「……ろ……って」
朦朧と呟かれた青年の言葉は正確に聞き取れなかった。
違うのは、はっきりとわかっていた。
余計なお世話なのかもしれない。
――けれども。
ディレアは、助けを求められたのだと、そう勝手に解釈することにした。
この世は、理想とまるでかけ離れた地獄だ。
厳しさも裏切りも散々見てきた。
青年だって、いい人間かどうかもわからない。
訳ありであることも十分察していた。
それでも彼は、初めて会った時、ディレアのことを助けてくれた。
これは、怒りに近いほどの反骨心だ。
無関係の人間を助けられる者が、放置される世界になど、従属してたまるかと思ったのだ。
* * *
ドクターの誘いに乗り、非合法の組織を抜け、王都ログスティリアに来てからしばらく経った。
ディレアは弟のクロードと共に、この都市の片隅で小さな酒場を持ち、働いていた。
日曜日の昼下がり。
世間はせっかくの安息日であるものの、この晩、店を開けるために今から準備を始めなればならない。
しかし、ディレアは浮かれるような幸福感を携え、とても機嫌が良かった。
袋いっぱいに詰め込まれた林檎を抱えながら家路を急いでいた。
(アップルパイを作ろう。それでも余るかもしれない)
もらった林檎は、この地区の世話役であるウィルソン夫妻からもらったものだ。
午前中、急遽親類の家に向かわねばならなくなったというウィルソン夫妻の代わりに、子供達の面倒をみた礼だった。
夫妻は、小学校教員の助手の経験をもつディレアのことを知り、信頼して託してくれた。
ディレア達はこの地では新入りだ。
地域に馴染もうと、集まりに顔を出したり、進んで困りごとや雑務は引き受けていた。
夫妻と子供達は、今日のディレアにとても満足してくれた。
一応、礼は断った。
元々無償の行為であったのだから。
だが、気の済まなかった夫人が、袋がはち切れそうなほどいくつもの林檎を押し込み、ディレアへ渡してきた。
その姿を見て、ディレアは慌ててながらも笑ってしまった。
世の中に期待などしていないが、全ての人が敵なわけではない。
皆、一人で生きてはいけないことをわかっている。
厳しさの蔓延する、息苦しい世界だ。
それだけに、ささやかな好意や気配りに触れる瞬間が、とても嬉しい。
余裕のない生活を抱える中でも、助け合いの精神は確かにある。
「――っと! なによ、あっぶない!」
恐ろしい勢いで軽馬車が去っていった。
道の端を歩いていたはずだが、ぶつかりそうになるほどの恐怖に晒され、ディレアはむっと憤慨する。
この日曜日にそれほど急いで何を運ぶというのか。
御者として手綱を握ることそのものが仕事である辻馬車はともかく、商人が扱う軽馬車は運転が荒い。
「父ちゃん、起きて!」
声のする方を向くと、道の真ん中で仰向けに横たわる男がいた。
側には、まだ言葉の辿々《たどたど》しさすら残る年齢の少年が、父親を必死に起こそうとしている。
それを手で鬱陶しそうに払いのける男の赤ら顔を見るに、どうやらこの父親は酒に酔った結果、路上で寝てしまったらしい。
大きな道ではないが、ここは馬車の通りも案外多い。
このまま放置すれば、ひかれてしまう。
ディレアは、先ほど過ぎた馬車の勢いと、以前馬に蹴られて死んでしまった友の姿を思い出し、ぞっと震える。
女性や子供の稼ぎなど、たかが知れている。
一家の家計を支えるであろう父親が働けなくなれば、家族丸ごとどうなることか。
ディレアは、すぐさま少年に加勢した。
「ちょっと、貴方起きて! 早く立って!」
これほどの泥酔となれば、一体どれほど飲み続けたのか。
ディレアは、少年と協力し、なんとか男を道の端に引き摺った。
ひとまずは、解決だろう。
ほっと安堵し、地面に放り出していた荷物を抱え直す。
「金がない!」
