番外編 ジャックの魔法の瓶と紅茶
――紅茶の淹れ方を教えて欲しい。
ジャックが第六近衛を離れる二日前。
朝に交わす会話で「今のうちに聞いておきたいことはないか」と尋ねられ、アルスが思いついたのはこの言葉だった。
呆れられるか、覚える必要などないと断られるか。
発言したものの少し不安になるアルスだったが、ぽかんと固まっていた表情のジャックの顔は穏やかな微笑に変わる。
では午後に、と、いつもの調子で去るジャックの後ろ姿はそろそろ見納めか。
閉められた重厚な木製の扉は、窓から入射する冬の心許ない朝日に照らされ白く輝いていた。
午後、私室に立派な銀のスタンド付きケトルと茶葉が持ち込まれた。
丁寧に要点の整理された手順書の紙が提示される。
お手本のように達筆で、一目で見慣れたジャックの文字だと分かった。
その内容を見ながら、説明を受け、早速指輪状の魔石で火をつけ、湯を沸かす。
「そんなに恐る恐るしなくても。ちょっと失敗したくらいで爆発するわけじゃないんですから」
アルスの反応の何かがツボにはまったらしく、目の前の男はげらげらと笑いだす。
アルスも性格が慎重なだけで、要領が悪いわけではない。
二度三度と試し、紙を確認しながらであるが、納得する作業はできるようになった。
「さすがですね。香りもきちんとたってますし、美味しいです」
「お前の淹れる味には程遠そうだが」
「待ってください、貴方何目指してるんですか。俺、結構色々長くやってきてるのに、一日で完璧なもの再現されたらたまらないですよ」
ジャックが淹れる毎日の紅茶はとてもおいしかった。
アルス自身、本来こだわりがなかった。
それでも、彼の一杯がなくなるのは惜しいと思ったから教えを乞うたのであって、それが結局得られないというのは残念でしかない。
そのことを伝えると、ジャックは困ったように悩み、首元に片手あてる。
考えをまとめる際の癖なのか、小さく頬を膨らませたのち、ふっと息を吐くと、用具をまとめた箱から一つの空き瓶を机に取り出した。
「これ、魔法の瓶です」
「は?」
「お湯を沸かす前、これに水を入れてしばらく振ってください。この手順の後火をつけると、美味しくなるんです。内緒ですよ」
ジャックの顔は笑っている。だが、それは決してアルスを揶揄う意図があるようには見えなかった。
詳しい説明もなく、魔法の瓶で押し切られてしまい、手順の紙へ文字が足されて終わった。
* * *
いくら夏でも朝は冷える。
暖炉までは必要としなかったが、できれば暖かい紅茶が欲しい。
甘いものはさほど好みではないものの、あまり食欲が湧く方ではないから、そういう時は砂糖で力を足す考えもある。
今日は、時間に余裕があった。
ロイの持ってくる紅茶は、ジャックのものに近い味はしたが、細かい融通を聞かせられるわけではない。
アルスは、呼び鈴を鳴らし、使用人に紅茶を入れる用品の準備を頼んだ。
本日は何人かの使用人が出払っているようで、あまり見覚えのない女性の若いメイドがやってきた。
運ばれてきた一式は、小柄な女性が持ち運ぶにはかさばり、自分の唐突なわがままに反省する。
アルスも立場上、手を出すにも出しきれず、見守っていたが、それも良くなかった。
ついに絨毯につまづいた彼女は、ほとんどのものを守り切ったものの、飛び出した瓶は無常にも破砕する。
動揺と謝罪に忙しい彼女を宥め、怪我はないか確認して、人が来る前にとすぐに片付けさせた。
本当に余計なことをした。
彼女が怒られるようなことになるのを想像するとたまらない。
咎められそうな時は自分が壊したのだと言い訳するようにと必死にいい含めて、事態の収集をはかった。
全てが終わり、椅子に座ると改めて思う。
――余計なことをした。
もうこの瓶の魔法の正体なんて、誰に聞くこともできないというのに。
* * *
「紅茶の淹れ方、ですか?」
女主人として、お茶会を取り仕切ることもあるユーフェミアは、優雅な仕草でアルスのカップへ紅茶を注ぎ込む。
「私はメリッサの準備に頼っているだけですので」
ユーフェミアが困ったように小首を傾げ、背後に控える家政婦長に視線を送る。
「以前、紅茶の淹れ方を……その、ジャックに教わったんだ。だが、言われた手順で淹れても、味が薄くて香りがあまりない気がして」
ユーフェミアに促され、メリッサが近くに寄ってきた。
「手順はどういったものでしょうか」
アルスは、ジャックが残した紙を渡した。
「この魔法の瓶と書かれているものを最近無くしてしまったんだ。元々、この魔法の瓶の手順はなかった。だから、これがなくてもうまくいくと思った」
「魔法の瓶、ですか」
メリッサの眼鏡の奥の瞳が細まり、アルスの緊張が高まる。
魔法の瓶などやはり馬鹿馬鹿しいものだろう。
静かに黙り込む彼女の反応を待つまでの居心地の悪さが胃に痛い。
「――おそらく。水が悪いのでしょう」
「水……? 館で飲み水として使われているものを準備してもらっているだけで、特別なものを要求した覚えはない」
アルスの話を否定しないまま頷き、メリッサが淡々と説明を続ける。
「紅茶の香りと味に問題があるというのであれば、茶葉から十分に抽出されていないということです。温度が足りずに茶葉が開き切っていないか、もしくは正しく踊っていないか」
「踊る……」
「こちらの手順を正確に行う限り、温度が足りないということはないでしょう。つまり——汲み置きの水を使ってしまったのではないでしょうか。紅茶を正しく踊らせるには汲みたての水が必要です。湯の中に空気が含まれなければなりませんから」
アルスはユーフェミアと顔を見合わせた。
「なるほど、そういうことですね。魔法の瓶の意味」
ユーフェミアが呟くと同時にアルスも悟った。
「瓶に入れてしばらく振ることによって、汲み置きの水へ空気を強制的に含ませたってことか」
メリッサが、珍しく微笑をみせて頷く。
「賢いですね。レオポルドさんは。私も彼から質問攻めにあい、たびたび面倒を見ましたが随分と要領のいい方でした。忙しい時間帯などに、効率的に――それでも美味しく紅茶を淹れようとそういった手法を取られていたのでしょう」
「……瓶は、なんでも良かったんだな。あいつ、勿体ぶった言い方をするから。振り回されたよ、全く」
眉間に手を当てアルスは俯いた。
しばらくそのまま、会話はなくなった。
ユーフェミアがゆったりと紅茶を飲むなか、茶器がかすかに触れる音と窓の外からはいる水鳥の声が静かに混じり合う。
「――お兄様。もし良かったら、お代わりの紅茶はお兄様が淹れてくれませんか?」
「……いいのか? 俺が淹れる時は魔法の瓶がなきゃ、まともな味にならない」
「メリッサが新しく魔法をかけたものを準備しますよ。……ねえ?」
アルスはようやく顔を上げた。
ユーフェミアと目を合わせるのを避け、背後の家政婦長が部屋の外へと抜け出す姿を黙って見送った。




