第92話 その時
「し、師匠————⁉︎」
(知り合い、か)
アルスは緊張を解き、通常の呼吸へと戻した。
現れた男は、眼前でクロードの叫びを喰らい、顔の片側をひくつかせる。
「だぁから、弟子なんざとった覚えはねえって何度言ったら……! まあ、久しぶりだな。元気に育ってて何よりだ」
「ガルブレイスも元気そうでよかったよ!」
クロードは、そわそわとしながら目を輝かせている。
ガルブレイスと呼ばれた男も、無骨な落ち着きようはあれども、クロードを見つめる目元は穏やかに緩んでいた。
「ガルブレイスはなんでここに? 偶然じゃないよな?」
「ちょっと王都に野暮用があってな。一応二人旅でね。ツレがいるがまあ、気にするな」
その説明と共にガルブレイスの視線が動く。
つられて見た先には、確かにもう一人男がいた。
後ろに控えるその男の印象は、一見して薄汚れた怪しい浮浪者だった。
きっと西の果ての地区によく馴染む。
赤褐色の毛髪に、絡み合う長い髭。
目深に被られた真っ黒な帽子は二重になっており、不自然に盛り上がっている。
アルスがその姿を観察するうち、垂れ下がる男の髪の毛の隙間から、動く光がよぎった。
(無遠慮に見過ぎたか……)
どうやら向こうも同様に、こちらを窺ってきていたらしい。
アルスは居心地の悪さにより目を逸らすと、足元の光景へと気持ちを移した。
するとその瞬間から、地面に点々と染みが広がりだす。
雨粒の舞い降る白霧があたりを包もうとするなか、舌打ちが聞こえ、ガルブレイスがやれやれと頭を掻いた。
「雨だな……。なあ、酒場、やってんだろ? 一杯飲ませろ」
* * *
赤の守護者の酒場に戻った瞬間から雨足は強まった。
降りしきる雨は、窓や壁をとつとつと叩き始める。
時刻は、あっという間に暗闇に近い夕方となっていた。
案内した客人の姿を見た途端、ディレアが叫んだ。
「は……ガルブレイス? なんであんたがここに……⁉︎」
「てめえが棲家晒したんだろうが。約束破って、急に双子のガキどもなんとかしろって連絡してきたのは誰だ」
「はあ? 何その嫌味ったらしさ。来いなんて言った覚えないし」
ディレアが注文を受け、渋々酒をガルブレイスの前に叩きつける。
「もうちょっと俺に感謝するべきじゃねえの? これで客商売やってんのかよ。愛想のねえ女」
「感謝の証にそのお代はいらない。それで十分でしょ? あんたほどの善人なら」
「久々に会ったばかりで、いちいち喧嘩すんなよ……」
二人の顔色を見て、クロードが右往左往しだした。
テッドは遠慮しているのか、わざわざ冷える窓際に座り、少し距離を取ったまま静かに様子を見守っている。
アルスも自分の居場所に迷っていた。
すぐに帰ってもよかったのだが、今後しばらく会えない事情もあった。きちんと別れを惜しみたい。
「なあ、あいつら、あの双子の兄弟は元気にしてんのか? ガルブレイスがなんとかしてくれたんだろ?」
クロードが先ほどのガルブレイスの発言を拾う。
アルスもこの話は興味があった。
自分も関係した事柄だ。
赤の守護者の皆と知り合って少しだった頃、街のマーケットで出会った双子の兄弟のドジャーとエミル。
街の浮浪児として過ごす彼らの日々は、アルスには想像もできないほど過酷で衝撃を受けた。
口達者でありながらも、諦念を漂わせる兄弟の未来に対して、何もできずに終わった無力感はしばらく引きずっていた。
ディレアの知人によって救貧院に引き取られていったと聞かされてはいたものの、その行末は気になっていた。
「ああ。俺が直接引き取ったわけじゃないから詳しくは知らん。だが、ちょうどこの前会ったな。赤い兄ちゃんと青い兄ちゃんに助けられたって笑って自慢してたぞ。よかったな、感謝されてんじゃねえか」
「そっか、元気にしてんならよかった」
「シスターの話では、悪戯兄弟で手を焼いてるが、歳下の面倒見はいいし、よく働くそうだ」
「ははっ、うまくやってそうで安心したよ。な?」
クロードが、会話を見守っていたアルスに気付いたのか、にやりと笑いかけた。
ガルブレイスがその流れでアルスへ話しかけてくる。
「青い兄ちゃんは、あんただな。品のいい身なりに見えるが、なかなかやるな。さっきも剣をはたき落とすつもりの攻撃だったんだがよく凌いだ」
「あ、ああ……ありがとう」
ガルブレイスから差し出された手は古傷が多かった。
アルスは躊躇うことなく素直に握り返す。
ガルブレイスは一瞬意外そうな顔をしたが、うっすらと笑みを浮かべながら名乗った。
「ロバート・ガルブレイスだ」
クロードが改めて紹介してくる。
「ガルブレイスは昔、俺とディレアが親いなくなって困ってた時に拾ってくれた恩人なんだ。しばらく一緒に住んでた。ついでに俺の剣の師匠で、すごく世話になった」
クロードの親しみようから強い関係は伝わってきていた。
自分が、ギブソンへ感じている恩に近いのかもしれない。
アルスがそんなことを考えていると、唐突にクロードががばりと肩を抱いてきた。
「ガルブレイス、こいつ、俺の友人、アルス」
「アルス、か」
ガルブレイスから名を復唱され、鋭い金眼で射られたアルスはどきりとした。
「結構偉い上流階級のやつみたいだけど、色々助けてくれるし、真面目でいいやつなんだ」
「そりゃあよかった。いいやつに越したことはない。……だろ?」
ガルブレイスが、隣に座る物静かな旅の同行者の方へ同意を求め、流し見る。
男はガルブレイスと目を合わせ、震えるように肩を揺らした。
手に持っていた酒のカップをテーブルへ置くと、のそりと立ち上がる。
「——正直に名乗り、そこまで通じているなら話は早い」
発せられた男の声は、想像よりも若々しかった。雨に囲われた酒場の中で明朗に響く。
「世間から隔絶された、埋れ木の王子の御尊顔を、ようやく拝することができました。《《もう一人とは違い》》、しっかりと陛下の面影をお持ちのようで」
男は、外套を脱ぎ去った。
ずんぐりと丸まっていた背が、ぴんと伸びていく。
鳥の巣のようにもつれた赤茶の髪は、帽子ごと取り払われ、輝かんばかりの艶やかな金髪が溢れ出す。
歳の頃はここにくる前に絡んできた酔っ払いと大差ない中年だろう。それでもあの酔っ払いとは決定的に違う。
最後に剥がされた長い髭がなくなり、確信した。
薄汚れてはいるものの、それすらも魅力となるほどに爽やかな美丈夫だ。
初めて会うはずなのに確実に知っている風貌。
彼が何者なのかは、すぐにわかった。
男は、アルスに対して、慇懃かつ鷹揚に完璧な一礼を見せた。
「リンデル王国第一王子アルス殿下とお見受けします。私、古くは二大強国時代より代々隣国ギニファ監視の任を受け、ダウンハイム州統監を務める家の者にございます。名はマシュー・レイヴィー」
「……は?」
マシュー・レイヴィーとは、南部の人民を率いる反乱軍の長の名だ。
世人の話題として知れ渡っている渦中の人間が、たった今、アルスの正体を暴き、目の前でひざまずいた。