いつのまにかむくりと起き上がっていた男が、再び歩き始めたディレアの背後で叫んだ。
「財布の中身がない。お前、俺の金を取ったな!」
男は、周囲に空の財布を示して、呂律の怪しい濁声を轟かせる。
振り返ったディレアの表情は、その剣幕に凍りついてしまう。
「とってません!」
まともに会話が通じない。
否定しながら宥める足元には、おろおろとするばかりの少年もいる。
人が集まってきたものの、遠巻きに見られるだけで、加勢してくれるものはいない。
困り果てるディレアの元にやってきたのは一人の王都警察だった。
警官がディレアに向けてきた視線で、緊張感がさらに増す。
彼は決して味方にならないことが一瞬でわかってしまった。
王都警察など、所詮はその辺のごろつきと変わらないのだ。
品性の欠片も持ち合わせていなさそうな髭面の警官は、ディレアが端的に始めた説明を不遜な態度で遮った。
酔っ払いの不確かで碌でもない話を頷いて聞く。
最後に少年を見下ろし、警官は口を開いた。
「お前は見ていただろう。女は盗ったのか? どっちだ」
少年は父親と警官を順に見あげて、泣きそうに顔を歪ませた。
「わ、わかんない……」
少年は、か細い声をなんとか発して俯く。
直後、頭上で響いた父親の舌打ちにびくりとして、慌てて一言付け加えた。
「……盗ったのかもしれない」
ディレアは、吐く息が重くなるのを感じた。
がっかりはしたが、少年を責めきれない。
彼の姿は一目見た時から痛々しかった。
この寒さを凌ぐには薄着であるし、肉付きは明らかに悪い。
日常的に空腹なのだろう。父親に逆らえないのがよくわかる。
警官は勝ち誇ったように鼻を鳴らして、ディレアへ短い警棒を突きつける。
「犯罪を犯すのは決まってメルト人だ」
ディレアの赤みがかった髪の毛を見て、はっきりと言い切った。
――メルト人ではない。
そう叫びたくなる気持ちをディレアは堪えた。
生まれてこの方、メルトの地を踏んだこともない。
だが、それが問題ではないのだ。
自身の父親の顔が脳裏に浮かぶ。ディレアの父親は昔、移民船に乗ってこの国へとやってきた。
由来として持ち合わせているのも事実だった。
リンデルの人間ではないと見なされるのも悔しかったが、メルトの存在を犠牲にして身を守ることも耐え難い。
言い返せないディレアの葛藤を前にして、憎たらしいほどに警官はにやついた。
「――彼女じゃないよ」
若い男の声が割り込んだ。
「考えてもみなよ。盗むなら財布ごと奪って逃げればいい。なんで中身だけ取ってそれを戻すわけ? しかもわざわざ轢かれそうになっているのを助けてる」
第三者からの冷静な指摘に、空気が変わる。
ディレアすらその理不尽さを、正確に理解していなかった。
「昨日は土曜日の夜だったね」
割れた人混みの中で、注目を集める青年の言葉は、心地よいほど爽やかによく通る。
ディレアは、青年が何を言いたいかを察した。
土曜の夜は一般的に、酒場にて労働者が雇い主から賃金の支払いを受ける日だ。
「それだけ酔ってるなら、どうせ週の給金を、酒場で全て飲みに使い果たしたんじゃないの? 甲斐性のない男によくある話だ」
「想像で決めつけやがって」
「へえ、想像で話してもいいのかと思ってた。そっちこそ根拠もなく話を膨らませていたようだったから」
穏やかな口調の割に、青年の言葉は辛辣だ。
一変した場の後押しとして、ディレアを助ける別の声が、遠慮がちに追加された。
「その娘、最近来た娘だけど、ウィルソンさんが面倒見てた娘だよ。いろいろ手伝ってくれるいい子だって褒めてた。だから……」
街の顔役と懇意にしていると知らされ、警官は歯を食いしばり黙りこんだ。
与えられた権威を振りかざす警官としても、敵に回してはならない人間はいる。
結局警官は、全て解決したとばかりに有耶無耶に誤魔化すと、集まった人々を追い払い始めた。




