第89話 アルスとギブソン
耳元で唸り、声をくぐもらせるようにかき消してくる冬の風がある。
城砦を囲む湖の対岸より吹き付けてくる寒々しいそれに、アルスは負けないよう宣言した。
「今回は、俺も行く」
「アルス様……」
ギブソンは、ぎょろりと目を飛び出させるほど見開き、渋い顔をした。
想定はしていたが、反対の態度がわかりやすい。
「貴方は冬のメルトをわかっておられない。ただの戦場ではないのです。貴方のような方が行く場所ではない」
厳ついギブソンの声へ、アルスは立ち向かうように視線を険しくした。
南部の地域による、国への反発。
それに伴い、以前より駐留を続ける属国メルトにいた将校のおおよそ三分の一が、辞表とともに離脱した。
南部の所領より派遣されていた部隊も同時に引き揚げ、駐留軍は大きく弱体化してしまった。
北の島国メルトは、これより一層冬の氷に閉ざされる酷寒の季節となる。
そういった状況の中、第六近衛兵団は追加派遣の隊としてメルト行きの指示が通告されていた。
これより十日以内に、メルトへと発たねばならない。
「厳しい場所であることくらいは知っている。土地の環境や、ここ数年軍部に提出された報告書、個人の従軍日記だって、手に入る範囲で色々調べたんだ」
具体的な話を出したところで、ギブソンへなかなか響かないようでもどかしい。
ギブソンは、アルスのことをどう宥めようかと苦慮するばかりの表情を浮かべている。
「いくら正式に認められずとも、貴方は王族なのですよ」
「王族でも王太子と王妃はとっくにメルト入りしている」
「その方々と貴方の扱いが同じとでも?」
情けないほど弱り果てていたギブソンも、徐々に語気を強めていく。
「……何で揉めてんの?」
二人の緊迫した空気の中、ぼそりとギルバートが呟いた。
ギルバートは、誰に向けるでもなく素直な疑問を吐露する。
「そりゃ紛争地域だし、俺だって寒いとこ行くのやだけど。本人行くっていうなら別にいいんじゃねえの? 分隊長、せっかく強いし助かるじゃん。散々人材不足とか言ってるし、訓練もずっと出てるし」
鼻で笑う声が、ギルバートの問いへ応答する。
「多分、お前みたいな今日の飯のことしか考えられないクソガキより、どうなるのかお二人方ともわかってらっしゃるから揉めてんだろ」
少し離れた場所で、煙草を咥えていたパーカー少尉が、投げやりな笑いに呆れを混じらせて煙を吐く。
ギルバートはますます首をかしげた。
「どうなるんだよ」
「どうなるってそりゃあ——」
パーカーは口を噤んだ。
長身の影として現れた第六近衛兵団の副官が、きびきびとアルスとギブソンへ近づくのに気付いたからだ。
「アルス様、ギブソン大佐、兵舎の執務室へ。落ち着いた場所で話しましょう」
アルスとギブソンは、一瞬さらりと視線を交わす。
有無を言わせぬ態度で先導し始めたブライアンを追うように、どちらともなく歩き出した。
* * *
ブライアンは、使用人が準備した紅茶へ、他の二人が手をつけるまでじっと動かなかった。
先ほどから三人とも、座ったまま目立った発言はせずに黙りこんでいる。
暖炉の火にあたり、熱い紅茶で体を温めると、アルスは漂っていた緊張が少しだけ和らいだような空気を感じた。
ブライアンが、角砂糖を一つ紅茶へ入れ、ようやく本題を口にする。
「さて、アルス様。今回のメルト行きに貴方も帯同されたいとのお話ですね」
「お前も止めるのか?」
「お話次第では。なぜ今回は、帯同したいと?」
ギブソンが、まごまごと落ち着かない仕草で動くのを無視して、アルスはブライアンと対峙する。
「役に立たないなら引き下がる。実際の戦場は初めてだし、迷惑をかけるかもしれない。だが俺の剣や知識が、多少なりとも武器になると考えるのを自惚れとまでは思わない」
「質問の答えになっていません。なぜ、今回は帯同したいと、こだわるのですか?」
淡々と突きつけられた返しに戸惑ったアルスだが、質問の回答如何によって、ブライアンはアルスの主張を受け入れてくれる余地がありそうだ。
ブライアンの求める理想的な答えを探るが、確信は持てない。
アルスは、素直な考えを白状することにした。
「……おそらく、ほぼ確実に離脱者が出るからだ」
「離脱者とはつまり?」
ブライアンの両目が鋭く細まる。
見定めるかのようにこちらを窺ってくるブライアンは、中途半端な発言を許さなかった。
アルスは覚悟を決め、歯を食いしばる。
「——つまり、死人が出る。そうだろう?」
濁すのをやめ、はっきりと言い放つと、アルスは勢いのまま続ける。
