第91話 別れの表現
道ゆく人々へ萎びた野草を差しだす、花売りの指先が震えている。
外へ出ると、遠くの山脈から吹き降りてきた風が、地面の塵を巻き上げていた。
少しの期待と緊張を抱えながら、赤の守護者の酒場へとアルスは急いだ。
背後から男が一人、薄汚れた外套の襟を立て、アルスを足早に追い越していく。
一層横殴りにぶつかってくる風に首をすくめ、きんと冷える耳の奥に眉を顰めたところで、足元に紫のハンカチが絡みついてきた。
拾い上げ、周囲を見渡せば、向かってくる先ほどの男がいる。
庇のついた平たい帽子をかぶる中年の赤ら顔は、正直なところ肌触りも上質なハンカチとは結びつかない風貌だった。
「俺のだよ」
一瞬怪訝に躊躇ったのがよくなかった。
「盗んだわけじゃねえ。持ち主を探すために持ってまわってるだけだ。せっかく持ってるならその間使ったっていいだろ。ちゃんと返す」
詰め寄り吐かれる白い息は素直に不快だった。アルスは耐えきれず顔を背けた。
(……酒臭い)
「軍人か?」
男の問いを肯定すべきか否定すべきかわからない。
だが、好意的な言葉には聞こえない。
「っ、小綺麗な格好しやがって」
男は虚ろな目をしてぶつぶつと話し続ける。
「紳士といわれるやつは、小狡いことばかり考える。性根が悪い。さも賢そうによくわからない理屈を押し付け捲し立てる。——昨日はッ!」
急に張り上げられた声量に、アルスは一歩後退りした。
「昨日は、駅前の酒場で、徴募軍曹に支度金だけせびって、そのまますっぽかしてやったよ。奴ら、愛国心なんて訴えて必死さ。それでも、まだ世の中を知らない若い奴らが、麦酒奢られたくらいで騙されていく」
無視して立ち去るべきなのか。
一般の市民相手に剣は構えられない。
「——おいあんた、昼間っから酒臭えな」
困惑したまま動けずにいた中、聞き馴染みのある声が割り込む。
大きな剣を背に抱える見慣れた赤毛の友人だった。
男は、その姿に少し怯んだようだったが、喋りは止まらなかった。
「ああ? 俺あ、そこの若い紳士に説教してやってんのよ」
「お前こいつ、知り合いか?」
「いや……」
尋ねられたアルスは、ようやく返事として声を発した。
「じゃあ、用はねえな。行くぞ」
クロードが、アルスの肩を強めに叩くと店の方角へ歩き出す。
アルスは、はっと金縛りが解けたように、その後を追う。
「んだ馬鹿にしやがって、おい」
「——すみません。愛想がない子達で」
脇から現れたテッドが、怒り出した男の肩を抱き、滑らかに回る口で強引に宥め始めた。
「もう、いちいち喧嘩なんて売らないでよ。アルス、あんたもああいうの、まともに相手しないの! まったく……」
くどくどと小言を続けるディレアから見えない位置で、クロードがうんざりな不満顔を強調してきた。
その大袈裟な表情に、アルスは思わず笑ってしまった。
* * *
酒場らしい煙草と酸化した麦酒の香りに、石炭の燃える煙が混じる。
古びた木材に染みこむその空気は、決して快適ではないはずだが、居心地はいい。
「さて、なんだか少し久しぶりだね!」
明るく歓迎したテッドに、ディレアが指摘する。
「と言っても一ヶ月も経ってないはずよ」
「……色々、あったからな」
そうつぶやくと、アルスは、目に入る光景を焼き付けるように、周囲を見渡した。
そして、メルトへの従軍任務と当分ここに来れなくなる件を、皆に説明し始めた。
話を全て告げ終わると、テッドが眉間に皺を寄せ、顔も険しく確認してくる。
「……君が、行くの?」
「俺も軍の人間だから。……問題だろうか?」
「そりゃあ心配はするよ。オレも戦場の過酷さを知らないわけではないから」
いつも飄々《ひょうひょう》と物事を受け止めてくるテッドの反応は意外だった。
クロードも、寂しさを表に出すように、不貞腐れた態度で口を尖らせる。
「お前と敵になるかもって言われると、安易に南の兵として志願はできねえな」
「考えてはいたのか?」
「ああ? いや……今の王家も政府も嫌いだが、別に南部に愛着があるってわけじゃねえしなあ。家族の仇とってくれたのは感謝するけど」
仇という言葉を聞き、アルスはディレアの顔を窺ったが、彼女はその内容について気にする様子はない。
アルスを見つめ、不安げな表情を浮かべている。
「ねえ、無事、帰ってくるのよ。戻ったら絶対顔出して」
「あ、ああ、そうだな、必ず」
なんとかそう答えた後、アルスは急に恥ずかしくなり俯いた。
