第90話 パトリックの事情
――急にいなくなるのは勘弁してよね。
遠征の準備で目まぐるしく時間が消費されていく中、アルスの頭をよぎるディレアの言葉があった。
ずっと気になっていた。
辺境伯首晒しの事件以降、アルスはこの城砦から出ていない。
因縁の深いヴィルワース辺境伯親子の死は、きっとあの姉弟にも響いているはずだ。
メルトへの遠征により、赤の守護者の皆とはしばらく会えなくなる。
場合によっては、その後も永遠に。
自身の未来も不透明であるし、彼らの生活もそのままであるとは限らない。
クロードたちの意思によっては、国への反発心を持って南部の軍に合流し、そのまま別れることだってあり得るのだ。
アルスは、付きまとう罪悪感をなんとか振り払い、その日の午後の時間をこじ開けた。
険しい顔で書面を睨む上級士官を背後に残して兵舎を出ると、急いでリブラル城の図書室へと向かう。
魔法陣による転移は久々だ。
王都へと抜け出すことになった初めの頃はともかく、最近はパトリックの使いによる馬車での迎えに頼っていた。
今はそのパトリックとすら、連絡を取れていない。
彼の様子も心配だった。
魔法陣の仕掛けを発動させ、一瞬で辿り着いた連棟式住居の屋根裏は、相変わらずの埃っぽさだった。
冷えた空気を吸い込み、少しの緊張を整える。
そばにあった机上の呼び鈴を手に取り鳴らしてみると、すぐにどたどたと足音が階下から近づいてきた。
「おっ前――! びびらせんな、突然来やがって!」
「会えてよかった。急に時間が空いたんだ。許せ。お前ともきちんと話したかった」
やかましい剣幕で騒ぎ出したパトリックの顔を見て、アルスはほっとした。
当たり前の日常は、まだ遠くへは行っていなかった。
* * *
メルト遠征の決断を含めた最近の事情を語る間、パトリックはただ静かに頷き相槌を続けた。
アルスが話し終わると、ようやく口を開く。
「当分会えなくなるか。無事帰ってこい。いいか、戦死はともかく、つまんねえ病気拾って地味に死ぬなんてのはやめろよ。客の気を引く話題にもなんねえ」
不謹慎とも言える発言ではあるが、パトリックらしい餞別の言葉だ。
アルスに不快な気分は残らない。
パトリックは珈琲を煽り、やれやれと細長く息を吐く。
「俺も拠点へ戻る。世の中戦争だなんだって慌ただしくなり始めてるし、親父の呼び出ししばらく無視してたんだよな。ったく、こっちはこっちで動いてるっつーの」
うんざりした顔を隠さずつぶやくパトリックを前に、アルスは躊躇いがちに声をかける。
「お前は……大丈夫か?」
「ん? ああ、我が一族の者が世間様を騒がせて申し訳ございませんって件か」
パトリックは肩をすくめて、あっさりと喋り出す。
「ジェームス・シェブルレのことだろ? そもそも俺も会ったことねえんだよな。親父の従兄弟だって言うし、俺が生まれるより前にこの国出て行ったらしいし、縁も遠すぎだろ。ま、一族の会報では散々名前見るから、仕事上の繋がりもないわけじゃないんだろうが」
居心地の悪さすら感じるアルスの様子を察したのか、パトリックは宥めるように豪快に笑い飛ばした。
「お前が心配するほどじゃねえよ。お宅のところから取引は切られたが、いちいちそんな事で気に病んでたまるか。時代は動いてるんだ。終わった結果をみたって商売できねえ。次だ次。悩むくらいなら人と会って情報でも集めた方がいい」
商魂逞しい。
(この精神は、見習うべきなんだろうな……)
パトリックを自分の身内の機嫌に振り回した罪悪感を抱えていたアルスは、肩の力が抜けた。
飲んでいた紅茶のカップを空にし、立ち上がると、剣を腰元へ装備する。
「しばらくしたら戻る。顔を出してくるよ、赤の守護者のところだ」
「おっと、アルス! お前、今日はその……。もう少し、待てないか?」
パトリックが、引き留めてきた。
アルスは戸惑いながらも断りを入れる。
「悪いが、忙しい隙間を縫って抜け出してきてるんだ、あまり時間がない」
「……だよ、な。いや、最近街も一層治安が悪化しがちなんだから、くれぐれも気をつけろよ」
パトリックの気遣いに感謝し頷くと、アルスは冷え込みの厳しい昼過ぎの街中へと慌ただしく飛び出した。
* * *
アルスの残したカップを使用人が片付けている。
パトリックはそれを片肘をつき眺めながら、気怠げにため息をついた。
正直考えることが多い。
判断として現実主義を自認しているものの、普段から物事の受け止め方については楽観的な方でもある。
しかし、目の前に迫る内戦間際という時代の波は、パトリックも初めて背負う大きな出来事だ。
パトリック自身、未だ懐疑的であるが、少なくとも自分の父は開戦を予期する通達をよこした。
つまり、パトリックは決断を求められている。
「意見が合わないのが、我が一族っつったってなあ……」
シェブルレの一族は実力重視だ。
年齢も関係なければ、親兄弟の結びつきも関係ない。
その代わり、自分の立場は自分で決める。
歴史上、親子兄弟すら別の陣営につくことすら当たり前にあったし、むしろそうやって自分たちは生き残ってきた。
今更ながら、自分が伝統から離れ、他の兄弟とは違う寄宿学校に送られた意味を考える。
得られた縁はいくつかあるが、最も重要なものはアルスの存在だ。
友人として大切に思うのと同時に、特殊な彼の立場はパトリックの決断にきっと大きく絡む。
(運命をアルスに預けるのが正解か……?)
そうであるなら、現在の政府に傅くのが導きということか。
直感としてしっくり来ない。
そんな単純な話だろうか。
王女との繋がり、軍を通じた有力者との繋がり。
彼の母方の実家であるグウェルフ家の存在。
アルス本人は気づいていないようだが、彼の保有する縁は十分強力だ。
加えてその無防備さだ。
素直な善良性を背景に持つ正義感は、彼の世間知らずと相まって、御し易さの危険をみてきた。
どうであれパトリックとしては、自分の好悪に忠実に動きたい。
「……ったく。しかし、あいつ急にくるんじゃねえよ。手配間に合わねえだろ」
パトリックは、ふと、アルスに伝えそびれた話があることに気づいた。
――テッド・ブラックストンの名を果たしてどこで見たのか。
先日書類を整理していた際にようやく思い出したのだ。
時期からして本人というより、全くの別人か親類だろう。
さほど重要な話にならないはずだし、問題ない。
今日、アルスが戻った時にでも、話題にすればいいのだから。




