第88話 土地と国家
ユーフェミアの居城へたどり着いた際の頭上には、澄んだ月があった。
明日の朝はきっとひどく冷え込むに違いない。
悠揚に佇む蝋燭の炎のもと、アルスはユーフェミアと向かい合い食事を共にしていた。
使用人が食事の配膳にまわり、大皿を差し出す。
アルスは、ユーフェミアの好物であるはずのカブとジャガイモのマッシュ《ニープス&タティーズ》が、彼女の皿へ一口ばかりの量しか取られなかったことに気付いた。
「王は怒り狂って、執務室のカーテンを引きちぎるほど暴れたとの噂ですよ」
ユーフェミアはまるで遠い国の出来事のように淡々と告げてくる。
アルスはぴくりと片眉を動かすまでに表情の変化を抑えた。
「まあ当然といえば当然か。王家としてもこれほどの醜態は前代未聞だ」
できるだけ平然とした口調で頷いたアルスだが、内心落ち着かなかった。
晩餐へ集中しようと、目の前の肉のパイ包みにさくりとナイフを入れたところで、ふと気づく。
鼻に吸い込まれた湯気は、芳醇さを纏わせ、深みのある土の香りを連想させるものだ。
それは、庶民の口には渡らない高級食材だった。
ユーフェミアが伝えてきた王の態度については、正直気になる話題だった。
だが、風説へ飛びつくように下品な反応は見せられない。
「叔父様は追放されていてよかったですね」
リンデルからの独立をちらつかせる南部。
南部には王家の持つ広大な土地があった。
王弟デルツベリー公爵が管理していたものを王家が受け継いだものだ。
しかしそれも、今はそうではない。
王弟デルツベリー公爵は、浪費家で高慢な性格が有名だった。
財務の管理が杜撰だったデルツベリー公爵は、二年前となる国家追放の時点で、既に土地の差し押さえ勧告を受けていたらしい。
本来土地の差し押さえなど、上流階級、ましてや王族相手にそう易々と実行されることではない。
通達の受理から一定の猶予が持たれるし、支払い能力が認められるのであれば、契約書を調整し、利息さえ払ってしまえばいい。
王家は相続の際、この特殊な土地の事情を見逃してしまっていた。
「国家設立の意義は、人民の所有権の保護、か。法に基づいた順当な手続きがなされている以上、王家といえども、どうにもならないだろうな」
新聞の紙面で見たばかりである、かつての政治哲学者の言葉。
アルスはそれを思い出し静かに口にした。
目の前で、ユーフェミアが次の料理を遠慮する姿をじっと見つめたアルスは、ようやく確信する。
ユーフェミアの機嫌が悪いようだ。先ほどから口数も少ない。
食が進まぬユーフェミアは、顔色を窺うアルスに気付いたらしい。
金糸の髪をゆるやかに揺らすよう肩へ傾けると、申し訳なさげに苦笑した。
「困りました。今回の一件で、王はシェブルレの名を聞くだけで嫌になってしまったそうで。私はパトリック様との取引を禁止されてしまいました」
「シェブルレと言ったってあっちは別の家だろう」
「ええ。ただそこまで物分かりのいい王ではないでしょう?」
デルツベリー公爵へと資金を融資し、王家の土地を掻っ攫って行ったのは、大国アーナヴァルタを拠点とする、銀行家のジェームズ・シェブルレという男。
パトリックの遠縁にあたるようだが詳しいことまでは知らない。
「本当にすみません、お兄様」
ユーフェミアが、食具を置き、落ち着かない様子で両手を触れ合わせる。
眉間にくっきりとしわが寄るほどに悔しそうな表情だ。
俯く妹の姿を見て、アルスは怪訝に記憶をたどった。
自分への謝罪の理由がピンと来なかったが、ようやく以前パトリックとの取引の継続を頼んだことを思い出した。
気にするな、とユーフェミアへ食事の再開を促したアルスは、自分にも降りかかった面倒ごとを自覚する。
「しかし気づかなかった。首晒しの事件以降、慌ただしくなって、たまたま連絡をとってなかったが。これは、俺もパトリックに会いにくくなったってことだろうな」
パトリックはこちらに連絡を取ろうとしていたかもしれない。
多忙に任せて、周りに無頓着だったアルスは、ずっと尽くしてくれていた友人への配慮のなさを恥じた。
「世の中はめまぐるしく変化で騒がしいというのに、日常は穏やかなままで複雑ですね」
ユーフェミアの言う通りではある。
影響がないわけではない。
日々の食事だって、北部の食材を中心とするため、穀類を減らす代わりに芋の割合が増え、デザートも果物よりは乳製品を重視する対応をとっているという。
食材の調達や、公務の中止など、自分たちの身にも起きている状況は理解する。
それでも、囲われた暮らしで過ごす中では、世情の変化を実感として明瞭に持てるものではない。
「どうなるのでしょう。本当に国は二つに分断されてしまうのでしょうか」
「向こうも本気で独立を望んでいるわけではないとは思いたいが。厳しい状況に追い込まれ、ついに強硬手段も厭わなくなっただけで」
それを武力で強引に抑えつけるか。
対話を重ね、事態の収拾を図るか。
アルスは唸るように続ける。
「メルトと南部で、既に小規模とはいえ交戦があった。牽制で終わるはずが、魔法弾が飛び交い死者も出てる。難しいところだな」
メルトでの南部出身将校離脱に伴う部隊間の小競り合いや、引揚げ船を邪魔する海軍の動き。
南部の元デルツベリー領では、駐留していた王立軍の城砦退去拒否でひと騒動も起きていた。
日々不安をあおる陰鬱な情報が積み重なっていく。
そこまで考えたアルスは、どっと背に抱える疲労感が増し、思わずあくびを噛み殺した。
「お疲れですね。最近遅くまで熱心に調べものをしていると聞いています。でも食事はきちんと取らねばなりませんよ」
「……ロイか」
世話焼きの少年は、アルスの居室に積み重ねた書物の整理とともに、ますます食事の摂取に口うるさくなってきていた。
ユーフェミアからの急な晩餐への誘いの経緯はどうやらここにあったらしい。
「どうかくれぐれも無理はされないでくださいね」
「あ、ああ。……気をつけるよ」
アルスは、蝋燭の炎に合わせて煌びやかに揺れる碧い瞳から、目を逸らしそうになるのを堪えた。
(言えば、きっと止められる)
手元にある一通の命令書簡。
アルスにはひとつ、心に決めたことがあった。




