第93話 夢の終着地
「無礼であることは重々承知しております。ですが、少々お話を聞いていただきたく。一応ちょっとした土産話を持参してきました。そうですね、こういうのはどうです?」
マシュー・レイヴィーは柔らかく笑った。
場を支配する彼を、止める術などアルスにはなかった。
「殿下が管理されている第六近衛兵団。こちらの運営費がグウェルフ家から出ていることをご存知ですよね。しかし不思議なことに、グウェルフ家から出資されている費用と、王家を通して第六近衛兵団に配分されている費用には大きく開きがある。随分とご苦労なさってるでしょう。部隊規模からすると明らかに少ないですもんね」
寄越してきた情報は、理解すべき重要なものである気がした。
妙に冷え込む頭で思考が巡りだす。
しかし、それを何かが堰き止める。
今、考えてはいけない。顔色を変えてはいけない。
ただただ疑問が駆け抜ける。
一体何が起きているのか。
自分は何を語られたのか。
出せる声もなく、周りの反応を見渡すのが怖い。
(否定をしなければ。――何を?)
「いやいやいや、何の冗談? 何だよ、ガルブレイス。なんなんだあんた。マシュー・レイヴィーって、南部の反乱軍の?」
クロードが半笑いで割り込む。
ガルブレイスは、クロードを一瞬見ただけで答えなかった。
「そんな奴が、あんたと王都に現れるってありえねえだろ」
辺りがしんと静かになる中、クロードの声が虚しく響く。
「なんで黙ってんだよ。それに、何? こいつ……アルスが、王子? そりゃちょっと浮世離れしたとこがあって変なやつだけど、そもそもそんな王子なんていたか? なあ、何真剣になってんだよ。なんだよ、冗談なんだろ? わかんねえ」
空気が重い。
それが、まるでこれまでの話が事実だと言われているように感じたのか、クロードがますます焦り出す。
「……お、おい? おい、お前らみんな早く否定しろよ!」
「お前こそ知らなかったのか?」
「へ?」
ガルブレイスは、調子外れに呆けた返事をするクロードを無視して、ディレアへ矛先を変える。
「ディレア……お前、本当に知らなかったのか?」
ディレアの表情がはっと揺れる。
視線泳がせ、不自然な動揺を見せたディレアは、果たして実際に何かを知っていたのか。
アルスにはわからなかった。
「気が急いてしまい、つい前のめりに会話を始めたことは謝罪します。しかし――」
「おい、待てよ、話進めんな。俺の質問は誰が答えてくれんだよ」
強引に語り続けるレイヴィーを遮り、クロードがアルスに詰め寄った。
「なあ、アルス!」
瞳孔のくっきりと現れる蒼の瞳が、アルスをまっすぐに見据えてくる。
「これは冗談か? 王子って」
傷ついたように訴えかけるクロードの顔を、アルスは見ていられなかった。
「お前、これまで俺の話聞いてきて、なんだと思ってたんだ。俺たちは国に捨てられた。みんな何もしてくれなかった。あのヴィルワース親子を増長させ、支援し続けたのが王家だろ? お前ずっと俺たちを裏切ってたっていうのか!」
違う。それだけは確かだというのに。
何を口にしていいかわからなかった。
畳み掛けられる声に、自分の言葉が死んでいく。
「なんか言えよ!」
「クロード、やめなさい!」
喚き散らすクロードを、ディレアが抑えに入る。
――どん、と鈍い音が響いた。
テッドがゆらりと立ち上がっていた。
窓際の壁を強く叩いた構えのまま、テッドは、レイヴィーの方を睨んでいた。
軽蔑の情を込めたような冷たい眼差しを湛えて、吐き捨てる。
「気に食わないね」
テッドは少し間を置き、穏やかな微笑という完璧な表情を作った。
ただし目だけは笑っていない。
「閣下。悪戯なら悪質、そうでないなら無作法すぎるのではありませんか」
流れるように喋り出したテッドの会話は、いつもよりも洗練されていた。
「敵対する立場である王族に対して、南部の長がこの王都にて不意に接触をかけてくるだなんて、どれほどに危険を伴うことなのか。果たして閣下に責任は取れるのでしょうか?」
口調に反して、内容は明らかに攻撃的だ。
だが、レイヴィーは怯まなかった。
「とってやらなきゃいけない人民を、たくさん抱えてるから、今ここにいる」
気分を害した様子もなく、テッドへ悠然と微笑み返す。
「手段を選ぶ余裕がなかったことは認めます。ただ、こちらとしてもできる範囲で尊重の意思はありますし――」
「話にならない。こっちはあんたの演説を聞く義理なんてないんだ」
テッドは、鬱陶しそうにレイヴィーの発言を止めさせた。
先ほどまで向けていたはずの形ばかりの敬意など、即座に捨て去っている。
人と椅子を押し除け、テッドがアルスへ近づいてきた。
「――っ!」
左腕が、乱暴に引き寄せられる。
呆然と頭がぐらつき、アルスは思わぬ至近距離で、テッドの顔を見た。
「行くよ!」
アルスに判断をする間などなかった。
その身は一瞬にして、雨で騒がしい闇へと放りだされる。
テッドは、よろよろと足取りの鈍いアルスに苛立ったようで、両肩を抱き、強く揺さぶる。
「この状況がまずいことはわかるだろ! 急いで!」
ぽつりぽつりと点在する街灯と、家々から漏れる弱い光りを頼りに、ずぶ濡れになりながら、訳もわからず走り始めた。
ぬかるむ水たまりを踏み抜き、泥が高く跳ねるが、構うことではない。
残像のように焼き付く、翡翠色の瞳の感情は誰への怒りか。
何度か掛けられた余裕のない声も、テッドらしくないほどに厳しかった。
助けられていることはわかる。
それでも、今のアルスにとって、萎縮するほど心が凍えてしまうものだった。
先ほどまでの出来事が、繰り返し脳裏に湧き出してくる。
背を追うおかげで、テッドに自分の顔を見られないことは大きな救いだった。
しばらくして遠目に映った場所は、降りしきる雨とガス灯越しに浮かぶ、いつもの連棟式住居だった。
たどり着いてしまえば、そこが、この数ヶ月過ごしてきた夢の世界の終着地な気がした。
名残惜しさに、足の重さが増していく。
馬鹿げていると思った。
すでに何もかもこぼれ落ちてしまったというのに。
――戻りたい。
頭上から伝う冷たい雨を必死にぬぐい、アルスは最後まで立ち止まらずに、王都の街を駆け抜けた。