心配されている。無事を祈ってくれている。
そのことを肌で感じ、アルスは戸惑いと共に、温かくも泣き出したいような心地に襲われた。
「——なあ。せっかくだから、最後にお前の腕見てやろうか」
クロードが立ち上がり、大きな剣を抱えるとアルスを外へと誘う。
「お前と違って、俺はそれなりに経験あるからな。ためになる指導でもしてやるよ」
「それはありがたい。戦いながら指導できるほど、お前に余裕があればいいけどな」
アルスは、小さく笑い声を上げると、腰元へ剣を装備しクロードの後へと続いた。
酒場に残る二人の会話が、背後で聞こえる。
「寒いのによくやるわ」
「クロードなりの別れの表現でしょ。二人、正反対なのに、随分と仲良くなったよね」
* * *
分厚い灰雲の配下にある拓けた広場は、人気もなく静かだった。
序盤は、アルスが展開を作った。
クロードは様子見しようと、悠然と剣を掲げるばかりだ。
それを見るや、アルスは相手の構えを突き崩そうと畳み掛ける。
クロードが軽く跳ね上げるようにアルスの剣を弾く。
距離を取ろうとしたクロードを、アルスはすぐさま追撃した。
思わず空足を踏み、大きく吹き飛ばすように剣を薙いだクロードが文句として叫ぶ。
「おい⁉︎ 俺、これでもお偉い軍人様に怪我させねえよう加減してンだけど⁉︎」
「加減とは随分舐められたものだな」
その鼻で笑う態度が、クロードに火をつけたらしい。
受け身だった剣が、嵐のように振り回され始める。
形勢としては見事に逆転されたと言っていい。
クロードは、にやりと笑って挑発する。
「魔法、使ったっていいんだぜ」
正直クロードと、剣のみで戦ったところでまともに勝てるほどの実力はない。
それでも一矢報いて見せたいと、はじまりから猛攻をかけたが、切り崩せずにここまできた。
自分は果たして何を重視したいのか。
アルスは冷静に考え、呟く。
「そうだな、鋼と魔法。二種の剣と盾を使いこなしてこそ真のリンデルの騎士と呼べるはずだからな」
「なんだそれ?」
場が止まる。
素っ頓狂な声を上げたクロードに、アルスはやれやれと息を吐いた。
「……お前が知ってるわけもなかったな。俺が悪かった。忘れろ」
リンデル王国の歴史の中で伝わる有名な格言など、クロードが関心を持っているはずがなかった。
「くそ! いちいち馬鹿にしてんじゃねえ!」
クロードは重い剣を、斧のように振り下ろした。
しばらく魔法も交えた撃ち合いが続いた。
お互い、寒空の下だというのに徐々に、額に頬にと汗が滲む。
そろそろ体力も限界だ。
「お前、なんでさっきおっさんに言い返さなかったんだ」
アルスは咄嗟になんのことか把握できなかった。しかしすぐに、ハンカチを落として詰め寄ってきた男のことを思い出す。
「なんでって……別に。だって、意味あるか?」
上流階級相手に不満をぶちまけてくる態度など、言い訳したところで反発を生むだけだ。
「お前、物分かりいいふりして諦めてんじゃねえよ。そりゃみんなが分かり合えるとは思わねえけど、言えばわかってくれる奴だっているだろ」
アルスは驚き、クロードの顔をまじまじと見た。
そもそもクロード自身が、出会いのときに、その肩書きで罵声を浴びせてきたのだ。
「お前は俺の友人だ。お前がいいやつなのはもう知ってる。だから意味もなく悪く言われてんの見るのは嫌だ」
クロードは、行動や言動は軽率なところはあるが、素直に言葉を聞ける人間だった。
アルスは、クロードと初めて剣を交えた時を思い出す。
「そうか……」
息を整え、力みと冷えで痺れる手のひらを意識し、柄を握り直した。
なんとなくわかる。
勝負がつかずに終わるにせよ、そろそろ戦いの締めだ。
「——おい。そこの野郎ども、俺も混ぜろよ」
影か光か。
その軌跡が、クロードとアルスの間を断つ。
鋭く切り込まれた剣の切先は、残像でしかなかった。
風切り音が遅れて耳に届く。
それにぞくりと肝を冷やされる暇もなく、アルスの構えはすぐに突き崩された。
立っていたのは長身の男だ。短く刈り上げた濃紺の髪に、鋭く光る金眼。
立派な長剣を軽々と操る佇まいは、隙が一切見られない。
(こいつ……強い)
「クロード! お前無事——」
「おいおい、クロード。お前どんな鍛錬積んでたんだ、まともに実戦してねえだろ。鈍ってんなあ!」
アルスの言葉へ被せるように男が笑う。
クロードは目を丸くし、驚愕の表情で叫ぶ。
「し、師匠————⁉︎」