「兵たちが死ぬのは、何も戦場での戦いだけじゃない。劣悪な環境における病気や事故。拠点までの移動も楽ではないし、飢えに苦しむこともある。今回のメルトは南部の事情もあって一層支援も厳しくなるはずだ」
アルスは、ぎりぎりと膝を握り締める両拳を震わせる。
「これまで、ずっと皆と過ごしてきたんだ。お前たちは、一体なんのために俺を訓練に参加させてきた」
このまま第六近衛兵団を送り出し、一人城へ残ったとして、果たしてこの先に待つ自身の日常がどうなっていくのか。
アルスは、想像してやりきれなくなった思いをぶつける。
「俺にできることが見えているのに、のうのうと暖かい部屋で過ごす日々など堪らない。お前たちの名前がないことを祈りながら、更新される戦死者名簿を眺め続けろとでも言うのか!」
気がつけば強張った表情で、紅茶のカップが並ぶ机を睨みつけていた。
アルスは、はっと俯いた顔をあげ、再びブライアンと向き合った。
「アルス様、余裕がない以上、特別扱いはできませんよ」
「構わない。寄宿学校の教練は軍隊に匹敵すると吹聴していた将軍もいただろう?」
次に来る言葉は何かと緊張へ息を呑むまま、アルスはブライアンの反応を待つ。
張り詰めた空気の中、ブライアンはゆっくりと頷き、結論を口にした。
「お連れしてよろしいのでは?」
「——っ、ブライアン!!」
ギブソンが、がばりとその巨躯を立ち上がらせると、ブライアンを見下ろし吠える。
その声は、室内に反響し、窓硝子をびりびりと振動させるほどに轟いた。
アルスには決して見せない恐ろしい形相で、ブライアンを睨みつけるギブソンだったが、それを向けられた当の本人は涼しい顔のままだ。
「ギブソン大佐。アルス様は子供ではないですし、状況も正しく理解しておられる。連れて行けばよろしいのでは?」
「勝手なことを——!」
「勝手は大佐では? 長い付き合いだからと、個人の覚悟や行動まで縛れると思っているのなら大間違いです。それに、今の情勢でアルス様お一人にするよりは幾らか安心とも言えるかもしれません。大佐自身もなぜメルトに送られるのかお分かりでしょう」
ギブソンは、かつて南部の反乱についての忠告を王へと進言していた。
南部との争闘から遠ざけるためにも、ギブソンがメルトへと送られようとしていることは、想像に難くない。
そして、アルスの存在も場合によっては、何らかの火種として燃え広がることもありうる。
アルスは皮肉めいた口調で頷いた。
「なるほど。確かに一人、部屋で暗殺されるのを待つよりは、戦場で剣を振ったほうが生きた心地がするかもしれないな」
「アルス様!」
ギブソンは、ふらふらと椅子に座り直すと紅茶を一気に飲み干した。
頭を抱え、さきほど凄んだ大男とは思えないほどぼそぼそと弱々しい声で話し出す。
「……私は正直、アルス様には今すぐにでもグウェルフ家へ行ってほしいと思っています。あそこなら安心だ」
アルスの母方の実家であり、ギブソンの敬愛し続けるグウェルフ大佐の影響が未だ漂うその地は、国内でも随一の魔法戦闘に特化した私設軍を持っている。
祖母も度々アルスを心配してくれているし、実際アルスにとって、最も安全な場所と考えるのは正しいだろう。
だがアルスは、ギブソンへはっきりと伝えなければならない。
「——ギブソン。今はもう、お前の考えが、俺の判断そのものにはならないんだ」
目の前の英雄は、雷に打たれたかのようにびくりと動きを止めた。
アルスは、背を丸くし縮こまってしまった彼の姿を見て、自分の言葉がギブソンを大きく傷つけたに違いないと悟った。
「なあ、今のお前の役割はなんだ。第六近衛は俺の警護部隊なんだろう?」
ギブソンが、軍人として強く立派な存在であることを、アルスは理解していた。
それでも、アルスにとっては、ただの最も身近な家族のような存在で、その弱さも不器用さも知っている。
「そばを離れず守ってくれよ。そしてお前たちが魔法弾から俺を守ってくれるのと同様に、俺の立場が皆を守れることもあるかもしれない」
アルスは柔らかに微笑すると、最後はただ懇願した。
「頼む。俺の力は、お前が一番理解してくれているはずだろう?」
ギブソンは、眉間の皺を深くしたままじっと動かなくなった。
たっぷり時間をとると、ようやく深々とアルスへ向かって頭を下げる。
「……どうか、お願いします。必ず我々が全力でお守りしますので、無茶はしないでください」
感情を押し殺すように震えるギブソンの声を聞き、アルスの心はひどく痛んだ。
しかし同時に、ようやくギブソンから、一人の人間として認められたのだという充足感をもぎ取ったのだった。




